第2話 黒鴉の帰還
第2話 黒鴉の帰還
戦場に降り続いていた雨が止んだのは、帝国軍が連邦共和国軍の攻勢を退けてから、およそ一時間が経過した頃だった。
厚い雲の切れ間から差し込む夕日が、砲撃によって抉られた大地を照らしている。塹壕の底には濁った雨水が溜まり、破壊された土嚢や折れた木材が散乱していた。つい先ほどまで激しい銃撃戦が繰り広げられていた場所では、帝国軍の工兵たちが崩壊した防御施設の修復を始め、衛生兵が負傷者の収容に追われていた。
戦闘は終わった。
少なくとも、今日のところは。
連邦共和国軍は前線から後退し、帝国軍もまた、これ以上の追撃を行わない方針を決定していた。双方が被った損害は決して小さくなく、帝国軍の前線指揮所では、戦果の確認よりも先に負傷者の搬送と残存部隊の再編成が命じられていた。
その戦場から数キロメートル離れた後方基地へ向けて、帝国軍の車列がゆっくりと進んでいた。
先頭を走る装甲輸送車の後ろには、数台の軍用トラックが続いている。荷台には戦闘を終えた兵士たちが乗り込み、泥に汚れた小銃を抱えたまま、疲れ切った身体を揺らしていた。
「……やっと終わったな」
荷台の隅に座っていた若い兵士が、誰にともなく呟いた。
「終わったんじゃねえよ。今日の分が終わっただけだ」
隣にいた古参兵が答えると、若い兵士は顔をしかめた。
「分かってますよ。少しくらい夢を見させてください」
「夢を見るなら、せめて温かい飯にしとけ。明日のことを考えたって腹は膨れん」
「俺は風呂がいいですね。できれば一時間くらい」
「贅沢言うな。五分浴びられりゃ上等だ」
疲労の滲んだ笑い声が、荷台の中に広がった。
その一方で、車両の後部に腰掛けていた一人の青年は、会話に加わることなく、流れていく景色を眺めていた。
黒髪は雨と汗で乱れ、額には乾きかけた泥が付着している。帝国軍の戦闘服は胸元から左肩にかけて暗赤色に染まり、袖口にも幾つもの血痕が残っていた。
彼の傍らには、帝国軍制式戦闘散弾銃SG-44が置かれている。
レイブン・S・クロウ。
帝国軍の軍曹であり、今日の戦闘では連邦共和国軍が占拠していた前方塹壕へ単独で侵入し、その一角を制圧した兵士だった。
彼は右手の指をゆっくりと曲げ伸ばししながら、掌に残る鈍い感覚を確かめていた。
長時間にわたる戦闘では、どれほど訓練を積んだ兵士であっても身体に負担が蓄積する。銃の反動、装備の重量、泥の中での移動、そして何より、いつ攻撃されるか分からない状況で神経を張り詰め続けることによる疲労は、戦闘が終わった途端に表面化するものだった。
「クロウ軍曹」
向かいに座っていた兵士が声を掛けた。
「ん?」
「さっきの戦闘、本当に一人で敵の塹壕に入ったんですか?」
レイブンは視線を戻した。
「そうだが」
「……怖くなかったんですか?」
その質問に、彼は少しだけ考えた。
「怖かったさ」
あまりにもあっさりした返答だったため、兵士は目を瞬かせた。
「えっ?」
「敵の陣地に入り込んで、怖くないわけがないだろう。どこから撃たれるか分からないし、角を曲がった先に何人いるかも分からん。こっちが一度判断を間違えれば、それで終わりだ」
「でも、軍曹は……」
「怖くない人間が強いわけじゃない。怖くても必要なことを判断できるかどうかだ。少なくとも、俺はそう教わった」
レイブンはそう言って、車両の外へ目を向けた。
「それに、俺が敵陣へ入れたのは、お前たちが正面で踏ん張ってくれたからだ。全員が退いていたら、俺だってあそこには近づけなかった」
若い兵士はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。よく生き残ったな」
レイブンが軽く笑うと、兵士もようやく表情を緩めた。
