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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第一章 クロウ家の記憶
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第4話 父の背中と帝国の影

第4話 父の背中と帝国の影


 帝政歴三三四年、春。

 クロウ家の屋敷に、いつもより早く朝が訪れた。

 まだ太陽が東の山並みから顔を出す前、屋敷の二階にあるレイブンの寝室では、窓の外から聞こえる小鳥の囀りに混じって、規則正しい足音が廊下を通り過ぎていった。

 普段であれば、その程度の物音で目を覚ますことなどなかった。

 しかし、この日のレイブンは違っていた。

 黒髪の間から覗く一対の猫耳が、毛布の中でぴくりと動いたのである。

「……ん?」

 少年は薄く目を開けた。

 部屋の中はまだ暗く、窓の向こうには夜明け前の青白い空が広がっている。

 寝台の脇に置かれた時計を確認すると、普段の起床時間よりも一時間ほど早かった。

「……誰だろう」

 レイブンは毛布を押しのけ、寝台から起き上がった。

 黒い尻尾が寝間着の裾から伸び、眠気を振り払うようにゆっくりと揺れる。

 廊下から聞こえてきた足音は、既に階段の方へ遠ざかっていた。

 だが、その歩き方には聞き覚えがあった。

 一定の間隔で床を踏み、決して急ぐことなく進む足音。

 父、ヴァルターのものだった。

「……父さん?」

 レイブンは小さく呟き、寝台から降りた。

 扉を開けると、廊下の奥には薄明かりが灯っていた。

 階段の方から、衣服の擦れる音と低い話し声が聞こえる。

 少年は少し迷ったが、結局その声が気になり、静かに廊下を進み始めた。

 階段の踊り場まで来ると、一階の玄関広間に父の姿が見えた。

 ヴァルターは帝国軍の制服を着用し、肩には小さな鞄を掛けていた。

 その前には、母セレナが立っている。

「……こんなに早く出発しなければならないのですか?」

 セレナの声は穏やかだったが、その奥にはわずかな不安が滲んでいた。

「ああ。司令部からの召集だ。午前中には到着しておく必要がある」

「昨日は、しばらく休めるとおっしゃっていたのに……」

「状況が変わったらしい」

 ヴァルターはそう答え、手袋をはめた。

「国境方面の警戒態勢が引き上げられた。教育部門にも追加の任務が割り当てられるそうだ」

 セレナは小さく息を吐いた。

「……連邦共和国との関係は、そこまで悪くなっているのですね」

「まだ外交交渉は続いている。すぐに戦争になると決まったわけではない」

「それでも、あなたが呼ばれるほどなのでしょう?」

 ヴァルターは一瞬だけ言葉を止めた。

 その沈黙が、何よりも雄弁だった。

 レイブンは階段の手すりに掴まり、二人の会話を聞いていた。

 連邦共和国。

 国境。

 警戒態勢。

 どれも、最近父の口からよく聞く言葉だった。

 しかし、それらが何を意味しているのか、少年にはまだ分からなかった。

 ただ、母がいつもより寂しそうな顔をしていることだけは理解できた。

「……父さん?」

 思わず声が漏れた。

 ヴァルターとセレナが同時に振り返る。

 階段の途中に立つ息子の姿を見つけると、ヴァルターは少し驚いたような表情を浮かべた。

「レイブン? どうした、こんな時間に」

「……父さんの足音が聞こえたから」

 少年はゆっくりと階段を下りた。

 裸足のまま冷たい床へ足をつけると、セレナが慌てて近づいてきた。

「もう、レイブン。そんな格好で出てきたら風邪を引いてしまいますよ」

「……ごめんなさい」

 セレナは息子の肩へ薄い上着を掛けた。

 レイブンはそれを押さえながら、父を見上げた。

「父さん、また仕事?」

「ああ。少し早く出なければならなくなった」

「昨日は、今日も一緒にいられるって……」

 その言葉に、ヴァルターの表情がわずかに曇った。

