第82話 瓦礫の中の同期と届いた行き先
第82話 瓦礫の中の同期と届いた行き先
東部戦線への移動翌日。
帝国軍東部方面・市街地外縁。
午前、曇天。
ガイルを起こしたのは、レイブンの手ではなかった。
急制動で身体が前へ投げ出され、膝の間に置いていた背嚢が荷台を滑った。ガイルは座席の縁を掴み、顔を上げた。
「……着いたか」
レイブンが答える前に、前方で爆発が起きた。
幌の内側が一瞬明るくなり、車体へ硬いものが当たった。運転席の方から叫び声がした。
続いて、銃弾が荷台の側板を貫いた。
向かいに座っていた兵士が身を伏せた。ガイルは隣の兵士の肩を押さえ、レイブンも銃を抱えて床へ身体を落とした。
「降りろ! 車列が撃たれてる!」
後部の覆いが外から引き上げられた。
見えたのは、雨の降っていない街だった。
道路には割れた煉瓦と窓硝子が散り、向かいの建物は二階の壁を失っていた。前の輸送車が斜めに止まり、その先から煙が上がっている。
レイブンは荷台の縁へ手をかけた。
「ガイル」
「分かってる」
二人は兵士たちに続いて降りた。
着地した靴底が硝子を踏んだ。泥とは違う感触に一瞬足が止まり、すぐそばの壁へ銃弾が当たった。
レイブンはガイルとともに、歩道へ倒れていた石材の陰へ入った。
背嚢が瓦礫へ引っ掛かった。身体を捻って外すと、肩に鋭い痛みが走った。
通りの先で、機関銃が撃ち始めた。
輸送車の下へ逃げ込んだ兵士が、這って歩道へ移ろうとしていた。その前の路面へ弾が当たり、破片が顔の近くを跳ねた。
「動くな!」
ガイルが叫んだ。
兵士が止まり、腕で頭を覆った。
レイブンは銃を構えたが、相手の位置が分からなかった。銃声が建物の間で反響し、正面から聞こえた音が、次には右手から響いた。
塹壕なら、角の向こうを見ていればよかった。
ここには窓があり、壊れた壁があり、道路を挟んだ建物の奥にも暗がりがあった。
ガイルがレイブンの腕に触れた。
「右上、窓の内側だ」
レイブンが目を向けると、崩れた窓枠の奥で銃口が光った。
二人が身を縮めた直後、石材の上端が削れた。
背後の路地から、帝国軍の兵士が数人出てきた。
「車列の兵は、こっちへ! 道路に残るな!」
声を聞いて、ガイルが振り向いた。
レイブンも顔を上げた。
路地の入口で、小銃を抱えた男がこちらへ手を振っていた。頬は煤に汚れ、ヘルメットの下から覗く髪も埃を被っていたが、その顔を見間違えることはなかった。
「オスカー?」
ガイルが呼んだ。
オスカー・グラーフの手が止まった。
「ベッカー……クロウもか!」
驚いた顔は、次の銃声で引き締まった。
「話は後だ。こっちへ来い!」
レイブンは車両の下にいる兵士へ声をかけた。
「こちらへ移れるか」
兵士が頷いた。
オスカーの側で射撃が始まった。ガイルが石材の陰から身を起こし、車両の下を見た。
「今だ。俺の方へ」
兵士が這い出し、立とうとしてよろめいた。ガイルが装具を掴み、レイブンも反対側へ手を添えた。
三人で路地へ入ったとき、後ろの輸送車から煙が噴き出した。
誰かが運転手の名を叫んでいた。
レイブンが振り返ると、二人の兵士が運転席へ駆け寄り、扉を開けようとしていた。
オスカーが近くの兵へ声を飛ばした。
「救護を呼べ! 車両のそばに人が残っている!」
それからレイブンたちへ向き直った。
「怪我は」
「こいつを見てくれ」
ガイルが支えていた兵士を壁際へ座らせた。
オスカーは別の兵士に後を任せ、二人を路地の奥へ案内した。
そこでまた、知った声が聞こえた。
「前方車両が道路を塞いでいる。後続にも停止を伝えてくれ。繰り返す、先頭へ詰めるな」
ユリウス・ヴェーバーが、壊れた店の入口で通信機を抱えていた。
受話器を耳へ押しつけたまま、こちらを見た。
「……お前たちか」
「久しぶり、でいいのか?」
ガイルが尋ねた。
「今は、来たばかりで災難だったな、だ」
ユリウスはそう答え、通信へ戻った。
レイブンは店の中へ目を向けた。
棚が倒れ、床には商品だったものと硝子が混ざっていた。奥の壁には、住人が残したらしい家族写真が掛かっている。傾いた額の下を、弾薬箱を持った兵士が通った。
オスカーが二人へ説明した。
「この通りは、朝まで輸送に使えていた。前の区画で敵を押さえていたはずだが、今はここまで撃たれている」
「どこから来てる」
ガイルが聞いた。
「道路の向こうと、北側の建物。全部は分からない」
