第84話 北から来たもの
第84話 北から来たもの
敵後方への進出作戦開始後。
東部市街地・目標街区外縁。
午前、曇天。
最後の建物を抜けると、道が開けた。
レイブンは壁の陰で足を止めた。
正面には、目標とされていた建物群があった。低い倉庫と、その奥に並ぶ石造りの建物。地図で見た形は残っていたが、そこにいる兵の動きがおかしかった。
連邦兵が、こちらへ背を向けて撃っていた。
一人が倉庫の入口から飛び出し、通りを横切った。別の兵が腕を伸ばしたが、間に合わなかった。走っていた兵士は何かに追われ、道の途中で倒れた。
レイブンは、その後ろを見た。
煙の中から現れたものは、人間の輪郭をしていなかった。
肩幅が異様に広く、頭部の形も違った。暗い装甲の隙間から見える肌は灰色がかり、手にした武器には、彼の知らない意匠が刻まれていた。
「……何だ、あれ」
ガイルが言った。
イングリットも前を見ていた。
「全員、止まって」
後続の兵士が壁へ寄った。
倉庫の向こうで、連邦軍の機関銃が撃ち始めた。レイブンたちへ向けられた射撃ではなかった。
煙の中の影が崩れた。
その後ろから、また別の影が出てきた。
連邦兵が入口を閉じようとした。扉が外側から押され、木材が割れた。
通りの反対側では、帝国軍の兵士たちも同じものへ撃っていた。
レイブンは目を動かした。
連邦軍は、まだそこにいた。こちらを認めた兵が銃を向け、壁へ弾が当たった。レイブンは身を引いた。
その直後、その連邦兵も別の方向へ向き直った。
双方の陣地の間へ、見たことのない敵が入り込んでいた。
「指揮所へ伝えて」
イングリットが通信担当へ言った。
「第三の敵対部隊を確認。帝国、連邦双方と交戦している。予定の位置への進出は止める」
兵士が受話器へ呼びかけた。
返答は雑音に混じっていた。
レイブンは散弾銃を構えた。
通りの奥から、低い叫び声がした。言葉なのか、合図なのかも分からなかった。
近くの帝国兵がこちらへ走ってきた。
「そこにいるな! 北側から回ってくる!」
イングリットが兵士を壁際へ引き入れた。
「何が来ているの」
「分からない。人間じゃない連中だ。前の部隊が押されている」
兵士は息を吸い直した。
制服の肩が裂け、下の布まで濡れていた。
レイブンが北側の通路を見ると、瓦礫の向こうに影が動いた。
人間より大きい。
そいつは倒れた石材を越え、こちらへ向かってきた。
ガイルが撃った。
レイブンも続いた。
影が体勢を崩し、壁へぶつかった。それでも銃口を下げずにいると、相手は瓦礫の陰へ消えた。
後ろから、さらに足音が聞こえた。
「戻る。さっきの建物まで」
イングリットが命じた。
兵士たちは、来た道へ向き直った。
敵の背後を取るはずだった。
その敵も今は、別のものに背後を襲われていた。
レイブンはガイルが下がるのを確かめ、自分も戸口へ入った。頭上の壁が削れ、埃が首筋へ落ちた。
戻った建物では、別の帝国兵たちが負傷者を運び込んでいた。
横たえられた兵士の胸元を衛生兵が開き、仲間が名前を呼んでいた。誰かが水を求め、誰かが上官の所在を尋ねた。
窓のそばにいた兵士が振り返った。
「北部から来たのか」
ガイルが答えた。
「昨日だ」
「向こうのことを知っているか」
レイブンは顔を上げた。
「何があった」
兵士はすぐには答えなかった。
そこへ、通信担当がイングリットを呼んだ。
指揮所との連絡が、ようやく戻っていた。
レイブンたちは壁際で報告を聞いた。
北東部に、異界門が開いた。
そこから現れた異界軍が、上陸作戦中だった連邦軍を背後から襲撃したという。
海岸に展開していた連邦軍は壊滅し、その後、異界軍は北部戦線の帝国軍にも攻撃を加えた。防御線は突破され、一部はすでに東部の市街地へ流れ込んでいた。
最初の報告では被害も敵の規模も揃わず、指揮所は各部隊の位置を確かめ続けていた。
レイブンは通信担当の口元を見ていた。
北部。
昨日まで、そこにいた。
海岸線まで押し返していると聞かされ、東部行きの車両へ乗った。
後ろへ残した壕には、レンツがいた。
「北部の部隊と連絡は取れているのか」
レイブンが尋ねた。
通信担当がイングリットを見た。
彼女は頷いた。
「問い合わせて」
待つ間、レイブンは銃を膝へ置いた。
握っていた手を開くと、指が固まっていた。一本ずつ動かした。
レンツの所属と、最後にいた陣地を伝えた。
マティアス・レンツ。
名前を言うと、濡れた弾薬を渡してくれた顔が浮かんだ。
こちらを見る前に、一度手元を見る癖。
ほとんど頷くだけだった、と言った声。
ガイルの帰還を聞いたときも、すぐ隣にいた。
建物の外で銃声が増えた。
ガイルが窓の脇へ移った。レイブンも立とうとしたが、通信担当が彼を呼んだ。
「クロウ」
振り向いた。
兵士は受話器を持ったまま、言葉を確かめるように息をついた。
「マティアス・レンツ。戦死と報告されている」
レイブンは相手を見た。
「……いつ」
「日時は、こちらへ届いていない」
「どこで」
「それも、今は」
通信担当は受話器へもう一度問いかけた。
レイブンは待った。
壁の向こうで、何かが倒れた。窓際の兵士が射撃を始め、イングリットが通路の守備へ指示を出した。
通信担当が、ゆっくり首を振った。
「確認できたのは、戦死という情報だけだ」
レイブンは頷こうとした。
首が動かなかった。
レンツが最後にいた壁は、もう崩れていた。そこから移れたのか。仲間と一緒だったのか。
何も分からなかった。
ただ、死んだと伝えられた。
ガイルがそばへ戻ってきた。
「……あいつか」
レイブンは床を見た。
「ああ」
ガイルは何も言わず、隣に立った。
礼を言う、と言っていた。
会えれば伝えられたはずの言葉が、二人の間に残った。
イングリットが近づいてきた。
「この建物も長くは使えない。後方との通路を守りながら移る」
レイブンは銃を持ち上げた。
彼女はその顔を見て、少し待った。
「動ける?」
「……動ける」
声が掠れた。
ガイルが先に戸口へ向かった。レイブンも続いた。
外へ出る前に、銃の状態を確かめた。レンツが手渡した弾は、あの壕ですでに使っていた。
今、銃の中にあるのは東部で受け取った弾だった。
レイブンは足を踏み出した。
北から来た敵の叫び声が、建物の間を渡ってきた。
振り向いても、あの塹壕は見えなかった。




