第3話 クロウ家の朝
第3話 クロウ家の朝
帝政歴三三四年、春。
帝国北部に位置するクロウ家の邸宅では、朝の陽光が東向きの窓から差し込み、長い廊下を淡い黄金色に染めていた。
前夜まで降っていた雨は夜明け前に止み、庭園の芝生には細かな水滴が残っている。屋敷を囲む木々の枝では小鳥たちが囀り、開け放たれた窓から入り込む風が、薄いカーテンを静かに揺らしていた。
その穏やかな朝を迎えた屋敷の二階で、一人の少年が寝台の上に丸くなっていた。
黒髪の間から覗く一対の猫耳は、掛け布団の外に出たまま、時折ぴくりと動いている。尻尾は毛布の端から垂れ、眠りの深さを物語るように力なく揺れていた。
レイブン・S・クロウ。
帝政歴三二七年十一月二十五日に生まれた、クロウ家の長男である。
七歳になった彼は、同年代の子供たちと比べても好奇心が旺盛で、屋敷の中では使用人たちを困らせることも珍しくなかった。もっとも、悪戯をして人を困らせるというより、興味を持ったものを確かめずにはいられない性格だった。
庭師が使う道具を見つければ、その用途を尋ねる。
父の書斎に置かれた地図を見れば、描かれている国境線が何を意味するのか知りたがる。
母が読んでいる本に知らない言葉があれば、納得するまで質問を繰り返す。
そんな少年だった。
しかし、どれほど好奇心が旺盛であっても、朝だけは別だった。
「レイブン。朝ですよ」
寝室の扉を軽く叩く音とともに、柔らかな女性の声が響いた。
返事はない。
「レイブン?」
もう一度呼び掛けると、毛布の中で小さな動きがあった。
「……あと、五分」
廊下に立っていたセレナ・クロウは、思わず笑みを浮かべた。
白い猫耳を持つ彼女は、クロウ家の当主後継者であるヴァルター・A・クロウの妻であり、レイブンの母だった。
朝の支度を終えたセレナは、淡い色合いの長袖の服を身にまとい、長い髪を後ろで緩くまとめている。穏やかな表情の中には、息子の返事を聞いたことで生まれた、少しばかりの呆れも混じっていた。
「その五分は、もう三回目ですよ」
「……じゃあ、最後の五分」
「昨日もそう言っていましたね」
セレナは扉を開け、室内へ入った。
窓のカーテンは閉められたままで、部屋の中には薄暗さが残っている。机の上には読みかけの本が二冊重ねられ、その隣には、前日に庭で拾ってきた小石や木の実が丁寧に並べられていた。
寝台へ近づくと、毛布の端から覗いていた黒い尻尾が、母の気配に反応するように小さく動いた。
「レイブン、今日はお父さんがお休みですよ」
その一言で、毛布の中の動きが止まった。
「……本当?」
「ええ。昨日の夜、そうおっしゃっていました」
黒い猫耳がぴんと立つ。
次の瞬間、レイブンは勢いよく上半身を起こした。
「父さん、今日いるの!?」
「いますよ。ただし、朝食の時間に遅れなければ、ですけれど」
少年は壁時計を見た。
そして、少しだけ顔を強張らせた。
「……もう、こんな時間?」
「だから、さっきから起こしているでしょう?」
「母さん、もっと早く起こしてよ!」
「三回も起こしました」
セレナが微笑みながら答えると、レイブンは何も言い返せなくなった。
寝台から飛び降り、慌てて洗面台へ向かおうとする。
しかし、母はその背中へ声を掛けた。
「レイブン」
「なに?」
「尻尾」
少年は足を止めた。
振り返ると、寝間着の裾から伸びた黒い尻尾が、寝台の柱に引っ掛かっていた。
「あっ」
慌てて向きを変えると、ようやく尻尾が外れる。
セレナは口元へ手を当て、笑いを堪えた。
「急いでいる時ほど、落ち着きなさい」
「……はい」
レイブンは少し頬を赤らめながら、今度こそ洗面台へ向かった。
母はその後ろ姿を見送り、机の上に散らばっていた本を整えた。
