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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第79話 曲がり角の向こう

第79話 曲がり角の向こう


ガイルとはぐれた翌日。

帝国軍北部方面・予備陣地前縁。


午前、雨。


 塹壕の底に溜まった水へ、また一滴、ヘルメットの縁から雨が落ちた。

 レイブンはそれを見ながら、散弾銃を抱え直した。

 昨夜、ガイルの名前を何度も尋ねた。

 救護所、後退兵の集合場所、隣の部隊が使う掩蔽所。どこにも姿はなく、最後には下士官から配置へ戻れと言われた。

「分かったら知らせる。今は、お前までいなくなるな」

 レイブンはその言葉に従った。

 横になってからも、入口で人が立ち止まるたびに目を開けた。交代を告げられたとき、自分がどれほど眠れたのか分からなかった。

 今いる塹壕は、何度も掘り足されていた。

 古い射撃位置へ続く通路、崩れた場所を避けるための迂回路、物資を置いていた袋小路。曲がり角の向こうへ進んでも、すぐ別の壁に突き当たった。

 補強材には、以前の持ち主が刻んだ文字が残っていた。レイブンの肩の横には、薄い刃物で彫られた女性の名前があった。泥が詰まり、最後の一文字だけ読めなかった。

 上では連邦軍の砲撃が続いていた。

 昨日より後方へ下がったはずなのに、着弾はまた近くなっていた。

 レイブンは銃床を肩へ寄せた。濡れた布越しにも、昨日までの痛みが残っている。

 後ろにいる兵士が身を寄せてきた。

「角の先に来ている」

 名はマティアス・レンツ。朝、配置へ入ったときに名乗った兵士だった。声が小さく、言葉を交わす前に相手の顔を見る癖があった。

「味方は」

「さっき、二人戻った。それで最後だ」

 レイブンは頷いた。

 泥水を踏む音が聞こえた。

 雨の音と似ていたが、間隔が違った。レイブンは息を浅くし、壁から落ちる土を目で追った。

 曲がり角から銃口が出た。

 続いて、濡れた袖と肩が現れた。

 レイブンが撃つと、狭い壕の中で轟音が跳ね返った。相手の姿が角の向こうへ消え、銃が壁へぶつかる音がした。

 すぐに撃ち返された。

 土が顔の横で弾けた。レイブンは壁へ身を引き、レンツも頭を下げた。

 耳の奥が鳴っていた。

 相手がどうなったか、確かめる余裕はなかった。レイブンは濡れた手の感触を頼りに銃を保持し、角の先を見続けた。

 ここでは、広い射撃位置に立っていたときのように遠くを見られなかった。

 敵が姿を出すまで、顔も、人数も分からない。

 その代わり、砲弾孔の間を走る敵へ無理に散弾銃を向ける必要もなかった。入り組んだ壕が相手の姿を隠し、レイブンの姿も隠していた。

 レンツが後ろを振り返った。

「弾薬を持ってくる」

 レイブンは一瞬、そちらを見た。

 ガイルが担架を運び、曲がり角へ消えた姿が重なった。

「誰かに頼め。ここにいてくれ」

 レンツは彼の顔を見てから頷いた。

「分かった」

 後方へ呼びかける声を聞き、レイブンは前へ向き直った。

 次の敵兵は、すぐには出てこなかった。

 角の向こうで話し声がした。言葉までは分からない。やがて何かが土へ当たり、レイブンは身を縮めた。

 爆発で、レンツの姿が泥煙に隠れた。

 レイブンの背中が補強板へぶつかった。胸が詰まり、吸いかけた息を吐いた。崩れた土が腕へ落ち、銃身の上を滑った。

「レンツ」

 返事がない。

 もう一度呼ぼうとすると、肩を叩かれた。

 レンツがすぐ横にいた。唇が動いている。レイブンは聞き取れず、相手の腕を掴んで顔を確かめた。

 血は見えなかった。

 レンツも頷き返した。

 角の向こうで、足音が増えた。

 二人は後ろへ下がった。レイブンは次の曲がり角で銃を上げた。さっきまでいた場所へ敵兵が入り、煙の中で立ち止まった。

 発砲した途端、肩の痛みが首筋まで響いた。

 レイブンは歯を食いしばり、壁の内側へ戻った。

 レンツが小銃を構えていた。後方から来た兵士も、その隣で射撃を始めた。

 レイブンが息を整える間、二人が前を見ていた。

 午前中に、同じ通路を三度下がった。

