第5話 帰らぬ父と閉ざされた門
第5話 帰らぬ父と閉ざされた門
帝政歴三三四年、春。
ヴァルター・A・クロウが帝国軍司令部へ召集されてから、十二日が経過していた。
クロウ家の屋敷では、いつもと変わらない朝が訪れていた。庭園の木々は春の風に揺れ、窓辺には柔らかな陽光が差し込んでいる。使用人たちは朝食の準備を進め、廊下には磨き上げられた床を踏む足音が静かに響いていた。
しかし、その穏やかな日常の中には、以前とは異なるものがあった。
食堂の奥に置かれた椅子。
そこに座るはずの人物が、まだ帰ってきていなかったのである。
「……母さん」
朝食の席で、レイブンは小さく声を掛けた。
黒髪の間から覗く猫耳は少し伏せられ、普段であれば朝食を前に嬉しそうに揺れる尻尾も、今日は椅子の脚の近くで静かに丸まっていた。
「なあに、レイブン?」
セレナは息子へ微笑みかけた。
「父さん、今日も帰ってこないの?」
その問いに、セレナは一瞬だけ手を止めた。
だが、すぐに穏やかな表情を取り戻した。
「昨日届いたお手紙では、もう少しお仕事が続くそうですよ」
「……もう少しって、どれくらい?」
「詳しい日付までは書かれていませんでした」
レイブンは目の前のスープへ視線を落とした。
「……そっか」
その声には、明らかな落胆が滲んでいた。
セレナは息子の様子を見つめながら、静かに息を吐いた。
ヴァルターが出発した当初、任務は数日で終わると伝えられていた。しかし、国境方面の情勢が悪化したことで、教育部門に所属する彼にも追加の任務が割り当てられ、帰宅の予定は何度も延期されていた。
軍人の妻として、こうした事態には慣れているつもりだった。
それでも、幼い息子が毎朝同じ質問を繰り返す姿を見るのは、決して楽なことではなかった。
「レイブン」
「……うん?」
「お父さんは、あなたのお手紙をとても喜んでいましたよ」
少年が顔を上げた。
「本当?」
「ええ。昨日のお手紙にも、そう書いてありました」
セレナは食卓の端に置いていた封書を手に取り、息子へ見せた。
そこには、ヴァルターの整った筆跡で短い文章が記されていた。
『レイブンへ。
手紙をありがとう。
地図の勉強を続けていると聞いて嬉しく思う。
帰宅したら、また一緒に走ろう。
ただし、今度も簡単には負けないぞ。
父より。』
レイブンは何度もその文章を読み返した。
そして、最後の一文を見た瞬間、少しだけ笑った。
「……父さん、まだ僕に勝つつもりなんだ」
「ふふっ。そうみたいですね」
「今度こそ勝つのに」
少年はそう言って、ようやくスプーンを手に取った。
セレナはその姿を見て、安堵したように微笑んだ。
しかし、彼女の胸の奥には、拭いきれない不安が残っていた。
ヴァルターからの手紙は、確かに届いている。
だが、そこに書かれている内容は以前よりも短くなっていた。
軍務に関する詳しい説明はなく、帰宅予定についても曖昧な表現が増えている。
それが軍の情報管理によるものなのか、それとも別の理由があるのか。
セレナには、まだ分からなかった。
朝食を終えると、レイブンは父の書斎へ向かった。
最近の彼は、以前にも増して地図や歴史書を読むようになっていた。
父が不在の間に少しでも多くのことを覚え、帰ってきた時に驚かせたい。
そんな幼い願いが、少年を机へ向かわせていたのである。
書斎の壁には、帝国と周辺諸国を描いた大きな地図が掲げられていた。
レイブンは椅子を引き寄せ、地図の前へ立った。
「……ここが帝国」
指先で自国の領土をなぞる。
「それで、こっちが連邦共和国……」
国境線の向こうには、広大な連邦共和国の領土が描かれていた。
少年はしばらくその線を見つめた。
父が軍務で向かった場所は、正確には知らされていない。
しかし、最近の新聞では国境方面の緊張が繰り返し報じられていた。
「……父さん、今どこにいるんだろう」