表紙には、帝国の地理と歴史に関する文字が並んでいる。
七歳の子供が読むには少し難しい内容だったが、レイブンは父の書斎で見つけて以来、興味を持って読み進めていた。
セレナは本の頁に挟まれていた紙片を見つけた。
そこには、幼い筆跡で幾つもの地名が書き込まれていた。
帝国。
連邦共和国。
交易王国。
そして、まだ文字を覚えたばかりの少年らしい、少し歪んだ疑問文。
『どうして国と国には、せんがあるの?』
セレナはその一文を見つめ、しばらく考え込んだ。
帝国と連邦共和国の関係は、ここ数年で少しずつ悪化していた。国境付近では小規模な衝突が報告され、新聞には外交交渉の難航を伝える記事が並んでいる。
だが、まだ七歳の息子に、その複雑な事情をどこまで話すべきなのか。
セレナ自身にも、簡単な答えは見つからなかった。
「母さん!」
洗面台の方から声が響いた。
「顔、洗ったよ!」
「はいはい。では、こちらへいらっしゃい」
戻ってきたレイブンの髪は、予想どおり乱れていた。
セレナは櫛を手に取り、黒髪を丁寧に整えていく。
「耳を動かさないでね」
「くすぐったいんだもん」
「じっとしていれば、すぐ終わりますよ」
黒い猫耳の根元を避けながら櫛を通し、寝癖を直していく。
レイブンは少し不満そうな顔をしていたが、やがて鏡の中の自分を確認すると満足そうに頷いた。
「よし!」
「何が『よし』なの?」
「父さんに会いに行く準備!」
その答えに、セレナは優しく笑った。
「それなら、朝食の前にお父さんへ挨拶しないといけませんね」
「うん!」
少年は母の手を取り、廊下へ飛び出した。
クロウ家の屋敷は、古くから帝国に仕えてきた家門の歴史を感じさせる建物だった。
長い廊下には歴代当主の肖像画が並び、壁には家門の紋章を刻んだ装飾が施されている。窓から差し込む光が磨かれた床に反射し、朝の静けさの中で二人の足音が柔らかく響いた。
階段を下りる途中、レイブンは壁に飾られた一枚の肖像画を見上げた。
そこには、厳格な表情をした年配の男性が描かれている。
「母さん」
「どうしたの?」
「あの人、おじいちゃん?」
セレナは少年の視線を追った。
「ええ。アルベルトおじいさまですよ」
「いつも難しい顔してるね」
「ふふっ。そう見えるかもしれませんね」
「父さんも写真だと難しい顔するよ」
「……それは、少し似ているかもしれません」
セレナは笑いながら答えた。
アルベルト・A・クロウ。
クロウ家第十四代当主。
帝国軍に仕える家門の責任を背負いながら、息子ヴァルターを次代の当主として育ててきた人物だった。
レイブンにとっては、少し厳しいが、会えば必ず何かを教えてくれる祖父でもあった。
「おじいちゃん、今日もいる?」
「今日は別のお屋敷にいらっしゃいますよ」
「そっか……」
少年は少し残念そうに耳を伏せた。
その様子を見たセレナは、優しく頭を撫でた。
「また今度、お手紙を書いてみたら?」
「うん! 今度はちゃんと字を間違えないようにする!」
「それは楽しみですね」
二人が階段を下りきると、食堂の方から焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
その匂いに反応したレイブンの耳が、ぴくりと動いた。
「……今日、パン?」
「ええ。あなたの好きなものもありますよ」
「やった!」
少年は思わず走り出しかけた。
しかし、母の視線に気づくと、慌てて歩幅を小さくした。
「……廊下は走らない」
「よく覚えていましたね」
「昨日も言われたから」
「昨日だけではありませんけれど」
セレナが笑うと、レイブンも照れくさそうに笑った。
食堂の扉を開けると、広い室内には既に朝食が用意されていた。
