第81話 次の行き先
第81話 次の行き先
ガイルとの合流後。
帝国軍北部方面・後方収容地点。
夕刻、雨。
ガイルが靴を履き終えるまで、レイブンは入口のそばで待っていた。
衛生兵から渡された布を手のひらへ巻き直し、ガイルは立ち上がった。最初の一歩だけ顔をしかめたが、すぐに背嚢を持ち上げようとした。
「持てるのか」
レイブンが尋ねた。
「持てる。だが、嬉しくはねえ」
肩帯へ腕を通すと、ガイルは壁に背を預けて荷の位置を直した。
レイブンも銃を吊り直した。休んでいる間に冷えた制服が、背中へ張りついていた。
前線へ戻れば、レンツがいる。
交代までに戻ると約束していた。遅くなる前に出なければならなかった。
二人が雨の中へ歩き出したとき、背後から声がかかった。
「クロウ、ベッカー。待て」
レイブンは振り返った。
建物の軒下に士官が立っていた。片手に書類を持ち、もう片方の手で、近くの兵士へ何か指示している。
ガイルも足を止めた。
「俺たちですか」
「そうだ。こちらへ来い」
二人は軒下へ戻った。
士官は書類と二人の顔を見比べた。
「後方指揮のアントン・ヴァイス大尉だ。お前たちには配置変更が出ている」
レイブンは大尉を見た。
「前の陣地へ戻るよう指示を受けています」
「その指示は取り消された」
ガイルが背嚢の肩帯を握り直した。
「……今度はどこまで下がるんです」
「下がるのではない。北部の戦況が変わった」
大尉は軒下の机へ書類を置いた。雨で濡れた地図の端を、空の弾薬箱で押さえている。
指が、レイブンたちの守っていた地域へ置かれた。
「増援の投入後、北部方面軍は反攻に転じた。連邦軍は前進した部隊を支えきれず、後退している。こちらは防御から攻勢へ移り、現在は海岸線まで押し返している」
レイブンは地図へ目を落とした。
ガイルの返事は、少し遅れた。
「海岸線、ですか」
「そうだ」
「俺たちはさっきまで、曲がり角を一つ守るので精一杯だったんですが」
「お前たちのいた突出部では、後退中の敵部隊との接触が続いていた。連絡も遅れている」
大尉は別の紙を開いた。
「北部の主戦場は、すでに塹壕線から移った。残った敵の確認と陣地の整理は続くが、お前たちを同じ壕へ戻す必要はなくなった」
レイブンは、朝から何度も下がった通路を思い浮かべた。
レンツの横顔。泥に落ちた弾薬。角の向こうから現れた敵兵。
自分たちが後退している間に、見えない場所では味方が前進していた。
地図の矢印を目で追っても、その距離を実感できなかった。
「前に残っている兵には、伝わっているんですか」
レイブンが尋ねた。
「各部隊へ伝達中だ。お前たちの配置先にも、交代と再編の指示が出ている」
大尉は答え、次の書類を取り上げた。
「クロウ、ベッカー。両名は東部市街地戦線へ転用する。移動後の所属と配置は、現地で受け取れ」
ガイルが黙った。
レイブンも、すぐには返事ができなかった。
背後で、輸送車の機関がかかった。荷台へ箱を積む兵士たちの声が聞こえていた。
「東部」
ガイルが繰り返した。
「市街地だ。出発は今夜」
「塹壕を出たら、今度は建物の中ですか」
「必要な場所へ移る。それがお前たちの次の任務だ」
大尉の声は変わらなかった。
ガイルはレイブンを見た。
レイブンも彼を見返した。
昨日は、どこにいるかさえ分からなかった。今日、ようやく再会した。次に二人で歩くのは、また同じ壕だと思っていた。
ガイルが先に息を吐いた。
「せめて、泥を落としてから次の戦場へ行きたいんですが」
「移動前に補給を受けろ。乾いた衣類が残っていれば支給される」
「残っていれば、ですね」
