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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第83話 地下室の笑い声と仇

第83話 地下室の笑い声と仇


東部市街地戦線到着日の深夜。

帝国軍東部方面・前線指揮所。


午前零時過ぎ、曇天。


 指揮所へ着いたとき、レイブンの靴には泥よりも白い埃が目立っていた。

 昼から守っていた通路を離れたのは、交代の兵が来てからだった。負傷者と動ける輸送車の後送が進み、残った者たちにも、ようやく配置を整理する指示が届いた。

 オスカーとユリウスは、まだ商店街に残っていた。

 別れる前、ガイルが二人へ手を上げた。

「今度は、座って話せる場所で会おうぜ」

「お前たちが先に見つけておけ」

 オスカーはそう答え、通りへ向き直った。

 レイブンも一度振り返ったが、角を曲がると二人の姿は見えなくなった。

 今は、案内役の兵士の背中だけが前にあった。

「ここだ」

 壊れた商店の入口で、その兵士が止まった。

 建物の中は暗かった。上階で何かが軋み、ガイルが天井を見上げた。

「この下にいるのか」

「地下だ。階段は右側」

 二人は銃を身体へ寄せ、狭い階段を下りた。

 灯りが見えた。

 地図を広げた机と、壁際に座る兵士たち。通信機の前には、受話器を握ったまま目を閉じている者がいた。

 レイブンが最後の段を下りると、近くにいた女性兵が顔を上げた。

「輸送車列にいた二人?」

「クロウとベッカーです」

 レイブンが答えた。

「イングリット・ハーゼ。第十一特殊歩兵部隊よ」

 彼女は机の横を空けた。

「荷物はそこへ。まず、配置の確認を受けて」

 ガイルが背嚢を下ろした。床へ置いた途端、肩をゆっくり回した。

「昼に通路を押さえてくれたのは、あんたたちか」

「こちらから出した組もいた。あなたたちが来るまでに戻った者と、まだ別の建物に残っている者がいる」

 イングリットは地図へ目を向けた。

 レイブンもその視線を追った。

 味方の位置を示す印が、いくつもの街区へ散っていた。線で結ばれていても、その間を自由に歩けるわけではなかった。

 指揮所の士官へ移動書類を渡すと、二人はこれまでの経過を尋ねられた。

 北部からの転用。到着直後の車列への攻撃。現地部隊との合流。商店街での防御。

 レイブンが順に答える間、ガイルは隣で立っていた。

 報告が済むと、壁際の場所を使うよう言われた。温かい飲み物が少し残っていると聞き、ガイルが初めて顔を上げた。

 渡された容器を両手で包み、二人は木箱へ腰を下ろした。

 近くでは、クラウディア・エーベルが包帯の端を留めていた。

「北部から来たのね」

 彼女が尋ねた。

 レイブンは頷いた。

「昨日まで、塹壕にいた」

「こっちより寒かった?」

「濡れていた。靴も、寝る場所も」

 容器から立つ湯気を見ながら、レイブンは答えた。

 話し始めると、壕底の水の深さや、何度も崩れた通路の形が浮かんできた。地図には残らないものばかりだった。

「板を敷いても沈む。負傷者を運ぶと、担架の片側だけ落ちることがあった。銃を拭く布も乾かなかった」

 クラウディアは包帯から手を離した。

 ほかの兵士も、手元の作業を続けながら聞いていた。

「敵に押されて、何度も下がった。最後にいた壕は入り組んでいて、角の先が見えなかった」

「そこで、こいつは悪魔になった」

 ガイルが口を挟んだ。

 レイブンは横を見た。

「余計なことを言うな」

「敵が言ったんだ。俺じゃない」

 ガイルは容器を膝へ置き、聞いていた兵士たちへ顔を向けた。

「まず、俺たち二人で〈不死身のクソ野郎共〉。その後、こいつ一人で〈塹壕の悪魔〉。おまけに〈デッドエンドの猫〉だとよ」

