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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第一章 クロウ家の記憶
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第3話 クロウ家の朝

第3話 クロウ家の朝


 帝政歴三三四年、春。

 帝国北部に位置するクロウ家の邸宅では、朝の陽光が東向きの窓から差し込み、長い廊下を淡い黄金色に染めていた。

 前夜まで降っていた雨は夜明け前に止み、庭園の芝生には細かな水滴が残っている。屋敷を囲む木々の枝では小鳥たちが囀り、開け放たれた窓から入り込む風が、薄いカーテンを静かに揺らしていた。

 その穏やかな朝を迎えた屋敷の二階で、一人の少年が寝台の上に丸くなっていた。

 黒髪の間から覗く一対の猫耳は、掛け布団の外に出たまま、時折ぴくりと動いている。尻尾は毛布の端から垂れ、眠りの深さを物語るように力なく揺れていた。

 レイブン・S・クロウ。

 帝政歴三二七年十一月二十五日に生まれた、クロウ家の長男である。

 七歳になった彼は、同年代の子供たちと比べても好奇心が旺盛で、屋敷の中では使用人たちを困らせることも珍しくなかった。もっとも、悪戯をして人を困らせるというより、興味を持ったものを確かめずにはいられない性格だった。

 庭師が使う道具を見つければ、その用途を尋ねる。

 父の書斎に置かれた地図を見れば、描かれている国境線が何を意味するのか知りたがる。

 母が読んでいる本に知らない言葉があれば、納得するまで質問を繰り返す。

 そんな少年だった。

 しかし、どれほど好奇心が旺盛であっても、朝だけは別だった。

「レイブン。朝ですよ」

 寝室の扉を軽く叩く音とともに、柔らかな女性の声が響いた。

 返事はない。

「レイブン?」

 もう一度呼び掛けると、毛布の中で小さな動きがあった。

「……あと、五分」

 廊下に立っていたセレナ・クロウは、思わず笑みを浮かべた。

 白い猫耳を持つ彼女は、クロウ家の当主後継者であるヴァルター・A・クロウの妻であり、レイブンの母だった。

 朝の支度を終えたセレナは、淡い色合いの長袖の服を身にまとい、長い髪を後ろで緩くまとめている。穏やかな表情の中には、息子の返事を聞いたことで生まれた、少しばかりの呆れも混じっていた。

「その五分は、もう三回目ですよ」

「……じゃあ、最後の五分」

「昨日もそう言っていましたね」

 セレナは扉を開け、室内へ入った。

 窓のカーテンは閉められたままで、部屋の中には薄暗さが残っている。机の上には読みかけの本が二冊重ねられ、その隣には、前日に庭で拾ってきた小石や木の実が丁寧に並べられていた。

