第6話 帰還なき三日間
第6話 帰還なき三日間
帝政歴三三四年、春。
帝国北部山岳地帯に出現した未知の門が消失してから、三日が経過していた。
山々の稜線にはまだ冬の名残である雪が残り、谷間を吹き抜ける風は春とは思えないほど冷たかった。針葉樹に囲まれた山腹には帝国軍の仮設観測基地が設けられ、迷彩塗装を施した軍用車両と通信設備、魔導観測装置が所狭しと並んでいる。
その中心には、厳重な立入禁止区域が設けられていた。
三日前まで、そこには巨大な門が存在していた。
空間そのものが歪み、既知の魔導技術では説明できない反応を放っていた、正体不明の構造体。
帝国軍はそれを暫定的に《異界門》と呼称していた。
しかし、今、その場所には何もなかった。
地面に残る観測機器の設置跡と、慌ただしい調査の痕跡だけが、かつてそこに門が存在していたことを示している。
「……反応は?」
観測基地の指揮所で、初老の将校が尋ねた。
机の上には複数の観測記録が広げられ、壁面の大型表示装置には魔力波形の解析結果が映し出されていた。
「依然として、再出現の兆候はありません」
若い研究員が答えた。
「空間歪曲値は通常範囲内です。魔力残留反応についても、昨日からほとんど変化がありません」
「通信は?」
「先遣調査班との交信は、現在も確立できていません」
将校は深く息を吐いた。
ヴァルター・A・クロウ少佐を含む先遣調査班が門を通過した直後、異界門は突然消失した。
その瞬間から、調査班との通信は完全に途絶えている。
当初は通信機器の故障や魔導干渉による一時的な障害も疑われた。
しかし、三日が経過した今も、状況は何一つ改善していなかった。
「……捜索班の報告は?」
「周辺山岳地帯を再捜索しましたが、先遣調査班の痕跡は確認できませんでした」
「そうか」
将校は地図へ視線を落とした。
先遣調査班が門の向こう側へ移動したことは、観測記録からほぼ確実だった。
問題は、その向こう側がどこなのかということだった。
別の場所なのか。
未知の空間なのか。
あるいは、既存の世界とはまったく異なる環境なのか。
帝国軍の研究者たちは複数の仮説を立てていたが、どれも確証を得るには至っていなかった。
「……三日か」
将校は小さく呟いた。
軍人として、消息不明という言葉の重さは理解している。
しかし、今回の事態は通常の遭難や戦闘による行方不明とは根本的に異なっていた。
救助部隊を派遣しようにも、救助すべき場所へ到達する方法そのものが存在しないのである。
「司令部からの指示は?」
「観測を継続し、門の再出現に備えよとのことです」
「……了解した」
将校は静かに頷いた。
「全観測装置を稼働状態に維持しろ。どれほど小さな反応でも見逃すな」
「はっ!」
研究員が敬礼し、持ち場へ戻っていった。
将校は一人、指揮所の窓から立入禁止区域を見つめた。
そこには、何もない。
ただ、冷たい風が山腹の草木を揺らしているだけだった。
「……クロウ少佐」
彼は小さく呟いた。
「どうか、生きていてくれ」
その願いに応えるような変化は、まだどこにも現れなかった。
同じ頃、クロウ家の屋敷では、朝食の準備が進められていた。
広い食堂には焼きたてのパンの香りが漂い、窓から差し込む春の陽光が白いテーブルクロスを照らしている。
しかし、その食卓に座るセレナの表情は、普段よりも硬かった。
彼女は昨夜、帝国軍から正式な連絡を受けていた。
ヴァルターが参加した先遣調査班との通信が途絶え、現在も消息が確認できていないという報告だった。
詳しい任務内容は機密扱いとされ、家族に伝えられた情報は限られていた。
ただ、夫が危険な任務に従事し、その後の所在が分からなくなったという事実だけは、はっきりしていた。
セレナは手元の紅茶へ視線を落とした。
湯気は既に薄くなり、表面には小さな波紋が広がっている。
昨夜はほとんど眠れなかった。
何度も時計を確認し、窓の外を眺め、夫からの連絡が届くのを待ち続けていた。
しかし、朝になっても新しい知らせはなかった。
「……母さん?」
声を掛けられ、セレナは顔を上げた。
食堂の入口に、レイブンが立っていた。
黒い猫耳を持つ少年は、寝間着から普段着へ着替え、少し眠そうな顔をしている。
「おはよう、レイブン」
セレナはできる限り穏やかな声で答えた。
「……おはよう」
レイブンは母の向かいへ座った。
しかし、すぐに何かがおかしいことに気づいた。
母の目元には、薄い疲労の色が浮かんでいる。
いつもなら朝食の準備を手伝いながら笑顔で話しているはずなのに、今日はほとんど言葉を発していなかった。
「……母さん、どうしたの?」
「え?」
「……元気ない」