大尉はガイルの手へ目を向けた。
「衛生兵の記録は引き継ぐ。到着後、再確認を受けろ。クロウ、お前もだ」
レイブンは頷いた。
「了解しました」
ガイルも姿勢を正した。
「了解」
大尉は二人へ移動の書類を渡した。
「輸送車は建物の裏だ。乗る前に名前を確認させろ」
二人は軒下を離れた。
雨は弱くなっていた。地面の水溜まりには、車両の灯りが揺れていた。
ガイルが泥の中へ一歩踏み出した。
「北部へ来いと言われて、来た」
「ああ」
「壕へ入れと言われて、入った」
「ああ」
「ようやくお前を見つけたら、東へ行けときた」
レイブンは隣を歩いた。
「俺も、お前を探していた」
「分かってるよ」
ガイルは肩帯をずらした。
「だから、せめて座らせろって話だ」
補給所では、二人とも乾いた靴下を受け取れた。
上着はなかった。係の兵士が箱の底まで探し、申し訳なさそうに首を振った。
ガイルは靴下を見つめた。
「これだけで、今は十分だ」
二人は覆いの下へ座り、靴を脱いだ。
レイブンの足は、濡れた皮膚の一部が擦れていた。布で水気を拭くと痛んだが、乾いた靴下を通したときには、しばらく足を動かさずにいた。
ガイルも黙って履き替えていた。
近くでは、新たに到着した兵士たちが装具を受け取っていた。北部へ残る者もいれば、二人と同じ輸送へ回される者もいた。
「レンツに伝えておきたい」
レイブンが言った。
「東へ行くことか」
「ああ」
ガイルは頷いた。
「俺からも礼を」
レイブンは補給所の兵士へ、前の配置へ戻る連絡要員がいないか尋ねた。見つかった伝令に、移動先と、ガイルが帰還したことを伝えてもらうよう頼んだ。
伝令は名前を復唱し、紙へ書き留めた。
それを聞いてから、レイブンは靴を履いた。
建物の裏には、幌を張った輸送車が並んでいた。
東部行きの車両を確かめ、二人は書類を渡した。兵士が名簿へ印をつけ、荷台を指した。
「奥から詰めろ。荷物は通路へ置くな」
ガイルが荷台を見上げた。
「帰りの車に乗る日は、いつなんだろうな」
レイブンは先に背嚢を上げた。
「乗れ」
「はいはい」
ガイルは差し出された手を掴み、荷台へ身体を引き上げた。手のひらが痛んだのか、一瞬、眉を寄せた。
レイブンが続いて乗り込むと、二人分の場所を空けていた。
板の座席は硬かった。
それでも腰を下ろせるだけで、脚の力が抜けた。
幌の中には、すでに数人の兵士がいた。顔を伏せている者、銃の覆いを直す者、携行食をゆっくり噛む者。レイブンとガイルを見た兵士がいたが、何も尋ねなかった。
ガイルは背嚢を足元へ収め、頭を幌の支柱へ預けた。
「市街地か」
レイブンは銃を膝へ置いた。
「そう聞いた」
「壁があるなら、雨は少し防げるか」
「屋根が残っていれば」
ガイルは横を向き、レイブンを見た。
「お前まで、残っていればって言うなよ」
レイブンの口元が、わずかに緩んだ。
車体が震えた。
後部の覆いが下ろされ、外の景色が細い隙間だけになった。輸送車はゆっくり動き出し、深い轍を越えたところで荷台が大きく揺れた。
二人は同時に装具を押さえた。
ガイルの肩がレイブンへぶつかった。
「悪い」
「構わない」
隙間の向こうで、収容地点の灯りが遠ざかった。
北部の砲声は、機関と車輪の音に紛れていった。
ガイルは目を閉じた。
「着いたら起こせ」
「分かった」
少しして、隣から寝息が聞こえ始めた。
レイブンは揺れる荷台の中で、銃が滑らないよう両手を添えた。ガイルの背嚢が通路へ倒れかけたので、足で支え、自分の荷へ寄せた。
輸送車は東へ向かっていた。
次の戦線がどんな場所なのか、二人ともまだ見ていなかった。




