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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第80話 雨の向こうの名

第80話 雨の向こうの名


ガイルの帰還が知らされた日。

帝国軍北部方面・後方連絡壕。


午後、雨。


 レイブンは、教えられた分岐をもう一度確かめた。

 壁に打ちつけられた案内板は斜めに傾き、泥に汚れた矢印の先が見えにくかった。収容地点へ向かう兵士を見つけると声をかけ、同じ方向だと聞いて、その後ろへついた。

 前線から遠ざかっても、足元は変わらなかった。

 踏み板の継ぎ目には水が溜まり、崩れた壁の脇では、一人ずつ通るほかなかった。担架とすれ違うたびに身体を寄せ、銃が負傷者へ触れないよう押さえた。

 自分で歩いていた。

 連絡兵から聞いた言葉を、レイブンは何度も思い返した。

 ガイルが戻ったことは確かだった。だが、歩けるというだけでは、どんな傷を負ったのかまでは分からない。本人の声を聞くまでは、背中に残った強張りが解けなかった。

 壕の出口近くで、砲声が響いた。

 レイブンは立ち止まり、後ろを見た。

 低い雲と雨に遮られ、今離れてきた陣地は見えなかった。レンツたちはまだ、あの曲がり角にいる。

「ここを上がれば近いぞ」

 前を歩いていた兵士が言った。

 レイブンは向き直り、崩れかけた段を上がった。

 収容地点には、屋根の残った建物と、幌を張った待機場所があった。負傷者を積んだ車両が一台出ていき、その後ろへ別の車両が入ってくる。泥に足を取られた担ぎ手が、仲間に支えられて姿勢を戻した。

 レイブンは入口の兵士へ尋ねた。

「ガイル・ベッカーは」

「奥の壁際だ。衛生兵の確認を待っている」

 指された方へ進んだ。

 積み上げた箱の向こうに、濡れた背嚢が見えた。その脇で、大きな男が身体を前へ折り、靴の紐を緩めていた。

 レイブンの足音に、男が顔を上げた。

「……来たか」

 ガイルだった。

 頬の傷には粗末な覆いが当てられていた。泥の乾きかけた髪が額へ張りつき、片方の袖は肘から先まで黒く汚れている。

 レイブンは目の前で止まった。

「戻ったと聞いた」

「俺も、お前が残ってると聞いた」

 ガイルは靴から手を離した。

 二人はしばらく互いの顔を見ていた。

 レイブンには、昨夜から尋ね続けた名前が、ようやく目の前の人間へ戻った気がした。

「次の分岐で待つと言っただろ」

 声にすると、思っていたより険しかった。

 ガイルの表情がわずかに動いた。

「待ってた」

 レイブンは黙った。

「だが、砲撃で壕が潰れた。担架の兵をそこへ置いて、お前を探しには戻れなかった」

「……ああ」

「別の道へ入ったら、そっちも塞がってた。途中で何人かと合流して、運べる奴が代わりながら、ようやくここまで来た」

 ガイルは両手を開いた。

 手のひらに巻かれた布が、指の付け根で赤く滲んでいた。

「お前は?」

「崩れた土に押さえられた。近くの兵に引き出してもらった」

 ガイルがレイブンの肩から脚まで目を動かした。

「どこをやった」

「歩ける」

「それは俺も言った。衛生兵に怒られたぞ」

 レイブンは息を吐いた。

 ガイルが隣の空いた箱を叩いた。

「座れ。お前まで突っ立ってると、俺が落ち着かねえ」

 腰を下ろすと、脚の痛みが急にはっきりした。

 ガイルが水の容器を差し出した。レイブンは受け取り、一口飲んで返した。

「担架の兵は」

「ここで引き渡した。運んでる間は、ずっと息をしてた」

「そうか」

 それ以上のことは、ガイルにも分からないのだろう。レイブンは尋ねなかった。

 建物の外で、誰かが車両を誘導していた。

 ガイルはその声を聞きながら、箱の上へ背を預けた。

「お前の噂も聞いた」

「何を」

「塹壕の悪魔だとよ」

 レイブンは容器の蓋を見た。

「俺一人で守っていたわけじゃない」

「分かってる」

 ガイルの声から、軽さが消えた。

「俺がいない間も、誰かがお前の隣にいたんだな」

「レンツという兵だ」

「今度、礼を言う」

 レイブンは頷いた。

 入口から衛生兵が顔を出し、ガイルの名を呼んだ。

 ガイルが立とうとすると、片脚が震えた。レイブンはすぐに腕を出した。

「大丈夫だ」

「分かっている」

 そう答えながら、レイブンは手を離さなかった。

 ガイルも、それ以上は言わなかった。

 同じ午後、連邦共和国軍の北部戦線指揮所では、濡れた報告書が机の上に並べられていた。

 エリシア・L・ヴォルハラムは、入口から流れ込む冷気を背に受けながら、前線から戻った兵士の説明を聞いていた。

 地図には、午前中に前進した地点が書き加えられていた。しかし、その先を示す報告は途切れ途切れだった。占領した壕の一部は浸水し、使える通路は予想より少ない。負傷者の収容にも時間がかかっていた。

