第1話 泥濘の戦場に立つ黒鴉
お待たせいたしました。
黒猫年代記の亜種話である『黒鴉年代記〈BLACK RAVEN CHRONICLES〉』を今日この日より、開始いたします。
第1話 泥濘の戦場に立つ黒鴉
砲声が、大地を震わせていた。
厚い雲に覆われた空からは冷たい雨が降り続き、幾度となく砲弾を浴びた平原には、大小無数の砲弾孔が口を開けていた。かつては農地だったというその土地に、今では作物の姿など残っていない。土は黒く焼け焦げ、ところどころに砕けた木材や鉄片が散乱し、雨水の溜まった窪地には、泥にまみれた軍用装備が半ば埋もれていた。
帝国軍と連邦共和国軍。
長年にわたって政治的、軍事的な対立を続けてきた二つの国家は、ついに全面的な武力衝突へと突入していた。
国境周辺で発生した小規模な交戦は、双方の増援部隊が投入されるにつれて拡大し、今では広大な戦線の各地で砲兵、機甲部隊、歩兵による激しい戦闘が繰り広げられている。
その最前線の一角に、帝国軍の塹壕陣地があった。
「敵歩兵、前進! 距離三百!」
観測兵の叫び声が、砲撃音に混じって響いた。
「第三分隊、射撃準備! 機関銃班は敵の中央を抑えろ!」
「了解!」
「敵装甲車両、二両確認! 後方の道路から接近中!」
「対装甲班はどこだ! 早く呼べ!」
塹壕の内部では、兵士たちが怒号を交わしながら、それぞれの持ち場へ駆け込んでいた。
膝下まで泥水に浸かった者もいれば、崩れた胸壁を土嚢で補強している者もいる。雨に濡れた軍服は重く、軍靴には泥がまとわりつき、少し移動するだけでも普段の倍近い労力を必要とした。
それでも、兵士たちに休んでいる暇はなかった。
連邦共和国軍の歩兵部隊が、再び攻勢を開始したからである。
「撃て! 敵を近づけるな!」
帝国軍の下士官が声を張り上げると、塹壕の胸壁から一斉に銃口が突き出された。
乾いた小銃の発砲音が連続し、その合間を縫うように機関銃の重い射撃音が響く。雨に濡れた大地の上で土煙が上がり、前進していた連邦共和国軍の兵士たちが次々と身を伏せた。
しかし、敵の進撃は止まらなかった。
連邦共和国軍は砲撃によって生じた窪地や、破壊された農業施設の残骸を遮蔽物として利用しながら、少しずつ帝国軍陣地へ接近していた。後方からは装甲車両による支援射撃が加えられ、帝国軍の機関銃陣地を狙った砲弾が、塹壕の周辺へ次々と着弾している。
轟音とともに土砂が舞い上がった。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ直後、塹壕の胸壁に砲弾が着弾した。
衝撃で土嚢が崩れ、泥と木片が周囲へ飛び散る。近くにいた兵士が身体を投げ出すように伏せ、頭を両腕で覆った。
「負傷者は!?」
「二名! 一人は自力で動けます!」
「衛生兵を呼べ! 残りは射撃を続けろ!」
指揮官の命令を受け、兵士たちは再び銃を構えた。
だが、敵の数は多かった。
前線の左翼では既に一部の防御施設が破壊され、連邦共和国軍の歩兵が帝国軍の塹壕へ迫りつつあった。
「くそっ、また来やがった!」
若い帝国軍兵士が、濡れた小銃を握り直した。
頬には泥が付着し、額から流れ落ちた雨水が目に入る。彼は袖で顔を拭い、再び照準器を覗き込んだ。
敵兵の姿が見えた。
距離は、およそ百五十メートル。
引き金を絞る。
銃が反動で肩を叩き、発射された弾丸が雨の中へ消えていった。
敵兵が地面へ倒れたことを確認する間もなく、別の兵士が遮蔽物から姿を現す。
「多すぎる……!」
若い兵士は歯を食いしばった。
その隣では、古参の軍曹が機関銃班へ指示を出していた。
「弾薬を回せ! 左翼が持たんぞ!」
「予備弾帯、残り二箱!」
「後方から補給は!?」
「輸送路が砲撃を受けています! 到着まで時間がかかると!」
「ふざけるな! その頃には全員くたばってるぞ!」
軍曹は悪態をつきながらも、双眼鏡を持ち上げて前方を確認した。
連邦共和国軍の歩兵は、先ほどよりも確実に距離を詰めている。