小さく呟く。
その時、背後から声が聞こえた。
「レイブン様」
振り返ると、クロウ家に長く仕える執事が立っていた。
「お勉強中でございますか?」
「うん。父さんが帰ってきたら、地図のことを聞こうと思って」
「それは、旦那様もお喜びになるでしょう」
執事は穏やかに微笑んだ。
レイブンは少し考え込んだ後、尋ねた。
「ねえ」
「はい」
「父さんって、軍でどんな仕事をしてるの?」
執事は一瞬だけ目を細めた。
「旦那様は、帝国軍の教官として、多くの兵士の教育に携わっておられます」
「教官?」
「はい。兵士たちが任務を果たせるよう、知識や技術を教えるお仕事です」
「……じゃあ、先生みたいなもの?」
「ええ。少し違う部分もございますが、よく似ております」
レイブンは納得したように頷いた。
「父さん、厳しい?」
執事は小さく笑った。
「厳しいと伺っております」
「やっぱり」
「ですが、それは兵士たちを大切に思っておられるからでしょう」
「……どういうこと?」
執事は少し考え、ゆっくりと答えた。
「戦場では、小さな失敗が命に関わることもございます。ですから、訓練のうちに失敗を見つけ、正しい方法を身につけることが大切なのです」
レイブンは真剣な表情で聞いていた。
「……父さん、みんなを守ってるんだ」
「そのように考えてよろしいかと存じます」
少年は嬉しそうに笑った。
執事はその姿を見ながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
ヴァルターの任務が長引いている理由について、屋敷の者たちも詳しいことは知らされていなかった。
ただ、軍からの連絡が以前より頻繁になり、帝国各地で警戒態勢が強化されていることだけは、誰の目にも明らかだった。
その日の午後、帝国軍司令部では、複数の将校が一室に集められていた。
長い会議机の中央には、帝国と連邦共和国の国境地帯を描いた地図が広げられている。
地図の上には赤と青の標識が並び、双方の部隊配置が細かく記されていた。
「連邦共和国軍の動きは、依然として活発です」
情報将校が説明を始めた。
「国境付近の機甲部隊が再配置され、砲兵部隊も前進しています。偵察部隊からは、新たな補給集積地の建設が確認されたとの報告が入っています」
会議室の空気が重くなる。
「演習の可能性は?」
別の将校が尋ねた。
「完全には否定できません。しかし、部隊の規模と配置を考慮すると、通常の演習としては不自然な点が多く見られます」
その説明を聞きながら、ヴァルターは地図へ視線を落としていた。
彼は帝国軍の教育部門に所属していたが、現在は臨時の任務として新編部隊の訓練支援と即応能力評価を担当していた。
しかし、今回の会議で示された資料は、通常の教育任務とは明らかに異なるものだった。
「……国境での緊張が高まっているのは理解している」
ヴァルターが口を開いた。
「だが、教育部門の人員まで前方へ再配置する必要があるのか?」
会議を主宰していた上級将校は、静かに頷いた。
「その可能性がある」
「……理由を伺っても?」
「前線部隊の再編成が進んでいる。経験豊富な教官の知識が必要になる場面が増えているのだ」
ヴァルターは表情を変えずに聞いていた。
「つまり、即応態勢を整えるための支援ということですか」
「現時点では、そうだ」
上級将校は一枚の書類を取り出した。
「ただし、もう一つ問題がある」
会議室の将校たちが顔を上げた。
「帝国領内で、未確認の空間異常が観測された」
その言葉に、ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「……空間異常?」
「ああ。既存の魔導観測装置では説明できない反応が、複数の地点で確認されている」
情報将校が新たな資料を広げた。
