第8話 失われた右腕、変わらぬ誇り
第8話 失われた右腕、変わらぬ誇り
帝政歴三三四年、初夏。
帝国軍中央医療施設の朝は、まだ陽が昇りきらないうちから始まっていた。
白い壁に囲まれた長い廊下を、医療器具を載せた台車が静かに通り過ぎる。遠くの病室からは看護師の声が聞こえ、窓の外では軍用車両が行き交っていた。
ヴァルター・A・クロウが異界から帰還して、七日が経過していた。
右腕を失った彼の身体には、なお幾つもの傷が残っていた。
左肩から背中にかけて走る裂傷、肋骨の骨折、長期間の栄養不足による衰弱。そして、右肩の先に残された、まだ完全には塞がっていない傷口。
医療班は帰還直後から治療を続けていたが、回復には相応の時間が必要と判断していた。
ヴァルター自身も、そのことは理解していた。
理解していたつもりだった。
「……くそっ」
病室の中で、小さな声が漏れた。
床には水差しが転がり、こぼれた水が薄く広がっている。
ヴァルターは寝台の端に腰を下ろし、その光景を見つめていた。
喉が渇き、机の上の水差しへ手を伸ばした。
ただ、それだけだった。
しかし、長年右手で行ってきた動作を、身体は無意識に繰り返そうとした。
存在しない右腕を動かそうとした瞬間、身体の均衡が崩れたのである。
左手で支えようとしたが、間に合わなかった。
水差しは床へ落ち、中身がこぼれた。
それだけのことだった。
だが、ヴァルターにとっては、簡単に受け入れられる出来事ではなかった。
「……情けないな」
彼は左手を握りしめた。
戦場では、何度も危険な状況を切り抜けてきた。
若い兵士たちへ判断力の重要性を教え、どのような状況でも冷静でいるよう指導してきた。
それなのに今は、水差し一つ満足に扱えない。
ヴァルターは深く息を吐いた。
その時、病室の扉が開いた。
「……何をしているんですか、少佐」
白衣を着た軍医が立っていた。
彼は床の水差しと、寝台に腰を下ろすヴァルターを交互に見た。
「……少し、失敗した」
「見れば分かります」
軍医はため息をつき、近くにいた看護師へ声を掛けた。
「床を拭いてください。それから、新しい水を」
「はい」
看護師が頷き、手早く片づけを始める。
軍医はヴァルターへ向き直った。
「まだ一人で動き回らないようにと、昨日も説明したはずですが」
「……喉が渇いただけだ」
「それなら呼んでください」
「水を飲むたびに人を呼ぶわけにもいかんだろう」
軍医は少し眉を上げた。
「少佐」
「……何だ」
「あなたは現在、重傷患者です」
ヴァルターは黙った。
「軍人であることも、教官であることも承知しています。しかし、今のあなたに必要なのは、命令を出すことでも、無理に自立を証明することでもありません」
軍医は静かに続けた。
「治療を受けることです」
ヴァルターは視線を落とした。
「……分かっている」
「本当に?」
「……努力する」
その答えに、軍医はようやく表情を緩めた。
「それなら結構です」
軍医は診察記録を開いた。
「今日は右肩の傷を確認した後、今後の機能回復について説明します」
「……義手の話か?」
「それも含みます」
ヴァルターは顔を上げた。
軍医は頷いた。
「帝国軍の医療技術には、機械式義手と魔導補助義肢があります。ただし、あなたの場合は損傷範囲が広く、通常の義肢だけでは十分な機能回復が難しい可能性があります」
「……そうか」
「ですが、別の選択肢もあります」
ヴァルターの耳が小さく動いた。
「……別の選択肢?」
「魔力による身体機能の再構築です」
軍医は一枚の資料を取り出した。
そこには、魔導医療技術に関する研究記録が記されていた。
「現在、帝国軍医療研究部門では、失われた身体部位の機能を魔力によって補完する技術が研究されています」
ヴァルターは資料を見つめた。
「……魔力で腕を作るということか?」
「正確には、魔力を用いて失われた身体機能を再現する技術です。まだ研究段階であり、実用化には課題が残っています」
「……成功例は?」
「限定的です」
軍医は率直に答えた。
「短時間の機能補助に成功した例はあります。しかし、長時間の安定運用や複雑な動作の再現については、まだ十分な実績がありません」
ヴァルターはしばらく考え込んだ。
失った右腕。
軍人としての未来。
そして、家族との生活。
それらが、頭の中を巡っていた。
「……検討する価値はあるな」
軍医は頷いた。
