第78話 返事のない曲がり角
第78話 返事のない曲がり角
北部戦線到着から数日後。
帝国軍北部方面・前線陣地。
午前四時過ぎ、雨。
交代を知らせる手が肩へ触れる前に、レイブンは目を開けた。
砲撃が始まっていた。
掩蔽所の天井から土が落ち、頬に当たった。隣のガイルも身を起こし、何も言わずに銃へ手を伸ばした。二人の間に置いてあった空の容器が、床の震動で転がった。
昨日はまだ、ここまで砲弾が落ちてこなかった。
レイブンが入口へ出ると、交通壕を逆向きに歩く兵士たちと出会った。肩を借りる者、負傷者を背負う者、銃だけを抱えている者。濡れた顔の中に、前日の交代で見送った兵士がいた。
「前は?」
ガイルが尋ねた。
「右が抜かれた。俺たちの位置も、もう横から撃たれてる」
兵士はそれだけ答え、先へ進んだ。
レイブンはガイルを見た。
ガイルは短く顎を引き、前線へ向き直った。
その朝、二人が入った陣地は、到着した日にいた壕より後ろにあった。
昨日の午後にも一度下がっていた。地図の上では細い線一本の違いだったが、その線を移るために、兵士たちは負傷者と弾薬箱を運び、泥に埋まった装具を捨ててきた。
前方には、帝国軍が放棄した射撃位置が見えていた。
今はそこから撃たれている。
レイブンは壕壁へ背を寄せ、呼吸を整えた。腰から下が濡れ、靴の中では皮膚が擦れるたびに痛んだ。銃を支える手にも、前日までの疲れが残っている。
「左、頼む」
ガイルが言った。
「ああ」
説明はいらなかった。
志願兵の頃から、ガイルは先に身体を動かし、レイブンはその動きを見て空いた場所を埋めた。訓練中には互いの進路を塞ぎ、教官に怒鳴られたこともあった。今は、相手の肩がどちらへ動いたかだけで、何を見ようとしているのか分かった。
それでも、泥に足を取られることまでは防げなかった。
ガイルが射撃位置へ入ろうとして膝を崩した。レイブンはその肩を支え、代わりに銃を上げた。
向こうの壕から、連邦兵が一人出てきた。
身を屈め、砲弾孔へ走り込もうとしている。レイブンが撃つと、相手は途中で地面へ伏せた。ガイルが立ち直り、別の位置から続いて出てきた兵士へ銃口を向けた。
「戻った」
ガイルの声を聞いて、レイブンは身体を下げた。
土嚢の縫い目が裂け、肩へ土が落ちた。
ガイルもすぐ隣へ沈み込んだ。二人とも伏せる余地はなく、壁へ押しつけるようにして砲撃をやり過ごした。
「今の、近かったな」
「顔を出すな」
「出してねえよ」
返事の途中で次の着弾が来た。
ガイルの唇が動いた。今度の悪態は、音に潰されて聞こえなかった。
攻勢は午前だけでは終わらなかった。
砲撃が弱まると歩兵が来た。追い返したと思うと、別の方向から銃声が増えた。負傷者を下げている間に弾薬が運び込まれ、その荷を担いできた兵士が、帰る前に空いた射撃位置へ入った。
昼食は届かなかった。
レイブンは胸の収納から潰れた携行食を取り出し、半分をガイルへ渡した。
「まだ持ってたのか」
「食べる暇がなかった」
ガイルは濡れた包みを歯で裂いた。
二人が飲み込む前に、前方でまた叫び声が上がった。
その日の午後、連邦兵の一団が壕の近くまで来た。
雨に紛れていた姿が、崩れた土の向こうに現れた。ガイルが先に気づき、レイブンの腕を叩いた。
二人は銃を上げた。
撃ち返してきた弾が壕壁を削り、レイブンの頬へ小石が当たった。彼は一度身を下げ、目元を拭った。ガイルの射撃が続いている間に、もう一度前を見た。
敵兵が仲間の装具を掴み、砲弾孔へ引き戻していた。
その向こうから、怒鳴り声が届いた。
「またあの二人だ! 不死身のクソ野郎共め!」
ガイルがレイブンを見た。
「聞いたか」
「前を見ろ」
ガイルは口の端を動かしたが、笑うまでには至らなかった。銃を構え直す手が、細かく震えていた。
夕方、二人はその射撃位置からも下がった。
不死身と呼ばれたガイルは、交通壕の途中で吐いた。
壁へ片手をつき、空の胃から何も出なくなっても、しばらく背中を曲げていた。レイブンは傍らに立ち、通ってくる兵士へ道を空けながら待った。
「先に行け」
「まだ歩けるだろ」
「……歩ける」
ガイルは口元を拭き、銃を拾い直した。
夜には、その呼び名が味方にも伝わっていた。
「例の不死身の二人か」
弾薬を渡してきた兵士が言った。
ガイルは受け取った重さを確かめた。
「だったら、俺たちの分も飯を持ってきてくれ」
兵士は何か返そうとして、二人の顔を見た。やがて頷き、空になった箱を抱えて去った。
翌日も雨だった。
砲撃で潰れた排水溝から水が溢れ、壕底は膝近くまで浸かっていた。壁を支える木材は曲がり、どこかで常に土が崩れていた。
