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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第一章 クロウ家の記憶
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第9話 黒鴉の継承者

第9話 黒鴉の継承者


 帝政歴三三四年、晩夏。

 帝国北部の山々を吹き抜ける風に、少しずつ秋の気配が混じり始めていた。

 クロウ家の屋敷では、長い間閉ざされていた書斎の窓が、久しぶりに大きく開け放たれていた。

 窓辺のカーテンが風に揺れ、机の上に置かれた書類の端をわずかに持ち上げる。壁には帝国と周辺諸国の地図が掲げられ、書棚には軍事学、歴史、法律、魔導工学に関する書物が整然と並んでいた。

 その机の前で、ヴァルター・A・クロウは一通の書類を読んでいた。

 帝国軍中央医療施設を退院してから、二週間。

 彼の身体にはまだ傷が残り、医師からも長時間の活動を控えるよう指示されていた。

 右腕を失った身体は、以前とは明らかに違っていた。

 朝、衣服を着替えるだけでも時間がかかる。書類を押さえながら文字を書くことも難しく、長年当たり前に行ってきた動作を一つずつ覚え直さなければならなかった。

 それでも、ヴァルターは少しずつ日常を取り戻そうとしていた。

 左手に握った万年筆が、紙の上をゆっくりと動く。

 以前のような整った筆跡ではない。

 だが、彼は何度書き損じても手を止めなかった。

「……三枚目か」

 机の端には、書き損じた用紙が重ねられていた。

 ヴァルターはそれを見つめ、小さく苦笑した。

「士官学校の筆記試験より苦労するとはな」

 その時、書斎の扉が軽く叩かれた。

「あなた、入ってもよろしいですか?」

「もちろんだ」

 扉が開き、セレナが姿を見せた。

 白い猫耳を持つ彼女は、両手に紅茶の載った盆を持っている。

「また書類ですか?」

「ああ。軍へ提出する報告書だ」

「お医者様から、休養を優先するように言われているでしょう?」

「分かっている。あと少しで終わる」

 セレナは机の上に積まれた書き損じの用紙を見た。

「……その『あと少し』を、昨日も聞いた気がしますけれど」

 ヴァルターは苦笑した。

「手厳しいな」

「あなたが無理をなさるからです」

 セレナは紅茶を机に置くと、夫の隣へ腰を下ろした。

 その視線が、自然と彼の右肩へ向かう。

 かつて右腕があった場所には、衣服の袖が丁寧に留められていた。

 彼女はしばらくそこを見つめた後、静かに口を開いた。

「……少しは慣れましたか?」

 ヴァルターは左手を見つめた。

「身体の使い方には、まだ慣れないな」

「そうですか」

「だが、以前よりは良くなっている。少なくとも、今朝は水差しを落とさずに済んだ」

 セレナは思わず笑った。

「それは良かったです」

「笑うところか?」

「ええ。あなたがそうやって冗談を言えるようになったことが、嬉しいんです」

 ヴァルターは妻を見つめた。

 そして、静かに微笑んだ。

「……心配を掛けたな」

「本当に」

 セレナは夫の左手を握った。

「もう、三か月も消息を絶つようなことはしないでください」

「……できる限り、そうする」

「そこは『絶対に』と言ってほしいところですけれど」

 ヴァルターは少しだけ目を伏せた。

「守れる保証のない約束は、したくない」

 その答えに、セレナは黙った。

 軍人の妻として、彼の言葉が何を意味するのか理解していた。

 だからこそ、彼女は左手を握る力を少し強めた。

「……では、一つだけ約束してください」

「何だ?」

「一人で抱え込まないこと」

 ヴァルターが顔を上げた。

「右腕のことも、軍のことも、あちらで経験したことも。全部一人で解決しようとしないでください」