車列は緩やかな坂を上り、やがて帝国軍基地の外周防壁が見え始めた。
監視塔には帝国旗が掲げられ、その下では警備兵が帰還車両の確認を行っている。正門の両側にはコンクリート製の防護壁と土嚢が積み上げられ、基地内部へ続く道路には軍用車両が何台も停車していた。
先頭車両が検問を通過すると、無線で帰還の報告が伝えられた。
「前線帰還部隊、入門確認! 各車両、指定駐車区域へ移動せよ!」
車列が基地内へ進み、兵舎近くの広場で停止した。
レイブンはSG-44を手に取り、荷台の後部から地面へ降り立った。濡れた軍靴が砂利を踏みしめ、肩に掛けた装備が小さく音を立てる。
「……ようやく帰ってきたか」
首を軽く回したところで、補給所の前にいた兵士がこちらを振り向いた。
そして、突然声を張り上げた。
「おい! 見ろよ、あれ!」
周囲にいた兵士たちが顔を上げる。
「クロウだ! 黒鴉が帰ってきたぞ!」
その一言をきっかけに、広場の空気が変わった。
「おおっ! 黒鴉!」
「無事だったか!」
「聞いたぞ、敵の塹壕を単独で制圧したんだってな!」
「さすがだぜ、クロウ!」
あちこちから歓声が上がり、整備作業をしていた兵士まで手を止めて振り返った。
レイブンは思わず足を止めた。
「……何だ、随分と大げさだな」
「大げさなもんか! お前が敵の側面を潰してくれなかったら、俺たちの防衛線は危なかったんだぞ!」
そう叫んだのは、前線で機関銃班を指揮していた古参の軍曹だった。頬には包帯が貼られていたが、本人はまるで気にしていない様子で笑っている。
「お前のせいで、連邦の連中が大混乱だったらしいじゃねえか!」
「こっちも随分と危なかったがな」
「それでも帰ってきた! それで十分だろ!」
軍曹は豪快に笑い、レイブンの肩を叩いた。
周囲から再び歓声が上がる。
「黒鴉! 黒鴉!」
「帝国の黒鴉に敬礼!」
誰かが冗談半分に敬礼すると、近くの兵士たちまで次々とそれに倣った。
レイブンは苦笑しながら右手を上げた。
「分かった、分かった。そんなに騒ぐな。俺一人で勝った戦闘じゃないんだぞ」
「謙遜するなって!」
「謙遜じゃない。事実だ」
レイブンは周囲の兵士たちを見渡した。
「前線を守った奴らも、負傷者を運んだ衛生兵も、弾薬を届けた補給班も、全員が仕事をしたから今日を乗り切れた。俺だけ褒められても困る」
その言葉に、古参軍曹がにやりと笑った。
「だからお前は黒鴉なんだよ」
「……どういう意味だ?」
「自分じゃ分からんだろうな」
「説明する気がないなら言うな」
周囲から笑い声が上がった。
レイブンも小さく笑い、片手を上げて仲間たちの声に応えた。
「ともかく、全員お疲れ。負傷した奴はちゃんと医務室へ行けよ。無理して明日動けなくなっても知らんぞ」
「お前が一番言われそうな台詞だな!」
「違いない!」
また笑い声が広がる。
その賑やかさを背に、レイブンは兵舎へ向かって歩き始めた。
基地の中では、戦場とは違う時間が流れていた。整備兵が車両の点検を行い、補給班が物資を運び、食堂の窓からは夕食の準備をする人々の姿が見える。
もちろん、ここも戦争の一部だった。
負傷者を運ぶ担架が廊下を通り、通信室では次の作戦に向けた連絡が絶え間なく交わされている。
それでも、砲弾が降り注ぐ塹壕に比べれば、基地の空気は遥かに穏やかだった。
レイブンは兵舎の入口で一度振り返り、広場を眺めた。
先ほどまで自分を称えていた兵士たちは、それぞれの仕事へ戻っている。
その姿を確認してから、彼は静かに扉を開けた。
まず向かったのは装備点検所だった。
SG-44の薬室と弾倉を確認し、安全処置を済ませたうえで整備担当者へ引き渡す。
「クロウ軍曹、お疲れさまです」