大きな窓から差し込む陽光が白いテーブルクロスを照らし、銀製の食器が柔らかな光を反射している。
その食卓の奥に、一人の男性が座っていた。
黒い猫耳を持ち、整えられた黒髪と落ち着いた眼差しが印象的な男性だった。
ヴァルター・A・クロウ。
帝国軍に所属する軍人であり、クロウ家の正式な家督後継者でもある。
普段は軍の教育部門で教官として勤務しているため、家を空けることも少なくなかったが、この日は久しぶりに休暇を取っていた。
ヴァルターは新聞から顔を上げ、食堂へ入ってきた息子を見た。
「おはよう、レイブン」
「父さん!」
レイブンは嬉しそうに駆け寄った。
ヴァルターは新聞を畳み、息子を迎えた。
「随分と元気だな」
「だって、父さん今日休みなんでしょ?」
「ああ。久しぶりにな」
「じゃあ、今日は一緒に遊べる?」
「朝食を食べ終えてからなら構わん」
「本当!?」
「ただし、まずは席に着け」
「うん!」
少年は勢いよく椅子へ座った。
その様子を見たセレナが、夫へ微笑みかける。
「あなた、今朝は随分と人気者ですね」
「普段、家にいないからだろう」
「それだけではありませんよ」
「そうか?」
「ええ。レイブンは、あなたのことが大好きなんです」
その言葉に、レイブンは少し照れたように顔を伏せた。
「……母さん」
「違うの?」
「違わないけど……」
ヴァルターは思わず笑った。
「そうか。それは嬉しいな」
父の言葉を聞いて、レイブンの尻尾が小さく揺れた。
朝食が始まると、食卓には穏やかな会話が広がった。
セレナが用意したパンとスープを食べながら、レイブンは昨日読んだ本の話を始めた。
「父さん、昨日ね、帝国の地図を見てたんだ」
「ほう。どの地図だ?」
「書斎にあった、大きいやつ!」
「……ああ、あれか」
ヴァルターは頷いた。
帝国全土と周辺国家を描いた大型の地図は、彼が軍務で使用する資料の一つだった。
「それでね、聞きたいことがあるんだけど」
「何だ?」
「どうして国と国には、線があるの?」
ヴァルターはパンを置いた。
セレナも、息子の方へ目を向ける。
「線?」
「うん。地図には線があるでしょ? 帝国と連邦共和国の間にもあるし、他の国との間にもある。でも、外を歩いてても、そんな線は見えないよね?」
少年は真剣な表情だった。
ヴァルターはしばらく考え、ゆっくりと口を開いた。
「国境というのは、国と国の間にある境目のことだ」
「境目?」
「ああ。どこまでが帝国の領土で、どこからが別の国の領土なのか。それを決めるためのものだ」
「どうして決めるの?」
「国には、それぞれ法律や制度がある。暮らしている人々を守るためにも、どこまで責任を持つのかを明確にする必要があるんだ」
レイブンは少し考え込んだ。
「……じゃあ、線がなかったら?」
「国同士で問題が起きやすくなることもある」
「問題って?」
「例えば、同じ土地を二つの国が自分たちのものだと主張したら、どうなると思う?」
少年は眉を寄せた。
「……喧嘩になる?」
「そうだ。だからこそ、話し合いが必要になる」
「話し合いで決まらなかったら?」
ヴァルターは一瞬、言葉を止めた。
セレナが夫を見つめる。
窓の外では、小鳥たちが庭園の木々を飛び回っていた。
「……その時こそ、互いに冷静でいなければならない」
ヴァルターは静かに答えた。
「力で解決しようとすれば、多くの人が傷つく。だから、できる限り話し合いで解決するべきなんだ」
「でも、父さんは軍人なんでしょ?」
「ああ」
「軍人って、戦う人なんじゃないの?」
その質問に、ヴァルターは息子を真っ直ぐに見つめた。
「レイブン。軍人の仕事は、戦うことだけじゃない」
「……そうなの?」