 連邦兵は、そのたびに角の手前で止まるようになった。銃声が先に来て、土が崩れ、それから人影が現れた。

 レイブンも、最初と同じようには動けなかった。

 足を引き抜く力が弱くなり、銃を肩へ上げるまでに時間がかかった。雨と汗が目へ入り、拭う袖には土がついていた。

 短い間隙に弾薬を補充していると、指から一発滑った。

 泥水へ落ちたそれを見つめ、レイブンは手を止めた。

「こっちを使え」

 レンツが新しい弾を渡した。

「ありがとう」

 返事をすると、レンツは少しだけ目を上げた。

「喋れるんだな」

 レイブンは相手を見た。

「朝から喋っている」

「ほとんど、頷くだけだった」

 レンツはそれ以上言わず、角の先へ視線を戻した。

 昼近く、敵の声がはっきり聞こえるほど近づいた。

 レイブンは銃を構え、泥に半ば埋まった踏み板へ足を置いた。

「そこはやめろ! 塹壕の悪魔がいる!」

 角の向こうで誰かが怒鳴った。

 別の声が返した。

「猫だ、あの黒い猫!」

 レイブンの耳が、ヘルメットの内側でわずかに動いた。

 聞こえていたとしても、顔を出す理由にはならなかった。

 レンツが横目で彼を見た。

「お前のことらしい」

 レイブンは返事をしなかった。

 手のひらが滑るため、握り直した。

 午後、交代の兵士が弾薬を運んできた。

「向こうじゃ、デッドエンドの猫とも呼んでるそうだ」

 荷を下ろしながら、その兵士が言った。

「この壕へ入ると戻れないってな」

 レンツが鼻から息を吐いた。

「俺たちは毎回、後ろへ下がっているんだが」

「向こうからは分からんのだろう」

 レイブンは弾薬を受け取った。

 名前が増えても、守る通路は短くなっていた。朝に触れていた壁も、名前の彫られた補強材も、今は敵の側にあった。

 後ろから下士官が来た。

「交代だ。クロウ、少し休め」

 レイブンはレンツを見た。

「俺も後から行く」

 そう言われて、ようやく銃を下げた。

 掩蔽所へ戻る途中、壁にもたれて休んだ。

 脚を止めると震えが始まった。濡れた装具が肩を引き、散弾銃を抱えているだけで腕が重かった。

 通りかかった兵士が彼の顔を見て、何か言いかけた。

 レイブンは先に尋ねた。

「ガイル・ベッカーを見なかったか」

 兵士は首を振った。

 レイブンは頷き、また歩いた。

 掩蔽所で銃の泥を落としていると、入口に人影が立った。

「クロウはいるか」

 顔を上げた。

 雨衣を着た連絡兵だった。手元の紙は濡れないよう、胸の内側へ差し込まれている。

「俺だ」

「ベッカーという兵を探しているそうだな」

 布を動かしていた手が止まった。

「戻ったのか」

「後方の収容地点へ帰り着いた。担架の負傷者と、途中で合流した兵を連れている」

 レイブンは立ち上がった。

 膝がうまく伸びず、壁に手をついた。連絡兵が彼を見て、一歩近づいた。

「負傷は」

「自分で歩いていたそうだ。それ以上は聞いていない」

「どこだ」

 連絡兵は収容地点を説明した。

 レイブンは聞き終わる前に銃を吊りかけ、入口へ向かいかけた。それから足を止めた。

 配置を離れるには、許可がいる。

 下士官を探そうと振り返ると、掩蔽所の奥から声がした。

「聞こえた。次の交代までに戻れ」

 レイブンは顔を向けた。

「はい」

「銃を拭いてから行け。そんな状態で持ち歩くな」

 レイブンは自分の手元を見た。

 泥を落としかけた布が、まだ銃に絡んでいた。

 座り直し、残った汚れを拭った。指は相変わらず動きにくかったが、さっきまでとは違い、何度も入口を見てしまった。

 レンツが交代を終えて戻ってきた。

「見つかったのか」

「ガイルが戻った」

 言葉にすると、胸へ息が入った。

 レンツは壁へ銃を立てかけ、通路を空けた。

「行ってこい」

 レイブンは頷いた。

 外へ出ると、雨が顔へ当たった。砲声も、濁った水の臭いも変わらなかった。足を引き抜くたび、靴の中の皮膚が痛んだ。

 それでも、収容地点へ向かう分岐を見つけたときには、歩調が速くなっていた。

 今度は、その先にガイルがいる。

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