「お疲れ。こいつの点検を頼む。作動不良はなかったが、泥を随分被った」
整備兵はSG-44を受け取り、外装に残る泥を見て眉を上げた。
「……また派手に使いましたね」
「塹壕戦だったからな」
「噂は聞きましたよ。敵の塹壕を一人で制圧したとか」
「その話、どこまで広まってるんだ?」
「少なくとも整備班は全員知ってます」
「……勘弁してくれ」
レイブンが額を押さえると、整備兵は笑いながら受領記録を記入した。
「明日までには整備を終わらせます。それと軍曹、その軍服は早めに着替えた方がいいですよ」
「言われなくてもそのつもりだ」
「洗濯班が悲鳴を上げそうですね」
「俺もそう思う」
レイブンは苦笑し、装備点検所を後にした。
医務室で軽い擦過傷の処置を受けた後、ようやく兵舎の浴室へ向かう。
脱衣所には既に何人かの兵士がいたが、レイブンの姿を見ると、そのうちの一人が目を丸くした。
「うわっ、クロウ! お前、何だその軍服!」
「見れば分かるだろ。血だ」
「いや、それは分かるけどよ……どんだけ浴びたんだ?」
「数えてない」
レイブンは淡々と答え、上着の留め具を外した。
脱いだ軍服を広げると、胸元から左肩にかけて乾いた血が染み込み、泥と混ざって布地が硬くなっていた。
彼はしばらくそれを眺め、深いため息をついた。
「……これは、もう使えないかもしれんな」
「洗えば落ちるんじゃないか?」
「落ちると思うか?」
「……無理そうだな」
「だろう?」
レイブンは軍服を所定の回収袋へ入れ、残りの装備を脱いだ。
身体には幾つもの古い傷痕が残っている。肩や腕には今日の戦闘でついた小さな擦り傷もあったが、幸い深刻な負傷はなかった。
シャワー室へ入ると、彼は栓を開いた。
頭上から温かい湯が降り注ぎ、濡れた黒髪が額へ張り付く。
「……はぁ」
自然と、長い息が漏れた。
温水が首筋を伝い、肩から背中へ流れていく。
皮膚に付着していた泥と血が少しずつ洗い流され、足元の排水溝へ吸い込まれていった。
レイブンは両手で顔を覆い、しばらくそのまま立っていた。
目を閉じると、先ほどまでいた戦場の光景が浮かんだ。
崩れた塹壕の壁。
泥水に沈んだ軍靴。
至近距離から向けられた銃口。
そして、敵兵の悲鳴。
戦闘中は、そんなことを考えている余裕などなかった。
目の前に敵が現れれば、撃つ。
味方が危険に晒されれば、助ける。
退くべき時には退き、進むべき時には進む。
判断を間違えれば死ぬ。
それが戦場だった。
しかし、戦闘が終わり、こうして一人になると、嫌でも考えてしまうことがあった。
今日、自分が撃った兵士たちにも家族がいたのだろう。
帰りを待つ妻や子供がいた者もいるかもしれない。
あるいは、まだ若く、故郷に両親を残してきた者もいただろう。
それでも、銃を向け合った瞬間、互いに相手を倒さなければ生き残れなかった。
「……戦争ってのは、つくづく面倒なものだな」
レイブンは湯の中で呟いた。
誰かを殺すために軍人になったわけではない。
まして、敵兵の死を喜ぶためでもない。
ただ、自分が守りたいものを守るために、軍服を着た。
そのはずだった。
だが、戦場で何度も引き金を絞るうちに、守ることと奪うことの境界は、思っていた以上に曖昧になっていった。
レイブンは頭を振り、顔に残った泡を洗い流した。
考えたところで、今日という日が変わるわけではない。
それでも、考えることをやめてしまえば、何か大切なものまで失ってしまう気がした。
しばらくしてシャワーを止め、清潔な肌着と室内着に着替えた。
鏡の前に立つと、そこには返り血で染まった軍服の兵士ではなく、少し疲れた表情の青年が映っていた。
レイブンはタオルで髪を拭きながら、自分の顔を見つめた。
「……随分、老けた顔になったな」