「そうだ。国を守るために備え、危険が迫った時には人々を守る。それが軍人の役目だ」
「じゃあ、戦わなくてもいいの?」
「戦わずに済むなら、それが一番いい」
少年は驚いたように目を見開いた。
ヴァルターは続けた。
「戦争になれば、兵士だけではなく、普通に暮らしている人々まで巻き込まれる。家を失う者もいれば、大切な人を失う者もいる。だから、戦争は簡単に始めていいものではない」
レイブンは黙って父の話を聞いていた。
まだ七歳の少年には、その言葉のすべてを理解することは難しかった。
しかし、父の声がいつもより真剣であることだけは分かった。
「……父さん」
「何だ?」
「じゃあ、強い軍人って、どういう人?」
ヴァルターは少し考えた。
そして、静かに微笑んだ。
「守るべきものを見失わない人間だ」
「守るべきもの?」
「ああ。力を持っていても、それを何のために使うのか分からなければ、ただ危険なだけだ。大切なのは、誰かを傷つける力ではなく、誰かを守るために判断できることだ」
レイブンは父の言葉を繰り返した。
「……守るために、判断する」
「そうだ」
ヴァルターは息子の頭を優しく撫でた。
「今はまだ難しいだろう。だが、大きくなれば分かる」
セレナが微笑んだ。
「それに、レイブンはまだ七歳なんですから。今はよく食べて、よく遊んで、たくさん勉強すればいいのよ」
「……うん!」
少年は元気よく頷いた。
その後、朝食は再び穏やかな雰囲気へ戻った。
レイブンは父に庭で遊ぶ約束を取り付け、セレナは午後のお茶の準備について話し始めた。
ヴァルターも久しぶりの休日を楽しむように、息子の話へ耳を傾けていた。
しかし、食卓の端に置かれた新聞には、帝国と連邦共和国の外交関係に関する記事が掲載されていた。
国境付近での軍事演習。
外交交渉の難航。
双方による部隊の増強。
その見出しを見たヴァルターの表情が、一瞬だけ険しくなった。
セレナはそれに気づいたが、何も言わなかった。
レイブンは、そんな両親の様子に気づくことなく、食後の予定を楽しそうに話していた。
「父さん、今日は庭で走ろうよ!」
「走るのか?」
「うん! 今度こそ父さんに勝ちたい!」
「ほう。前回は随分と差があったはずだが」
「今度は違うもん!」
ヴァルターは小さく笑った。
「分かった。では、朝食が終わったら庭へ出よう」
「やった!」
レイブンの尻尾が嬉しそうに揺れた。
その姿を見て、セレナも穏やかに笑った。
朝食を終えると、レイブンは父の手を引きながら庭園へ向かった。
広い庭には芝生が敷かれ、その周囲には花壇と木々が整然と並んでいる。石畳の小道が屋敷の裏手まで続き、その先には小さな池と東屋があった。
春の風が吹き抜けると、木々の葉が柔らかく揺れた。
「父さん、ここからあの木まで!」
レイブンは庭の端に立ち、少し離れた場所にある大きな樹木を指差した。
「競走か?」
「うん!」
「いいだろう」
ヴァルターは上着を脱ぎ、近くの椅子へ置いた。
普段は軍服姿でいることの多い父が、こうして動きやすい服装で庭に立っている姿は、レイブンにとって少し新鮮だった。
「準備はいいか?」
「いつでも!」
少年は身体を低くし、尻尾でバランスを取りながら前方を見つめた。
ヴァルターはその姿を見て、思わず微笑んだ。
「では……始め!」
合図と同時に、レイブンが駆け出した。
小さな足が芝生を蹴り、黒い尻尾が左右に揺れる。
ヴァルターも走り始めたが、息子の速度に合わせて少し余裕を持っていた。
「父さん! 本気で走ってよ!」
「本気を出したら、お前が追いつけなくなるぞ」
「いいから!」
「……分かった」
ヴァルターは少しだけ速度を上げた。
すると、あっという間にレイブンとの距離が縮まり、次の瞬間には追い抜いていた。