そこには、山岳地帯の一角を撮影した写真と、観測記録が添付されていた。
写真の中央には、空間そのものが歪んでいるように見える奇妙な現象が写っていた。
「……これは?」
ヴァルターが尋ねた。
「現在、調査中です」
情報将校は答えた。
「現地の観測班によれば、通常の魔導反応とは異なる波形が検出されています。さらに、周辺では方位計器の異常や通信障害も報告されています」
会議室の空気がさらに重くなった。
「連邦共和国軍の新兵器ではないのか?」
別の将校が尋ねた。
「その可能性も検討しています。しかし、現時点では確証がありません」
ヴァルターは写真を見つめた。
そこに写っている現象は、彼がこれまで軍務で見てきたどの魔導技術とも異なっていた。
「……現地の安全確認は?」
「観測班が外周から調査を続けています。ただし、現象の中心部へ近づいた際、通信が途絶えた事例があります」
その言葉に、将校たちの表情が険しくなった。
「人的被害は?」
「現時点で、行方不明者が二名」
短い沈黙が流れた。
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……調査部隊を編成する必要があるな」
「その通りだ」
上級将校は頷いた。
「帝国軍は、現象の詳細を確認するため、専門家と護衛部隊による合同調査隊を派遣する方針を決定した」
そして、ヴァルターへ視線を向けた。
「クロウ少佐」
「はっ」
「君には、調査隊の現地安全管理と部隊運用の助言を担当してもらいたい」
ヴァルターは一瞬だけ目を細めた。
「……私が、ですか」
「ああ。君の訓練指導経験と現場判断能力を評価しての人選だ」
ヴァルターは地図を見つめた。
未知の空間異常。
行方不明者。
そして、現地へ派遣される調査隊。
それが通常の任務ではないことは、すぐに理解できた。
しかし、軍人として命令を受けた以上、責務を果たさなければならない。
「……了解しました」
ヴァルターは静かに答えた。
「任務の詳細を確認させてください」
会議はその後も続いた。
調査隊の編成。
必要な装備。
通信手段。
現地での安全確保。
そして、万が一の事態に備えた撤収計画。
いずれも慎重な検討を必要とする内容だった。
ヴァルターは資料を読み込みながら、時折質問を挟んだ。
その姿は、普段の穏やかな父親とは異なり、帝国軍の将校としての厳格さを帯びていた。
やがて会議が終わる頃には、窓の外はすっかり夕暮れになっていた。
ヴァルターは資料を整理し、席を立った。
廊下へ出ると、同僚の将校が声を掛けてきた。
「クロウ少佐」
「何だ?」
「……今回の任務、どう思う?」
ヴァルターは少し考えた。
「正直に言えば、分からんことが多すぎる」
「同感だ」
同僚は苦笑した。
「連邦共和国との緊張だけでも厄介なのに、今度は正体不明の空間異常か」
「だからこそ、慎重に調べる必要がある」
ヴァルターは静かに答えた。
「未知の現象を前にして、焦って判断すれば取り返しのつかないことになる」
同僚は頷いた。
「……家族には?」
「まだ詳しくは話していない」
「そうか」
ヴァルターは廊下の窓から、夕暮れの空を見上げた。
クロウ家の屋敷では、今頃セレナとレイブンが夕食の準備をしている頃だろう。
息子は、また父の帰りを待っているに違いない。
「……早く帰ってやりたいんだがな」
ヴァルターは小さく呟いた。
同僚は何も言わなかった。
その夜、クロウ家の屋敷では、レイブンが机に向かっていた。
目の前には一冊の手帳が開かれている。
そこには、父へ聞きたいことが幾つも書き込まれていた。
『どうして国境があるの?』
『軍人は何を守るの?』
『父さんはどうして軍人になったの?』
そして、最後に一つ。
『父さんは、いつ帰ってくるの?』
レイブンはその一文を見つめた。
黒い猫耳が少しだけ伏せられる。