 昨日、庭園で息子と競走をした時、彼は翌日もできる限り時間を取ると約束していた。

 しかし、軍からの召集はその予定を簡単に変えてしまった。

「……すまない、レイブン」

 ヴァルターは膝を折り、息子と目線を合わせた。

「約束を守れなくなってしまった」

 少年は唇を結んだ。

 黒い猫耳が少しだけ伏せられる。

「……いつ帰ってくるの?」

「今のところ、数日だと聞いている」

「……本当?」

「ああ。ただ、仕事の都合で少し延びるかもしれない」

 レイブンは父の顔をじっと見つめた。

 普段のヴァルターは、どんな時でも落ち着いている。

 息子が悪戯をして叱られる時も、勉強で分からないことを尋ねる時も、父はいつも同じように話してくれた。

 だが、今朝の父は少し違って見えた。

 笑ってはいるものの、その表情の奥には、何かを考え続けているような影があった。

「……父さん」

「何だ?」

「仕事って、そんなに大事なの?」

 ヴァルターは息子の問いに、すぐには答えなかった。

 セレナも黙って二人を見守っている。

 やがて、ヴァルターは静かに頷いた。

「ああ。大事な仕事だ」

「……僕よりも?」

 その一言に、セレナの表情が変わった。

 ヴァルターも、わずかに目を見開いた。

 レイブンは俯いていた。

 決して父を責めたいわけではなかった。

 ただ、昨日まで一緒に笑っていた父が、また遠くへ行ってしまうことが寂しかった。

 ヴァルターはしばらく息子を見つめた後、ゆっくりと両肩へ手を置いた。

「レイブン」

「……うん」

「お前より大事な仕事なんて、俺にはない」

 少年が顔を上げた。

「……本当?」

「ああ」

 ヴァルターは真っ直ぐに息子を見つめた。

「だが、俺が軍人として働くのは、お前や母さんが安心して暮らせる国を守るためでもあるんだ」

「……僕たちを守るため?」

「そうだ」

 ヴァルターは頷いた。

「家族を守ることと、国を守ることは、時には繋がっている。だが、軍人だからといって家族を大切にしなくていいわけじゃない。そこは、忘れてはいけないことだ」

 レイブンは父の言葉を聞きながら、少しずつ表情を緩めた。

「……じゃあ、父さんは僕たちのために仕事してるの?」

「もちろんだ」

 ヴァルターは微笑んだ。

「それに、俺だけじゃない。多くの人が、それぞれ大切なものを守るために働いている」

 少年は小さく頷いた。

「……分かった」

 ヴァルターは息子の頭を撫でた。

「いい子だ」

 その手の温もりに、レイブンは嬉しそうに目を細めた。

 しかし、すぐに何かを思いついたように顔を上げた。

「父さん!」

「何だ?」

「僕も大きくなったら、軍人になる!」

 セレナが驚いたように息子を見た。

「レイブン?」

 ヴァルターは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて小さく笑った。

「そうか」

「うん! 父さんみたいに強くなって、母さんも父さんも守る!」

 少年は胸を張った。

 その姿はまだ幼く、軍人という仕事の重さなど知る由もなかった。

 だが、ヴァルターはその言葉を軽く扱わなかった。

「……ありがとう、レイブン」

 彼は息子の肩へ手を置いた。

「だが、軍人になるかどうかは、大きくなってから自分で決めなさい」

「……どうして?」

「軍人になることだけが、人を守る方法ではないからだ」

 ヴァルターは静かに続けた。

「医者も、教師も、農家も、技術者も、それぞれ違う形で人々の暮らしを支えている。お前がどんな道を選んでも、俺は応援する」

 レイブンは少し考え込んだ。

「……じゃあ、僕が軍人になりたいって言ったら?」

「その時は、軍人として必要なことを教えてやる」

「本当!?」

「ああ。ただし、厳しいぞ」

 ヴァルターが笑うと、レイブンも嬉しそうに笑った。

「大丈夫! 僕、頑張るから!」

「そうか。楽しみにしている」

 セレナは二人のやり取りを見守りながら、穏やかに微笑んでいた。

 しかし、その胸の奥には、言葉にできない不安が残っていた。

