第7話 異界からの帰還者
第7話 異界からの帰還者
帝政歴三三四年、初夏。
帝国北部山岳地帯に出現した未知の門が消失してから、三か月が経過していた。
クロウ家の屋敷を囲む木々は、春の淡い緑から深い夏の色へと変わり始めていた。庭園では花々が咲き、朝になると小鳥たちの囀りが窓辺まで届く。
しかし、屋敷の中に流れる時間は、三か月前からどこか止まったままだった。
食堂の奥にある椅子は、今も空席だった。
書斎の机には、ヴァルター・A・クロウが使っていた万年筆が置かれたままになっている。書類は整理され、軍務に関する機密資料は既に帝国軍へ返却されていたが、家族の写真だけは以前と変わらず机の上に飾られていた。
レイブンは、その書斎へ毎日のように足を運んでいた。
七歳の少年にとって、三か月という時間は長かった。
父が出発した日のことは、今でも鮮明に覚えている。
玄関先で交わした約束。
庭園での競走。
そして、軍用車両の窓越しに見えた父の笑顔。
それらは、まるで昨日の出来事のように思い出せた。
だが、どれほど待っても、父は帰ってこなかった。
「……父さん」
書斎の椅子に座り、レイブンは小さく呟いた。
机の上には、以前父へ送った手紙の写しが置かれている。
『父さんが帰ってきたら、また一緒に走りたいです。』
少年はその一文を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
黒い猫耳が少し伏せられる。
「……まだ、帰ってこないのかな」
返事はなかった。
窓の外では、庭師が花壇の手入れをしている。
その穏やかな光景が、かえって少年の胸を締めつけた。
レイブンは椅子から立ち上がり、壁に掲げられた帝国の地図へ近づいた。
最近の彼は、以前にも増して地理や歴史の勉強へ打ち込むようになっていた。
父がどこにいるのか。
どうすれば帰ってこられるのか。
その答えを探したかったのである。
しかし、どれほど地図を眺めても、父の居場所は分からなかった。
なぜなら、父が消えた場所は、地図のどこにも描かれていなかったからだ。
同じ頃、帝国軍北部山岳観測基地では、緊張した空気が漂っていた。
消失した異界門の観測は、三か月間、一度も中断されていなかった。
研究者たちは昼夜を問わず魔力波形を解析し、空間歪曲の再発を監視し続けていた。
しかし、門の再出現は確認されていなかった。
時折、微弱な反応が観測されることはあった。
だが、それらはいずれも短時間で消失し、門の形成には至らなかった。
そのため、司令部の一部では、調査班の生存可能性を疑問視する声も出始めていた。
それでも、現地の観測班は捜索を諦めていなかった。
「……主任」
観測室で、若い研究員が声を掛けた。
「どうした?」
「昨日の夜間観測記録を再解析したのですが……少し気になる点があります」
主任研究員は椅子を回し、表示装置へ目を向けた。
「見せてくれ」
若い研究員は、複数の波形を重ね合わせた。
「これが三か月前、門が消失した直後の残留反応です。そして、こちらが昨夜観測されたものです」
主任研究員は画面を見つめた。
波形には、わずかな違いがあった。
「……周期が短くなっている?」
「はい。しかも、振幅が少しずつ増加しています」
主任研究員の表情が変わった。
「……再出現の兆候か?」
「断言はできません。しかし、これまでの観測結果とは明らかに異なります」
主任研究員は立ち上がった。
「全観測装置を再点検しろ。通信班にも連絡を入れろ」
「了解!」
研究員たちが慌ただしく動き始めた。
その時だった。
大型表示装置の数値が、突然跳ね上がった。
「……え?」
若い研究員が目を見開いた。
警報音が鳴り響く。
「魔力反応、急上昇!」
「空間歪曲値が限界を超えています!」
「……門だ!」
観測室の誰かが叫んだ。
「異界門が、再形成されています!」
基地全体に緊急警報が響き渡った。
兵士たちが持ち場へ走り、観測装置の周囲には警戒部隊が展開される。
かつて門が存在していた場所では、空間そのものが激しく揺らぎ始めていた。