「ええっ!?」
少年は驚きながらも、必死に足を動かした。
しかし、父との差はなかなか縮まらない。
やがて大きな木へ先に到着したヴァルターが振り返ると、レイブンは数秒遅れて駆け込んできた。
「……はぁ、はぁ……」
少年は膝に手をつき、荒い息を整えた。
「父さん……速すぎるよ……」
「まだまだ訓練が必要だな」
「……ずるい」
「何がだ?」
「父さん、大人だもん」
ヴァルターは笑った。
「それはそうだ」
レイブンは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに顔を上げた。
「でも、いつか絶対勝つから!」
「楽しみにしている」
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
その手の温もりに、レイブンは嬉しそうに目を細めた。
少し離れた場所では、セレナが二人の様子を見守っていた。
彼女は庭園の椅子へ腰を下ろし、温かい紅茶を手にしている。
「あなた、あまり本気を出しすぎないでくださいね」
「これでも加減している」
「レイブンが悔しがっていますよ」
「それも成長の一つだ」
セレナは小さく笑った。
レイブンは父の手を引き、再び競走を始めようとする。
「もう一回!」
「まだ走るのか?」
「今度こそ勝つ!」
「よし。ならば、もう一度だ」
父と息子は再び庭を駆け出した。
その姿を見守りながら、セレナは静かに微笑んでいた。
彼女にとって、こうした何気ない時間こそが何よりも大切だった。
夫は軍人であり、いつ命令によって家を離れるか分からない。
帝国と連邦共和国の関係も、決して安定しているとは言えなかった。
それでも、今この瞬間だけは、家族が揃って笑っている。
セレナは紅茶を一口飲み、庭を走る二人へ視線を向けた。
レイブンが転びかけると、ヴァルターがすぐに手を伸ばして支える。
少年は笑いながら立ち直り、再び父へ挑戦していた。
その光景を見て、セレナは小さく呟いた。
「……この時間が、ずっと続けばいいのに」
春の風が、その声を庭園の木々の間へ運んでいった。
やがて昼が近づく頃、屋敷の玄関に一台の軍用車両が停車した。
運転席から降りたのは、帝国軍の制服を着た若い将校だった。
彼は玄関で使用人に身分を告げ、ヴァルターへの面会を求めた。
庭園にいたヴァルターは、その知らせを受けると、息子との遊びを中断した。
「……軍からか」
セレナが静かに尋ねた。
「ええ。急ぎの連絡だそうです」
ヴァルターは一瞬だけ表情を引き締めたが、すぐに息子へ向き直った。
「レイブン、少しだけ待っていてくれるか?」
「……父さん、仕事?」
「ああ。話を聞くだけだ。すぐ戻る」
「本当?」
「約束する」
レイブンは少し残念そうに耳を伏せたが、やがて頷いた。
「……分かった」
ヴァルターは息子の頭を撫で、屋敷へ戻っていった。
その背中を、レイブンはじっと見つめていた。
父が軍人であることは知っていた。
だが、その仕事が何を意味するのか、まだ十分には理解していなかった。
しばらくして、屋敷の書斎でヴァルターは将校から一通の封書を受け取った。
封には帝国軍の紋章が押されている。
内容を確認したヴァルターの表情が、少しずつ険しくなった。
「……国境方面の部隊増強か」
「はい。連邦共和国軍の動きが活発化しています。上層部は警戒態勢の強化を決定しました」
「教育部門にも影響が出るのか?」
「予備役を含む人員の再配置が検討されています。教官経験者にも、追加任務が命じられる可能性があります」
ヴァルターは書類を閉じた。
「了解した。正式な命令が下り次第、対応する」
「ありがとうございます」