レイブンは窓の外を見た。
車列の後方でも兵士が降り、壁際へ集まっていた。荷台に取り残された荷物が、車体の傾きに合わせて崩れている。
「俺たちはどこへ」
レイブンが尋ねた。
オスカーは小隊の下士官を呼び、到着した二人のことを短く伝えた。
下士官はレイブンたちの銃と、ガイルの手に巻かれた布を見た。
「動けるか」
「はい」
二人が答えると、店の隣を指した。
「横の通路を見ていろ。ここの兵が前から下がってくる。戻ってきた者を先に通せ」
レイブンは頷いた。
ガイルとともに隣の建物へ入り、崩れた入口を越えた。
床は濡れていなかったが、埃が深く積もっていた。歩くたびに白い粉が舞い、喉へ入った。窓のなくなった部屋を抜けると、建物の間を通る細い路地が見えた。
ガイルが背嚢を壁際へ置いた。
「北部の泥、まだついてるな」
レイブンの靴を見て言った。
「今度は埃もつく」
「洗う前に増やすのか」
ガイルは銃を持ち直した。
路地の向こうから、兵士が二人戻ってきた。一人がもう一人の腕を肩へ回している。
レイブンは声をかけ、帝国軍の兵と確認してから通した。
「後ろに残っているか」
「三人。もう来る」
答えた兵士の息は荒かった。
やがて、その三人も姿を現した。最後の兵士が振り返って撃ち、壁の陰へ退いた。
レイブンとガイルがその後を引き受けた。
向こうの建物の入口で、人影が動いた。
レイブンは散弾銃を肩へ寄せた。姿を見定めて撃つと、狭い路地に轟音が響き、壁から埃が落ちた。
ガイルも隣で射撃した。
相手の銃弾が戸口へ当たり、割れた木片がレイブンの袖を擦った。二人は室内へ身体を戻した。
「俺が見る」
ガイルが言った。
レイブンは頷き、息を吐いた。
北部で何度も交わした言葉だった。その声を隣で聞けることが、今は何より確かだった。
背後からオスカーが入ってきた。
「ここまで来ているのか」
「路地の先だ」
ガイルが答えた。
オスカーは下がってきた兵士の人数を確かめ、入口の横へ入った。
レイブンは銃を支える腕を少し下ろした。
「お前がいるとは思わなかった」
「俺もだ」
オスカーは前を見たまま答えた。
「七人で兵舎にいた頃は、こんな店で再会するとは考えなかったな」
ガイルが辺りを見回した。
「飯屋ならよかったんだが」
「食えるものは残っていない」
「期待してねえよ」
ユリウスが戸口へ現れた。
「負傷者を後ろへ移している。車列も、動かせる車から下げるそうだ」
外で再び爆発が起きた。
床が震え、家族写真の額が壁から落ちた。ユリウスは身を屈め、オスカーがその腕を掴んだ。
レイブンも壁へ寄った。
埃の向こうで、ガイルの姿を確かめた。ガイルが頷き返した。
路地から銃声が来た。
オスカーが銃を上げ、ユリウスは伝えるべき情報を抱えて奥へ戻った。レイブンとガイルも、それぞれの位置へ身体を寄せた。
昔の話をする時間は、まだなかった。
それでも、次に誰の声が聞こえるのかは分かっていた。
レイブンは肩へ銃床を当て、埃の舞う戸口を見つめた。
東部市街地戦線到着当日。
帝国軍東部方面・前線指揮所。
午後、曇天。
地下室の天井から、細かな埃が落ちていた。
元は商店の倉庫だった。壁際には空になった棚が残り、階段の下に積まれた木箱が通路を狭めている。地上で爆発が起きるたび、吊り下げられた灯りが揺れた。
その下に、第十一特殊歩兵部隊の女性兵たちがいた。
昨日、この市街地へ到着したばかりだった。
靴や装具には、移動中についた泥が残っている。その上から煉瓦の粉が重なり、濡れていたはずの制服は、今では乾いた埃を擦り落とすようになっていた。
イングリット・ハーゼは、机へ広げられた市街図を見つめていた。
敵の背後へ回るために選ばれた通路を、指で辿った。
学校の裏を抜け、商店街を横切り、連邦軍の占める建物群の後方へ入る。地図では、通れる道が続いていた。
しかし、実際に歩いて確かめられたのは、その半分ほどだった。
「ここは崩れていました」
向かいの兵士が、細い路地を示した。
「建物の上階が落ちています。通り抜けようにも、向こう側が見えません」
別の地点では、帝国軍の歩兵が敵と撃ち合っていた。さらに奥へ出た組は、戻る途中で負傷者を運ぶことになった。
先へ進めない者と、引き返せない者が、別々の建物で待っていた。
イングリットは地図から顔を上げた。
「連絡が取れたのは?」
「西側の組です。まだ同じ場所にいます」
「残りは」
「呼んでいます」