 寝台へ近づくと、毛布の端から覗いていた黒い尻尾が、母の気配に反応するように小さく動いた。

「レイブン、今日はお父さんがお休みですよ」

 その一言で、毛布の中の動きが止まった。

「……本当?」

「ええ。昨日の夜、そうおっしゃっていました」

 黒い猫耳がぴんと立つ。

 次の瞬間、レイブンは勢いよく上半身を起こした。

「父さん、今日いるの!?」

「いますよ。ただし、朝食の時間に遅れなければ、ですけれど」

 少年は壁時計を見た。

 そして、少しだけ顔を強張らせた。

「……もう、こんな時間?」

「だから、さっきから起こしているでしょう?」

「母さん、もっと早く起こしてよ!」

「三回も起こしました」

 セレナが微笑みながら答えると、レイブンは何も言い返せなくなった。

 寝台から飛び降り、慌てて洗面台へ向かおうとする。

 しかし、母はその背中へ声を掛けた。

「レイブン」

「なに?」

「尻尾」

 少年は足を止めた。

 振り返ると、寝間着の裾から伸びた黒い尻尾が、寝台の柱に引っ掛かっていた。

「あっ」

 慌てて向きを変えると、ようやく尻尾が外れる。

 セレナは口元へ手を当て、笑いを堪えた。

「急いでいる時ほど、落ち着きなさい」

「……はい」

 レイブンは少し頬を赤らめながら、今度こそ洗面台へ向かった。

 母はその後ろ姿を見送り、机の上に散らばっていた本を整えた。

 表紙には、帝国の地理と歴史に関する文字が並んでいる。

 七歳の子供が読むには少し難しい内容だったが、レイブンは父の書斎で見つけて以来、興味を持って読み進めていた。

 セレナは本の頁に挟まれていた紙片を見つけた。

 そこには、幼い筆跡で幾つもの地名が書き込まれていた。

 帝国。

 連邦共和国。

 交易王国。

 そして、まだ文字を覚えたばかりの少年らしい、少し歪んだ疑問文。

『どうして国と国には、せんがあるの?』

 セレナはその一文を見つめ、しばらく考え込んだ。

 帝国と連邦共和国の関係は、ここ数年で少しずつ悪化していた。国境付近では小規模な衝突が報告され、新聞には外交交渉の難航を伝える記事が並んでいる。

 だが、まだ七歳の息子に、その複雑な事情をどこまで話すべきなのか。

 セレナ自身にも、簡単な答えは見つからなかった。

「母さん!」

 洗面台の方から声が響いた。

「顔、洗ったよ!」

「はいはい。では、こちらへいらっしゃい」

 戻ってきたレイブンの髪は、予想どおり乱れていた。

 セレナは櫛を手に取り、黒髪を丁寧に整えていく。

「耳を動かさないでね」

「くすぐったいんだもん」

「じっとしていれば、すぐ終わりますよ」

 黒い猫耳の根元を避けながら櫛を通し、寝癖を直していく。

 レイブンは少し不満そうな顔をしていたが、やがて鏡の中の自分を確認すると満足そうに頷いた。

「よし!」

「何が『よし』なの?」

「父さんに会いに行く準備!」

 その答えに、セレナは優しく笑った。

「それなら、朝食の前にお父さんへ挨拶しないといけませんね」

「うん!」

 少年は母の手を取り、廊下へ飛び出した。

 クロウ家の屋敷は、古くから帝国に仕えてきた家門の歴史を感じさせる建物だった。

 長い廊下には歴代当主の肖像画が並び、壁には家門の紋章を刻んだ装飾が施されている。窓から差し込む光が磨かれた床に反射し、朝の静けさの中で二人の足音が柔らかく響いた。