 クラウディアがレイブンを見た。

「それ、あなたなの?」

「そう呼ばれていたらしい」

 レイブンは飲み物へ口をつけた。

 ガイルが続けた。

「不死身の方は、靴を脱ぐだけで呻いてた。悪魔の方は、俺を探しに来て、座れと言うまで立ったままだった」

「お前が戻ったと聞いたからだ」

「ああ。悪魔に捜索されてたわけだ。見つからなかったら、後方まで荒らされるところだったな」

 クラウディアが吹き出した。

 向かいの兵士も笑い、通信機の前にいた者が目を開けた。

「悪魔でも、移動書類は要るんだな」

 誰かが言った。

「要る。さっき渡した」

 レイブンが真顔で答えると、今度はイングリットまで口元を押さえた。

 ガイルは満足そうに容器を持ち上げた。

「しかも悪魔も猫も、乾いた靴下は一足ずつだ」

 笑い声が地下室へ広がった。

 地図の前に立っていた士官も顔を上げたが、静かにさせようとはしなかった。

 レイブンは容器を膝へ戻した。

 ガイルが笑っていた。隣で、その肩が小さく揺れている。

 昨日まで返事を探していた声が、今はこんな狭い部屋で皆を笑わせていた。

 レイブンも、少しだけ笑った。

 やがて通信機が鳴り、担当の兵士が受話器を取った。

 イングリットは机へ戻った。クラウディアも装具の留め具を確かめ始めた。

 笑い声は自然に収まり、地下室には紙を動かす音と、短い報告が戻った。

 二人には、壁際で休む時間が与えられた。

 レイブンは銃を手の届く場所へ置き、背嚢を枕代わりにした。ガイルは隣へ座ったまま、靴の紐を緩めていた。

「起こされるまで寝ろ」

 ガイルが言った。

「お前も」

「今度は、爆発以外で起きたいな」

 レイブンは目を閉じた。

 地上の砲声は遠かったが、途切れてはいなかった。

 早朝、イングリットに肩を叩かれた。

「説明が始まる」

 レイブンは身体を起こした。

 隣では、ガイルがすでに靴を履き直していた。目が合うと、眠そうな顔で頷いた。

 机の周りに兵士たちが集まった。

 夜の間に戻った偵察の報告と、離れていた各組からの連絡が、地図へ書き込まれていた。昨日塞がっていた通路のうち、一つは迂回できる可能性があるという。

 指揮官が、その街区を示した。

「正面の部隊が敵を押さえている間に、第十一の一部が側方から進出する。目標は、この建物群の後方だ」

 レイブンは線の先を見た。

 商店、住宅、中庭。紙の上には屋根のない部屋も、崩れた階段も描かれていなかった。

「昨日の予定をそのまま繰り返すわけではない。確認できた通路を使う。先へ出られなければ、現在位置を報告して指示を待て」

 イングリットが頷いた。

 戻れていない組との合流、負傷者を下げる場所、味方が正面で動く時間も確かめられた。

 レイブンとガイルは、進出する兵たちへ加わるよう命じられた。

 市街地へ来たばかりの二人には、周囲の兵と離れず、まず通路と味方の位置を把握することが求められた。

 ガイルがレイブンの脇へ顔を寄せた。

「昨日は乗ってきた車を守って、今日は建物の裏へ回れ、か」

 レイブンは地図を見たまま答えた。

「道が残っていれば」

「またそれか」

 ガイルの声は小さかった。

 説明を終えると、兵士たちは順に階段へ向かった。

 レイブンも散弾銃を取り、吊り帯を直した。肩に重さが戻った途端、短い睡眠で消えなかった疲れを感じた。

 敵の背後へ出る。

 その先に着くまで、いくつの戸口を通り、いくつの角を曲がるのだろう。

 北部でも、次の角まで進めばいいと思っていた。気づけばガイルと離れ、知らない兵の隣で撃ち続けていた。

 今度は、建物の中でも同じことになる気がした。

 レイブンは階段の途中で、後ろを見た。

 ガイルが続いていた。

「いるぞ」

 何も聞かないうちに、ガイルが言った。

 レイブンは頷き、地上へ出た。