将校は敬礼し、書斎を後にした。
ヴァルターはしばらく机の上に置かれた封書を見つめていた。
窓の外からは、庭園で遊ぶレイブンの笑い声が聞こえてくる。
その声を聞きながら、彼は静かに息を吐いた。
「……まだ、早いだろう」
誰に向けた言葉でもなかった。
帝国と連邦共和国の対立は、長い年月をかけて深まってきた。
軍人である以上、いずれ大きな衝突が起こる可能性があることは理解していた。
しかし、だからといって、それを望んでいるわけではない。
ヴァルターは封書を引き出しへ収め、窓の外を見つめた。
庭園では、レイブンがセレナと話している。
少年は何かを一生懸命説明しており、セレナは微笑みながら耳を傾けていた。
その光景を見たヴァルターは、ゆっくりと表情を緩めた。
「……守らなければな」
彼は小さく呟き、書斎を後にした。
庭園へ戻ると、レイブンがすぐに駆け寄ってきた。
「父さん!」
「待たせたな」
「もう仕事終わった?」
「ああ。今日のところはな」
「じゃあ、続き!」
ヴァルターは笑った。
「まだ勝負するつもりか?」
「もちろん!」
「よし。では、今度は少し距離を伸ばしてみるか」
「うん!」
少年は嬉しそうに頷き、再び庭を駆け出した。
ヴァルターはその背中を追いながら、先ほど受け取った封書の内容を思い返していた。
帝国と連邦共和国。
二つの国家の間に横たわる緊張は、少しずつ高まり続けている。
それでも、今はまだ、家族と過ごす時間が残されていた。
ヴァルターは走る速度を少し緩め、前方を駆ける息子を見つめた。
黒い猫耳が風に揺れ、尻尾が身体の動きに合わせてしなやかに動いている。
少年は振り返り、笑顔で叫んだ。
「父さん! 早く!」
「ああ、今行く!」
ヴァルターは再び走り始めた。
春の陽光が庭園を照らし、父と息子の影が芝生の上を伸びていく。
その日、レイブンは何度挑戦しても父に勝つことができなかった。
それでも、少年は最後まで諦めなかった。
転んでも立ち上がり、息が切れても走り続け、父の背中を追いかけた。
ヴァルターはそんな息子の姿を見ながら、どこか誇らしげに微笑んでいた。
やがて夕暮れが近づくと、セレナが二人を屋敷へ呼び戻した。
レイブンは泥のついた軍靴ではなく、小さな革靴を履いていたが、それでも足元はすっかり汚れていた。
「レイブン、また泥だらけですね」
「……ちょっとだけだよ」
「ちょっと、ですか?」
セレナは少年の靴を見下ろした。
レイブンも自分の足元を確認する。
そして、少し困ったように笑った。
「……結構、汚れてるね」
「でしょう?」
ヴァルターが隣で笑った。
「今日はよく走ったからな」
「あなたまで甘やかさないでください」
「いや、事実を言っただけだ」
セレナは小さくため息をついたが、その表情は穏やかだった。
「さあ、二人とも。夕食の前に身体を綺麗にしてくださいね」
「はーい!」
レイブンは元気よく答え、屋敷の中へ駆け込もうとした。
しかし、すぐに母の声が飛んできた。
「レイブン!」
少年はぴたりと足を止めた。
「……廊下は走らない」
「そうです」
セレナが微笑む。
レイブンは照れくさそうに笑い、今度はゆっくりと歩き始めた。
その後ろ姿を見ながら、ヴァルターは妻へ視線を向けた。
「……セレナ」
「はい?」
「今日、軍から連絡があった」
セレナの表情が、わずかに変わった。
「……何かあったのですか?」
「国境方面の警戒態勢が強化されるらしい。教育部門にも影響が出るかもしれん」
「……そうですか」
セレナは静かに頷いた。
ヴァルターは妻の表情を見つめ、続けた。
「まだ正式な命令ではない。だが、しばらくは忙しくなるかもしれない」
「分かりました」
セレナは少しだけ視線を落とした。