 階段を下りる途中、レイブンは壁に飾られた一枚の肖像画を見上げた。

 そこには、厳格な表情をした年配の男性が描かれている。

「母さん」

「どうしたの?」

「あの人、おじいちゃん?」

 セレナは少年の視線を追った。

「ええ。アルベルトおじいさまですよ」

「いつも難しい顔してるね」

「ふふっ。そう見えるかもしれませんね」

「父さんも写真だと難しい顔するよ」

「……それは、少し似ているかもしれません」

 セレナは笑いながら答えた。

 アルベルト・A・クロウ。

 クロウ家第十四代当主。

 帝国軍に仕える家門の責任を背負いながら、息子ヴァルターを次代の当主として育ててきた人物だった。

 レイブンにとっては、少し厳しいが、会えば必ず何かを教えてくれる祖父でもあった。

「おじいちゃん、今日もいる?」

「今日は別のお屋敷にいらっしゃいますよ」

「そっか……」

 少年は少し残念そうに耳を伏せた。

 その様子を見たセレナは、優しく頭を撫でた。

「また今度、お手紙を書いてみたら?」

「うん! 今度はちゃんと字を間違えないようにする!」

「それは楽しみですね」

 二人が階段を下りきると、食堂の方から焼きたてのパンの香りが漂ってきた。

 その匂いに反応したレイブンの耳が、ぴくりと動いた。

「……今日、パン?」

「ええ。あなたの好きなものもありますよ」

「やった!」

 少年は思わず走り出しかけた。

 しかし、母の視線に気づくと、慌てて歩幅を小さくした。

「……廊下は走らない」

「よく覚えていましたね」

「昨日も言われたから」

「昨日だけではありませんけれど」

 セレナが笑うと、レイブンも照れくさそうに笑った。

 食堂の扉を開けると、広い室内には既に朝食が用意されていた。

 大きな窓から差し込む陽光が白いテーブルクロスを照らし、銀製の食器が柔らかな光を反射している。

 その食卓の奥に、一人の男性が座っていた。

 黒い猫耳を持ち、整えられた黒髪と落ち着いた眼差しが印象的な男性だった。

 ヴァルター・A・クロウ。

 帝国軍に所属する軍人であり、クロウ家の正式な家督後継者でもある。

 普段は軍の教育部門で教官として勤務しているため、家を空けることも少なくなかったが、この日は久しぶりに休暇を取っていた。

 ヴァルターは新聞から顔を上げ、食堂へ入ってきた息子を見た。

「おはよう、レイブン」

「父さん!」

 レイブンは嬉しそうに駆け寄った。

 ヴァルターは新聞を畳み、息子を迎えた。

「随分と元気だな」

「だって、父さん今日休みなんでしょ?」

「ああ。久しぶりにな」

「じゃあ、今日は一緒に遊べる?」

「朝食を食べ終えてからなら構わん」

「本当!?」

「ただし、まずは席に着け」

「うん!」

 少年は勢いよく椅子へ座った。

 その様子を見たセレナが、夫へ微笑みかける。

「あなた、今朝は随分と人気者ですね」

「普段、家にいないからだろう」

「それだけではありませんよ」

「そうか?」

「ええ。レイブンは、あなたのことが大好きなんです」

 その言葉に、レイブンは少し照れたように顔を伏せた。

「……母さん」

「違うの?」

「違わないけど……」

 ヴァルターは思わず笑った。

「そうか。それは嬉しいな」

 父の言葉を聞いて、レイブンの尻尾が小さく揺れた。

 朝食が始まると、食卓には穏やかな会話が広がった。

 セレナが用意したパンとスープを食べながら、レイブンは昨日読んだ本の話を始めた。

「父さん、昨日ね、帝国の地図を見てたんだ」

「ほう。どの地図だ?」

「書斎にあった、大きいやつ!」

「……ああ、あれか」

 ヴァルターは頷いた。

 帝国全土と周辺国家を描いた大型の地図は、彼が軍務で使用する資料の一つだった。

「それでね、聞きたいことがあるんだけど」

「何だ?」

「どうして国と国には、線があるの?」

 ヴァルターはパンを置いた。

 セレナも、息子の方へ目を向ける。

「線?」

「うん。地図には線があるでしょ? 帝国と連邦共和国の間にもあるし、他の国との間にもある。でも、外を歩いてても、そんな線は見えないよね?」

 少年は真剣な表情だった。

 ヴァルターはしばらく考え、ゆっくりと口を開いた。

「国境というのは、国と国の間にある境目のことだ」

「境目?」

「ああ。どこまでが帝国の領土で、どこからが別の国の領土なのか。それを決めるためのものだ」

「どうして決めるの?」

「国には、それぞれ法律や制度がある。暮らしている人々を守るためにも、どこまで責任を持つのかを明確にする必要があるんだ」

 レイブンは少し考え込んだ。

「……じゃあ、線がなかったら?」

「国同士で問題が起きやすくなることもある」

「問題って?」

「例えば、同じ土地を二つの国が自分たちのものだと主張したら、どうなると思う?」

 少年は眉を寄せた。

「……喧嘩になる?」

「そうだ。だからこそ、話し合いが必要になる」

「話し合いで決まらなかったら?」

 ヴァルターは一瞬、言葉を止めた。

 セレナが夫を見つめる。

 窓の外では、小鳥たちが庭園の木々を飛び回っていた。

「……その時こそ、互いに冷静でいなければならない」

 ヴァルターは静かに答えた。

「力で解決しようとすれば、多くの人が傷つく。だから、できる限り話し合いで解決するべきなんだ」

「でも、父さんは軍人なんでしょ?」

「ああ」

「軍人って、戦う人なんじゃないの?」

 その質問に、ヴァルターは息子を真っ直ぐに見つめた。

「レイブン。軍人の仕事は、戦うことだけじゃない」

「……そうなの?」

「そうだ。国を守るために備え、危険が迫った時には人々を守る。それが軍人の役目だ」

「じゃあ、戦わなくてもいいの?」

「戦わずに済むなら、それが一番いい」

 少年は驚いたように目を見開いた。

 ヴァルターは続けた。

「戦争になれば、兵士だけではなく、普通に暮らしている人々まで巻き込まれる。家を失う者もいれば、大切な人を失う者もいる。だから、戦争は簡単に始めていいものではない」