苦笑して鏡から離れる。
脱衣所を出る頃には、外はすっかり夕暮れになっていた。
兵舎の二階へ上がり、廊下を奥へ進む。
突き当たり近くにある一室が、レイブンへ割り当てられた個室だった。
扉には小さな金属製の名札が取り付けられている。
RAVEN S. CROW
彼は鍵を差し込み、扉を開けた。
室内には、誰もいなかった。
簡素な寝台と机、衣装棚、それに私物を置くための小さな棚があるだけの部屋だったが、レイブンにとっては数少ない落ち着ける場所だった。
窓の外には基地の建物が並び、その向こうで夕日がゆっくりと沈みかけている。
「……ただいま」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
返事はない。
それでも、この言葉だけは部屋へ戻るたびに自然と口から出てしまう。
幼い頃、家に帰れば必ず誰かが返事をしてくれた。
母の声。
父の声。
そして、時には廊下を走って迎えに来る妹の声。
そんな記憶が、今でも身体に染みついているのかもしれなかった。
レイブンはタオルを椅子の背もたれへ掛け、机に置かれた書類を確認した。
翌朝の戦闘報告会議に関する通知と、補給品の受領記録。
どちらも急ぎのものではなかった。
椅子へ腰を下ろそうとした時、ふと棚の上に視線が向いた。
そこには、一枚の写真立てが飾られていた。
木製の枠は長年の使用によって角が擦り切れ、表面には細かな傷が残っている。
決して高価なものではない。
だが、レイブンはそれを何よりも大切にしていた。
「…………」
彼は椅子から立ち上がり、棚へ近づいた。
写真立てを手に取り、窓から差し込む夕日の方へ少し傾ける。
中に収められていたのは、古い家族写真だった。
中央には、まだ幼い頃の自分が立っている。
その背後には、帝国軍の軍服を着た父ヴァルター。
隣には、穏やかに微笑む母セレナ。
そして、母の傍らには、小さな妹ルナが写っていた。
四人とも、今の自分よりずっと穏やかな表情をしている。
レイブンは写真を見つめたまま、小さく笑った。
「……懐かしいな」
父の姿に目を向ける。
写真の中のヴァルターは、いつものように背筋を伸ばし、少し厳しい表情で正面を向いていた。
だが、その右手は幼いレイブンの肩に置かれている。
父が家族写真を撮る時、よくしていた仕草だった。
「親父……相変わらず、写真でも怖い顔してるな」
思わず、そんな言葉が口をついた。
母のセレナは、そんな父とは対照的に、優しい笑顔を浮かべている。
その姿を見た瞬間、レイブンの耳に、懐かしい声が蘇った。
『レイブン、帰ってきたらまず手を洗いなさい』
『分かってるよ、母さん』
『分かっている子は、泥だらけの靴で廊下を歩いたりしません』
『……ごめんなさい』
レイブンは苦笑した。
「……今の俺を見たら、何て言うだろうな」
返り血に染まった軍服を着て帰ってくる息子。
身体には傷が増え、銃を握ることにも慣れてしまった。
あの頃の母が見れば、きっと最初に心配するだろう。
そして、無事だと分かれば、いつものように少しだけ叱るに違いない。
写真の端には、まだ幼いルナが写っていた。
兄の服の裾を小さな手で掴み、こちらを見上げるような姿勢で笑っている。
レイブンはその姿を見て、目を細めた。
「……お前も、昔はこんなに小さかったんだよな」
幼い頃のルナは、何かにつけて兄の後をついて歩いていた。
庭へ出れば一緒についてきて、父の書斎へ向かえば扉の前まで追いかけてくる。
レイブンが少しでも姿を見せなくなると、屋敷の中を探し回ることさえあった。
その度に母が笑いながら妹を抱き上げ、父は困ったような顔をしていたものだった。
あの頃は、それが当たり前だった。