セレナは一瞬だけ目を見開いた。
そして、無理に微笑んだ。
「そんなことありませんよ。少し寝不足なだけです」
「……本当?」
「ええ」
レイブンは母をじっと見つめた。
黒い猫耳が小さく動く。
彼はまだ七歳だったが、母が何かを隠していることくらいは分かった。
「……父さんのこと?」
その言葉に、セレナの手が止まった。
レイブンは続けた。
「父さん、まだ帰ってこないから……?」
セレナはしばらく黙っていた。
嘘をつけば、息子を一時的に安心させることはできるかもしれない。
しかし、いずれ真実を知ることになる。
それならば、今のうちに、伝えられる範囲で話しておくべきだろう。
セレナは静かに息を吸った。
「……レイブン」
「……うん」
「昨日、軍から連絡がありました」
少年の耳がぴんと立った。
「父さんから?」
「……いいえ。お父さんと一緒にお仕事をしている方からです」
レイブンは少し首を傾げた。
「……何て?」
セレナは言葉を選びながら答えた。
「お父さんが、今いる場所から帰ってくることが難しくなっているそうです」
「……難しい?」
「ええ。軍の方々が、どうすれば連絡を取れるか調べています」
少年はしばらく考え込んだ。
「……じゃあ、父さん、迷子になったの?」
その問いに、セレナは胸が締めつけられるような思いを覚えた。
しかし、表情を崩さないように努めた。
「……そうかもしれませんね」
「だったら、探しに行けばいいじゃん」
「……ええ。軍の方々も、そうしようとしています」
「じゃあ、すぐ見つかるよね?」
セレナはすぐには答えられなかった。
レイブンは母の顔を見つめた。
その沈黙が、少年の胸に小さな不安を生んだ。
「……母さん?」
セレナは椅子から立ち上がり、息子の隣へ回った。
そして、そっと抱き寄せた。
「……お父さんが無事でいるように、一緒に願いましょう」
レイブンは母の胸元へ顔を埋めた。
「……うん」
小さな声だった。
セレナは息子の黒髪を撫でながら、静かに目を閉じた。
夫がどこにいるのか。
生きているのか。
いつ帰ってくるのか。
何一つ分からなかった。
それでも、彼女は信じたかった。
ヴァルターが、必ず帰ってくることを。
その日の午後、帝国軍司令部では緊急会議が開かれていた。
会議室には、軍上層部の将校と魔導研究部門の専門家たちが集められていた。
大型の表示装置には、異界門が消失する直前の観測映像が映し出されている。
空間が歪み、光が収縮し、巨大な門が消えていく。
その映像が再生されるたびに、会議室には重い沈黙が流れた。
「……再出現の可能性は?」
司令官が尋ねた。
研究部門の責任者が答えた。
「現時点では不明です。ただし、門が消失する直前に観測された魔力波形には、一定の周期性が確認されています」
「周期性?」
「はい。完全にランダムな現象ではない可能性があります」
司令官は身を乗り出した。
「つまり、再び開く可能性があると?」
「断言はできません。しかし、観測を続ける価値は十分にあります」
会議室の空気がわずかに変わった。
希望と呼ぶには、あまりにも不確かな情報だった。
それでも、何も手掛かりがない状況よりは遥かに良かった。
「……よし」
司令官は静かに頷いた。
「観測体制を強化する。必要な人員と装備は優先的に配備しろ」
「了解しました」
「それから、救助部隊の編成を進めておけ。門が再出現した場合、即座に対応できるようにする」
将校たちが頷いた。
しかし、司令官は続けて厳しい表情を浮かべた。
「ただし、無謀な突入は認めない。前回と同じ事態を繰り返せば、救助どころか被害を拡大させることになる」
「はっ!」
会議はその後も続いた。
観測装置の増設。
通信方式の見直し。
魔導干渉への対策。
そして、未知の環境に対応するための装備開発。
帝国軍は、少しずつではあるが、救助へ向けた準備を進め始めていた。
しかし、門の向こう側にいるはずの先遣調査班が、どのような状況に置かれているのかは、依然として分からなかった。
その頃、クロウ家の屋敷では、レイブンが父の書斎にいた。
机の上には、以前から読み進めていた地理の本が開かれている。
しかし、少年の視線は文字の上を滑るばかりで、内容が頭に入ってこなかった。
何度同じ行を読んでも、意味が理解できない。
レイブンは本を閉じ、深く息を吐いた。
「……父さん」
小さく呟く。
壁には、帝国と周辺諸国を描いた地図が掲げられていた。
その地図を見つめながら、少年は考えた。
父は今、どこにいるのだろう。
国境の向こうだろうか。
山の中だろうか。
それとも、自分がまだ知らない場所なのだろうか。
「……どこにいるんだよ」