 彼女は真っ直ぐに夫を見つめた。

「あなたには、家族がいるんですから」

 ヴァルターはしばらく何も言わなかった。

 やがて、ゆっくりと頷いた。

「……ああ。約束する」

 セレナは安堵したように微笑んだ。

 その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。

「父さん!」

 扉が勢いよく開いた。

 黒髪と黒い猫耳を持つ少年、レイブン・S・クロウが姿を現した。

 手には一冊の古い本を抱えている。

「父さん、これ見て!」

 ヴァルターは息子へ顔を向けた。

「どうした、そんなに慌てて」

「図書室で見つけたんだ!」

 レイブンは机の前まで駆け寄り、本を差し出した。

 表紙には、帝国の古い紋章と、黒い鳥を描いた意匠が刻まれていた。

 ヴァルターはその本を見た瞬間、わずかに表情を変えた。

「……それを、どこで?」

「おじいちゃんの本が置いてある棚!」

 セレナも表紙へ目を向けた。

「……クロウ家の家史ですね」

 ヴァルターはゆっくりと本を受け取った。

 その表紙には、古い文字で一つの題名が記されていた。

 『クロウ家家門史――黒鴉の名を継ぐ者たち』

 レイブンは期待に満ちた瞳で父を見つめた。

「父さん、これって僕たちの家の本だよね?」

「ああ」

「じゃあ、黒鴉って何?」

 ヴァルターは本の表紙へ視線を落とした。

 黒鴉。

 それはクロウ家が長い年月をかけて受け継いできた象徴だった。

 しかし、その名に込められた意味は、単なる家門の誇りではなかった。

「……そうだな」

 ヴァルターは本を机に置いた。

「今日は、その話をしてやろう」

 レイブンの猫耳が、嬉しそうに立ち上がった。

「本当!?」

「ああ。ただし、少し長い話になるぞ」

「大丈夫!」

 少年は急いで椅子を引き寄せた。

 セレナはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。

 そして、夫の前へ紅茶を置き直した。

「それなら、私も一緒に聞かせていただきますね」

 ヴァルターは二人を見つめた。

 かつて父アルベルトから教わった言葉が、静かに蘇ってくる。

 クロウ家の名を継ぐこと。

 黒鴉の紋章を背負うこと。

 そして、その名を返上する覚悟を持つこと。

 それらは、幼い息子にも、いつか伝えなければならないことだった。

 ヴァルターは家門史の最初の頁を開いた。

「……レイブン。まず、一つ聞こう」

「うん?」

「お前は、クロウ家がどうして《黒鴉》を紋章にしていると思う?」

 少年は少し考えた。

「……名前がクロウだから?」

 セレナが小さく笑った。

 ヴァルターも口元を緩めた。

「確かに、それも関係しているな」

「違うの?」

「それだけではない」

 彼は古い紋章へ指先を向けた。

「黒鴉は、古くから戦場や荒野に姿を現す鳥として語られてきた。だから、不吉なものだと考える人々もいた」

「……不吉?」

「ああ。死や戦争を連想する者もいたそうだ」

 レイブンは表紙の黒い鳥を見つめた。

「……じゃあ、どうしてそんな鳥を選んだの?」

 ヴァルターは静かに答えた。

「我々の祖先は、誰もが目を背けたがる場所にも、向き合わなければならない現実があると考えたからだ」

 少年は首を傾げた。

「……どういうこと?」

「例えば、戦争が終わった後の土地だ」

 ヴァルターはゆっくりと言葉を続けた。

「戦いが終われば、勝った者は祝福される。だが、その場所には家を失った者や、家族を亡くした者が残されることもある」

 レイブンは黙って聞いていた。

「クロウ家の祖先は、そうした人々を見捨てないことを誓った。華やかな勝利だけを見るのではなく、その後に残された責任にも向き合う。その覚悟を、黒鴉という象徴に託したんだ」