家族が揃って食事をし、庭で遊び、夜になれば同じ屋根の下で眠る。
そんな日々が、いつまでも続くものだと思っていた。
レイブンは写真立てを机へ運び、椅子に腰を下ろした。
夕日の光が写真の表面を照らしている。
彼は指先で木製の枠をなぞりながら、しばらく黙っていた。
やがて、写真の中の父へ視線を戻す。
「……なあ、親父」
返事があるはずもない。
それでも、レイブンは続けた。
「俺、少しはあんたに近づけたのかな」
かつて、父の背中はとても大きく見えた。
軍服に袖を通し、毎朝決まった時間に家を出ていく姿。
帰宅すると疲れているはずなのに、家族の前ではできる限り笑顔を見せようとしていた姿。
時には厳しく叱られ、時には褒められ、何度も頭を撫でてもらった。
幼いレイブンにとって、父は誰よりも強い存在だった。
そして、自分もいつか、あんな大人になりたいと思っていた。
だが、実際に軍人となり、戦場へ立つようになってから、初めて理解したことがあった。
父が背負っていたものは、決して軽くなかったのだ。
軍服を着るということ。
銃を握るということ。
命令を受け、時には誰かの命を奪う判断を下すということ。
それらがどれほど重い責任なのか、幼い頃の自分には想像もできなかった。
「……本当に、よくやってたよな」
レイブンは小さく息を吐いた。
窓の外では、夕日が建物の向こうへ沈み始めていた。
基地の照明が一つ、また一つと灯り、遠くから夕食を知らせる放送が聞こえてくる。
しかし、彼はすぐには立ち上がらなかった。
写真の中にいる幼い自分を見つめているうちに、忘れかけていた記憶が少しずつ蘇ってきたからだった。
最初に思い出したのは、戦争とは何の関係もない、ある朝の出来事だった。
まだ背が低く、父の軍服の袖を掴まなければ人混みではぐれてしまいそうだった頃。
クロウ家の屋敷では、毎朝決まった時間になると庭園の小鳥たちが鳴き始めていた。
春には花が咲き、夏には木々が青々と茂り、秋には落ち葉が石畳を埋め、冬には薄い雪が窓辺へ積もった。
季節が移り変わるたびに、屋敷の景色も少しずつ変わっていった。
そして、どの季節にも、家族の声があった。
『レイブン! 起きなさい!』
階下から母の声が響いていた。
少年は毛布の中で身じろぎをし、眠そうな声で返事をした。
『……あと五分』
『さっきも同じことを言っていたでしょう?』
『……今度こそ五分』
すると、寝室の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、軍服姿の父だった。
『レイブン』
『……父さん?』
『起床時間だ』
ヴァルターは腕時計を確認し、寝台の上で丸くなっている息子を見下ろした。
『既に予定より十分遅れているぞ』
『……今日は休みじゃないの?』
『俺はな』
『だったら、もう少し寝ても……』
『母さんが朝食を用意している』
その言葉に、少年は少しだけ目を開けた。
『……今日の朝ご飯、何?』
『食堂へ行けば分かる』
『教えてよ』
『自分の目で確かめろ』
父はそう言って、窓のカーテンを開けた。
朝日が一気に部屋へ差し込む。
『うわっ、眩しい!』
『朝だからな』
『父さん!』
ヴァルターは珍しく笑っていた。
少年は不満そうに頬を膨らませながらも、ようやく寝台から起き上がった。
その姿を確認した父は、満足そうに頷いた。
『十分後に食堂へ来い。それから、顔を洗うのを忘れるなよ』
『分かってるって!』
扉が閉まる。
少年はしばらくその扉を眺めていたが、やがて小さく呟いた。
『……軍人って、みんな朝が早いのかな』
あの頃のレイブンにとって、父の仕事は不思議なものだった。
毎朝決まった時間に起き、軍服に袖を通し、家を出ていく。