少年は椅子から立ち上がり、地図へ近づいた。
指先で帝国の領土をなぞる。
しかし、どれほど地図を見つめても、父のいる場所は分からなかった。
やがて、レイブンは小さく拳を握った。
「……僕が大人だったら」
その言葉が、静かな書斎に落ちた。
「……父さんを探しに行けるのに」
少年は俯いた。
自分がまだ子供であることが、初めて悔しく思えた。
父が困っているかもしれない。
危険な場所にいるかもしれない。
それなのに、自分には何もできない。
その無力さが、胸の奥に重くのしかかっていた。
しばらくして、書斎の扉が静かに開いた。
「……レイブン」
セレナだった。
彼女は息子の姿を見つけると、ゆっくりと近づいた。
「ここにいたのね」
「……うん」
「何をしていたの?」
「……父さんのいる場所、探してた」
セレナは一瞬だけ目を伏せた。
そして、息子の隣へしゃがみ込んだ。
「……そう」
レイブンは母を見つめた。
「母さん」
「なあに?」
「僕、何もできないの?」
その問いに、セレナは静かに息を吸った。
「……どうして、そう思うの?」
「だって、父さんが帰ってこないのに、僕はここで待ってるだけだから」
少年の声が震えていた。
「……僕がもっと強かったら、探しに行けるのに」
セレナは息子を抱き寄せた。
「レイブン」
「……うん」
「強いというのは、何でも一人でできることではありませんよ」
少年は母の胸元で小さく首を傾げた。
「……そうなの?」
「ええ。自分にできることを考えて、できないことは誰かに頼る。それも、大切な強さです」
セレナは優しく続けた。
「今、軍の方々が一生懸命お父さんを探しています。私たちは、その人たちを信じて待つこともできます」
「……待つだけ?」
「ただ待つだけではありません」
セレナは息子の肩へ手を置いた。
「お父さんが帰ってきた時に、安心できるように。私たちが元気でいることも、大切なことなんです」
レイブンはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……分かった」
セレナは微笑んだ。
「いい子ですね」
少年は母へ身体を預けた。
その温もりに包まれながら、少しずつ呼吸を落ち着かせていく。
しかし、胸の奥に生まれた不安は、完全には消えなかった。
夕方になると、屋敷へ一台の軍用車両が到着した。
玄関で使用人が対応し、ほどなくしてセレナへ来客が告げられた。
「奥様、帝国軍の方がお見えです」
セレナは静かに立ち上がった。
「……分かりました」
応接室へ向かうと、そこには二人の将校が待っていた。
一人は中年の男性で、もう一人は若い士官だった。
二人とも帝国軍の制服を着用し、厳しい表情を浮かべている。
セレナが入室すると、二人は立ち上がって敬礼した。
「セレナ・クロウ夫人でいらっしゃいますか」
「はい」
「帝国軍司令部より参りました。ヴァルター・A・クロウ少佐の件について、正式なご報告がございます」
セレナは小さく息を吸った。
そして、静かに椅子へ腰を下ろした。
「……お聞かせください」
中年の将校は一枚の書類を取り出した。
「三日前、クロウ少佐が参加していた先遣調査班が、未知の空間異常の調査中に消息を絶ちました」
セレナは黙って聞いていた。
「現在、帝国軍は現地の観測と捜索を継続しております。しかし、現時点で調査班の所在は確認できておりません」
「……夫は、生きているのでしょうか」
その問いに、将校は一瞬だけ言葉を止めた。
「……現時点では、生死を確認できておりません」
セレナは目を閉じた。
予想していた答えだった。
それでも、実際に言葉として聞くと、胸の奥が冷たくなるような感覚があった。
「……そうですか」
彼女は静かに答えた。
将校は続けた。
「軍としては、可能な限りの捜索と救助準備を進めております。新たな情報が入り次第、速やかにご連絡いたします」
「……ありがとうございます」
セレナは深く頭を下げた。
将校たちも敬礼し、応接室を後にした。
扉が閉まると、室内には静寂が戻った。
セレナはしばらく椅子に座ったまま、動けなかった。
机の上には、軍から渡された書類が置かれている。
そこには、夫の名前が記されていた。
ヴァルター・A・クロウ。
帝国軍少佐。
消息不明。
その三文字を見つめた瞬間、セレナの視界が滲んだ。
「……あなた」
小さく声が漏れた。
彼女は口元へ手を当て、必死に涙を堪えようとした。
しかし、次の瞬間には、頬を一筋の涙が伝っていた。
「……帰ってきて、ください……」
誰もいない応接室で、セレナは静かに泣いた。
夫がどこにいるのかも分からない。
助けに行くこともできない。