 少年はもう一度、紋章を見つめた。

 黒い翼を広げた鳥。

 その姿が、先ほどとは少し違って見えた。

「……じゃあ、黒鴉は悪い鳥じゃないんだね」

「少なくとも、我々の家ではそう考えている」

 ヴァルターは頷いた。

「ただし、紋章を掲げているだけで立派な人間になれるわけではない」

 その声が、少しだけ厳しくなった。

「大切なのは、その名に恥じない行いをすることだ」

 レイブンは真剣な表情で頷いた。

「……うん」

 ヴァルターは頁をめくった。

 そこには、歴代の当主たちの肖像と、家門の歴史が記されていた。

 やがて、一人の男性の肖像が現れた。

 黒い猫耳を持ち、厳格な表情を浮かべた人物。

 その下には、名前が刻まれていた。

 アルベルト・A・クロウ。

 第十四代クロウ家当主。

 ヴァルターの父であり、レイブンの祖父だった。

「おじいちゃんだ!」

 レイブンが声を上げた。

「ああ」

 ヴァルターは微笑んだ。

「父さんがまだお前くらいの年頃だった時、祖父さんから何度もこの本を読まされたものだ」

「父さんも?」

「もちろんだ」

「……難しくなかった?」

「難しかったな。特に家憲の解釈は、何度聞いても分からなかった」

 レイブンは少し驚いたように目を見開いた。

「父さんでも分からないことがあったの?」

「山ほどあったさ」

 ヴァルターは笑った。

「今でも、分からないことはある」

 その言葉に、少年は少し安心したようだった。

 父は何でも知っていて、何でもできる。

 これまで、そう思っていた。

 だが、異界から帰還した父は右腕を失い、今も新しい生活に慣れようとしている。

 そして、そんな父にも、分からないことがある。

 それはレイブンにとって、不思議でありながら、どこか嬉しい発見でもあった。

 ヴァルターは次の頁を開いた。

 そこには、クロウ家の家憲の一節が記されていた。

 《黒鴉の返上》

 レイブンはその文字を声に出して読んだ。

「……こくあの、へんじょう?」

「黒鴉の返上、だ」

「……返上って?」

「与えられたものや、持っている資格を返すことだ」

 少年は首を傾げた。

「……黒鴉を返すの?」

「そうだ」

 ヴァルターは静かに頷いた。

「クロウ家には、家門の名誉よりも優先しなければならないものがあると考える伝統がある」

「……何を?」

「責任と、公平さ。そして、自分の意思で正しいと思う道を選ぶことだ」

 レイブンはしばらく考え込んだ。

「……でも、クロウ家の人なら、クロウ家を守らないといけないんじゃないの?」

「もちろん、家族や家門を大切にすることは必要だ」

 ヴァルターは答えた。

「だが、もしクロウ家の名を守るために、誰かを不当に傷つけなければならないとしたら?」

 レイブンは顔を上げた。

「……それは、駄目だと思う」

「そうだな」

「でも、家の人に命令されたら?」

 ヴァルターは息子を見つめた。

「その時こそ、自分で考えなければならない」

 そして、はっきりと告げた。

「クロウ家の名が間違った行いを求めるなら、その名を返してでも拒む。それが《黒鴉の返上》に込められた考え方だ」

 レイブンは驚いたように目を見開いた。

「……クロウ家をやめてもいいの?」

「家族の絆まで捨てろという意味ではない」

 ヴァルターは静かに説明した。

「家門の地位や権威を失うことになっても、自分の良心を裏切らないということだ」

 セレナは隣で頷いた。

「お父さんが教えたいのは、名前よりも行いが大切だということですよ」

 レイブンは二人を交互に見つめた。

 そして、小さく頷いた。

「……分かった」

 ヴァルターは微笑んだ。

「今すぐ全部理解する必要はない。大きくなってから、何度でも考えればいい」

 少年はもう一度、家門史へ視線を落とした。