「帝国側に、塹壕の悪魔と呼ばれている兵がいます」

 報告していた兵士が言った。

 エリシアは顔を上げた。

 兵士は机の向こうへ視線を向けたまま続けた。

「何度か押し込んでも、奥の曲がり角でまた撃たれます。同じ兵かどうか、全部は確認できていません。北部の壕をあちこち回っているという話も出ています」

 エリシアは地図へ目を落とした。

 噂には、広がるうちに姿を変えるものがある。一人の働きに、別の兵の戦闘まで重なることもある。それだけなら、彼女も聞き流せた。

「特徴は」

 尋ねると、兵士がこちらを見た。

「黒髪で、黒い猫耳があります。至近距離で見た者の話では、片方の目が金色です。散弾銃を使っていました」

 レイブンだ。

 名前を考えるより早く、確信が来た。

 エリシアは机の縁に置いた指を曲げた。

 生きている。

 その思いに、身体がわずかに緩んだ。ここへ来てから、彼の所在を確かめる手段はなかった。前線の名前も、部隊の動きも、彼女が知りたいことだけを教えてはくれなかった。

 今ようやく届いた消息が、敵としての戦果報告だった。

「デッドエンドの猫とも呼ばれています」

 兵士の声が続いた。

「最初は、大柄な兵と二人で動いていたそうです。最近の報告では、猫の兵だけが確認されています」

 エリシアの指が止まった。

 大柄な兵。

 ガイルではないかと思った。だが、その特徴だけでは断定できない。

 それでも、二人だったものが一人になったという言葉は、胸に残った。

「もう一人は、どこへ」

「不明です。別の場所へ移ったのか、倒れたのかも」

 エリシアは頷いた。

 聞き返せば、答えが変わるわけではなかった。

 報告していた兵士の袖には、乾きかけた血がついていた。自分のものなのか、運んできた仲間のものなのか、彼女には分からない。

 レイブンが生きていたことに安堵したすぐ後で、その袖が目に入った。

 彼が撃った相手にも、名前がある。

 彼女と同じ側に立ち、同じ雨の中を進んでいる。

「負傷者の収容は続いている?」

 エリシアが尋ねると、兵士は頷いた。

「まだ前に残っています」

「その位置も伝えて。確認できているものを」

 兵士は地図へ近づき、指を置いた。

 エリシアはその場所を見た。レイブンがいたとされる通路の近くだった。

 彼の名を呼んでしまえば、手の届く場所へ戻せるような気がした。

 もちろん、そんなことはできない。

 壕の向こうにいる彼へ届くのは、こちら側の声だけではない。砲弾も、銃弾も届く。

 報告が終わってからも、エリシアは地図の前に残った。

「知っている兵か」

 傍らの将校が尋ねた。

 エリシアは顔を向けた。

「特徴の一致する人物に、心当たりがあります」

「確かなのか」

「本人を確認してはいません」

 答えるとき、喉が乾いていた。

 彼女の中では、もうレイブンの顔が浮かんでいた。それでも、聞いた話を直接見た事実へ変えることはできなかった。

 将校は短く頷き、報告書へ目を戻した。

 エリシアも自分の仕事へ戻った。

 紙を押さえようとして、指が冷えていることに気づいた。両手を擦り、濡れた箇所を避けて書類を整えた。

 レイブンが生きている。

 それは嬉しかった。

 次の攻勢でも生きていてほしい。その願いが浮かぶたび、彼のいる壕へ進む自軍の兵士たちの顔が、すぐ後から現れた。

 誰にも聞こえないほど小さく、息を吐いた。

 外では砲声が続いていた。

 その一発がどこへ落ちたのか、エリシアには分からなかった。

 帝国側の収容地点では、診察を終えたガイルが戻ってきた。

 手の覆いは替えられ、片方の靴は履き直す途中だった。レイブンはその姿を見て、立ち上がりかけた身体を止めた。

「何て言われた」

「しばらく休めと」

「なら休め」

「お前は?」

「交代までに戻る」

 ガイルは箱へ座り、レイブンを見上げた。

「次は、俺の場所を確かめてから行け」

 レイブンはその顔を見た。

「そっちもだ」

「ああ」

 ガイルが答えた。

 今度は、返事がすぐ隣から聞こえた。

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