 レイブンは黙って父の話を聞いていた。

 まだ七歳の少年には、その言葉のすべてを理解することは難しかった。

 しかし、父の声がいつもより真剣であることだけは分かった。

「……父さん」

「何だ?」

「じゃあ、強い軍人って、どういう人?」

 ヴァルターは少し考えた。

 そして、静かに微笑んだ。

「守るべきものを見失わない人間だ」

「守るべきもの?」

「ああ。力を持っていても、それを何のために使うのか分からなければ、ただ危険なだけだ。大切なのは、誰かを傷つける力ではなく、誰かを守るために判断できることだ」

 レイブンは父の言葉を繰り返した。

「……守るために、判断する」

「そうだ」

 ヴァルターは息子の頭を優しく撫でた。

「今はまだ難しいだろう。だが、大きくなれば分かる」

 セレナが微笑んだ。

「それに、レイブンはまだ七歳なんですから。今はよく食べて、よく遊んで、たくさん勉強すればいいのよ」

「……うん!」

 少年は元気よく頷いた。

 その後、朝食は再び穏やかな雰囲気へ戻った。

 レイブンは父に庭で遊ぶ約束を取り付け、セレナは午後のお茶の準備について話し始めた。

 ヴァルターも久しぶりの休日を楽しむように、息子の話へ耳を傾けていた。

 しかし、食卓の端に置かれた新聞には、帝国と連邦共和国の外交関係に関する記事が掲載されていた。

 国境付近での軍事演習。

 外交交渉の難航。

 双方による部隊の増強。

 その見出しを見たヴァルターの表情が、一瞬だけ険しくなった。

 セレナはそれに気づいたが、何も言わなかった。

 レイブンは、そんな両親の様子に気づくことなく、食後の予定を楽しそうに話していた。

「父さん、今日は庭で走ろうよ!」

「走るのか?」

「うん! 今度こそ父さんに勝ちたい!」

「ほう。前回は随分と差があったはずだが」

「今度は違うもん!」

 ヴァルターは小さく笑った。

「分かった。では、朝食が終わったら庭へ出よう」

「やった!」

 レイブンの尻尾が嬉しそうに揺れた。

 その姿を見て、セレナも穏やかに笑った。

 朝食を終えると、レイブンは父の手を引きながら庭園へ向かった。

 広い庭には芝生が敷かれ、その周囲には花壇と木々が整然と並んでいる。石畳の小道が屋敷の裏手まで続き、その先には小さな池と東屋があった。

 春の風が吹き抜けると、木々の葉が柔らかく揺れた。

「父さん、ここからあの木まで!」

 レイブンは庭の端に立ち、少し離れた場所にある大きな樹木を指差した。

「競走か?」

「うん!」

「いいだろう」

 ヴァルターは上着を脱ぎ、近くの椅子へ置いた。

 普段は軍服姿でいることの多い父が、こうして動きやすい服装で庭に立っている姿は、レイブンにとって少し新鮮だった。

「準備はいいか?」

「いつでも!」

 少年は身体を低くし、尻尾でバランスを取りながら前方を見つめた。

 ヴァルターはその姿を見て、思わず微笑んだ。

「では……始め!」

 合図と同時に、レイブンが駆け出した。

 小さな足が芝生を蹴り、黒い尻尾が左右に揺れる。

 ヴァルターも走り始めたが、息子の速度に合わせて少し余裕を持っていた。

「父さん! 本気で走ってよ!」

「本気を出したら、お前が追いつけなくなるぞ」

「いいから!」

「……分かった」

 ヴァルターは少しだけ速度を上げた。

 すると、あっという間にレイブンとの距離が縮まり、次の瞬間には追い抜いていた。

「ええっ!?」

 少年は驚きながらも、必死に足を動かした。

 しかし、父との差はなかなか縮まらない。

 やがて大きな木へ先に到着したヴァルターが振り返ると、レイブンは数秒遅れて駆け込んできた。

「……はぁ、はぁ……」

 少年は膝に手をつき、荒い息を整えた。