薄い光が集まり、やがて巨大な楕円形の輪郭を形成していく。
その内部には、暗い光が渦巻いていた。
三か月前と同じ現象だった。
「……本当に、戻ってきたのか」
観測基地の指揮官は、呆然と門を見つめていた。
しかし、次の瞬間には我に返った。
「警戒部隊、配置につけ! 救助班を待機させろ!」
兵士たちが一斉に動き始める。
だが、門の向こうから何が現れるのか、誰にも分からなかった。
数分後。
門の内部から、微弱な通信が届いた。
『……こちら……先遣……調査……』
通信士が顔を上げた。
「……通信!?」
雑音混じりの声が、無線機から響いていた。
『……応答……求む……』
通信士は慌てて送信装置を操作した。
「こちら帝国軍北部山岳観測基地! 所属と識別番号を報告せよ!」
短い沈黙。
そして、再び声が聞こえた。
『……帝国軍……先遣調査班……』
観測室の全員が息を呑んだ。
『……こちら……ヴァルター・A・クロウ……』
通信士の手が止まった。
「……クロウ少佐!?」
主任研究員が立ち上がった。
「間違いないのか!?」
通信士は必死に無線を操作した。
「クロウ少佐! こちら観測基地です! 聞こえますか!?」
雑音が続いた。
そして、低く掠れた声が返ってきた。
『……聞こえる……』
通信士は思わず息を呑んだ。
「少佐! ご無事ですか!?」
短い沈黙。
『……無事とは……言い難いな……』
その声は、明らかに弱っていた。
『……だが……生きている……』
観測室に、歓声が上がった。
「生存者だ!」
「先遣調査班が生きている!」
「救助班を急がせろ!」
しかし、ヴァルターの声は続いた。
『……負傷者……多数……』
通信士の表情が引き締まる。
「了解しました! 救助班を派遣します!」
『……それと……』
ヴァルターの声が、さらに掠れた。
『……門が……安定しているうちに……急げ……』
その言葉を最後に、通信は途絶えた。
観測基地の指揮官は、すぐに命令を下した。
「救助班、出動! 医療班を前進させろ!」
救急車両が動き始め、担架を持った衛生兵たちが門の周囲へ集まった。
やがて、門の内部から人影が現れた。
最初に姿を見せたのは、帝国軍の制服を着た兵士だった。
しかし、その軍服は泥と血に染まり、身体には幾つもの傷が残っていた。
兵士は門を通過した直後、地面へ膝をついた。
「……帰って……きた……」
衛生兵が駆け寄り、身体を支える。
続いて、二人目、三人目と、生存者が現れた。
誰もが疲弊し、負傷していた。
中には担架で運ばれる者もいた。
そして、最後に一人の男性が門の向こうから姿を現した。
黒い猫耳。
泥と血に染まった軍服。
左手で身体を支えながら、ゆっくりと歩いてくる男性。
ヴァルター・A・クロウだった。
しかし、その姿を見た兵士たちは、言葉を失った。
彼の右腕は、肩から先が失われていた。
軍服の右袖は破れ、応急処置の包帯が幾重にも巻かれている。
顔には深い疲労の色が浮かび、頬は痩せ、髪も乱れていた。
それでも、彼は自分の足で歩いていた。
「……クロウ少佐!」
衛生兵が駆け寄った。
ヴァルターは顔を上げた。
「……他の連中は?」
「全員、救護中です!」
「……そうか」
その言葉を聞いて、ヴァルターは小さく息を吐いた。
そして、ようやく身体の力を抜いた。
衛生兵が慌てて支える。
「少佐! しっかりしてください!」
「……大丈夫だ……」
ヴァルターは弱々しく笑った。
「……少し……疲れただけだ……」
その直後、彼は意識を失った。
衛生兵たちが一斉に動き、担架へ乗せる。
救急車両の扉が閉まり、エンジンが唸りを上げた。
その日、帝国軍北部山岳観測基地では、三か月ぶりに希望の声が響いていた。
異界門の向こうへ消えた先遣調査班。
その生存者たちが、ついに帰還したのである。
しかし、彼らが何を見て、何と戦い、どのように生き延びてきたのか。
その詳細は、まだ誰にも分からなかった。
同じ日の夕方。
クロウ家の屋敷では、セレナが応接室で書類を整理していた。
