第4話 父の背中と帝国の影
第4話 父の背中と帝国の影
帝政歴三三四年、春。
クロウ家の屋敷に、いつもより早く朝が訪れた。
まだ太陽が東の山並みから顔を出す前、屋敷の二階にあるレイブンの寝室では、窓の外から聞こえる小鳥の囀りに混じって、規則正しい足音が廊下を通り過ぎていった。
普段であれば、その程度の物音で目を覚ますことなどなかった。
しかし、この日のレイブンは違っていた。
黒髪の間から覗く一対の猫耳が、毛布の中でぴくりと動いたのである。
「……ん?」
少年は薄く目を開けた。
部屋の中はまだ暗く、窓の向こうには夜明け前の青白い空が広がっている。
寝台の脇に置かれた時計を確認すると、普段の起床時間よりも一時間ほど早かった。
「……誰だろう」
レイブンは毛布を押しのけ、寝台から起き上がった。
黒い尻尾が寝間着の裾から伸び、眠気を振り払うようにゆっくりと揺れる。
廊下から聞こえてきた足音は、既に階段の方へ遠ざかっていた。
だが、その歩き方には聞き覚えがあった。
一定の間隔で床を踏み、決して急ぐことなく進む足音。
父、ヴァルターのものだった。
「……父さん?」
レイブンは小さく呟き、寝台から降りた。
扉を開けると、廊下の奥には薄明かりが灯っていた。
階段の方から、衣服の擦れる音と低い話し声が聞こえる。
少年は少し迷ったが、結局その声が気になり、静かに廊下を進み始めた。
階段の踊り場まで来ると、一階の玄関広間に父の姿が見えた。
ヴァルターは帝国軍の制服を着用し、肩には小さな鞄を掛けていた。
その前には、母セレナが立っている。
「……こんなに早く出発しなければならないのですか?」
セレナの声は穏やかだったが、その奥にはわずかな不安が滲んでいた。
「ああ。司令部からの召集だ。午前中には到着しておく必要がある」
「昨日は、しばらく休めるとおっしゃっていたのに……」
「状況が変わったらしい」
ヴァルターはそう答え、手袋をはめた。
「国境方面の警戒態勢が引き上げられた。教育部門にも追加の任務が割り当てられるそうだ」
セレナは小さく息を吐いた。
「……連邦共和国との関係は、そこまで悪くなっているのですね」
「まだ外交交渉は続いている。すぐに戦争になると決まったわけではない」
「それでも、あなたが呼ばれるほどなのでしょう?」
ヴァルターは一瞬だけ言葉を止めた。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
レイブンは階段の手すりに掴まり、二人の会話を聞いていた。
連邦共和国。
国境。
警戒態勢。
どれも、最近父の口からよく聞く言葉だった。
しかし、それらが何を意味しているのか、少年にはまだ分からなかった。
ただ、母がいつもより寂しそうな顔をしていることだけは理解できた。
「……父さん?」
思わず声が漏れた。
ヴァルターとセレナが同時に振り返る。
階段の途中に立つ息子の姿を見つけると、ヴァルターは少し驚いたような表情を浮かべた。
「レイブン? どうした、こんな時間に」
「……父さんの足音が聞こえたから」
少年はゆっくりと階段を下りた。
裸足のまま冷たい床へ足をつけると、セレナが慌てて近づいてきた。
「もう、レイブン。そんな格好で出てきたら風邪を引いてしまいますよ」
「……ごめんなさい」
セレナは息子の肩へ薄い上着を掛けた。
レイブンはそれを押さえながら、父を見上げた。
「父さん、また仕事?」
「ああ。少し早く出なければならなくなった」
「昨日は、今日も一緒にいられるって……」
その言葉に、ヴァルターの表情がわずかに曇った。
昨日、庭園で息子と競走をした時、彼は翌日もできる限り時間を取ると約束していた。
しかし、軍からの召集はその予定を簡単に変えてしまった。
「……すまない、レイブン」
ヴァルターは膝を折り、息子と目線を合わせた。