「父さん……速すぎるよ……」

「まだまだ訓練が必要だな」

「……ずるい」

「何がだ?」

「父さん、大人だもん」

 ヴァルターは笑った。

「それはそうだ」

 レイブンは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに顔を上げた。

「でも、いつか絶対勝つから!」

「楽しみにしている」

 ヴァルターは息子の頭を撫でた。

 その手の温もりに、レイブンは嬉しそうに目を細めた。

 少し離れた場所では、セレナが二人の様子を見守っていた。

 彼女は庭園の椅子へ腰を下ろし、温かい紅茶を手にしている。

「あなた、あまり本気を出しすぎないでくださいね」

「これでも加減している」

「レイブンが悔しがっていますよ」

「それも成長の一つだ」

 セレナは小さく笑った。

 レイブンは父の手を引き、再び競走を始めようとする。

「もう一回!」

「まだ走るのか?」

「今度こそ勝つ!」

「よし。ならば、もう一度だ」

 父と息子は再び庭を駆け出した。

 その姿を見守りながら、セレナは静かに微笑んでいた。

 彼女にとって、こうした何気ない時間こそが何よりも大切だった。

 夫は軍人であり、いつ命令によって家を離れるか分からない。

 帝国と連邦共和国の関係も、決して安定しているとは言えなかった。

 それでも、今この瞬間だけは、家族が揃って笑っている。

 セレナは紅茶を一口飲み、庭を走る二人へ視線を向けた。

 レイブンが転びかけると、ヴァルターがすぐに手を伸ばして支える。

 少年は笑いながら立ち直り、再び父へ挑戦していた。

 その光景を見て、セレナは小さく呟いた。

「……この時間が、ずっと続けばいいのに」

 春の風が、その声を庭園の木々の間へ運んでいった。

 やがて昼が近づく頃、屋敷の玄関に一台の軍用車両が停車した。

 運転席から降りたのは、帝国軍の制服を着た若い将校だった。

 彼は玄関で使用人に身分を告げ、ヴァルターへの面会を求めた。

 庭園にいたヴァルターは、その知らせを受けると、息子との遊びを中断した。

「……軍からか」

 セレナが静かに尋ねた。

「ええ。急ぎの連絡だそうです」

 ヴァルターは一瞬だけ表情を引き締めたが、すぐに息子へ向き直った。

「レイブン、少しだけ待っていてくれるか?」

「……父さん、仕事?」

「ああ。話を聞くだけだ。すぐ戻る」

「本当?」

「約束する」

 レイブンは少し残念そうに耳を伏せたが、やがて頷いた。

「……分かった」

 ヴァルターは息子の頭を撫で、屋敷へ戻っていった。

 その背中を、レイブンはじっと見つめていた。

 父が軍人であることは知っていた。

 だが、その仕事が何を意味するのか、まだ十分には理解していなかった。

 しばらくして、屋敷の書斎でヴァルターは将校から一通の封書を受け取った。

 封には帝国軍の紋章が押されている。

 内容を確認したヴァルターの表情が、少しずつ険しくなった。

「……国境方面の部隊増強か」

「はい。連邦共和国軍の動きが活発化しています。上層部は警戒態勢の強化を決定しました」

「教育部門にも影響が出るのか?」

「予備役を含む人員の再配置が検討されています。教官経験者にも、追加任務が命じられる可能性があります」

 ヴァルターは書類を閉じた。

「了解した。正式な命令が下り次第、対応する」

「ありがとうございます」

 将校は敬礼し、書斎を後にした。

 ヴァルターはしばらく机の上に置かれた封書を見つめていた。

 窓の外からは、庭園で遊ぶレイブンの笑い声が聞こえてくる。

 その声を聞きながら、彼は静かに息を吐いた。

「……まだ、早いだろう」

 誰に向けた言葉でもなかった。

 帝国と連邦共和国の対立は、長い年月をかけて深まってきた。