「ただし、焦らないでください。まずは身体の回復が最優先です」
「分かっている」
ヴァルターは資料を閉じた。
そして、左手で静かに握りしめた。
同じ頃、クロウ家の屋敷では、レイブンが朝食を終えたところだった。
食卓にはセレナと、幼いルナの姿があった。
ルナは白い猫耳を小さく動かしながら、母の隣で食事をしている。
まだ幼い彼女は、兄ほど事情を理解していなかったが、父が長い間帰ってこなかったことだけは感じ取っていた。
「……おにいちゃん」
ルナが小さく声を掛けた。
「ん?」
「……おとうさん、きょうもいないの?」
レイブンは一瞬だけ言葉を止めた。
そして、妹へ微笑んだ。
「父さんは今、病院にいるんだよ」
「……びょういん?」
「うん。怪我を治してるんだ」
ルナは少し考え込んだ。
「……いたい?」
その問いに、レイブンは胸が締めつけられるような思いを覚えた。
父の失われた右腕。
病室で見た、傷だらけの身体。
それらが脳裏に浮かんだ。
しかし、妹を怖がらせたくはなかった。
「……今は、お医者さんが治してくれてるから」
レイブンは優しく答えた。
「きっと、少しずつ良くなるよ」
ルナは小さく頷いた。
「……はやく、かえってきてほしい」
「……うん」
レイブンは妹の頭を撫でた。
「僕も、そう思う」
セレナは二人の様子を見つめながら、静かに微笑んでいた。
しかし、彼女の胸の奥には、複雑な思いがあった。
夫が生きて帰ってきたことは、何よりも嬉しかった。
だが、右腕を失った彼が、これからどのような生活を送ることになるのか。
軍人としての仕事を続けられるのか。
家族として、どのように支えていけばよいのか。
考えなければならないことは、山ほどあった。
「……母さん」
レイブンが声を掛けた。
「なあに?」
「今日も父さんのところに行ける?」
セレナは微笑んだ。
「ええ。午後に面会の予定がありますよ」
「本当!?」
「ただし、お父さんはまだ疲れやすいので、長い時間はお話できません」
「……分かった」
レイブンは元気よく頷いた。
その様子を見たルナも、嬉しそうに耳を動かした。
「……ルナも、いく!」
セレナは小さく笑った。
「ええ。今日はみんなで行きましょうね」
午後。
帝国軍中央医療施設の病室に、柔らかな陽光が差し込んでいた。
ヴァルターは寝台の背もたれを起こし、窓の外を眺めていた。
右肩には包帯が巻かれ、左腕には点滴の管が繋がれている。
その姿は、以前の逞しい軍人とは大きく異なっていた。
しかし、表情には少しずつ落ち着きが戻っていた。
扉が軽く叩かれた。
「……どうぞ」
ヴァルターが答えると、扉が開いた。
「あなた」
セレナが顔を覗かせた。
その後ろには、レイブンとルナが立っていた。
ヴァルターは目を見開いた。
「……ルナも来たのか」
幼い少女は父の姿を見つけると、嬉しそうに声を上げた。
「……おとうさん!」
駆け寄ろうとしたルナを、セレナが優しく止めた。
「ルナ、ゆっくりね。お父さんは怪我をしているから」
「……うん」
少女は小さく頷き、慎重に寝台へ近づいた。
ヴァルターは左手を伸ばした。
「……久しぶりだな、ルナ」
少女はその手を握った。
「……おとうさん、いたい?」
ヴァルターは少しだけ微笑んだ。
「……少しな」
「……なおる?」
「ああ。時間はかかるが、良くなるように頑張るよ」
ルナは真剣な表情で頷いた。
「……ルナも、がんばる」
ヴァルターは思わず笑った。
「何を頑張るんだ?」
「……おとうさん、げんきにする」
その言葉に、ヴァルターの表情が柔らかくなった。
「……ありがとう」
彼は左手で娘の頭を撫でた。
白い猫耳が小さく動く。
ルナは嬉しそうに目を細めた。
その隣で、レイブンは父を見つめていた。
ヴァルターは息子へ視線を向けた。
「……レイブン」
「……父さん」
「どうした? 今日は随分と静かだな」
少年は少し迷った後、口を開いた。
「……父さん、腕……」
その言葉に、セレナがわずかに表情を変えた。
しかし、ヴァルターは落ち着いた声で答えた。
「ああ。右腕は、向こうで失った」
レイブンは俯いた。
「……痛かった?」
ヴァルターはしばらく考えた。
「……ああ。痛かったな」
少年の耳が伏せられる。
しかし、父は続けた。
「だが、今は医者が治療してくれている。少しずつ良くなっているところだ」
「……また、元に戻る?」
ヴァルターはすぐには答えなかった。