 黒い鳥の紋章。

 歴代当主たちの名前。

 そして、《黒鴉の返上》という言葉。

 それらはまだ難しかったが、何か大切なことが書かれているのだと感じていた。

 その時、書斎の扉が静かに開いた。

「……おにいちゃん?」

 幼い声が聞こえた。

 振り返ると、白い猫耳を持つルナが立っていた。

 両手には、小さな布製の人形を抱えている。

「ルナ?」

 レイブンが顔を上げた。

 ルナは部屋の中を見回し、父を見つけると嬉しそうに笑った。

「……おとうさん!」

 ヴァルターは左手を伸ばした。

「おいで、ルナ」

 少女は小さな足音を立てて駆け寄った。

 セレナが抱き上げ、ヴァルターの隣へ座らせる。

 ルナは父の右肩を一度見つめた後、左手を握った。

「……おとうさん、ほん?」

「ああ。レイブンと、家の歴史を勉強していたところだ」

「……ルナも?」

「もちろんだ」

 ヴァルターは微笑んだ。

「お前もクロウ家の一員だからな」

 ルナは嬉しそうに頷いた。

 レイブンは妹へ本を見せた。

「ほら、これが黒鴉だよ」

 ルナは表紙の鳥を見つめた。

「……くろい、とり?」

「そう!」

 レイブンは少し得意げに説明を始めた。

「黒鴉はね、みんなが嫌がる場所でも、ちゃんと人を助けるんだって!」

 ヴァルターは息子の言葉を聞き、静かに微笑んだ。

 完全に正確な説明ではなかったが、大切な部分は伝わっているようだった。

 ルナはしばらく鳥の絵を見つめた。

 そして、小さく呟いた。

「……かっこいい」

 レイブンは嬉しそうに笑った。

「でしょ!」

 セレナも微笑んだ。

 書斎には、久しぶりに家族の穏やかな笑い声が響いた。

 その日の午後。

 クロウ家の屋敷に、一台の黒い乗用車が到着した。

 門番が車両を確認し、使用人が玄関へ向かう。

 車から降りてきたのは、年配の男性だった。

 黒い猫耳と、年齢を重ねてもなお鋭さを失わない眼差し。

 上質な外套を身につけ、その立ち姿には長年家門を率いてきた者特有の威厳があった。

 第十四代クロウ家当主。

 アルベルト・A・クロウである。

 彼は屋敷を見上げ、静かに息を吐いた。

「……久しぶりだな」

 執事が玄関から姿を現した。

「アルベルト様。お待ちしておりました」

「ヴァルターは?」

「書斎におられます」

「そうか」

 アルベルトは頷いた。

「まずは、息子の顔を見せてもらおう」

 その声には、普段の厳格さとは異なる、わずかな安堵が滲んでいた。

 彼もまた、ヴァルターが消息を絶った三か月間、眠れない夜を過ごしていた一人だった。

 家門の当主として。

 そして、一人の父親として。

 息子の帰還を待ち続けていたのである。

 書斎の扉が叩かれた。

「ヴァルター様。アルベルト様がお見えです」

 ヴァルターは顔を上げた。

「……父上が?」

 セレナも驚いたように立ち上がった。

 レイブンの耳がぴんと立つ。

「おじいちゃん!?」

 扉が開き、アルベルトが姿を現した。

「……久しぶりだな、ヴァルター」

 ヴァルターは立ち上がろうとした。

 しかし、その動きを見たアルベルトが静かに手を上げた。

「座っていろ」

「……父上」

「医師から、まだ無理をするなと言われているそうだな」

 ヴァルターは苦笑した。

「……耳が早いですね」

「お前の父親だからな」

 アルベルトはそう答え、ゆっくりと息子へ近づいた。

 そして、失われた右腕へ視線を向けた。

 しばらく沈黙が続いた。

 ヴァルターは何も言わなかった。

 アルベルトも、すぐには言葉を発しなかった。

 やがて、年老いた当主は静かに口を開いた。

「……よく帰ってきた」

 その一言に、ヴァルターの表情が変わった。

「……父上」

「三か月も待たせおって」