 空は白み始めていた。壊れた窓の奥はまだ暗く、通りには夜の冷気が残っていた。

 イングリットたちが待っていた。ガイルが上がってくると、先頭の兵士が歩き始めた。

 レイブンはその後に続いた。

 最初の曲がり角へ近づくにつれ、昨日の埃の味が、また口の中へ戻ってきた。


敵後方への進出作戦開始後。

東部市街地・半壊した建物内。


早朝、薄暗い曇天。


 レイブンは、壁から浮いた漆喰を見つめていた。

 亀裂の縁が、呼吸に合わせて動いているように見えた。自分の目が揺れているのだと気づき、瞬きをした。

 口の中に砂があった。

 唾と一緒に吐き出すと、床へ小さな黒い染みができた。

 散弾銃は手にあった。吊り帯も切れていない。肩を動かすと痛んだが、腕は上がった。

 ガイルがいなかった。

 イングリットも、その後ろを進んでいた兵士たちも、見えなかった。

 最初は順調だった。

 通りを離れ、壁の残った建物を抜けた。中庭には昨夜の雨が溜まり、倒れた物干し台を跨ぐと、次の入口が見えていた。

 ガイルはすぐ後ろにいた。

「この街、家の中まで道にしてるんだな」

 小さく言った声を、レイブンは聞いていた。

 先頭の兵士が止まるたびに止まり、手招きされると進んだ。イングリットは後続を確かめ、全員が次の遮蔽物へ入るまで待っていた。

 敵の射撃が始まったのは、その先だった。

 開いた中庭へ弾が飛び込み、壁を削った。前の兵士が転び、近くにいた者が腕を掴んだ。

 誰かが右へ行けと叫んだ。

 別の声が、そこは塞がっていると返した。

 レイブンは戸口から離れ、ガイルとともに隣室へ入った。銃声は上からも聞こえた。天井の穴を見上げたとき、落ちてきた土が顔へ当たった。

「クロウ、こっちだ!」

 ガイルの手が見えた。

 レイブンはそちらへ進もうとした。

 床が震えた。

 次に覚えているのは、背中が何かへぶつかった感触だった。目の前に白い埃が広がり、息を吸おうとして咳き込んだ。

 身体を起こしたときには、通ってきた戸口が梁と煉瓦で塞がっていた。

 向こうから声が聞こえた気がした。

「ガイル!」

 呼んだ。

 返ってきたのは射撃音だった。

 レイブンは崩れた壁の脇を回った。別の部屋から抜けられると思ったが、その先の廊下にも瓦礫が積もっていた。

 前へ出ると撃たれた。

 身体を引き、開いていた戸口へ入った。割れた家具に脚をぶつけ、倒れかけた棚を押しのけた。

 そうしているうちに、仲間の声が聞こえなくなった。

 レイブンは壁へ背を寄せた。

 息を整え、もう一度耳を澄ませた。

 遠くでは戦闘が続いていた。近くでは、どこかの天井から砂が落ちている。

 その下に、足音が混じった。

 ゆっくり近づいてきた。

 レイブンは散弾銃を上げた。

 自分のいる部屋と、その足音との間には壁があった。戸口は斜め前にあり、外の廊下が少しだけ見えていた。

 足音が止まった。

「よぉ、〈塹壕の悪魔〉。朝はまだまだ先だ」

 銃を握る指が、動かなくなった。

 声は、壁一枚の向こうにいた。

 低く、喉の奥にざらつきがある。人を呼ぶときだけ、語尾をわずかに引き延ばす。

 レイブンは、その声を知っていた。

 埃の臭いの中へ、濡れた訓練服の臭いが戻ってきた。

 並んでいた志願兵たちの靴。

 冷えた床。

 カール・リヒターが、口元を拭っていた。

「聞こえなかったのか、リヒター」

 あの男が言った。

 カールは顔を上げた。

 何か答えようとしたところで、男の腕が動いた。カールの身体が横へ崩れ、近くにいた同期が手を出しかけた。

「動くな」

 その声で、皆が止まった。

 レイブンも止まった。

 カールは床へ手をつき、立ち上がった。口元から離した指に、血がついていた。

 男はそれを見ていた。

 怒鳴る必要がないと分かっている顔だった。