後退命令が届いたのは、午後になってからだった。
伝令は泥に汚れた紙を握っていたが、それを開く余裕もなく声を張った。
「後方の予備陣地へ移る! 負傷者を先に通せ! 連絡壕の西側は使えない!」
レイブンはガイルと目を合わせた。
ガイルが後ろを見た。担架が一つ、曲がり角で止まっていた。前の担ぎ手が腕を押さえ、壁にもたれている。
「俺が代わる」
ガイルは銃を吊り、担架の持ち手を掴んだ。
レイブンはその後ろへついた。
担架の上の兵士は雨衣で覆われていた。顔だけが出ていて、目は開いているのに、運んでいる者を見てはいなかった。
交通壕は人で詰まっていた。
前へ進めと怒鳴る声と、止まれという声が同時に聞こえた。弾薬箱を抱えた兵士が壁へ身体を寄せ、担架を通そうとしたが、狭くて避けきれない。
ガイルが声をかけた。
「少し上げるぞ。足元、気をつけろ」
レイブンも担架の脇を支えた。
曲がり角を一つ越えたとき、背後で射撃が激しくなった。
下士官がレイブンの肩を掴んだ。
「クロウ、ここを見ていろ。担架が抜けるまでだ」
レイブンは頷き、ガイルへ顔を向けた。
「先へ行け。追いつく」
ガイルは担架を支えたまま振り返った。
「次の分岐で待つ」
「ああ」
それが、最後にはっきり聞き取れた言葉だった。
レイブンは曲がり角へ戻った。
味方の兵士が二人、後ろ向きに下がってきた。その一人が脚を引きずっていたため、レイブンは装具を掴み、壕の奥へ引いた。
頭上で砲弾が炸裂した。
身体が壁へ押され、息が止まった。
目の前が茶色くなった。土がヘルメットを叩き、首の後ろへ入り込んだ。銃を抱えた腕ごと泥に押さえられ、レイブンは顔を横へ向けて口を開いた。
泥水を吐いた。
耳の中で、高い音が鳴っていた。
誰かが肩帯を引いている。レイブンは膝を立て、足を踏ん張ろうとしたが、靴底が滑った。もう一度引かれ、ようやく上半身が崩れた土から離れた。
助けてくれた兵士が、何か叫んでいた。
レイブンには聞こえなかった。
相手は彼の顔を覗き込み、進む方向を指した。
ガイルが行った方だった。
レイブンは頷き、壁に手をつきながら歩いた。
数歩先で、足が止まった。
壕がなくなっていた。
両側の壁が崩れ、木材と土嚢が重なっていた。濁水がその隙間へ流れ込み、担架を通した踏み板も、曲がり角も見えなかった。
「ガイル!」
声を張った。
自分の声まで遠く聞こえた。
レイブンは崩れた土へ足をかけた。向こうへ越えようとすると、胸元を掴まれた。
「上へ出るな! 撃たれるぞ!」
今度は言葉が聞こえた。
兵士が横の狭い通路を指した。
「こっちへ回れ!」
「担架が通った。大きい男が運んでいた」
「向こうにも道はある。ここじゃ分からん!」
レイブンはもう一度、土の向こうを見た。
ガイルなら、担架を置いて戻ってくるかもしれない。
戻ってきて、ここを越えようとするかもしれない。
「ガイル! 西へ回る!」
雨と砲声の中へ叫んだ。
返事を待った。
兵士がまた彼の装具を引いた。壕の縁へ銃弾が当たり、土が二人の間へ落ちた。
レイブンは身体を下げた。
そのまま迂回路へ入るしかなかった。
狭い壕には、撤退してきた兵士が次々に流れ込んでいた。逆へ行こうとすると肩がぶつかり、誰かの背嚢に銃が引っ掛かった。レイブンは顔を一人ずつ見た。
ガイルはいなかった。
予備陣地へ着いた頃には、暗くなり始めていた。
入口で兵士たちの所属と名前が確かめられていた。レイブンは自分の名を答えると、すぐに聞いた。
「ガイル・ベッカーは来ているか」
記録を取っていた兵士が紙を見た。
「ここでは聞いていない。別の入口もある」
「担架は」
「何組も来ている。救護所へ行ってみろ」
レイブンは救護所まで歩いた。
入口の覆いから水が落ち、担架を運ぶ兵士の背中へかかっていた。彼は脇へ避け、出てきた衛生兵を呼び止めた。
「ガイル・ベッカーを見なかったか。担架を運んでいた」
衛生兵は首を振った。
「顔を見れば分かるかもしれんが、名前までは……」
レイブンは中を見た。
濡れた制服、泥に汚れた包帯、壁へ立てかけられた銃。
ガイルの声はしなかった。
外へ戻ると、前線の方でまた砲撃が始まった。
レイブンはその音を聞きながら、雨の中に立った。
いつもなら、ガイルが隣にいた。
砲声の大きさを悪態で測り、歩きにくい道を罵り、レイブンが黙っていると肘で小突いてきた。
次の分岐で待つ、と言っていた。
レイブンは濡れた手を握り、ほどいた。
救護所から出てきた別の兵士へ近づいた。
「ガイル・ベッカーを探している」
声が掠れた。
彼は咳払いをして、もう一度名前を言った。