 アルベルトの声は、いつもより少し低かった。

「こちらがどれほど心配したと思っている」

 ヴァルターは目を伏せた。

「……申し訳ありません」

「謝るな」

 アルベルトは即座に答えた。

「生きて帰ってきた息子に、謝罪など求めておらん」

 そして、左手を差し出した。

 ヴァルターはその手を握った。

 父と息子。

 二人の間に、しばらく言葉はなかった。

 やがて、アルベルトは静かに頷いた。

「……本当に、よく帰った」

 ヴァルターは小さく息を吐いた。

「……ただいま戻りました、父上」

 その光景を見つめていたセレナは、静かに目元を押さえた。

 レイブンも、父と祖父を交互に見つめていた。

 そして、ふと気づいた。

 普段は何事にも動じない父が、今は少しだけ安心したような顔をしている。

 その表情は、レイブンが父に抱きしめられた時の自分と、どこか似ていた。

 少年は小さく呟いた。

「……父さんも、おじいちゃんの子供なんだ」

 セレナが思わず笑った。

 ヴァルターも、アルベルトも、同時に少年へ顔を向けた。

「……当然だろう」

 ヴァルターが苦笑する。

 レイブンは首を傾げた。

「でも、父さんって大人だから」

 アルベルトはしばらく息子と孫を見比べた。

 そして、珍しく声を上げて笑った。

「はははっ! なるほど、そういうことか!」

 ヴァルターは少し困ったように笑った。

「……父上」

「いや、良い。実に良い質問だ」

 アルベルトはレイブンへ視線を向けた。

「レイブン。人はいくつになっても、誰かの子供であることに変わりはない」

 少年は真剣に聞いていた。

「……じゃあ、おじいちゃんも?」

「もちろんだ」

「……おじいちゃんのお父さんも?」

「ああ」

 レイブンは少し考えた。

 そして、嬉しそうに笑った。

「……なんだか、すごいね!」

 その言葉に、家族全員が笑った。

 アルベルトは孫の頭を撫でた。

「……お前も、随分と大きくなったな」

「うん!」

「勉強はしているか?」

「してる!」

「ほう。何を?」

 レイブンは机の上の本を指差した。

「これ!」

 アルベルトは表紙を見た。

 その瞬間、表情がわずかに変わった。

「……家門史か」

 ヴァルターが頷いた。

「先ほど、レイブンに黒鴉の由来を教えていたところです」

「そうか」

 アルベルトはゆっくりと本へ手を伸ばした。

 そして、表紙を撫でた。

「……懐かしいな」

 彼はヴァルターへ視線を向けた。

「お前にも、同じ話をしたものだ」

「ええ。何度も聞かされました」

「理解するまでに、随分と時間がかかったな」

 ヴァルターは苦笑した。

「……否定はしません」

 アルベルトは小さく笑った。

 そして、レイブンへ顔を向けた。

「レイブン」

「はい!」

「お前は、将来クロウ家の当主になりたいか?」

 突然の問いに、少年は目を丸くした。

「……当主?」

「ああ。この家を率いる者だ」

 レイブンは少し考え込んだ。

 そして、首を傾げた。

「……分からない」

 アルベルトは静かに頷いた。

「それでいい」

「……いいの?」

「ああ」

 彼は穏やかに答えた。

「まだ幼いお前が、今すぐ将来を決める必要はない」

 レイブンは少し安心したようだった。

 アルベルトは続けた。

「ただし、覚えておきなさい。クロウ家の名を継ぐことと、自分の人生を選ぶことは、必ずしも同じではない」

 少年は真剣な表情で聞いていた。

「家門には責任がある。しかし、その責任を果たす方法は一つではない」

 アルベルトはヴァルターへ視線を向けた。

「お前の父も、かつて自分の意思で軍人の道を選んだ」

 ヴァルターは静かに頷いた。

「……はい」

「私はその選択を尊重した。そして、今も間違っていなかったと思っている」