「約束を守れなくなってしまった」
少年は唇を結んだ。
黒い猫耳が少しだけ伏せられる。
「……いつ帰ってくるの?」
「今のところ、数日だと聞いている」
「……本当?」
「ああ。ただ、仕事の都合で少し延びるかもしれない」
レイブンは父の顔をじっと見つめた。
普段のヴァルターは、どんな時でも落ち着いている。
息子が悪戯をして叱られる時も、勉強で分からないことを尋ねる時も、父はいつも同じように話してくれた。
だが、今朝の父は少し違って見えた。
笑ってはいるものの、その表情の奥には、何かを考え続けているような影があった。
「……父さん」
「何だ?」
「仕事って、そんなに大事なの?」
ヴァルターは息子の問いに、すぐには答えなかった。
セレナも黙って二人を見守っている。
やがて、ヴァルターは静かに頷いた。
「ああ。大事な仕事だ」
「……僕よりも?」
その一言に、セレナの表情が変わった。
ヴァルターも、わずかに目を見開いた。
レイブンは俯いていた。
決して父を責めたいわけではなかった。
ただ、昨日まで一緒に笑っていた父が、また遠くへ行ってしまうことが寂しかった。
ヴァルターはしばらく息子を見つめた後、ゆっくりと両肩へ手を置いた。
「レイブン」
「……うん」
「お前より大事な仕事なんて、俺にはない」
少年が顔を上げた。
「……本当?」
「ああ」
ヴァルターは真っ直ぐに息子を見つめた。
「だが、俺が軍人として働くのは、お前や母さんが安心して暮らせる国を守るためでもあるんだ」
「……僕たちを守るため?」
「そうだ」
ヴァルターは頷いた。
「家族を守ることと、国を守ることは、時には繋がっている。だが、軍人だからといって家族を大切にしなくていいわけじゃない。そこは、忘れてはいけないことだ」
レイブンは父の言葉を聞きながら、少しずつ表情を緩めた。
「……じゃあ、父さんは僕たちのために仕事してるの?」
「もちろんだ」
ヴァルターは微笑んだ。
「それに、俺だけじゃない。多くの人が、それぞれ大切なものを守るために働いている」
少年は小さく頷いた。
「……分かった」
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
「いい子だ」
その手の温もりに、レイブンは嬉しそうに目を細めた。
しかし、すぐに何かを思いついたように顔を上げた。
「父さん!」
「何だ?」
「僕も大きくなったら、軍人になる!」
セレナが驚いたように息子を見た。
「レイブン?」
ヴァルターは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて小さく笑った。
「そうか」
「うん! 父さんみたいに強くなって、母さんも父さんも守る!」
少年は胸を張った。
その姿はまだ幼く、軍人という仕事の重さなど知る由もなかった。
だが、ヴァルターはその言葉を軽く扱わなかった。
「……ありがとう、レイブン」
彼は息子の肩へ手を置いた。
「だが、軍人になるかどうかは、大きくなってから自分で決めなさい」
「……どうして?」
「軍人になることだけが、人を守る方法ではないからだ」
ヴァルターは静かに続けた。
「医者も、教師も、農家も、技術者も、それぞれ違う形で人々の暮らしを支えている。お前がどんな道を選んでも、俺は応援する」
レイブンは少し考え込んだ。
「……じゃあ、僕が軍人になりたいって言ったら?」
「その時は、軍人として必要なことを教えてやる」
「本当!?」
「ああ。ただし、厳しいぞ」
ヴァルターが笑うと、レイブンも嬉しそうに笑った。
「大丈夫! 僕、頑張るから!」
「そうか。楽しみにしている」
セレナは二人のやり取りを見守りながら、穏やかに微笑んでいた。
しかし、その胸の奥には、言葉にできない不安が残っていた。
夫が軍人であること。
息子がその背中に憧れていること。
