第80話 雨の向こうの名
第80話 雨の向こうの名
ガイルの帰還が知らされた日。
帝国軍北部方面・後方連絡壕。
午後、雨。
レイブンは、教えられた分岐をもう一度確かめた。
壁に打ちつけられた案内板は斜めに傾き、泥に汚れた矢印の先が見えにくかった。収容地点へ向かう兵士を見つけると声をかけ、同じ方向だと聞いて、その後ろへついた。
前線から遠ざかっても、足元は変わらなかった。
踏み板の継ぎ目には水が溜まり、崩れた壁の脇では、一人ずつ通るほかなかった。担架とすれ違うたびに身体を寄せ、銃が負傷者へ触れないよう押さえた。
自分で歩いていた。
連絡兵から聞いた言葉を、レイブンは何度も思い返した。
ガイルが戻ったことは確かだった。だが、歩けるというだけでは、どんな傷を負ったのかまでは分からない。本人の声を聞くまでは、背中に残った強張りが解けなかった。
壕の出口近くで、砲声が響いた。
レイブンは立ち止まり、後ろを見た。
低い雲と雨に遮られ、今離れてきた陣地は見えなかった。レンツたちはまだ、あの曲がり角にいる。
「ここを上がれば近いぞ」
前を歩いていた兵士が言った。
レイブンは向き直り、崩れかけた段を上がった。
収容地点には、屋根の残った建物と、幌を張った待機場所があった。負傷者を積んだ車両が一台出ていき、その後ろへ別の車両が入ってくる。泥に足を取られた担ぎ手が、仲間に支えられて姿勢を戻した。
レイブンは入口の兵士へ尋ねた。
「ガイル・ベッカーは」
「奥の壁際だ。衛生兵の確認を待っている」
指された方へ進んだ。
積み上げた箱の向こうに、濡れた背嚢が見えた。その脇で、大きな男が身体を前へ折り、靴の紐を緩めていた。
レイブンの足音に、男が顔を上げた。
「……来たか」
ガイルだった。
頬の傷には粗末な覆いが当てられていた。泥の乾きかけた髪が額へ張りつき、片方の袖は肘から先まで黒く汚れている。
レイブンは目の前で止まった。
「戻ったと聞いた」
「俺も、お前が残ってると聞いた」
ガイルは靴から手を離した。
二人はしばらく互いの顔を見ていた。
レイブンには、昨夜から尋ね続けた名前が、ようやく目の前の人間へ戻った気がした。
「次の分岐で待つと言っただろ」
声にすると、思っていたより険しかった。
ガイルの表情がわずかに動いた。
「待ってた」
レイブンは黙った。
「だが、砲撃で壕が潰れた。担架の兵をそこへ置いて、お前を探しには戻れなかった」
「……ああ」
「別の道へ入ったら、そっちも塞がってた。途中で何人かと合流して、運べる奴が代わりながら、ようやくここまで来た」
ガイルは両手を開いた。
手のひらに巻かれた布が、指の付け根で赤く滲んでいた。
「お前は?」
「崩れた土に押さえられた。近くの兵に引き出してもらった」
ガイルがレイブンの肩から脚まで目を動かした。
「どこをやった」
「歩ける」
「それは俺も言った。衛生兵に怒られたぞ」
レイブンは息を吐いた。
ガイルが隣の空いた箱を叩いた。
「座れ。お前まで突っ立ってると、俺が落ち着かねえ」
腰を下ろすと、脚の痛みが急にはっきりした。
ガイルが水の容器を差し出した。レイブンは受け取り、一口飲んで返した。
「担架の兵は」
「ここで引き渡した。運んでる間は、ずっと息をしてた」
「そうか」
それ以上のことは、ガイルにも分からないのだろう。レイブンは尋ねなかった。
建物の外で、誰かが車両を誘導していた。
ガイルはその声を聞きながら、箱の上へ背を預けた。
「お前の噂も聞いた」
「何を」
「塹壕の悪魔だとよ」
レイブンは容器の蓋を見た。
「俺一人で守っていたわけじゃない」
「分かってる」
ガイルの声から、軽さが消えた。
「俺がいない間も、誰かがお前の隣にいたんだな」
「レンツという兵だ」
「今度、礼を言う」
レイブンは頷いた。
入口から衛生兵が顔を出し、ガイルの名を呼んだ。
ガイルが立とうとすると、片脚が震えた。レイブンはすぐに腕を出した。
「大丈夫だ」
「分かっている」
そう答えながら、レイブンは手を離さなかった。
ガイルも、それ以上は言わなかった。
同じ午後、連邦共和国軍の北部戦線指揮所では、濡れた報告書が机の上に並べられていた。
