第77話 泥の底に立つ
第77話 泥の底に立つ
北部戦線への移動当日。
帝国軍北部方面・前線補給路。
午前、雨。
輸送車が止まったとき、レイブンは初め、前方に検問所があるのだと思った。
しかし、幌の向こうから聞こえてきたのは、怒鳴り声と、空転する車輪の音だった。荷台の床が細かく震え、やがて機関の唸りだけが残った。
「……着いたか?」
隣でガイル・ベッカーが顔を上げた。眠っていたわけではない。二人とも、車体が跳ねるたびに装具を押さえ、冷えた身体を小さく揺らしながら座っていた。
「まだだ」
レイブンが答えると、後部の幌がめくられた。
「降りろ。ここから歩く」
外に立つ兵士の雨衣は、裾から腰まで泥に染まっていた。
レイブンは銃を身体へ寄せ、荷台から足を下ろした。靴底が地面に触れたと思った次の瞬間、足首まで沈んだ。身体を支えようと踏み出した反対の足も、同じ深さまで吸い込まれる。
雨が首筋へ流れた。
道と畑の境目はなくなっていた。前方の輸送車は片側へ傾き、その車輪の半分が茶色い水の中に埋まっている。兵士たちが荷物を下ろし、工兵が泥に膝をついていた。
「北部は涼しいって聞いたんだがな」
ガイルが背嚢の位置を直した。
「冷えている」
「そういう意味じゃねえよ」
返しながら、ガイルは道端に目を向けた。
泥の中から、荷車の車輪が一つだけ突き出していた。その脇には、雨に潰された紙箱と、持ち主のいない手袋が落ちている。
それ以上、冗談は続かなかった。
遠くで砲声が響いた。
低い雲の下を渡ってきた音は、雨に紛れて輪郭を失っていた。レイブンには、それがどれほど遠いのか判断できなかった。
案内の兵士は振り返らずに歩き始めた。
「前の者の足跡を踏め。道の外へ出るな」
レイブンは背嚢の肩帯を握り、沈んだ足を引き抜いた。泥が靴を離すたびに、脚の内側が痛んだ。
まだ一発も撃っていないのに、息が上がり始めていた。
交通壕の入口には、折れた板が渡されていた。
そこを下りた途端、地上で吹いていた風が消えた。代わりに、湿った土と汚水の臭いが鼻を塞いだ。壁からは細い水筋が流れ、底に敷かれた踏み板は、踏むたびに濁った水を噴いた。
すれ違う兵士の顔は、どれも似て見えた。
頬が痩せ、唇が荒れ、目の周りだけが妙に白い。銃と弾薬を抱えているため、雨衣を直す余裕もない。
一人の兵士が壁にもたれ、靴を脱ごうとしていた。隣の者が肩を貸していたが、濡れた紐がほどけないらしく、二人とも無言で手元を見ている。
ガイルがレイブンの背中に軽く触れた。
「足、気をつけろ」
「ああ」
レイブンは次の踏み板へ足を置いた。
板の端が沈み、濁水が靴の上を越えた。
前線の掩蔽所は、入口から見た以上に狭かった。
覆いの下に吊られた灯りが、濡れた顔と、壁に貼られた地図を照らしていた。地図の下には空き缶が並び、天井から落ちる雫を受けている。そのうち一つは、すでに溢れていた。
迎えた下士官は、二人の書類を短く確かめた。
「クロウ、ベッカー。荷物はそこへ。配置を説明する」
指が地図の端を押さえた。
「前の陣地は昨夜から砲撃を受けている。交代を済ませたいが、連絡壕が一部崩れた。まず通路の確保と負傷者の搬送を手伝ってもらう」
ガイルが入口を見た。
「到着早々ですね」
下士官は書類を畳んだ。
「昨日着いた連中も同じことを言った」
そこで初めて、相手の手が震えていることにレイブンは気づいた。寒さなのか、疲労なのかは分からなかった。
二人が再び壕へ出たとき、頭上を砲弾が通った。
レイブンは壁へ身体を寄せた。
着弾の衝撃が足元から伝わり、壕の縁から泥が落ちた。雨とは違う重い塊が肩とヘルメットを叩く。背後で誰かが罵った。
ガイルの口が動いていたが、言葉は聞き取れなかった。
「何だ?」
「前だ!」
ガイルが指を差した。
壕の曲がり角の先で、兵士が一人、腰まで埋まっていた。
崩れた壁の土が両脚を押さえている。上半身だけを起こし、泥に濡れた手で近くの板を掴もうとしていた。
レイブンは駆け寄ろうとして、足を取られた。
膝が水へ落ちた。銃を抱え直し、立ち上がるまでに、思っていたより長い時間がかかった。
ガイルが先に負傷兵の脇へ入った。
「こっちを見るんだ。名前は?」
「……パウル」
「パウル、俺の肩を掴め」
レイブンも反対側へ膝をついた。兵士の右脚が不自然な向きに曲がっている。
「脚を引くな。土をどける」
ガイルが頷いた。
二人は手と携帯円匙で、脚の周りの泥を取り除いた。水がすぐに穴を埋め、どこまで掘れたのか分からなくなる。パウルが叫ぶたびに、ガイルは手を止めて顔を覗き込んだ。
もう一発、近くへ落ちた。
レイブンは首を縮めた。壕壁が震え、今掘った場所へ土が滑り込んだ。
「畜生……」
ガイルが低く吐き、また泥へ手を入れた。