 レイブンの耳の奥で、銃声が響いた。

 訓練場の床が消えた。

 目の前には、剥がれた漆喰と、床に散った煉瓦があった。

 銃口がわずかに下がっていた。

 レイブンは持ち直した。

 あの男だ。

 カールに体罰を加え、その後、前線へ送られた男。

 志願兵の列を歩く靴音まで覚えていたのに、壁の向こうで聞くとは思っていなかった。

「黙ってるな。昔からそうだったか?」

 レイブンは息を止めた。

 相手も、こちらが誰なのか知っている。

 どうして敵が近づいてくる側から、この声がするのか。

 なぜ、散弾銃を持った黒猫の兵が自分だと分かったのか。

 考えようとすると、カールの頬へ腕が振られた瞬間が、また目の前へ戻ってきた。

 レイブンは壁に触れた。

 指先に、粗い砂の感触があった。

 ここにいる。

 今、いるのは市街地の建物の中だ。

 壁の向こうに男がいて、仲間の位置は分からない。

 銃を支える腕へ、少しずつ力が戻った。

「……お前か」

 声にすると、喉が擦れた。

 向こうで、短く笑う音がした。

「覚えていたか」

 レイブンは戸口を見つめた。

 男の顔は、まだ見えなかった。声が知っているものでも、その横に誰がいるのかまでは分からない。

 足元で、小さな煉瓦片が転がった。

 レイブンのものではなかった。

 向こうで誰かが動いた。

 彼は壁から身体を離し、銃を構えたまま視線を動かした。

 怒りが遅れて湧いてきた。

 カールが立ち上がるのを、皆で見ていた。あのとき男の前に出られなかったことまで、鮮明に思い出していた。

 だが、その記憶のまま戸口へ出れば、何も見えないまま撃たれる。

 レイブンは奥歯を噛み締めた。

 ガイルを探さなければならない。

 イングリットたちへ戻らなければならない。

 そのために、今はこの部屋から生きて出る必要があった。

「その名前、気に入ってるのか。塹壕の悪魔」

 男が言った。

 レイブンは答えなかった。

 壁の向こうで、また靴が床を擦った。

 彼はその音を聞いた。

 今度は、昔の訓練場へ戻らなかった。


敵後方への進出作戦開始後。

東部市街地・半壊した建物内。


早朝、曇天。


 壁の向こうで、男の靴が床を擦った。

 レイブンは散弾銃を抱え直した。

 目の前の壁には、天井から伸びた亀裂が走っていた。漆喰の一部は剥がれ、その下の煉瓦もずれている。さっきの爆発で傷んだ壁だった。

 レイブンは一度、そこから離れた。

 靴の下で硝子が鳴った。

「どうした、クロウ」

 男の声がした。

 レイブンは答えず、踏み込んだ。

 肩を壁へ叩きつけた瞬間、痛みが首筋まで走った。煉瓦が崩れ、顔の前に埃が噴き上がった。

 一度では抜けなかった。

 身体を押し込み、浮いた壁材を崩した。吊り帯が割れた縁へ引っ掛かり、彼は腕で払いながら向こう側へ出た。

 足元が沈んだ。

 膝を曲げて踏みとどまり、すぐに散弾銃を上げた。

 埃の向こうに、男がいた。

 記憶にあった指導教官だった。

 頬は以前より痩せ、制服の袖は汚れていた。それでも、目を細めて相手を見る癖は変わっていなかった。

 カールの前に立っていたときと、同じ顔だった。

「おいおい、指導教官に銃口を向けるなんて悪い志願兵だな」

 男は口元を歪めた。

 銃口を向けられているのに、慌てた様子がなかった。レイブンの顔から肩へ目を動かし、また目を合わせた。

 レイブンの肩が痛んだ。

 壁へ突っ込んだ衝撃が、腕を支えるたびに響いた。埃を吸った喉も熱かった。

 それでも、銃口は下げなかった。

「ここで何をしている」

 男は答えず、笑みを深くした。

「質問の仕方まで忘れたのか」

 その声で、レイブンの胸が強張った。

 カールが床から立ち上がった姿が浮かんだ。口元を拭った手に血がついていた。隣の同期は拳を握り、誰も列から出られなかった。