 軍人である以上、いずれ大きな衝突が起こる可能性があることは理解していた。

 しかし、だからといって、それを望んでいるわけではない。

 ヴァルターは封書を引き出しへ収め、窓の外を見つめた。

 庭園では、レイブンがセレナと話している。

 少年は何かを一生懸命説明しており、セレナは微笑みながら耳を傾けていた。

 その光景を見たヴァルターは、ゆっくりと表情を緩めた。

「……守らなければな」

 彼は小さく呟き、書斎を後にした。

 庭園へ戻ると、レイブンがすぐに駆け寄ってきた。

「父さん!」

「待たせたな」

「もう仕事終わった?」

「ああ。今日のところはな」

「じゃあ、続き!」

 ヴァルターは笑った。

「まだ勝負するつもりか?」

「もちろん!」

「よし。では、今度は少し距離を伸ばしてみるか」

「うん!」

 少年は嬉しそうに頷き、再び庭を駆け出した。

 ヴァルターはその背中を追いながら、先ほど受け取った封書の内容を思い返していた。

 帝国と連邦共和国。

 二つの国家の間に横たわる緊張は、少しずつ高まり続けている。

 それでも、今はまだ、家族と過ごす時間が残されていた。

 ヴァルターは走る速度を少し緩め、前方を駆ける息子を見つめた。

 黒い猫耳が風に揺れ、尻尾が身体の動きに合わせてしなやかに動いている。

 少年は振り返り、笑顔で叫んだ。

「父さん! 早く!」

「ああ、今行く!」

 ヴァルターは再び走り始めた。

 春の陽光が庭園を照らし、父と息子の影が芝生の上を伸びていく。

 その日、レイブンは何度挑戦しても父に勝つことができなかった。

 それでも、少年は最後まで諦めなかった。

 転んでも立ち上がり、息が切れても走り続け、父の背中を追いかけた。

 ヴァルターはそんな息子の姿を見ながら、どこか誇らしげに微笑んでいた。

 やがて夕暮れが近づくと、セレナが二人を屋敷へ呼び戻した。

 レイブンは泥のついた軍靴ではなく、小さな革靴を履いていたが、それでも足元はすっかり汚れていた。

「レイブン、また泥だらけですね」

「……ちょっとだけだよ」

「ちょっと、ですか?」

 セレナは少年の靴を見下ろした。

 レイブンも自分の足元を確認する。

 そして、少し困ったように笑った。

「……結構、汚れてるね」

「でしょう?」

 ヴァルターが隣で笑った。

「今日はよく走ったからな」

「あなたまで甘やかさないでください」

「いや、事実を言っただけだ」

 セレナは小さくため息をついたが、その表情は穏やかだった。

「さあ、二人とも。夕食の前に身体を綺麗にしてくださいね」

「はーい!」

 レイブンは元気よく答え、屋敷の中へ駆け込もうとした。

 しかし、すぐに母の声が飛んできた。

「レイブン!」

 少年はぴたりと足を止めた。

「……廊下は走らない」

「そうです」

 セレナが微笑む。

 レイブンは照れくさそうに笑い、今度はゆっくりと歩き始めた。

 その後ろ姿を見ながら、ヴァルターは妻へ視線を向けた。

「……セレナ」

「はい?」

「今日、軍から連絡があった」

 セレナの表情が、わずかに変わった。

「……何かあったのですか?」

「国境方面の警戒態勢が強化されるらしい。教育部門にも影響が出るかもしれん」

「……そうですか」

 セレナは静かに頷いた。

 ヴァルターは妻の表情を見つめ、続けた。

「まだ正式な命令ではない。だが、しばらくは忙しくなるかもしれない」

「分かりました」

 セレナは少しだけ視線を落とした。

 そして、夫の手を取った。

「……あなた」

「何だ?」

「どうか、無理だけはしないでくださいね」

 ヴァルターは妻の手を握り返した。

「ああ。約束する」

 その言葉を聞いて、セレナはようやく微笑んだ。