このままでは、左翼の防衛線が突破される。
そして左翼が崩れれば、中央陣地も側面から攻撃を受けることになるだろう。
軍曹は無線機を掴んだ。
「こちら第三防衛区画! 敵歩兵が左翼へ接近中! 至急、支援を要請する!」
『こちら前線指揮所。状況は把握している。現在、予備部隊を再編成中だ。現位置を維持せよ』
「維持しろだと!? こっちはもう限界だ!」
『分かっている! だが、後方の救護所と補給集積地を守るには、そこを維持するしかない!』
軍曹は奥歯を噛みしめた。
無線の向こうにいる指揮官も、決して無責任な命令を出しているわけではない。
この陣地が突破されれば、後方に展開している負傷者収容部隊や補給部隊が危険に晒される。
それを理解しているからこそ、帝国軍の兵士たちは退くことができなかった。
「……分かった。可能な限り持ちこたえる」
通信を終えた軍曹は、再び胸壁へ身を寄せた。
その時だった。
前方から、妙な音が聞こえた。
最初は、一発の銃声だった。
それ自体は珍しくもない。戦場では数えきれないほどの銃声が響いており、一発や二発の発砲音を気にする者などいなかった。
しかし、その銃声は、帝国軍へ向けられたものではなかった。
連邦共和国軍が占拠している前方塹壕の内部から、短く、重い発砲音が響いたのである。
続いて、何かが木製の補強板へ激しく衝突する音がした。
「……何だ?」
軍曹が双眼鏡を向けた。
塹壕の胸壁越しに、連邦共和国軍の兵士たちが慌ただしく動いているのが見えた。
先ほどまで帝国軍陣地へ射撃していた兵士たちが、突然、塹壕の内部へ銃口を向け始めていた。
「おい、何かおかしくないか?」
隣の若い兵士が呟いた。
「敵が……後ろを向いてる?」
その直後だった。
「うわああああっ!」
悲鳴が響いた。
それは帝国軍の塹壕からではない。
連邦共和国軍の前方陣地からだった。
「敵襲! 塹壕内に敵兵がいる!」
「どこから入った!?」
「分からん! 突然、後方から――!」
叫び声を遮るように、再び重い銃声が響いた。
ドンッ!
続いて、金属製の機関部が作動する音。
ガシャコンッ。
ドンッ!
短い間隔で繰り返される発砲音が、塹壕の内部を震わせた。
連邦共和国軍の兵士たちは混乱していた。
彼らにとって、帝国軍の攻撃は正面から来るはずだった。砲撃と機関銃によって敵の頭を押さえ、その間に歩兵を前進させる。それが、この日の攻勢で予定されていた行動だった。
ところが、今は違った。
敵が、既に自分たちの塹壕へ入り込んでいたのである。
「後方を警戒しろ!」
「見えない! 煙で何も――!」
「いたぞ! あそこだ!」
連邦共和国軍の兵士が銃口を向けた。
しかし、引き金を絞るよりも早く、塹壕の曲がり角から突き出された銃口が火を噴いた。
至近距離から放たれた銃撃を受け、兵士が倒れる。
その後方にいた別の兵士が慌てて身を伏せた。
「くそっ! 何者なんだ、あいつは!」
返答する者はいなかった。
塹壕の内部は狭く、雨で濡れた足場は滑りやすい。曲がり角が多く、数メートル先の様子すら見通せない場所もある。
その複雑な構造の中を、一人の帝国軍兵士が移動していた。
黒髪の青年だった。
顔には泥が付着し、軍服の胸元には返り血が飛び散っている。
彼が手にしていたのは、帝国軍制式戦闘散弾銃SG-44。
十二番径の大口径弾薬を使用する戦闘用ショットガンであり、近距離での制圧力を重視した設計が採用されていた。
青年は塹壕の壁へ背を預け、曲がり角の向こうから聞こえる足音に耳を澄ませた。
複数人。
装備の擦れる音。
そして、短く交わされる連邦共和国軍の言葉。
「……三人か」
青年は小さく呟いた。
次の瞬間、塹壕の向こうから銃撃が始まった。
弾丸が壁を削り、泥と木片が飛び散る。
青年は身を低くして射線から外れ、敵の動きを確認した。
無理に飛び出すことはしない。
敵の銃撃が一瞬途切れたところで、彼は素早く位置を変えた。
そして、敵兵が姿を現した瞬間にSG-44を構えた。
ドンッ!