失った右腕が元通りになる保証は、どこにもなかった。
だが、希望が完全に失われたわけでもない。
「……同じ形に戻るかどうかは、まだ分からん」
ヴァルターは正直に答えた。
「だが、できることはある。医者と相談しながら、少しずつ考えていくつもりだ」
レイブンは小さく頷いた。
「……うん」
ヴァルターは息子の頭を撫でようとした。
しかし、無意識に右腕を動かそうとして、わずかに身体を止めた。
その動きに、レイブンは気づいた。
少年は一瞬だけ父を見つめた。
そして、自分から父の左手へ頭を近づけた。
「……こっちでも、いいよ」
ヴァルターは目を見開いた。
レイブンは少し照れたように笑った。
「……父さんの手、ちゃんとあるから」
その言葉に、ヴァルターはしばらく何も言えなかった。
やがて、ゆっくりと左手を伸ばし、息子の頭を撫でた。
「……そうだな」
彼は静かに微笑んだ。
「……ありがとう、レイブン」
セレナはその光景を見つめながら、目元を押さえた。
ルナも兄の真似をするように、父の左手へ小さな頭を寄せた。
「……ルナも」
ヴァルターは思わず笑った。
「分かった、分かった」
彼は左手で二人の頭を交互に撫でた。
病室には、久しぶりに家族の笑い声が響いた。
その日の夕方。
家族が帰った後、ヴァルターは病室で一人、窓の外を眺めていた。
夕陽が遠くの建物を赤く染め、空には薄い雲が流れている。
彼は左手を見つめた。
これからの人生。
軍人としての未来。
そして、家族との生活。
失った右腕は戻らないかもしれない。
だが、だからといって、すべてを失ったわけではなかった。
セレナがいる。
レイブンがいる。
ルナがいる。
そして、帰るべき家がある。
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……まだ、終わっていないな」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく病室に落ちた。
彼は机の上に置かれた資料へ視線を向けた。
魔導医療研究部門から渡された、身体機能再構築技術に関する報告書。
そこには、失われた身体部位を魔力で補完する可能性が記されていた。
成功する保証はない。
だが、挑戦する価値はある。
ヴァルターは左手で資料を開いた。
そして、一頁ずつ読み始めた。
その目には、かつて兵士たちを指導していた頃と同じ、静かな意志が宿っていた。
夜。
クロウ家の屋敷では、レイブンが自室の机に向かっていた。
手帳には、今日の出来事が書き込まれている。
『父さんに会った。
右腕がなくなっていた。
でも、父さんは笑っていた。
僕とルナの頭を、左手で撫でてくれた。
父さんは、やっぱり強い。』
少年はそこまで書くと、しばらく考え込んだ。
そして、最後に一文を付け加えた。
『僕も、父さんみたいに強くなりたい。』
書き終えたレイブンは、満足そうに頷いた。
窓の外では、初夏の夜風が木々を揺らしている。
少年は手帳を閉じ、寝台へ向かった。
父が帰ってきた。
右腕を失い、以前とは違う姿になっていた。
それでも、父は父だった。
そのことが、レイブンにとって何よりも嬉しかった。
やがて、少年は静かな寝息を立て始めた。
その頃、帝国軍司令部では、異界門に関する新たな報告書が作成されていた。
先遣調査班の生存者から得られた情報。
未知の土地。
異なる魔力体系。
そして、門の向こう側に存在する文明の痕跡。
それらは、帝国の軍事研究と外交政策に大きな影響を与える可能性を秘めていた。
だが、その詳細が一般に知られることは、まだなかった。
帝国軍は情報を慎重に管理し、今後の調査方針を検討していた。
そして、国境の向こうでは、連邦共和国軍の活動が依然として続いていた。
世界は、少しずつ変わり始めていた。
その変化が、クロウ家の未来へどのような影響を及ぼすのか。
まだ、誰にも分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
ヴァルター・A・クロウは、右腕を失ってなお、立ち上がろうとしていた。
そして、その背中を見つめる一人の少年もまた、静かに成長し始めていた。
失われたものは、確かに大きかった。
しかし、守りたいものは、まだ彼の手の届く場所にあった。
その思いが、やがてクロウ家の運命を大きく動かしていくことになる。