時には数日、長ければ数週間も帰ってこない。
帰宅すると疲れた表情をしていることもあったが、家族の前ではいつも穏やかに振る舞おうとしていた。
父が何をしているのか。
なぜ軍人という仕事が必要なのか。
当時のレイブンには、まだ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
父の背中は、大きかった。
そして、少年はその背中に憧れていた。
階下へ降りると、焼きたてのパンの香りが漂っていた。
大きな窓から朝日が差し込み、白いテーブルクロスの上には温かなスープと卵料理が並べられている。
『おはよう、レイブン』
セレナが微笑んだ。
『おはよう、母さん』
『ちゃんと顔は洗った?』
『洗ったよ』
『髪は?』
『……あ』
セレナは小さく笑った。
『もう。こっちへいらっしゃい』
少年が近づくと、母は手櫛で乱れた黒髪を整えた。
『あなた、寝癖がつきやすいのね』
『父さんもそうなの?』
『ええ。昔はもっとひどかったのよ』
『……セレナ』
食卓に座っていたヴァルターが、新聞から顔を上げた。
『余計なことを教えなくていい』
『あら、本当のことじゃない』
『父さんも寝癖がつくんだ!』
レイブンが目を輝かせると、ヴァルターは一度咳払いをした。
『……朝食にしよう』
その様子を見て、セレナが声を上げて笑った。
レイブンもつられて笑う。
ただ、それだけの朝だった。
特別な祝い事があったわけでもない。
誰かが大きな成功を収めたわけでもない。
いつもの食卓に家族が集まり、他愛のない会話を交わす。
そんな日常が、少年にとっては当たり前だった。
やがてセレナが、レイブンの皿へパンを一つ追加した。
『今日はお父さんがお休みだから、庭で一緒に遊んでもらったら?』
『本当!?』
少年が勢いよく父を見た。
ヴァルターは新聞を畳み、息子へ視線を向けた。
『構わんが、何をするつもりだ?』
『父さんの訓練!』
『……訓練?』
『うん! 父さんみたいに強くなりたい!』
その言葉に、ヴァルターは少し驚いたような顔をした。
セレナも夫へ目を向ける。
『あなた、何か教えたの?』
『いや、まだ何も』
レイブンは椅子から身を乗り出した。
『だって父さん、軍人なんでしょ? だったら、すごく強いんだよね?』
ヴァルターはしばらく息子を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
『レイブン』
『なに?』
『強いというのは、喧嘩に勝つことだけじゃない』
『……どういうこと?』
『そうだな……例えば、お前より小さな子が転んで泣いていたとする』
『うん』
『その時、お前はどうする?』
『助けるよ』
『なぜだ?』
『だって、痛そうだから』
ヴァルターは頷いた。
『それでいい』
『……それが強いってこと?』
『少なくとも、強さの一つだ』
少年は首を傾げた。
まだ、よく理解できなかった。
しかし、父の言葉は不思議と心に残った。
ヴァルターは息子の頭に手を置いた。
『大きくなれば、少しずつ分かる。今はよく食べて、よく学んで、よく遊べ』
セレナが微笑む。
『そうね。それが今のレイブンのお仕事よ』
少年は元気よく頷いた。
『分かった!』
そして、目の前のパンへ手を伸ばした。
窓の外では、春の風が庭園の木々を揺らしていた。
あの頃は、こんな朝がいつまでも続くと思っていた。
父が帰ってくることも、母が笑っていることも、家族が揃って食卓を囲むことも、すべてが当たり前だった。
だが、時代は少しずつ変わり始めていた。
帝国と連邦共和国の関係は悪化し、国境周辺では軍事的な緊張が高まり続けていた。新聞の見出しには外交交渉の難航を伝える文字が並び、街中を走る軍用車両の数も増えていった。