エリシア・L・ヴォルハラムは、入口から流れ込む冷気を背に受けながら、前線から戻った兵士の説明を聞いていた。
地図には、午前中に前進した地点が書き加えられていた。しかし、その先を示す報告は途切れ途切れだった。占領した壕の一部は浸水し、使える通路は予想より少ない。負傷者の収容にも時間がかかっていた。
「帝国側に、塹壕の悪魔と呼ばれている兵がいます」
報告していた兵士が言った。
エリシアは顔を上げた。
兵士は机の向こうへ視線を向けたまま続けた。
「何度か押し込んでも、奥の曲がり角でまた撃たれます。同じ兵かどうか、全部は確認できていません。北部の壕をあちこち回っているという話も出ています」
エリシアは地図へ目を落とした。
噂には、広がるうちに姿を変えるものがある。一人の働きに、別の兵の戦闘まで重なることもある。それだけなら、彼女も聞き流せた。
「特徴は」
尋ねると、兵士がこちらを見た。
「黒髪で、黒い猫耳があります。至近距離で見た者の話では、片方の目が金色です。散弾銃を使っていました」
レイブンだ。
名前を考えるより早く、確信が来た。
エリシアは机の縁に置いた指を曲げた。
生きている。
その思いに、身体がわずかに緩んだ。ここへ来てから、彼の所在を確かめる手段はなかった。前線の名前も、部隊の動きも、彼女が知りたいことだけを教えてはくれなかった。
今ようやく届いた消息が、敵としての戦果報告だった。
「デッドエンドの猫とも呼ばれています」
兵士の声が続いた。
「最初は、大柄な兵と二人で動いていたそうです。最近の報告では、猫の兵だけが確認されています」
エリシアの指が止まった。
大柄な兵。
ガイルではないかと思った。だが、その特徴だけでは断定できない。
それでも、二人だったものが一人になったという言葉は、胸に残った。
「もう一人は、どこへ」
「不明です。別の場所へ移ったのか、倒れたのかも」
エリシアは頷いた。
聞き返せば、答えが変わるわけではなかった。
報告していた兵士の袖には、乾きかけた血がついていた。自分のものなのか、運んできた仲間のものなのか、彼女には分からない。
レイブンが生きていたことに安堵したすぐ後で、その袖が目に入った。
彼が撃った相手にも、名前がある。
彼女と同じ側に立ち、同じ雨の中を進んでいる。
「負傷者の収容は続いている?」
エリシアが尋ねると、兵士は頷いた。
「まだ前に残っています」
「その位置も伝えて。確認できているものを」
兵士は地図へ近づき、指を置いた。
エリシアはその場所を見た。レイブンがいたとされる通路の近くだった。
彼の名を呼んでしまえば、手の届く場所へ戻せるような気がした。
もちろん、そんなことはできない。
壕の向こうにいる彼へ届くのは、こちら側の声だけではない。砲弾も、銃弾も届く。
報告が終わってからも、エリシアは地図の前に残った。
「知っている兵か」
傍らの将校が尋ねた。
エリシアは顔を向けた。
「特徴の一致する人物に、心当たりがあります」
「確かなのか」
「本人を確認してはいません」
答えるとき、喉が乾いていた。
彼女の中では、もうレイブンの顔が浮かんでいた。それでも、聞いた話を直接見た事実へ変えることはできなかった。
将校は短く頷き、報告書へ目を戻した。
エリシアも自分の仕事へ戻った。
紙を押さえようとして、指が冷えていることに気づいた。両手を擦り、濡れた箇所を避けて書類を整えた。
レイブンが生きている。
それは嬉しかった。
次の攻勢でも生きていてほしい。その願いが浮かぶたび、彼のいる壕へ進む自軍の兵士たちの顔が、すぐ後から現れた。
誰にも聞こえないほど小さく、息を吐いた。
外では砲声が続いていた。
その一発がどこへ落ちたのか、エリシアには分からなかった。
帝国側の収容地点では、診察を終えたガイルが戻ってきた。
手の覆いは替えられ、片方の靴は履き直す途中だった。レイブンはその姿を見て、立ち上がりかけた身体を止めた。
「何て言われた」
「しばらく休めと」
「なら休め」
「お前は?」
「交代までに戻る」
ガイルは箱へ座り、レイブンを見上げた。
「次は、俺の場所を確かめてから行け」
レイブンはその顔を見た。
「そっちもだ」
「ああ」
ガイルが答えた。
今度は、返事がすぐ隣から聞こえた。