 レイブンは父を見つめた。

 右腕を失い、それでも前を向こうとしている父。

 その姿が、少年の目には以前よりも大きく見えた。

 アルベルトは続けた。

「レイブン。強さとは、他人に勝つことだけではない」

 少年が顔を上げる。

「……じゃあ、何?」

「自分が正しいと思うことを、困難な時にも見失わないことだ」

 その言葉は、静かな書斎に深く響いた。

 ヴァルターは父を見つめた。

 かつて自分が少年だった頃、同じ言葉を聞いた記憶があった。

 そして今、その言葉が息子へ受け継がれようとしている。

 レイブンはしばらく考え込んだ。

 やがて、小さく頷いた。

「……分かった」

 アルベルトは微笑んだ。

「よろしい」

 その日の夕方。

 クロウ家の庭園では、レイブンが一人で走っていた。

 以前、父と競走した道。

 大きな木まで続く芝生の小径。

 少年はそこを何度も往復していた。

 しかし、今日は父と競走するためではなかった。

 自分自身の足で、どこまで走れるのかを確かめたかったのである。

 息を切らしながら木の前へ到着すると、レイブンは膝に手をついた。

「……はぁ……はぁ……」

 黒い猫耳が汗で少し伏せられ、尻尾がゆっくりと揺れている。

 少年は顔を上げた。

 屋敷の二階。

 父の書斎の窓が見えた。

 そこには、ヴァルターとアルベルトが並んで立っていた。

 二人は庭園を見下ろしながら、何かを話している。

 レイブンは小さく笑った。

「……父さん」

 そして、もう一度走り始めた。

 その姿を、ヴァルターは窓辺から見つめていた。

「……元気なものだな」

 隣に立つアルベルトが呟いた。

「ええ」

 ヴァルターは微笑んだ。

「最近は、毎日のように走っています」

「お前の影響か?」

「……おそらく」

 アルベルトは小さく笑った。

 そして、息子の右肩へ視線を向けた。

「……ヴァルター」

「はい」

「今後のことは、考えているのか?」

 ヴァルターはしばらく黙っていた。

 やがて、静かに答えた。

「……軍から、身体機能再構築技術の研究協力を打診されています」

「魔導医療か」

「はい。まだ研究段階ですが、失われた右腕の機能を補える可能性があるそうです」

 アルベルトは頷いた。

「……それで?」

「参加するつもりです」

 ヴァルターは窓の外を見つめた。

「成功する保証はありません。ですが、できることがあるなら試したい」

 アルベルトはしばらく息子を見つめた。

「……軍へ戻るためか?」

 ヴァルターは少し考えた。

「それもあります」

 そして、静かに続けた。

「ですが、それだけではありません」

「……ほう」

「レイブンとルナに、諦めずに前へ進む姿を見せたいんです」

 アルベルトは目を細めた。

 ヴァルターは続けた。

「右腕を失ったことは変えられません。ですが、その後の人生をどう生きるかは、まだ自分で選べる」

 その言葉に、アルベルトは静かに頷いた。

「……そうか」

 そして、息子の左肩へ手を置いた。

「ならば、進みなさい」

 ヴァルターは顔を向けた。

「……父上」

「お前が自分で選んだ道なら、私はそれを尊重する」

 アルベルトは穏やかに微笑んだ。

「ただし、家族を置き去りにするなよ」

 ヴァルターは苦笑した。

「……セレナにも同じことを言われました」

「当然だ」

 アルベルトは笑った。

「お前は昔から、一度決めると周りが見えなくなるところがある」

「……耳が痛いですね」

 二人は小さく笑った。

 窓の外では、レイブンが再び庭園を走っていた。

 夕陽が芝生を赤く染め、少年の影が長く伸びている。

 その姿を見つめながら、ヴァルターは静かに呟いた。

「……あの子が、どんな大人になるのか」