通信担当の兵士は、受話器を握ったまま答えた。
イングリットは頷いた。何度も問い直したところで、返事が早く来るわけではなかった。
机の端には、昨日受け取った命令書があった。折り目の内側はまだ綺麗だったが、外側には指の泥がついている。
背後を取れれば、正面で押し合う味方を助けられる。
それは分かっていた。
だが、こちらが回ろうとしている間にも、敵は移動していた。昨日は空いていた窓から撃たれ、味方のいるはずだった区画では応答がなかった。
近くの椅子で、クラウディア・エーベルが袖をまくっていた。
前腕に巻かれた布を衛生兵が外すと、擦り傷に細かな砂が残っていた。
「動かさないで」
「分かってる」
クラウディアは答えたが、階段で足音がすると、すぐにそちらを見た。
降りてきたのは、輸送車列の状況を伝える兵士だった。
「外縁の道路で車列が攻撃されました。降車した兵が、現地部隊と一緒に防御しています」
指揮所の士官が場所を尋ねた。
兵士が市街図を示すと、イングリットもそこへ目を向けた。
彼女たちが通過する予定だった商店街へ近い。
「まだ、道路に人が残っているのか」
「収容中です。動かせる車両から後方へ下げています」
士官は伝令へ指示を出し、続いて第十一特殊歩兵部隊の配置を確かめた。
「今、動ける者を出してほしい。車列から下がる兵の通路を確保する」
イングリットは、戻っていた仲間たちを見た。
椅子から立ち上がる者がいた。弾薬の収納を閉める者、壁に立てかけた銃を取る者もいた。
クラウディアも腰を浮かせた。
「あなたは、処置を終えてから」
衛生兵に言われ、椅子へ戻った。
イングリットは通信担当のそばへ寄った。
「向こうから返事が来たら、私たちの移動を伝えて。合流場所は勝手に変えないように」
「了解」
返答を聞いてから、銃を持ち上げた。
敵の後方へ向かうはずだった。
今は、味方が後ろへ戻る道を守りに行く。
階段を上がると、地上から冷たい風が吹き込んできた。建物の入口には、割れた扉が片側だけ残っていた。
イングリットは足を止め、仲間が揃うのを待った。
通りの向こうで銃声が続いていた。
そのどこかに、到着したばかりのレイブンとガイルもいたが、彼女たちはまだ二人の名を知らなかった。
同じ日の北部戦線では、マティアス・レンツが、壕壁に残された荷物を運び出していた。
雨は細くなっていた。
水の溜まった壕底は変わらなかったが、前方から届く銃声は、朝よりも遠かった。昨夜まで射撃位置だった場所で、兵士たちが崩れた板を引き抜いている。
レンツは弾薬箱を持ち上げ、乾いた踏み板の上へ置いた。
肩を伸ばすと、背中が痛んだ。
「レンツはいるか」
壕の入口から声がした。
振り向くと、連絡兵が立っていた。
「俺だ」
「クロウという兵から伝言を預かっている」
レンツは箱から手を離した。
「何て?」
「ベッカーは帰還した。二人とも東部戦線へ移動する、と」
連絡兵は手元の紙を見た。
「ベッカーからも、礼を伝えてくれと言われている」
レンツは少しの間、相手の顔を見ていた。
それから、深く息を吐いた。
「……そうか」
レイブンが出ていった後、持ち場の変更が続いていた。戻ってこなかったのは命令が変わったからだと聞いていたが、本人の行き先までは確かめられずにいた。
レンツは壕の奥へ目を向けた。
濡れた弾を手渡した場所は、崩れた土で半ば埋まっていた。レイブンが立っていた壁際も、もう人が通れる幅ではなかった。
二人とも、ここを出られた。
そう思うと、肩から力が抜けた。
「東部か」
「ああ。市街地戦線だ」
レンツは頷いた。
安心したすぐ後に、その行き先の意味が胸へ残った。
休むための移動ではなかった。
あの兵は、また別の場所で銃を持つ。
「返事は預かれるか」
「戻りの連絡があれば」
レンツは言葉を考えた。
塹壕の悪魔と呼ばれていた男が、ガイルの帰還を聞いたときだけ、はっきり顔を上げたことを思い出した。
「伝えられたらでいい。二人で飯を食え、と」
連絡兵が紙へ書きつけた。
レンツは弾薬箱を持ち直した。
運び出すものは、まだ残っていた。次に使う兵のため、汚れと破損を確かめなければならなかった。
箱を抱えて歩きながら、レンツは一度だけ空を見た。
雲は低かったが、頬へ落ちてくる雨粒は少なかった。
東部では、もう雨が止んでいるだろうか。
あの二人の靴だけでも乾いていればいいと、彼は思った。