 二人は並んで屋敷へ戻っていった。

 廊下の向こうからは、レイブンの元気な声が聞こえてくる。

「父さん! 母さん! 早く!」

 ヴァルターは思わず笑った。

「まったく、元気な奴だ」

「あなたに似たんですよ」

「……そうかもしれんな」

 セレナも笑った。

 その日の夕食は、いつもより少し賑やかだった。

 レイブンは父との競走について何度も話し、ヴァルターはその度に息子の挑戦を受けた時のことを思い出して笑った。

 セレナは二人の話を聞きながら、時折呆れたように首を振っていたが、その表情には確かな幸福が浮かんでいた。

 やがて夜が更け、屋敷の明かりが一つずつ消えていく。

 レイブンは自室の寝台へ入り、母に毛布を掛けてもらっていた。

「母さん」

「なあに?」

「今日、父さんに勝てなかった」

「そうね。でも、よく頑張っていましたよ」

「……いつか、勝てるかな?」

 セレナは優しく微笑んだ。

「きっと勝てますよ。あなたが諦めなければ」

「……うん」

 少年は少し考え込んだ。

「母さん」

「今度は何?」

「僕も、父さんみたいになれるかな」

 セレナは一瞬だけ驚いたような顔をした。

 そして、ゆっくりと息子の頭を撫でた。

「レイブン」

「うん?」

「あなたは、あなたのままでいいんですよ」

「……どういうこと?」

「お父さんを尊敬するのは素敵なことです。でも、あなたにはあなたの人生があります。大きくなったら、自分で何をしたいのか考えて、決めればいいんです」

 レイブンは母の言葉を聞きながら、少しだけ首を傾げた。

「……難しいね」

「ふふっ。そうですね」

 セレナは微笑んだ。

「でも、今はまだ考えなくても大丈夫。ゆっくり大きくなってください」

「……うん」

 少年は小さく頷いた。

 セレナは毛布を整え、額へ優しく口づけを落とした。

「おやすみなさい、レイブン」

「おやすみ、母さん」

 部屋の明かりが消され、扉が静かに閉まった。

 窓の外では、春の夜風が木々を揺らしていた。

 レイブンは毛布の中で丸くなり、今日一日の出来事を思い返した。

 父との競走。

 母の笑顔。

 朝食の席で聞いた、国境についての話。

 そして、父が教えてくれた言葉。

『守るべきものを見失わない人間だ』

 少年はその意味を、まだ十分には理解していなかった。

 それでも、不思議と心に残っていた。

 やがて瞼が重くなり、レイブンは静かな寝息を立て始めた。

 黒い猫耳が小さく動き、尻尾が毛布の下でゆっくりと丸くなる。

 その夜、クロウ家の屋敷には穏やかな時間が流れていた。

 しかし、屋敷の書斎では、ヴァルターが再び机に向かっていた。

 昼間に受け取った帝国軍からの封書が、机の上に置かれている。

 彼はその内容を読み返し、窓の外へ視線を向けた。

 国境方面の部隊増強。

 連邦共和国軍の活動活発化。

 教育部門への追加任務の可能性。

 どれも、決して軽く扱えるものではなかった。

 ヴァルターは封書を閉じ、深く息を吐いた。

「……まだ、あいつには早い」

 その言葉は、誰にも聞かれることなく書斎の静けさへ消えていった。

 帝国と連邦共和国の間に広がる緊張は、確実に高まり続けていた。

 そして、その影は少しずつ、クロウ家の日常へも近づいていた。

 それでも、今夜だけは。

 屋敷の二階で眠る少年が、何も知らずに夢を見ていられる夜であってほしい。

 ヴァルターはそう願いながら、机の上の明かりを消した。

 窓の外では、春の月が静かに輝いていた。

 その光は、まだ戦争を知らない少年の寝室にも、優しく差し込んでいた。

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