発砲音が塹壕に反響した。
続けて、青年は先台を後方へ引き、前方へ押し出す。
ガシャコンッ。
次弾が薬室へ送り込まれる。
敵兵の一人が倒れ、残る兵士たちが慌てて後退した。
「退け! いったん退け!」
しかし、その後退も長くは続かなかった。
狭い塹壕の内部では、互いの位置が分からないまま銃を撃てば、味方を巻き込む危険がある。
連邦共和国軍の兵士たちは射撃を躊躇し、青年はその隙に次の遮蔽物へ移動した。
銃声が響く。
悲鳴が上がる。
誰かが助けを求め、別の誰かが怒鳴り返す。
混乱は塹壕の奥へと広がっていった。
その頃、帝国軍の第三防衛区画では、前方から聞こえる異変に兵士たちが戸惑っていた。
「……おい、敵の射撃が止まったぞ」
若い兵士が胸壁から顔を出した。
先ほどまで激しい制圧射撃を加えていた連邦共和国軍の機関銃が、沈黙している。
敵歩兵の前進も止まり、前方塹壕の内部では何かが起きているようだった。
「誰かが敵陣に入ったのか?」
「そんな命令、出てないぞ」
「じゃあ、何だってんだよ……」
軍曹は双眼鏡を構えたまま、険しい表情を浮かべていた。
敵陣の内部から、再び銃声が響く。
ドンッ!
少し間を置いて、もう一発。
ドンッ!
その音を聞いた軍曹の眉が動いた。
「……待てよ」
彼は双眼鏡を下ろした。
「この銃声……」
若い兵士が顔を向ける。
「軍曹?」
「いや、まさかな……」
軍曹は前方塹壕を見つめた。
そして、何かを思い出したように呟いた。
「……SG-44か?」
その直後、敵陣から最後の悲鳴が響いた。
「やめろ! 撃つな――!」
乾いた銃声。
そして、静寂。
先ほどまで激しい銃撃戦が続いていた連邦共和国軍の塹壕が、突然静まり返った。
雨音だけが、戦場に残された。
帝国軍の兵士たちは、誰もすぐには動かなかった。
敵が何かの罠を仕掛けている可能性もある。
あるいは、別の部隊が奇襲を成功させたのかもしれない。
しかし、前線指揮所からは何の連絡も入っていなかった。
軍曹が無線機へ手を伸ばした、その時だった。
連邦共和国軍の塹壕の底から、一人の男のため息が聞こえた。
「……はぁ」
青年は塹壕の壁に背を預け、天を仰いだ。
雨粒が頬を伝い、顎から滴り落ちる。
「まったく……次から次へと。少しは休ませてほしいもんだ」
彼は周囲を見渡した。
先ほどまで敵兵がいた場所には、放棄された装備が散乱している。倒れた兵士たちの姿もあったが、青年はそれらに長く視線を向けなかった。
戦闘が終わったかどうかを確認する方が先だった。
耳を澄ませる。
足音はない。
敵兵の声も聞こえない。
遠方では依然として砲撃が続いていたが、少なくともこの塹壕の一角では、敵の組織的な抵抗は途絶えていた。
「……ひとまず、終わりか」
青年はSG-44の銃口を安全な方向へ向け、残弾を確認した。
薬室には一発が残っている。
弾倉には、まだ余裕があった。
それでも、次に何が起きるか分からない以上、弾薬を補充しておく必要がある。
彼は携行していた予備弾薬を取り出し、装備されたドラム弾倉へ不足分を補充した。
薬室の一発を維持したまま行う、戦術的再装填。
何度も繰り返してきた動作だった。
指先は泥と血で汚れていたが、その手つきに迷いはない。
再装填を終えると、青年はSG-44を握り直した。
そして、先台を後方へ引いた。
ガシャッ。
薬室に残っていた実包が排出される。
続けて先台を前方へ押し出すと、新たな一発が薬室へ送り込まれた。
ガシャコンッ。
重い金属音が、静まり返った塹壕に響いた。
青年は排出された実包を拾い、装備へ戻した。
「……よし」
短く呟き、ゆっくりと顔を上げる。
雨に濡れた黒髪が額へ張り付き、頬には泥が付着していた。
軍服の胸元から左肩にかけては、敵兵の返り血が広がっている。
だが、その表情には戦闘直後の興奮も、敵を倒したことへの歓喜もなかった。
ただ、疲れていた。
それでも、鋭い眼差しだけは失われていない。
青年は塹壕の上方へ目を向け、雨雲に覆われた空を眺めた。
「……さて」
彼は小さく息を吐いた。
「そろそろ、味方にも知らせてやらないとな」
肩に装着された通信機へ手を伸ばす。
送信ボタンを押すと、短い電子音が鳴った。