 アルベルトが隣で頷いた。

「楽しみだな」

「ええ」

 ヴァルターは微笑んだ。

「……本当に」

 夕食の時間が近づく頃、レイブンは庭園から戻ってきた。

 玄関で靴を脱ぎ、汗を拭いながら廊下を進むと、食堂から楽しそうな話し声が聞こえてきた。

 扉を開けると、そこには父と母、祖父、そして妹のルナが揃っていた。

「レイブン、遅かったな」

 ヴァルターが声を掛けた。

「ごめんなさい! あと一回だけ走ろうと思ったら、遅くなっちゃった」

「その『あと一回』が何回続いた?」

「……四回」

 アルベルトが笑い声を上げた。

「はははっ! ヴァルター、お前にそっくりだな!」

「……否定できませんね」

 ヴァルターも苦笑した。

 セレナはレイブンへ手拭いを渡した。

「まずは手を洗ってきなさい。汗もきちんと拭くんですよ」

「はーい!」

 少年は元気よく返事をし、洗面室へ向かった。

 しばらくして戻ってくると、食卓には温かな料理が並べられていた。

 焼きたてのパン。

 野菜と肉を煮込んだスープ。

 香草を添えた魚料理。

 そして、ルナのために小さく切り分けられた果物。

 家族全員が席につく。

 ヴァルターは左手で食器を扱いながら、時折動きを止めた。

 以前なら何も考えずにできたことが、今は難しい。

 しかし、誰も急かさなかった。

 セレナは必要な時だけ手を貸し、アルベルトは普段と変わらない調子で息子へ話し掛けた。

 レイブンも、父の動きをじっと見つめることはしなかった。

 ただ、父が困っている時には、手の届く場所へ食器を寄せた。

「……ありがとう、レイブン」

 ヴァルターが小さく言った。

「ううん」

 少年は笑った。

「父さんが僕にしてくれたことと、同じだよ」

 ヴァルターは息子を見つめた。

 そして、静かに微笑んだ。

「……そうか」

 食卓には再び会話が戻った。

 ルナが祖父に人形を見せ、アルベルトが大真面目な顔でその名前を尋ねる。

 レイブンは昼間に読んだ家門史の話を始め、ヴァルターは息子の説明を時折補足した。

 セレナはそんな家族を見渡し、穏やかに目を細めた。

 三か月前には、二度と訪れないかもしれないと思っていた光景だった。

 夫がいて、子供たちが笑い、家族が同じ食卓を囲んでいる。

 失われたものは、確かにあった。

 しかし、取り戻せたものも、ここにはあった。

 夕食を終えた後、レイブンは祖父に呼び止められた。

「レイブン。少しよいか」

「うん?」

 アルベルトは外套の内側から、小さな箱を取り出した。

 濃紺の布で覆われた、古い木箱だった。

「これは、お前に預けておこう」

 レイブンは驚いたように箱を見つめた。

「……僕に?」

「ああ。ただし、贈り物というよりは、預かり物だ」

 少年は両手で箱を受け取った。

 蓋を開けると、中には黒い鴉を模した小さな金属製の徽章が収められていた。

 翼を広げた黒鴉の下には、古い帝国語で短い言葉が刻まれている。

 レイブンは文字を目で追った。

「……これ、何て書いてあるの?」

 アルベルトは孫の隣へ腰を下ろした。

「『名誉より責任を』と書いてある」

「……名誉より、責任?」

「そうだ」

 アルベルトは静かに続けた。

「その徽章は、かつて私が父から預かったものだ。お前の父にも、同じように見せたことがある」

 レイブンは父へ顔を向けた。

 ヴァルターは懐かしそうに頷いた。

「覚えている。父上から渡された時、私はすぐに制服へつけようとした」

「そうだったな」

 アルベルトは笑った。

「だが、私は止めた。徽章を身につけることと、その意味を理解することは別だからだ」

 レイブンは手の中の徽章を見つめた。

「……じゃあ、僕もまだつけちゃ駄目?」

「駄目というわけではない。だが、今は大切に保管しておきなさい」