それ自体は誇らしいことだった。
だが、もし本当に戦争が始まれば、家族の未来は大きく変わってしまうかもしれない。
セレナはその考えを振り払うように、息子の肩へ手を置いた。
「さあ、レイブン。お父さんをお見送りしましょう」
「うん!」
ヴァルターは立ち上がり、鞄を肩へ掛け直した。
玄関の外では、軍用車両のエンジンが静かに唸っている。
彼は妻と息子へ向き直った。
「それじゃあ、行ってくる」
「……気をつけてくださいね」
セレナが答えた。
レイブンも元気よく手を上げた。
「父さん! 行ってらっしゃい!」
ヴァルターは二人へ微笑み、右手を軽く上げた。
「ああ。行ってくる」
そして、玄関を出ていった。
軍用車両の扉が閉まり、エンジン音が少し大きくなる。
やがて車両はゆっくりと動き始め、屋敷の門へ向かって進んでいった。
レイブンは玄関先に立ち、父の乗った車が見えなくなるまで手を振り続けた。
その隣では、セレナが静かに息子の肩を抱いていた。
「……母さん」
「なあに?」
「父さん、ちゃんと帰ってくるよね?」
セレナは一瞬だけ言葉を止めた。
だが、すぐに優しく微笑んだ。
「ええ。お父さんは約束を守る人ですから」
「……うん」
レイブンは小さく頷いた。
それでも、しばらく門の方を見つめていた。
朝日が昇り始め、屋敷の庭園が柔らかな光に包まれていく。
鳥たちはいつものように鳴き、木々は春の風に揺れていた。
何も変わらない朝だった。
ただ一つ、父の姿がそこにないことを除けば。
その日の午前中、レイブンはいつもより静かだった。
普段であれば庭園を駆け回り、使用人たちに質問を繰り返しているはずの少年が、この日は書斎の前で立ち止まっていた。
父が不在の間、書斎へ入ることは禁じられていなかった。
ただし、軍務に関する書類や機密資料には触れてはいけないと、以前から厳しく教えられていた。
レイブンは扉を開け、室内へ入った。
書斎には大きな机と本棚があり、壁には帝国と周辺諸国を描いた地図が掲げられている。
机の上には、父が普段使っている万年筆と、幾つかの書類が整然と並べられていた。
少年は椅子へ近づき、父がいつも座っている場所を見つめた。
「……父さん、ここで仕事してるんだよね」
彼は小さく呟いた。
そして、壁の地図へ目を向けた。
帝国の領土は広く、その周囲には幾つもの国家が存在している。
中でも、連邦共和国との国境線は長く、複雑に入り組んでいた。
レイブンは地図へ近づき、指先でその線をなぞった。
「……ここが、連邦共和国」
昨日の朝食で父から教わった言葉を思い出す。
国境。
国家。
軍人。
そして、守るべきもの。
少年は地図を見つめながら、少し考え込んだ。
「……どうして、国同士で喧嘩するんだろう」
その疑問に答えてくれる者は、今は誰もいなかった。
やがて、背後から静かな足音が聞こえた。
「レイブン?」
振り返ると、セレナが扉の前に立っていた。
「母さん」
「こんなところにいたのね。探しましたよ」
「……ごめんなさい」
セレナは室内へ入り、息子の隣へ立った。
「何を見ていたの?」
「地図」
「地図?」
「うん。父さんが昨日、国境の話をしてくれたでしょ?」
「ええ」
「それで、もっと知りたくなったんだ」
セレナは息子の視線を追い、壁の地図を見つめた。
「……そう」
彼女は少し考え、少年の隣へしゃがみ込んだ。
「レイブン。あなたは、どうして国と国が争うと思う?」
少年は首を傾げた。
「……欲しいものがあるから?」
「それも理由の一つかもしれませんね」
「じゃあ、どうして話し合わないの?」
セレナは小さく息を吐いた。
「話し合っても、互いに譲れないことがあるのでしょうね」
「……でも、喧嘩したら痛いよね」
「ええ。そうですね」
セレナは息子の頭を撫でた。
「だからこそ、争わずに済む方法を考えることが大切なんです」