それでも、幼いレイブンには、その変化が何を意味するのか理解できなかった。
父が軍服を着て家を出ること。
母が時折、新聞を読みながら難しい顔をすること。
そして、夜遅くまで父の書斎に明かりが灯っていること。
それらが、やがて自分の人生を大きく変える出来事へ繋がっていくなど、想像もしていなかった。
レイブンは写真立てを持ったまま、静かに目を開けた。
そこは、もうクロウ家の食堂ではなかった。
目の前にあるのは、帝国軍基地の簡素な個室だった。
窓の外では夜の帳が下り始め、遠くから軍用車両のエンジン音が聞こえてくる。
「……そうだったな」
レイブンは小さく呟いた。
写真の中の父は、相変わらず厳しい顔をしている。
母は穏やかに微笑み、妹は幼い自分の服を掴んでいた。
そして、その中央にいる少年は、まだ何も知らない顔で笑っていた。
「……昔の俺は、本当に何も知らなかったんだな」
彼は写真立てを元の棚へ戻した。
その時、部屋の扉が三度叩かれた。
「クロウ軍曹、いらっしゃいますか?」
「いる。どうした?」
「前線指揮所から伝達です。明朝〇六〇〇、戦闘報告会議への出席をお願いします」
「了解した」
「それと……」
扉の向こうで、伝令兵が少し言い淀んだ。
「何だ?」
「今日の戦闘、本当にありがとうございました。自分の同期も、軍曹のおかげで帰還できたそうです」
レイブンは写真から目を離し、扉へ向き直った。
「……そうか」
「はい。それでは、失礼します!」
足音が遠ざかっていった。
レイブンはしばらく扉を眺めていたが、やがて小さく笑った。
「……親父」
彼はもう一度、写真の中の父へ目を向けた。
「少しは、あんたの言ってたことが分かるようになったかもしれないな」
かつて父は、強さとは何かを教えてくれた。
それは敵を倒すことでも、誰よりも優れた兵士になることでもなかった。
自分が守りたいと思ったものを、守れる人間になること。
だが、戦場では、その願いさえ簡単には叶わない。
レイブンは窓の外を見つめた。
夕日は既に沈み、基地の空には夜の帳が下り始めていた。
明日もまた、戦闘が始まるかもしれない。
再びSG-44を握り、泥の中を進むことになるかもしれない。
それでも、今夜だけは。
ほんの少しだけ、昔のことを思い出していたかった。
レイブンは机の引き出しから一冊の古い手帳を取り出した。
表紙の角は擦り切れ、何度も開かれた頁には、長い年月の跡が残っている。
その最初の頁には、幼い頃に書いた不格好な文字があった。
『ぼくも、父さんみたいになりたい。』
レイブンは、その一文を見つめた。
「……まったく」
小さく笑い、手帳を閉じる。
「昔の俺は、随分と単純だったんだな」
だが、その笑みには、どこか懐かしさが滲んでいた。
窓の外で夜風が吹き、遠くの軍旗が静かに揺れる。
帝国軍の兵士たちは、彼を《黒鴉》と呼ぶ。
敵陣を切り裂き、戦場から生きて戻る男。
仲間たちから称賛され、敵から恐れられる一人の兵士。
しかし、その名が生まれるよりも、ずっと昔。
彼はただ、父の背中を追いかける少年だった。
その少年が、なぜ軍服を着ることになったのか。
なぜ、戦場へ立つ道を選んだのか。
そして、何を守ろうとして、何を失ってきたのか。
すべての始まりは、まだ帝国と連邦共和国の戦火が彼の日常を奪う前にあった。
レイブンは椅子の背もたれに身体を預け、静かに目を閉じた。
遠い記憶の中で、父の声が聞こえた気がした。
『レイブン、起きろ。朝だぞ』
あの声を、今でも覚えている。
厳しく、それでいて温かかった父の声を。
そして、少年だった自分が駆け抜けた、あの懐かしい日々を。
ここから、レイブン・S・クロウの物語が始まる。