レイブンは庭園で遊んでおり、幼いルナは使用人に見守られながら昼寝をしている。
屋敷には、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
その時だった。
玄関の呼び鈴が鳴った。
続いて、慌ただしい足音が廊下を響かせた。
「奥様!」
執事が応接室へ駆け込んできた。
普段は冷静な彼が、明らかに動揺していた。
「……どうしました?」
セレナが顔を上げる。
執事は息を整えながら答えた。
「帝国軍司令部から、緊急の連絡が入っております!」
セレナの表情が変わった。
「……夫のことですか?」
「はい!」
その一言に、彼女は椅子から立ち上がった。
執事は続けた。
「ヴァルター様が……!」
言葉が詰まる。
セレナの胸が強く締めつけられた。
「……夫が、どうしたのですか?」
執事は大きく息を吸った。
そして、はっきりと告げた。
「ヴァルター様が、生還されました!」
セレナは、その場で動けなくなった。
「……え?」
「先ほど、帝国軍から正式な連絡がありました。異界門が再出現し、先遣調査班の生存者が帰還したとのことです!」
セレナの手から、持っていた書類が滑り落ちた。
紙が床へ散らばる。
しかし、彼女はそれに気づかなかった。
「……生きて……いるのですか?」
「はい!」
「……本当に?」
「間違いございません!」
その瞬間、セレナの目から涙が溢れた。
「……あなた……」
彼女は口元へ手を当てた。
何度も何度も、夫の帰還を願ってきた。
夜になるたびに窓の外を眺め、手紙を読み返し、眠れない時間を過ごしてきた。
それでも、希望を捨てずに待ち続けてきた。
そして今。
その願いが、ようやく届いたのである。
「……良かった……」
セレナは涙を流しながら呟いた。
「……本当に……良かった……」
執事も目元を押さえながら、深く頭を下げた。
「奥様……」
セレナは涙を拭い、すぐに顔を上げた。
「……夫は、今どこに?」
「帝国軍の医療施設へ搬送されたとのことです」
「……怪我は?」
その問いに、執事の表情がわずかに曇った。
「……重傷との報告です」
セレナの胸が再び締めつけられた。
「……重傷?」
「詳しい状態は、まだ確認中とのことですが……」
執事は言葉を選んだ。
「……右腕を失われたそうです」
セレナは息を呑んだ。
夫が生きて帰ってきた。
しかし、その代償として右腕を失った。
喜びと悲しみが、同時に胸へ押し寄せた。
それでも、彼女は静かに頷いた。
「……分かりました」
そして、涙を拭った。
「すぐに病院へ向かいます」
「お車を用意いたします」
「お願いします」
セレナは立ち上がり、廊下へ向かった。
その時、庭園の方から元気な声が聞こえた。
「母さん!」
レイブンだった。
少年は庭で遊んでいた途中、屋敷の中が慌ただしくなったことに気づいたらしい。
黒い猫耳をぴんと立て、母の元へ駆け寄ってきた。
「どうしたの? 何かあった?」
セレナは足を止めた。
そして、息子を見つめた。
この三か月間、父の帰還を信じて待ち続けていた少年。
毎日、父の書斎へ通い、地図を眺め、手紙を読み返していた息子。
その姿を思い出した瞬間、セレナの目に再び涙が浮かんだ。
「……レイブン」
「……母さん?」
セレナは膝を折り、息子と目線を合わせた。
そして、震える声で告げた。
「……お父さんが、帰ってきましたよ」
レイブンは、しばらく動かなかった。
「……え?」
「お父さんが、生きて帰ってきたんです」
少年の金色を帯びた瞳が、大きく見開かれた。
「……本当?」
「ええ」
「……嘘じゃない?」
「嘘じゃありません」
セレナは涙を流しながら微笑んだ。
「お父さんは、ちゃんと帰ってきてくれました」
その瞬間、レイブンは母へ抱きついた。
「……父さん!」
小さな声が震えていた。
「……父さん、帰ってきたんだ!」
セレナは息子を強く抱きしめた。
「ええ……帰ってきたんです……」
レイブンは母の胸元で、何度も同じ言葉を繰り返した。
「……良かった……良かった……!」