「こちらクロウ。第三防衛区画、聞こえるか?」
数秒の沈黙。
やがて、無線の向こうから驚いた声が返ってきた。
『……クロウ? クロウ軍曹か!?』
「そうだ」
『お前、どこにいる!? さっきから姿が見えなかったぞ!』
「前方の塹壕だ」
『前方? どこの塹壕だ?』
青年は周囲を見渡した。
「連邦共和国軍が使っていた方だが」
無線の向こうが静まり返った。
『…………は?』
「敵の前方塹壕を一角確保した。内部の抵抗は排除したが、隣接区画に敵が残っている可能性がある。こちらへの射撃は控えてくれ」
『ちょっと待て! お前、敵の塹壕にいるのか!?』
「だから、そう言ってるだろ」
『一人でか!?』
「今のところはな」
無線の向こうで、誰かが大声を上げるのが聞こえた。
『おい! クロウが敵陣にいるぞ!』
『何だと!?』
『あの銃声、やっぱりあいつだったのか!』
青年は思わず眉を寄せた。
「……聞こえてるぞ」
『聞こえるように言ってるんだよ!』
通信機から返ってきたのは、先ほどまで第三防衛区画を指揮していた軍曹の声だった。
『お前なあ! 敵陣に入るなら入るで、せめて一言連絡しろ!』
「通信している余裕がなかった」
『だからって一人で突っ込む奴があるか!』
「突っ込んだというより、気づいたら敵の側面に出ていたんだが」
『余計に悪いわ!』
青年は小さく笑った。
「……悪かったよ」
『まったく……お前という奴は』
軍曹は大きく息を吐いた。
だが、その声には明らかな安堵が混じっていた。
『とにかく、よくやった。おかげで敵の攻勢が止まった。こちらも態勢を立て直せそうだ』
「それなら良かった」
『負傷は?』
「軽い擦り傷程度だ。問題ない」
『了解。現在位置を維持しろ。こちらから部隊を送る』
「分かった。周辺を警戒しながら待つ」
通信を終えた青年は、塹壕の壁へ背を預けた。
遠くでは、帝国軍の砲兵が連邦共和国軍の後退経路へ砲撃を加えているらしく、断続的な爆発音が響いていた。
戦闘は、まだ完全には終わっていない。
それでも、先ほどまで帝国軍の防衛線を圧迫していた敵歩兵の勢いは、明らかに衰えていた。
青年はSG-44を胸元に保持し、塹壕の向こう側へ視線を向けた。
その時、背後から微かな足音が聞こえた。
彼はすぐに振り返った。
「……誰だ?」
塹壕の曲がり角から、一人の連邦共和国軍兵士が姿を現した。
まだ若い兵士だった。
顔は青ざめ、両手が震えている。
手にしていた小銃の銃口は下を向いていたが、青年を見た瞬間、その目が大きく見開かれた。
「ひっ……!」
兵士は反射的に銃を持ち上げようとした。
青年のSG-44が、先に向けられた。
「動くな」
低い声だった。
しかし、その一言で連邦共和国軍兵士の動きが止まった。
「銃を捨てろ。ゆっくりだ」
兵士は震える手で小銃を地面へ置いた。
青年は銃口を向けたまま、相手の動きを見守った。
「両手を見せろ」
兵士が両手を上げる。
その姿を確認すると、青年は少しだけ息を吐いた。
「……よし。そのまま動くな」
兵士は怯えた表情で彼を見つめていた。
「お、俺を……殺すのか……?」
青年は一瞬だけ目を細めた。
「お前が抵抗しないなら、撃つ理由はない」
「……本当か?」
「俺は嘘をついてまで、お前を撃ちたいわけじゃない」
連邦共和国軍兵士は、その場に膝をついた。
青年は通信機を操作した。
「こちらクロウ。追加報告。敵兵一名を拘束予定。負傷は確認できない。捕虜収容の準備を頼む」
『了解した。……お前、本当に何でもありだな』
「何がだ?」
『さっきまで敵を蹴散らしてたかと思えば、今度は捕虜まで確保してる』
「抵抗しない相手を撃つ必要はないだろ」
『……まあ、それもそうだな』
通信を切ると、青年は目の前の兵士へ視線を戻した。
「名前は?」
「……エミール」
「そうか。エミール、俺はレイブンだ」
兵士は恐る恐る顔を上げた。
「レイブン……?」
「ああ。レイブン・S・クロウ」
その名を聞いた瞬間、エミールの表情が変わった。
「……クロウ?」
彼は何かを思い出したように、青年の顔を見つめた。
「まさか……帝国の……」
レイブンは首を傾げた。
「何だ?」