ようやく兵士の脚が離れたとき、レイブンの指は感覚を失いかけていた。
後ろから衛生兵が来た。
「パウル・ヘッセだな。俺が分かるか?」
兵士が小さく頷いた。
「クルトだ。今、脚を支える。二人とも、そのまま身体を押さえてくれ」
クルトの指示に従って担架へ移すと、パウルはガイルの袖を掴んだ。
「銃が……」
「後で届ける」
ガイルは泥に埋もれた小銃を拾い上げた。
「まず、お前が行け」
担架が曲がり角へ消えた直後、前方から銃声が聞こえ始めた。
案内役の兵士が走ってきた。
「前へ! 連邦兵が壕に取りついてる!」
レイブンは銃の外側についた泥を払った。袖で手を拭こうとしたが、その袖も濡れていた。
ガイルが傍らへ並んだ。
「行けるか」
「行ける」
二人は低い姿勢で進んだ。
前線の壕では、兵士が射撃位置へ弾薬箱を運んでいた。別の兵士は排水溝の泥を掻き出していたが、水は減っていなかった。
銃声の隙間に、短い指示が飛び交った。
レイブンが壕の縁から覗くと、雨の向こうに砲弾孔が並んでいた。焼けた木の幹、その根元で動く人影、途中まで倒れた鉄条網。何が地形で、何が装備なのか、ひと目では見分けられない。
銃弾が土を削った。
顔へ泥が跳ね、レイブンは目を閉じた。拭って開いたときには、さっきの人影が見えなくなっていた。
「左の木だ!」
ガイルの声で視線を戻した。
幹の陰から銃口が出ていた。
レイブンは狙いをつけて撃った。反動で銃床が肩へ食い込み、幹の脇に泥が跳ねた。相手が身を引くのが見えたが、倒れたかどうかは分からなかった。
右手の射撃位置で、味方の銃声が途切れた。
そこにいた兵士が身を屈め、濡れた弾倉を落とした。拾おうと伸ばした手を、飛んできた土が叩いた。
ガイルがその位置へ入り、代わって撃った。
レイブンは銃を構え直した。照準器についた水滴が、向こうの景色を歪めていた。
雨脚が強くなった。
見えていた木が霞み、敵の姿はさらに探しにくくなった。それでも銃弾は飛んできた。壕の縁が削られ、頭上の土嚢が破れ、中の土が兵士の背中へ流れ落ちた。
「奥へ下がれ! ここが崩れる!」
下士官の声がした。
レイブンが振り向くと、隣の兵士が壁へ肩を押しつけていた。足が踏み板の隙間に挟まっている。
レイブンは装具を掴んだ。
「ガイル、手を貸せ!」
ガイルが振り返り、兵士の反対側を支えた。二人で身体を持ち上げると、足が抜けた。そのまま後方へ押しやったとき、射撃位置の壁が崩れた。
水と土が流れ込み、さっきまで立っていた場所を埋めた。
レイブンは下がりながら息を吸った。胸が苦しかった。泥に張りついた靴は重く、ガイルの腕を掴む手にも力が入らない。
折れ曲がった壕の先で、残っていた兵士たちが二人を迎えた。
「人数を確認しろ!」
下士官が叫んだ。
返事が重なった。聞こえない名前は、もう一度呼ばれた。
レイブンもガイルの顔を見た。
頬に細い傷があり、雨で薄まった血が顎へ流れていた。
「顔」
レイブンが言うと、ガイルは手袋で触れた。
「お前もひどいぞ」
何がついているのか確かめる気力はなかった。
夕方になっても、雨は止まなかった。
交代で入った掩蔽所には、乾いた床がわずかしか残っていなかった。レイブンは壁際へ腰を下ろし、銃を膝に置いた。身体を止めた途端、震えが始まった。
ガイルが隣へ座り、背嚢を下ろした。
留め具を外そうとして、指が何度も滑った。
レイブンは黙って手を伸ばした。二人がかりで開けた背嚢の中は、端から水が染みていた。
「予備までかよ」
ガイルは濡れた布を持ち上げ、しばらく眺めた後で戻した。
入口にクルトが現れた。
「ヘッセは後送できた」
ガイルが顔を上げた。
「生きてるか」
「ああ。小銃も預かった。お前たちを探していた」
衛生兵が去ると、ガイルは背を壁へ預けた。
「……そうか」
その声だけが、少し緩んだ。
レイブンは銃についた泥を落とし始めた。布を動かすたびに指が痛んだ。灯りの下で確かめ、また拭った。
外では、踏み板を運ぶ兵士の足音が続いていた。
やがて入口から下士官が顔を出した。
「夜の交代まで休め。湯が届いた。二人で分けろ」
渡された容器から、薄く湯気が上がっていた。
ガイルが先に口をつけ、レイブンへ渡した。
「熱いうちに飲め」
レイブンは両手で容器を包んだ。
金属の温かさが、冷え切った指へゆっくり戻ってきた。飲み込むと、喉から胸へ熱が落ちていった。
隣でガイルが目を閉じた。
眠る前に、その靴の紐を緩めていることをレイブンは確かめた。自分も銃を手の届く場所へ置き、濡れた背嚢から身体を離した。
灯りの向こうで、天井から雫が落ちた。
空き缶の底を叩く音が続いていた。
次の交代までに雨が止むことを、レイブンはまだ期待していた。