その声には、三か月間押し殺してきた不安と寂しさが滲んでいた。
セレナは息子の背中を撫でながら、静かに涙を流した。
その日の夜。
帝国軍中央医療施設の一室で、ヴァルターは静かに目を覚ました。
白い天井。
消毒液の匂い。
遠くから聞こえる医療機器の音。
彼はしばらく、自分がどこにいるのか理解できなかった。
しかし、やがて記憶が戻ってきた。
異界門。
未知の土地。
負傷した仲間たち。
そして、必死に歩き続けた帰還への道。
「……帰って……きたのか……」
掠れた声が漏れた。
身体を起こそうとしたが、激しい痛みが走り、思わず顔をしかめた。
右腕は、もう存在しなかった。
その事実を、改めて理解する。
ヴァルターはしばらく天井を見つめていた。
失ったものは大きかった。
だが、それでも生きている。
そして、仲間たちも何人かは帰還できた。
それだけでも、十分に意味があった。
その時、病室の扉が静かに開いた。
「……あなた」
聞き慣れた声だった。
ヴァルターはゆっくりと顔を向けた。
そこには、セレナが立っていた。
その後ろには、レイブンの姿もあった。
ヴァルターは二人を見つめた。
そして、弱々しく微笑んだ。
「……待ったか?」
その一言に、セレナの表情が崩れた。
「……っ!」
彼女は駆け寄り、夫の左手を握った。
「……待ちました……!」
涙が頬を伝う。
「……ずっと……待っていました……!」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……すまなかった……」
セレナは首を振った。
「……謝らないでください……!」
そして、夫の手を強く握りしめた。
「……生きて……帰ってきてくれたんですから……!」
ヴァルターは目を閉じた。
その言葉が、胸の奥へ深く染み込んでいく。
レイブンは、病室の入口で立ち尽くしていた。
父がいる。
三か月間、帰ってこなかった父が、目の前にいる。
しかし、その姿は記憶の中の父とは大きく異なっていた。
痩せた頬。
傷だらけの身体。
そして、失われた右腕。
少年はゆっくりと近づいた。
「……父さん」
ヴァルターが顔を向けた。
「……レイブン」
少年の瞳に、涙が浮かんだ。
「……本当に、帰ってきたんだね」
「ああ……」
ヴァルターは左手を伸ばした。
「……約束したからな」
その言葉を聞いた瞬間、レイブンは父へ抱きついた。
「……父さんっ!」
ヴァルターは痛みに顔をしかめながらも、左腕で息子を抱き寄せた。
「……大きくなったな」
「……三か月しか経ってないよ……!」
「……そうだったな……」
ヴァルターは弱々しく笑った。
レイブンは父の胸元へ顔を埋めた。
「……もう、帰ってこないかと思った……」
その言葉に、ヴァルターは静かに目を閉じた。
「……すまなかった」
「……謝らないでよ……!」
少年の声が震える。
「……帰ってきてくれたんだから……!」
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
その手は、以前とは違っていた。
右手ではなく、左手だった。
しかし、その温もりは、何も変わっていなかった。
セレナは二人の姿を見つめながら、静かに涙を流した。
病室の窓の外では、初夏の夜空に星が輝いていた。
三か月前、未知の門の向こうへ消えた男は、ついに家族の元へ帰ってきた。
だが、その帰還は、すべてが元通りになることを意味してはいなかった。
ヴァルターが異界で見たもの。
そこで起きた出来事。
そして、彼が失った右腕。
それらは、これからクロウ家の人生へ大きな影響を与えていくことになる。
しかし、今夜だけは。
家族が再び揃ったことを、喜んでいたかった。
レイブンは父の左手を握りしめながら、小さく呟いた。
「……父さん」
「……何だ?」
「……おかえり」
ヴァルターは、静かに微笑んだ。
「……ただいま、レイブン」
その言葉を聞いた瞬間、少年の頬を再び涙が伝った。
長い三か月が、ようやく終わったのである。