 男は今も、その頃と同じように話していた。

「お前たちは、いつも——」

 別の入口で、瓦礫を踏む音がした。

「レイブン!」

 ガイルだった。

 壊れた戸口へ入ってきたガイルは、こちらへ目を向けた。レイブンを確かめ、銃口の先にいる男を見た。

 足が止まった。

 レイブンには、ガイルの表情が変わるのが見えた。

 眉が寄り、口がわずかに開いた。そのまま男の顔を見つめていた。

 男もガイルへ顔を向けた。

「ベッカーか。相変わらず——」

「カールの仇! ここで晴らす!!」

 ガイルが叫んだ。

 レイブンが名を呼ぶより早く、銃声が部屋を満たした。

 男の身体が揺れた。

 背後の壁へ破片が跳ね、気味の悪い笑みが消えた。何か言おうとした口が開いたまま、男は膝を折った。

 銃声は続いた。

 何発も撃ち込まれ、男の身体が床へ崩れた。

「ガイル!」

 レイブンは声を張った。

 ようやく射撃が止まった。

 耳の奥に、細い音が残った。埃が灯りの中を流れ、床へ薬莢が転がっていた。

 ガイルはまだ銃を構えていた。

 男は動かなかった。

 レイブンはガイルの横へ寄り、銃身には触れず、その腕へ手を置いた。

「もういい」

 ガイルの息が荒かった。

 レイブンを見ず、床の男を見ていた。

「……あいつだった」

「ああ」

「カールを殴った、あいつだ」

「分かっている」

 ガイルの腕が震えた。

 銃を下ろしかけ、また止まった。レイブンはその隣で、ほかの入口へ目を向けた。

 外では戦闘が続いていた。

 ここで撃った音も、周囲へ聞こえている。

「離れるぞ」

 レイブンが言った。

 ガイルは顔を動かさなかった。

「ガイル。こっちを見ろ」

 今度は、目が合った。

 怒りの残った目だった。その奥に、別のものも見えたが、レイブンには名前をつけられなかった。

「ほかの兵は」

 レイブンが尋ねた。

「……隣の建物だ。お前がいないと分かって、戻った」

「道は通れるか」

「ああ」

「案内してくれ」

 ガイルは一度、床へ目を落とした。

 それから頷き、銃を下げた。

 男のそばを通るとき、レイブンは顔を見た。

 何をしていたのか、誰と動いていたのか。

 尋ねたかったことは、答えられないまま残っていた。

 もう笑ってはいなかった。

 レイブンは視線を外し、ガイルの後を追った。

 戸口でイングリットと合流した。

「見つけたのね」

 彼女は二人を見た後、背後の部屋へ目を向けた。

「何があった」

 ガイルが口を開きかけた。

 声が出なかった。

 レイブンが答えた。

「志願兵時代の指導教官がいた。俺に声をかけてきた」

「指導教官?」

「カール・リヒターに体罰を加えて、前線へ送られた男だ」

 イングリットの目が、ガイルの銃へ移った。

 彼女は短く息を吸った。

「詳しくは戻ってから聞く。今は、この区画を出る」

 レイブンは頷いた。

 ガイルも、遅れて頷いた。

 三人が建物を離れると、冷たい空気が顔へ当たった。レイブンはそこで初めて、大きく息を吸った。

 肩が痛んだ。

 ガイルは先を歩きながら、何度も銃の握りを直していた。

 レイブンが隣へ並ぶと、小さな声がした。

「カールには……」

 ガイルは続きを言わなかった。

 レイブンも、すぐには答えられなかった。

 カールがこれを知って、何と言うのか。

 二人とも分からなかった。

「戻ってから話そう」

 レイブンは言った。

 ガイルは前を見たまま頷いた。

 次の建物の陰で、仲間たちが待っていた。

 イングリットが人数を確かめ、再び歩き始めた。

 レイブンはガイルの位置を見てから、その後に続いた。

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