「黒鴉……」
その言葉に、レイブンは小さくため息をついた。
「……また、その呼び名か」
エミールは震えながら続けた。
「前線で噂になっていた……黒髪の帝国兵……近距離戦闘で、何人もの兵士を倒してきたって……」
レイブンは何も答えなかった。
ただ、塹壕の向こうから近づいてくる帝国軍の足音に耳を澄ませていた。
やがて、味方の兵士たちが曲がり角から姿を現した。
「クロウ軍曹!」
「おう。こっちだ」
先頭にいた兵士が周囲を見渡し、目を丸くした。
「……これ、全部軍曹が?」
「まあな。ただ、まだ隣の区画までは確認してない。警戒を続けろ」
「了解!」
兵士たちはすぐに周辺の安全確認を始めた。
そのうちの一人が、拘束されたエミールへ近づく。
「捕虜ですか?」
「ああ。武器は放棄している。丁重に扱ってくれ」
「了解しました」
エミールは立ち上がり、帝国軍兵士に誘導されながら歩き始めた。
その途中で、一度だけ振り返った。
レイブンは何も言わず、軽く顎を引いた。
エミールも小さく頭を下げ、その場を離れていった。
その様子を見ていた帝国軍兵士が、感心したように呟いた。
「……軍曹って、やっぱり変わってますよね」
「何がだ?」
「いや、敵からしたら相当怖い相手のはずなのに、降伏した兵士には普通に接するんだなって」
レイブンはSG-44の負い紐を肩へ掛け直した。
「敵兵だろうが、武器を捨てて降伏したなら捕虜だ。俺たちの仕事は、無抵抗の人間を撃つことじゃない」
「……なるほど」
「それに、あいつにも帰りを待ってる家族がいるかもしれん」
兵士は黙って頷いた。
レイブンは塹壕の上へ視線を向けた。
雨は、いつの間にか弱まっていた。
厚い雲の向こうから、夕日の光が差し込み始めている。
戦場の大地は依然として泥と血にまみれ、遠くでは砲声が続いていた。
だが、少なくともこの一角では、銃声が止んでいた。
「……さて」
レイブンは肩を軽く回した。
「帰るか」
兵士が顔を上げた。
「基地へですか?」
「ああ。腹も減ったし、風呂にも入りたい」
「……それだけですか?」
「他に何がある?」
兵士は思わず笑った。
「いや、何でもありません」
レイブンも小さく笑い、味方の兵士たちとともに塹壕を歩き始めた。
その背中には、返り血で染まった帝国軍の軍服があった。
肩には、幾度となく戦場を共にしてきたSG-44。
そして、彼の胸には、誰にも語らない幾つもの記憶が刻まれていた。
父から教わった言葉。
母の笑顔。
幼い妹の声。
そして、軍服に袖を通すと決めた日のこと。
それらは今も、彼の中で生き続けている。
戦場で彼を知る者たちは、その卓越した戦闘能力と、幾度となく死地から帰還する姿を見て、一つの異名を与えていた。
《黒鴉》。
黒髪の青年は、その呼び名を自ら名乗ったことはなかった。
ただ、仲間たちがそう呼ぶのであれば、わざわざ否定する必要もないと思っていた。
もっとも、本人にとっては少々大げさな名前だった。
「……黒鴉、ねえ」
レイブンは小さく呟いた。
隣を歩いていた兵士が振り返る。
「何か言いました?」
「いや、何でもない」
彼は夕日に照らされた空を見上げた。
雨雲の隙間から、一羽の黒い鳥が飛んでいくのが見えた。
戦場の上を、まるで何事もなかったかのように。
レイブンはその姿をしばらく見つめていたが、やがて視線を前へ戻した。
「……帰ったら、まずシャワーだな」
そう呟いて、再び歩き始める。
この日、帝国軍第三防衛区画は連邦共和国軍の攻勢を退け、防衛線の維持に成功した。
その戦闘記録には、前方塹壕の一角を単独で制圧し、敵部隊の側面を混乱させた一人の兵士の名が残されることになる。
レイブン・S・クロウ。
帝国軍軍曹。
通称、《黒鴉》。
しかし、彼がなぜその名で呼ばれるようになったのか、そして、どのような人生を歩んでこの戦場へ辿り着いたのかを知る者は、まだ多くなかった。
その物語は、戦場から遥か遠く離れた場所にある。
帝国の一角に建つ、古い屋敷。
父と母の温もりに包まれ、まだ戦争の意味すら知らなかった、一人の少年の時代に。
そして、すべては帝政歴三二七年十一月二十五日、ある冬の日から始まっていた。