「……早く帰ってこないかな」
小さく呟いた時、寝室の扉が静かに開いた。
「レイブン」
セレナが顔を覗かせた。
「まだ起きていたの?」
「……うん」
「もう寝る時間ですよ」
セレナは室内へ入り、息子の隣へ腰を下ろした。
「何を書いていたの?」
「父さんに聞きたいこと」
「そう」
セレナは手帳を覗き込み、そこに並んだ質問を見つめた。
そして、最後の一文に目を止めた。
『父さんは、いつ帰ってくるの?』
その文字を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……レイブン」
「なに?」
「お父さんが帰ってきたら、きっと全部答えてくれますよ」
「……うん」
少年は小さく頷いた。
セレナは息子の頭を撫でた。
「さあ、今日はもう休みましょう」
「……分かった」
レイブンは手帳を閉じ、寝台へ向かった。
母が毛布を掛けると、少年は少しだけ身体を丸くした。
「母さん」
「なあに?」
「父さん、危ないところに行ってないよね?」
セレナは一瞬だけ言葉を止めた。
ヴァルターからの手紙には、任務の詳細がほとんど書かれていなかった。
だから、彼女にも分からなかった。
しかし、息子を不安にさせたくはなかった。
「……お父さんは、いつも慎重な人ですよ」
セレナは優しく答えた。
「きっと、自分の身を守ることも忘れないはずです」
レイブンは少しだけ安心したように頷いた。
「……うん」
「おやすみなさい、レイブン」
「おやすみ、母さん」
セレナは額へ優しく口づけを落とし、部屋の明かりを消した。
扉が閉まると、室内には静けさが戻った。
レイブンは毛布の中で目を閉じた。
父の声。
父の笑顔。
庭園で一緒に走った日のこと。
それらを思い出しながら、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
その頃、帝国軍司令部では、ヴァルターが自室で一通の手紙を書いていた。
『セレナへ。
任務がさらに延長されることになった。
詳しい内容はまだ伝えられないが、しばらく帰宅できない可能性がある。
レイブンには、約束を忘れていないと伝えてほしい。
必ず帰る。
ヴァルターより。』
書き終えたヴァルターは、しばらくその手紙を見つめていた。
そして、封筒へ入れようとした時、机の上の通信機が鳴った。
「……こちらクロウ」
『クロウ少佐、緊急連絡です』
通信士の声は、普段よりも緊張していた。
「何があった?」
『空間異常観測地点で、現象の規模が急激に拡大しています』
ヴァルターの表情が険しくなる。
「……詳細は?」
『観測班からの報告によれば、歪曲領域の内部に、門のような構造が形成されつつあります』
「門?」
『はい。現在、周辺の魔導反応が急上昇しています。観測班は距離を取り、現象を監視中です』
ヴァルターは椅子から立ち上がった。
「人的被害は?」
『現時点では確認されていません。ただし、現地からの通信が不安定になっています』
「分かった。すぐに向かう」
通信を終えたヴァルターは、机の上の手紙へ目を向けた。
そこには、まだ封をされていない家族への言葉が残されていた。
彼は少しだけ迷った後、手紙を封筒へ収めた。
「……必ず帰る」
小さく呟く。
そして、軍服の上着を手に取り、部屋を後にした。
数日後。
帝国軍の合同調査隊は、山岳地帯に形成された未知の空間異常へ到着していた。
周囲には仮設の観測施設が設置され、魔導測定装置と通信機器が並べられている。
その中心部には、巨大な歪曲領域が存在していた。
空間そのものが揺らめき、内部には暗い光が渦巻いている。
それは、まるで別の場所へ通じる入口のように見えた。
調査隊の指揮官が、慎重に現象を観察していた。
「……これが、報告にあった門か」
ヴァルターは隣に立ち、歪曲領域を見つめた。