レイブンはしばらく黙っていた。
やがて、母へ顔を向けた。
「……母さん」
「なあに?」
「父さんが戦争に行くことって、あるの?」
その質問に、セレナの表情がわずかに強張った。
軍人の妻として、いつか聞かれるかもしれないと思っていた言葉だった。
だが、実際に七歳の息子から尋ねられると、すぐには答えられなかった。
「……そうですね」
セレナは静かに口を開いた。
「お父さんは軍人ですから、国から命令があれば、危険な場所へ行かなければならないこともあります」
「……危険な場所?」
「ええ」
「……帰ってこられないこともあるの?」
セレナは息を呑んだ。
少年の金色を帯びた瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。
そこには、純粋な不安が浮かんでいた。
セレナは息子を抱き寄せた。
「……レイブン」
少年は母の胸元へ顔を埋めた。
「……僕、父さんが帰ってこないの、嫌だ」
「ええ。お母さんもです」
セレナは静かに答えた。
「だから、無事に帰ってきてほしいと願っています」
「……絶対に帰ってくるって、言えないの?」
その言葉に、セレナは目を閉じた。
簡単に「絶対」と言ってしまえば、息子を安心させることはできるだろう。
しかし、軍人の妻として、彼女はその言葉の重さを知っていた。
だからこそ、嘘をつきたくなかった。
「……お父さんは、帰ってくるためにできることを全部する人ですよ」
セレナはゆっくりと答えた。
「そして、私たちも、お父さんが帰ってこられる場所を守っていましょう」
レイブンは顔を上げた。
「……帰ってこられる場所?」
「ええ。家族が待っている家です」
セレナは微笑んだ。
「お父さんが疲れて帰ってきた時に、『おかえりなさい』と言ってあげられる場所を、私たちで守るんです」
少年はしばらく考え込んだ。
そして、小さく頷いた。
「……分かった」
セレナは息子の頭を撫でた。
「いい子ですね」
レイブンは母の手を握った。
「じゃあ、僕も母さんを守る」
「まあ」
「父さんがいない間、僕が母さんを守るから!」
セレナは驚いたように目を見開いた。
そして、優しく微笑んだ。
「ありがとう、レイブン」
少年は少し照れたように笑った。
その日の午後、レイブンは書斎から持ち出した一冊の本を読み始めた。
帝国の歴史と地理について書かれた、子供向けの解説書だった。
難しい言葉が出てくるたびに母へ尋ね、地図と照らし合わせながら少しずつ理解を深めていく。
その姿は、普段の好奇心旺盛な少年そのものだった。
しかし、セレナには分かっていた。
息子の中で、何かが少しずつ変わり始めていることを。
父の不在。
国境の緊張。
そして、軍人という仕事への憧れ。
それらが、まだ幼いレイブンの心に小さな種を蒔いていた。
夕方になると、屋敷の使用人が一通の手紙を持ってきた。
「奥様、旦那様からの伝言が届いております」
セレナは封書を受け取り、静かに開いた。
そこには、ヴァルターの筆跡で短い文章が記されていた。
『無事に司令部へ到着した。任務の詳細はまだ不明だが、数日以内に帰宅できる見込みだ。レイブンには、約束を忘れていないと伝えてほしい。』
セレナはその文章を読み、安堵の息を吐いた。
「……良かった」
レイブンが顔を上げた。
「母さん?」
「お父さんからお手紙ですよ」
「本当!?」
少年は椅子から飛び降り、母の元へ駆け寄った。
セレナは手紙を見せながら、優しく読み上げた。
レイブンは真剣な表情で聞いていたが、最後の一文を聞いた瞬間、顔を輝かせた。
「……約束、覚えててくれたんだ!」
「ええ」
「じゃあ、帰ってきたらまた競走できるね!」
「そうですね」
セレナは微笑んだ。
少年は嬉しそうに手紙を見つめた。
そして、何かを思いついたように顔を上げた。