 夫が軍人であること。

 息子がその背中に憧れていること。

 それ自体は誇らしいことだった。

 だが、もし本当に戦争が始まれば、家族の未来は大きく変わってしまうかもしれない。

 セレナはその考えを振り払うように、息子の肩へ手を置いた。

「さあ、レイブン。お父さんをお見送りしましょう」

「うん!」

 ヴァルターは立ち上がり、鞄を肩へ掛け直した。

 玄関の外では、軍用車両のエンジンが静かに唸っている。

 彼は妻と息子へ向き直った。

「それじゃあ、行ってくる」

「……気をつけてくださいね」

 セレナが答えた。

 レイブンも元気よく手を上げた。

「父さん! 行ってらっしゃい!」

 ヴァルターは二人へ微笑み、右手を軽く上げた。

「ああ。行ってくる」

 そして、玄関を出ていった。

 軍用車両の扉が閉まり、エンジン音が少し大きくなる。

 やがて車両はゆっくりと動き始め、屋敷の門へ向かって進んでいった。

 レイブンは玄関先に立ち、父の乗った車が見えなくなるまで手を振り続けた。

 その隣では、セレナが静かに息子の肩を抱いていた。

「……母さん」

「なあに?」

「父さん、ちゃんと帰ってくるよね?」

 セレナは一瞬だけ言葉を止めた。

 だが、すぐに優しく微笑んだ。

「ええ。お父さんは約束を守る人ですから」

「……うん」

 レイブンは小さく頷いた。

 それでも、しばらく門の方を見つめていた。

 朝日が昇り始め、屋敷の庭園が柔らかな光に包まれていく。

 鳥たちはいつものように鳴き、木々は春の風に揺れていた。

 何も変わらない朝だった。

 ただ一つ、父の姿がそこにないことを除けば。

 その日の午前中、レイブンはいつもより静かだった。

 普段であれば庭園を駆け回り、使用人たちに質問を繰り返しているはずの少年が、この日は書斎の前で立ち止まっていた。

 父が不在の間、書斎へ入ることは禁じられていなかった。

 ただし、軍務に関する書類や機密資料には触れてはいけないと、以前から厳しく教えられていた。

 レイブンは扉を開け、室内へ入った。

 書斎には大きな机と本棚があり、壁には帝国と周辺諸国を描いた地図が掲げられている。

 机の上には、父が普段使っている万年筆と、幾つかの書類が整然と並べられていた。

 少年は椅子へ近づき、父がいつも座っている場所を見つめた。

「……父さん、ここで仕事してるんだよね」

 彼は小さく呟いた。

 そして、壁の地図へ目を向けた。

 帝国の領土は広く、その周囲には幾つもの国家が存在している。

 中でも、連邦共和国との国境線は長く、複雑に入り組んでいた。

 レイブンは地図へ近づき、指先でその線をなぞった。

「……ここが、連邦共和国」

 昨日の朝食で父から教わった言葉を思い出す。

 国境。

 国家。

 軍人。

 そして、守るべきもの。

 少年は地図を見つめながら、少し考え込んだ。

「……どうして、国同士で喧嘩するんだろう」

 その疑問に答えてくれる者は、今は誰もいなかった。

 やがて、背後から静かな足音が聞こえた。

「レイブン?」

 振り返ると、セレナが扉の前に立っていた。

「母さん」

「こんなところにいたのね。探しましたよ」

「……ごめんなさい」

 セレナは室内へ入り、息子の隣へ立った。

「何を見ていたの?」

「地図」

「地図?」

「うん。父さんが昨日、国境の話をしてくれたでしょ?」

「ええ」

「それで、もっと知りたくなったんだ」

 セレナは息子の視線を追い、壁の地図を見つめた。

「……そう」

 彼女は少し考え、少年の隣へしゃがみ込んだ。

「レイブン。あなたは、どうして国と国が争うと思う?」

 少年は首を傾げた。

「……欲しいものがあるから?」

「それも理由の一つかもしれませんね」

「じゃあ、どうして話し合わないの?」

 セレナは小さく息を吐いた。

「話し合っても、互いに譲れないことがあるのでしょうね」

「……でも、喧嘩したら痛いよね」

「ええ。そうですね」

 セレナは息子の頭を撫でた。

「だからこそ、争わずに済む方法を考えることが大切なんです」