そして、夫の手を取った。
「……あなた」
「何だ?」
「どうか、無理だけはしないでくださいね」
ヴァルターは妻の手を握り返した。
「ああ。約束する」
その言葉を聞いて、セレナはようやく微笑んだ。
二人は並んで屋敷へ戻っていった。
廊下の向こうからは、レイブンの元気な声が聞こえてくる。
「父さん! 母さん! 早く!」
ヴァルターは思わず笑った。
「まったく、元気な奴だ」
「あなたに似たんですよ」
「……そうかもしれんな」
セレナも笑った。
その日の夕食は、いつもより少し賑やかだった。
レイブンは父との競走について何度も話し、ヴァルターはその度に息子の挑戦を受けた時のことを思い出して笑った。
セレナは二人の話を聞きながら、時折呆れたように首を振っていたが、その表情には確かな幸福が浮かんでいた。
やがて夜が更け、屋敷の明かりが一つずつ消えていく。
レイブンは自室の寝台へ入り、母に毛布を掛けてもらっていた。
「母さん」
「なあに?」
「今日、父さんに勝てなかった」
「そうね。でも、よく頑張っていましたよ」
「……いつか、勝てるかな?」
セレナは優しく微笑んだ。
「きっと勝てますよ。あなたが諦めなければ」
「……うん」
少年は少し考え込んだ。
「母さん」
「今度は何?」
「僕も、父さんみたいになれるかな」
セレナは一瞬だけ驚いたような顔をした。
そして、ゆっくりと息子の頭を撫でた。
「レイブン」
「うん?」
「あなたは、あなたのままでいいんですよ」
「……どういうこと?」
「お父さんを尊敬するのは素敵なことです。でも、あなたにはあなたの人生があります。大きくなったら、自分で何をしたいのか考えて、決めればいいんです」
レイブンは母の言葉を聞きながら、少しだけ首を傾げた。
「……難しいね」
「ふふっ。そうですね」
セレナは微笑んだ。
「でも、今はまだ考えなくても大丈夫。ゆっくり大きくなってください」
「……うん」
少年は小さく頷いた。
セレナは毛布を整え、額へ優しく口づけを落とした。
「おやすみなさい、レイブン」
「おやすみ、母さん」
部屋の明かりが消され、扉が静かに閉まった。
窓の外では、春の夜風が木々を揺らしていた。
レイブンは毛布の中で丸くなり、今日一日の出来事を思い返した。
父との競走。
母の笑顔。
朝食の席で聞いた、国境についての話。
そして、父が教えてくれた言葉。
『守るべきものを見失わない人間だ』
少年はその意味を、まだ十分には理解していなかった。
それでも、不思議と心に残っていた。
やがて瞼が重くなり、レイブンは静かな寝息を立て始めた。
黒い猫耳が小さく動き、尻尾が毛布の下でゆっくりと丸くなる。
その夜、クロウ家の屋敷には穏やかな時間が流れていた。
しかし、屋敷の書斎では、ヴァルターが再び机に向かっていた。
昼間に受け取った帝国軍からの封書が、机の上に置かれている。
彼はその内容を読み返し、窓の外へ視線を向けた。
国境方面の部隊増強。
連邦共和国軍の活動活発化。
教育部門への追加任務の可能性。
どれも、決して軽く扱えるものではなかった。
ヴァルターは封書を閉じ、深く息を吐いた。
「……まだ、あいつには早い」
その言葉は、誰にも聞かれることなく書斎の静けさへ消えていった。
帝国と連邦共和国の間に広がる緊張は、確実に高まり続けていた。
そして、その影は少しずつ、クロウ家の日常へも近づいていた。
それでも、今夜だけは。
屋敷の二階で眠る少年が、何も知らずに夢を見ていられる夜であってほしい。
ヴァルターはそう願いながら、机の上の明かりを消した。
窓の外では、春の月が静かに輝いていた。
その光は、まだ戦争を知らない少年の寝室にも、優しく差し込んでいた。