「母さん!」
「なあに?」
「僕も父さんに手紙を書く!」
「いいですね。何を書きますか?」
レイブンは少し考えた。
そして、元気よく答えた。
「早く帰ってきてね、って!」
セレナは小さく笑った。
「それなら、きっとお父さんも喜びますよ」
その夜、レイブンは机に向かい、慣れない文字で一通の手紙を書いた。
何度も書き直し、時には母に綴りを教えてもらいながら、ようやく短い文章を完成させた。
『父さんへ。
お仕事、おつかれさま。
僕は今日、母さんと地図の勉強をしました。
父さんが帰ってきたら、また一緒に走りたいです。
今度は絶対に勝つからね。
早く帰ってきてください。
レイブンより。』
書き終えた少年は、満足そうに頷いた。
「……できた!」
セレナは手紙を受け取り、丁寧に読んだ。
「とても上手に書けていますよ」
「本当?」
「ええ。お父さんもきっと喜びます」
レイブンは嬉しそうに笑った。
セレナは手紙を封筒へ入れ、翌朝、軍の連絡便で届けることを約束した。
その夜、レイブンはいつもより早く寝台へ入った。
父が帰ってくる日を楽しみにしながら、毛布の中で静かに目を閉じる。
黒い猫耳が小さく動き、尻尾がゆっくりと丸くなった。
やがて、少年は穏やかな寝息を立て始めた。
その頃、帝国軍司令部の一室では、ヴァルターが上官から新たな報告を受けていた。
机の上には、帝国と連邦共和国の国境地帯を描いた地図が広げられている。
赤い印が幾つも書き込まれ、各地の部隊配置が細かく記されていた。
「……連邦共和国軍の増強は、想定以上の規模です」
報告を行っていた将校が、険しい表情で説明した。
「国境付近の機甲部隊が再配置され、砲兵部隊も前進しています。偵察部隊からは、複数の補給集積地が新設されたとの報告が入っています」
ヴァルターは地図を見つめた。
「……演習だけで説明できる動きではないな」
「はい。上層部も同じ見解です」
将校は一枚の書類を差し出した。
「そのため、教育部門にも臨時の任務が割り当てられました。新たに編成される部隊への訓練支援と、既存部隊の即応能力評価です」
ヴァルターは書類を受け取り、内容を確認した。
そこには、今後数週間にわたる訓練計画と、複数の部隊への指導任務が記されていた。
「……了解した」
彼は静かに答えた。
「必要な準備を進めよう」
将校は敬礼し、部屋を後にした。
ヴァルターは一人、机の前に残された。
窓の外には、夜の司令部が広がっている。
遠くでは軍用車両のエンジン音が響き、兵士たちが慌ただしく移動していた。
彼は胸元から、小さな写真を取り出した。
そこには、セレナとレイブンが並んで写っていた。
庭園で撮影した、何気ない一枚だった。
ヴァルターはその写真をしばらく見つめた。
「……レイブン」
小さく息を吐く。
「約束は、忘れていないぞ」
そして、写真を大切に胸元へ戻した。
帝国と連邦共和国の対立は、確実に深まり続けていた。
だが、ヴァルターには守りたいものがあった。
家族。
故郷。
そして、まだ戦争の意味を知らない子供たちの未来。
そのために、彼は軍人としての責務を果たそうとしていた。
夜の司令部では、遅くまで明かりが消えることはなかった。
国境の向こうでは、連邦共和国軍の部隊が静かに移動を続けている。
互いに銃口を向けることのないまま、二つの国家は少しずつ、後戻りの難しい場所へ近づいていた。
そして、その影はまだ幼いレイブンの人生にも、確実に伸び始めていた。
それでも、クロウ家の屋敷では、少年が父の帰還を信じて眠っていた。
机の上には、書き終えたばかりの手紙。
窓の外には、春の月。
そして、少年の心には、父と交わした一つの約束が残っていた。
いつか、父さんみたいに強くなる。
その願いが、やがて一人の兵士の人生を形作っていくことを、この時のレイブンはまだ知らなかった。