 アルベルトは穏やかに答えた。

「いつか、お前自身がこの言葉の意味を理解したと思えた時に、もう一度見せてほしい」

「……その時は?」

「その時は、お前が何を考え、どんな道を選んだのか、聞かせてもらおう」

 レイブンはしばらく徽章を見つめた。

 黒い翼。

 小さな身体。

 そして、刻まれた言葉。

 やがて、少年は箱の蓋を丁寧に閉じた。

「……分かった。大切にする」

 アルベルトは満足そうに頷いた。

「それでいい」

 夜が更け、祖父が客室へ引き上げた後。

 レイブンは自室の机に向かっていた。

 机の上には、昼間に読んだ家門史と、祖父から預かった小さな箱が並んでいる。

 少年は日記帳を開いた。

 そして、今日の出来事を一つずつ書き始めた。

『今日は、おじいちゃんが来た。

 父さんとおじいちゃんが、黒鴉の話をしてくれた。

 黒鴉は、強いだけじゃ駄目なんだって。

 困っている人を見捨てないこと。

 間違っていることを、間違っていると言えること。

 それから、自分で考えて決めること。

 おじいちゃんから、黒鴉の徽章を預かった。

 いつか、この意味が分かるようになりたい。』

 そこまで書くと、レイブンは少し考えた。

 そして、最後に一文を付け加えた。

『父さんが帰ってきてくれて、本当に良かった。』

 少年は万年筆を置いた。

 窓の外では、虫の声が静かに響いている。

 レイブンは机の上の箱を開き、もう一度だけ徽章を見つめた。

「……黒鴉、か」

 小さく呟く。

 その名が、いつか自分自身の人生と深く結びつくことになるとは、まだ知らなかった。

 少年は箱を閉じ、引き出しの奥へ大切にしまった。

 同じ頃。

 帝国軍中央司令部では、一通の機密報告書が上級将校の机へ届けられていた。

 表紙には、厳重な取扱区分が記されている。

 《異界門事案――帰還者証言に基づく第一次総合評価》

 報告書には、ヴァルターを含む先遣調査班の証言が整理されていた。

 未知の土地に存在した集落。

 帝国の魔導技術とは異なる術式。

 複数の知的種族。

 そして、調査班が遭遇した武装勢力。

 いずれも、帝国の従来の世界認識を大きく変える可能性を秘めた情報だった。

 報告書を読み終えた将校は、しばらく沈黙していた。

「……これが事実なら、我々は国境の向こうだけを見ていればよいわけではないな」

 隣に立つ参謀が頷いた。

「はい。しかし、連邦共和国との緊張も依然として続いております」

「分かっている」

 将校は報告書を閉じた。

「だからこそ、慎重に扱わなければならん」

 窓の外には、帝都の夜景が広がっていた。

 街路灯が通りを照らし、遠くでは列車の汽笛が響いている。

 人々は普段と変わらない生活を送っていた。

 その日常の裏側で、帝国は新たな時代の入口に立とうとしていた。

 国境の向こうには、連邦共和国。

 そして、異界門の向こうには、まだ知らぬ世界。

 二つの不確かな未来が、同時に帝国へ迫りつつあった。

 一方、クロウ家の屋敷では、レイブンが穏やかな眠りについていた。

 父の帰還。

 祖父から受け継いだ教え。

 そして、小さな黒鴉の徽章。

 そのすべてが、少年の心に少しずつ積み重なっていく。

 後に彼が幾度もの戦場へ立ち、数え切れない選択を迫られることになった時、この日の言葉は再び彼の胸に蘇ることになる。

 名誉より責任を。

 家門の名より、自らの良心を。

 それは、黒鴉を継ぐ者に課せられた命令ではなかった。

 自分自身の意思で選び取るべき、生き方だった。

 そして今、一人の少年が、その意味を知るための最初の一歩を踏み出したのである。

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