「通常の魔導技術では説明できません」
観測担当の研究者が答えた。
「内部からは、既知のものとは異なる魔力反応が検出されています。現象の向こう側に空間が存在する可能性があります」
「……向こう側?」
「はい。ただし、確証はありません」
ヴァルターは腕を組んだ。
未知の現象。
行方不明者。
そして、目の前に現れた巨大な門。
どれも、これまでの軍務では経験したことのないものだった。
やがて、調査隊の指揮官が決断を下した。
「……内部調査を実施する」
周囲の将校たちが顔を上げた。
「本当に、入るのですか?」
「現象の詳細を確認するには、それしかない」
指揮官はヴァルターへ視線を向けた。
「クロウ少佐」
「はっ」
「君には先遣調査班の安全管理を任せたい」
ヴァルターは一瞬だけ門を見つめた。
その向こうに何があるのか、誰にも分からない。
しかし、任務を遂行するためには、誰かが最初の一歩を踏み出さなければならなかった。
「……了解しました」
彼は静かに答えた。
先遣調査班は装備を確認し、通信試験を行った。
研究者と護衛兵が隊列を組み、門の前へ進む。
ヴァルターは最後に一度だけ振り返った。
遠くには、帝国の山々が広がっている。
その向こうには、クロウ家の屋敷がある。
セレナ。
レイブン。
そして、まだ幼い娘ルナ。
家族の顔が、脳裏に浮かんだ。
「……行ってくる」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして、ヴァルターは未知の門へ足を踏み入れた。
眩い光が視界を覆う。
足元の感覚が一瞬失われ、身体がどこかへ引き込まれるような感覚が走った。
次の瞬間、彼の姿は門の向こうへ消えた。
後続の調査員たちも、次々とその中へ入っていく。
しかし、最後の一人が門を通過した直後だった。
観測装置の警報が鳴り響いた。
「魔力反応、急上昇!」
「空間歪曲が不安定化しています!」
「通信が……通信が途絶えました!」
研究者たちが慌ただしく計器を確認する。
門の表面が激しく揺らぎ、内部の光が急速に収縮し始めた。
「……何が起きている!?」
指揮官が叫んだ。
しかし、誰も答えられなかった。
次の瞬間。
巨大な門は、音もなく消失した。
そこに残されたのは、何もない空間だけだった。
観測班の研究者たちは、呆然とその場所を見つめていた。
「……門が、消えた?」
誰かが呟いた。
通信士は必死に無線を操作していた。
「こちら観測基地! 先遣調査班、応答せよ!」
返事はない。
「クロウ少佐! 聞こえますか!?」
静寂。
「先遣調査班! 応答せよ!」
何度呼び掛けても、通信は戻らなかった。
やがて、指揮官が重い声で命令を下した。
「……司令部へ報告しろ」
通信士が顔を上げる。
「報告内容は……?」
指揮官は、門が存在していた場所を見つめた。
「先遣調査班、全員との通信途絶。空間異常消失。生存状況、不明」
その言葉が、静かな山岳地帯に響いた。
帝国軍司令部へ、緊急報告が送られた。
しかし、その報告がクロウ家へ届くのは、もう少し後のことだった。
その頃、屋敷ではレイブンが庭園を走っていた。
父が帰ってきた時に、今度こそ競走で勝つためだった。
少年は息を切らしながら、大きな木まで駆け抜けた。
「……よし!」
満足そうに笑う。
黒い猫耳が春風に揺れ、尻尾が嬉しそうに動いた。
少し離れた場所では、セレナがその姿を見守っていた。
彼女はまだ知らなかった。
夫が未知の門を越えたことも。
その門が消失したことも。
そして、ヴァルターが帰還不能となったことも。
レイブンは庭園の向こうを見つめた。
「……父さん、早く帰ってこないかな」
少年の声が、春の風に溶けていく。
その願いに応える者は、まだ誰もいなかった。
帝国軍先遣調査班、消息不明。
この日、クロウ家の日常は、静かに変わり始めた。