ただ、帰ってくることを願うしかなかった。
その頃、レイブンは廊下の奥に立っていた。
応接室の扉が閉まる音を聞き、母の様子を確かめようとしていたのである。
しかし、扉の向こうから聞こえてきた小さな嗚咽に、足が止まった。
「……母さん?」
少年は扉へ近づいた。
だが、すぐには開けられなかった。
母が泣いている。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
いつも笑顔で、自分を安心させてくれる母。
どんな時でも優しく抱きしめてくれる母。
その母が、今は一人で泣いている。
レイブンは小さく拳を握った。
そして、静かに扉を叩いた。
「……母さん」
室内で、物音が止まった。
「……レイブン?」
少し震えた声が返ってくる。
「……入ってもいい?」
短い沈黙の後、セレナが答えた。
「……ええ。どうぞ」
レイブンは扉を開けた。
応接室の椅子に座る母の目元は、赤くなっていた。
少年はゆっくりと近づいた。
「……母さん」
「……どうしたの?」
セレナは微笑もうとした。
しかし、うまく笑えなかった。
レイブンは何も言わず、母の前へ立った。
そして、小さな両腕を広げた。
「……僕が、いるよ」
その言葉に、セレナの表情が崩れた。
「……レイブン……」
少年は母へ抱きついた。
セレナも、強く抱き返した。
「……ごめんなさい……」
セレナは涙を流しながら呟いた。
「……お母さんなのに……」
レイブンは首を振った。
「……泣いてもいいよ」
その言葉に、セレナは息を呑んだ。
少年は続けた。
「父さんが帰ってこなくて、僕も悲しいから……」
小さな声だった。
しかし、その言葉には、七歳の少年なりの精一杯の優しさが込められていた。
セレナは息子を抱きしめたまま、静かに涙を流した。
その夜、クロウ家の屋敷には、いつもより深い静けさが訪れた。
食堂の椅子は一つ空いたまま。
父の書斎には明かりが灯らず、庭園には誰の足音も響かなかった。
レイブンは寝台の上で、父から届いた最後の手紙を握っていた。
『帰宅したら、また一緒に走ろう。』
その一文を、何度も読み返した。
「……父さん」
少年は小さく呟いた。
「……約束したんだから、帰ってきてよ」
窓の外では、春の夜風が木々を揺らしていた。
しかし、その願いに応える声はなかった。
同じ夜。
帝国北部山岳地帯の観測基地では、研究員たちが交代で監視を続けていた。
大型表示装置には、ほとんど変化のない魔力波形が映し出されている。
研究員の一人が、疲れた目を擦りながら計器を確認した。
「……また、異常なし」
隣の研究員が頷いた。
「三日間、何も変わらないな」
「……本当に、もう開かないのか?」
「分からない」
二人は沈黙した。
その時だった。
表示装置の片隅で、小さな数値が変化した。
「……ん?」
研究員が顔を近づける。
通常であれば誤差として処理されるほどの、微弱な魔力反応だった。
しかし、その波形には見覚えがあった。
「……待て」
研究員は過去の観測記録を呼び出した。
三日前。
異界門が消失する直前の記録。
そこに残されていた波形と、今観測された微弱な反応。
両者を重ね合わせる。
完全に一致するわけではなかった。
だが、特徴的な周期が似ていた。
「……まさか」
研究員は椅子から立ち上がった。
「主任を呼べ!」
隣の研究員が驚いて振り返る。
「どうした!?」
「微弱だが、異界門の残留反応に変化がある!」
「……何だって?」
「再出現の兆候かもしれない!」
観測室が一気に慌ただしくなった。
研究員たちが次々と計器へ集まり、通信士が指揮所へ連絡を入れる。
しかし、その反応は数秒後には消えてしまった。
再び、表示装置には静かな波形だけが残された。
「……消えた?」
研究員が呟いた。
主任研究員は記録を確認し、慎重に口を開いた。
「……まだ、再出現と判断するには早い」
そして、続けた。
「だが、完全に消失したわけではない可能性がある」
その言葉に、観測室の全員が顔を上げた。
未知の門。
消えた先遣調査班。
そして、三日ぶりに観測された微弱な反応。
それが何を意味するのか、まだ誰にも分からなかった。
しかし、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
帝国軍は、まだ希望を失っていなかった。
そして、その夜。
クロウ家の屋敷では、一人の少年が父の手紙を胸に抱きながら眠っていた。
いつか、再び父と庭園を走る日を夢見て。
その願いが、どれほど長い時間を必要とするのかも知らずに。
帝国の春は、静かに過ぎていこうとしていた。