 レイブンはしばらく黙っていた。

 やがて、母へ顔を向けた。

「……母さん」

「なあに?」

「父さんが戦争に行くことって、あるの?」

 その質問に、セレナの表情がわずかに強張った。

 軍人の妻として、いつか聞かれるかもしれないと思っていた言葉だった。

 だが、実際に七歳の息子から尋ねられると、すぐには答えられなかった。

「……そうですね」

 セレナは静かに口を開いた。

「お父さんは軍人ですから、国から命令があれば、危険な場所へ行かなければならないこともあります」

「……危険な場所?」

「ええ」

「……帰ってこられないこともあるの?」

 セレナは息を呑んだ。

 少年の金色を帯びた瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。

 そこには、純粋な不安が浮かんでいた。

 セレナは息子を抱き寄せた。

「……レイブン」

 少年は母の胸元へ顔を埋めた。

「……僕、父さんが帰ってこないの、嫌だ」

「ええ。お母さんもです」

 セレナは静かに答えた。

「だから、無事に帰ってきてほしいと願っています」

「……絶対に帰ってくるって、言えないの?」

 その言葉に、セレナは目を閉じた。

 簡単に「絶対」と言ってしまえば、息子を安心させることはできるだろう。

 しかし、軍人の妻として、彼女はその言葉の重さを知っていた。

 だからこそ、嘘をつきたくなかった。

「……お父さんは、帰ってくるためにできることを全部する人ですよ」

 セレナはゆっくりと答えた。

「そして、私たちも、お父さんが帰ってこられる場所を守っていましょう」

 レイブンは顔を上げた。

「……帰ってこられる場所?」

「ええ。家族が待っている家です」

 セレナは微笑んだ。

「お父さんが疲れて帰ってきた時に、『おかえりなさい』と言ってあげられる場所を、私たちで守るんです」

 少年はしばらく考え込んだ。

 そして、小さく頷いた。

「……分かった」

 セレナは息子の頭を撫でた。

「いい子ですね」

 レイブンは母の手を握った。

「じゃあ、僕も母さんを守る」

「まあ」

「父さんがいない間、僕が母さんを守るから!」

 セレナは驚いたように目を見開いた。

 そして、優しく微笑んだ。

「ありがとう、レイブン」

 少年は少し照れたように笑った。

 その日の午後、レイブンは書斎から持ち出した一冊の本を読み始めた。

 帝国の歴史と地理について書かれた、子供向けの解説書だった。

 難しい言葉が出てくるたびに母へ尋ね、地図と照らし合わせながら少しずつ理解を深めていく。

 その姿は、普段の好奇心旺盛な少年そのものだった。

 しかし、セレナには分かっていた。

 息子の中で、何かが少しずつ変わり始めていることを。

 父の不在。

 国境の緊張。

 そして、軍人という仕事への憧れ。

 それらが、まだ幼いレイブンの心に小さな種を蒔いていた。

 夕方になると、屋敷の使用人が一通の手紙を持ってきた。

「奥様、旦那様からの伝言が届いております」

 セレナは封書を受け取り、静かに開いた。

 そこには、ヴァルターの筆跡で短い文章が記されていた。

『無事に司令部へ到着した。任務の詳細はまだ不明だが、数日以内に帰宅できる見込みだ。レイブンには、約束を忘れていないと伝えてほしい。』

 セレナはその文章を読み、安堵の息を吐いた。

「……良かった」

 レイブンが顔を上げた。

「母さん?」

「お父さんからお手紙ですよ」

「本当!?」

 少年は椅子から飛び降り、母の元へ駆け寄った。

 セレナは手紙を見せながら、優しく読み上げた。

 レイブンは真剣な表情で聞いていたが、最後の一文を聞いた瞬間、顔を輝かせた。

「……約束、覚えててくれたんだ!」

「ええ」

「じゃあ、帰ってきたらまた競走できるね!」

「そうですね」

 セレナは微笑んだ。

 少年は嬉しそうに手紙を見つめた。

 そして、何かを思いついたように顔を上げた。

「母さん!」

「なあに?」

「僕も父さんに手紙を書く!」

「いいですね。何を書きますか?」

 レイブンは少し考えた。

 そして、元気よく答えた。

「早く帰ってきてね、って!」

 セレナは小さく笑った。

「それなら、きっとお父さんも喜びますよ」

 その夜、レイブンは机に向かい、慣れない文字で一通の手紙を書いた。

 何度も書き直し、時には母に綴りを教えてもらいながら、ようやく短い文章を完成させた。

『父さんへ。

 お仕事、おつかれさま。

 僕は今日、母さんと地図の勉強をしました。

 父さんが帰ってきたら、また一緒に走りたいです。

 今度は絶対に勝つからね。

 早く帰ってきてください。

 レイブンより。』

 書き終えた少年は、満足そうに頷いた。

「……できた!」

 セレナは手紙を受け取り、丁寧に読んだ。

「とても上手に書けていますよ」

「本当?」

「ええ。お父さんもきっと喜びます」

 レイブンは嬉しそうに笑った。

 セレナは手紙を封筒へ入れ、翌朝、軍の連絡便で届けることを約束した。

 その夜、レイブンはいつもより早く寝台へ入った。

 父が帰ってくる日を楽しみにしながら、毛布の中で静かに目を閉じる。

 黒い猫耳が小さく動き、尻尾がゆっくりと丸くなった。

 やがて、少年は穏やかな寝息を立て始めた。

 その頃、帝国軍司令部の一室では、ヴァルターが上官から新たな報告を受けていた。

 机の上には、帝国と連邦共和国の国境地帯を描いた地図が広げられている。

 赤い印が幾つも書き込まれ、各地の部隊配置が細かく記されていた。

「……連邦共和国軍の増強は、想定以上の規模です」

 報告を行っていた将校が、険しい表情で説明した。

「国境付近の機甲部隊が再配置され、砲兵部隊も前進しています。偵察部隊からは、複数の補給集積地が新設されたとの報告が入っています」

 ヴァルターは地図を見つめた。

「……演習だけで説明できる動きではないな」

「はい。上層部も同じ見解です」

 将校は一枚の書類を差し出した。

「そのため、教育部門にも臨時の任務が割り当てられました。新たに編成される部隊への訓練支援と、既存部隊の即応能力評価です」

 ヴァルターは書類を受け取り、内容を確認した。

 そこには、今後数週間にわたる訓練計画と、複数の部隊への指導任務が記されていた。

「……了解した」

 彼は静かに答えた。

「必要な準備を進めよう」

 将校は敬礼し、部屋を後にした。

 ヴァルターは一人、机の前に残された。

 窓の外には、夜の司令部が広がっている。

 遠くでは軍用車両のエンジン音が響き、兵士たちが慌ただしく移動していた。

 彼は胸元から、小さな写真を取り出した。

 そこには、セレナとレイブンが並んで写っていた。

 庭園で撮影した、何気ない一枚だった。

 ヴァルターはその写真をしばらく見つめた。

「……レイブン」

 小さく息を吐く。

「約束は、忘れていないぞ」

 そして、写真を大切に胸元へ戻した。

 帝国と連邦共和国の対立は、確実に深まり続けていた。

 だが、ヴァルターには守りたいものがあった。

 家族。

 故郷。

 そして、まだ戦争の意味を知らない子供たちの未来。

 そのために、彼は軍人としての責務を果たそうとしていた。

 夜の司令部では、遅くまで明かりが消えることはなかった。

 国境の向こうでは、連邦共和国軍の部隊が静かに移動を続けている。

 互いに銃口を向けることのないまま、二つの国家は少しずつ、後戻りの難しい場所へ近づいていた。

 そして、その影はまだ幼いレイブンの人生にも、確実に伸び始めていた。

 それでも、クロウ家の屋敷では、少年が父の帰還を信じて眠っていた。

 机の上には、書き終えたばかりの手紙。

 窓の外には、春の月。

 そして、少年の心には、父と交わした一つの約束が残っていた。

 いつか、父さんみたいに強くなる。

 その願いが、やがて一人の兵士の人生を形作っていくことを、この時のレイブンはまだ知らなかった。

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