第75話 祖国への帰還、金髪の共和国軍中尉
第75話 祖国への帰還、金髪の共和国軍中尉
エリシア・L・ヴォルハラム視点
帝政歴344年4月26日、午前5時36分。
連邦共和国北部軍管区、第三国境警備管区司令部付属宿舎。
目を覚ました時、最初に聞こえたのは、窓の外を走る軍用車両のエンジン音だった。
帝国のヴァイスベルク駐屯地とは、少し違う朝だった。
私は毛布を押しのけ、寝台の上で身体を起こした。窓の向こうには灰色の建物が並び、その間を共和国軍の兵士たちが歩いている。遠くには監視塔が見え、夜明け前の空に赤い標識灯が点滅していた。
帰ってきた。
そう思ったのに、なぜか少しだけ不思議な気分だった。
昨日の朝まで、私は帝国軍の駐屯地にいた。
クラウディア・フォン・ローゼンフェルト大尉が指揮する、第十一独立特殊歩兵中隊。
黒髪のシュタイン軍曹と、いつも明るいミリア伍長。
そして、二人の新兵。
レイブン・S・クロウ。
ガイル・ベッカー。
たった数日間の交流だったのに、彼らの顔がすぐに思い浮かんだ。
「……もう起きているかしら」
私は小さく呟き、寝台から降りた。
ガイルなら、まだ毛布に潜り込んでいるかもしれない。
レイブンは、きっと起床ラッパより早く目を覚ましているだろう。
そんな想像をした自分に気づいて、思わず苦笑した。
ここは共和国だ。
彼らは帝国にいる。
私たちは、もう同じ朝を過ごしてはいない。
私は机の上に畳んでおいた共和国軍の制服を手に取った。
襟元を整え、肩章を確認する。
中尉。
この階級章を身につける以上、私には果たすべき責任がある。
昨日の別れを思い出しているだけでは、今日の任務は進まない。
それでも、制服の最後の釦を留める時、私はもう一度、あの黒猫の少年の言葉を思い出していた。
『その時も、今日みたいに話せたら嬉しいです』
私は鏡の中の自分を見つめた。
「……ええ。私もよ」
誰もいない部屋で答えてから、軍帽を手に取った。
午前6時48分。
北部軍管区司令部付属食堂。
食堂には、焼いた黒パンと温かい麦粥の匂いが漂っていた。
私は食事を受け取り、窓際の空いている席へ腰を下ろした。
共和国軍の食堂は、帝国軍のそれよりも少し静かに感じられた。
もちろん、時間帯や部隊によって雰囲気は変わる。それでも、長机に整然と並んだ兵士たちを眺めていると、昨日までの光景との違いを意識してしまう。
「ヴォルハラム中尉?」
声を掛けられて顔を上げると、茶色い髪を短くまとめた女性将校が立っていた。
肩には大尉の階級章がある。
「……ケスラー大尉」
「帰ってきたのね。昨日の夜に到着したって聞いたわ」
マルタ・ケスラー大尉。
北部軍管区の教育調整部門に所属する将校で、以前から私の派遣任務に関する連絡を担当していた人物だった。
「はい。昨夜、国境での引き継ぎを終えました」
「長旅だったでしょう。隣、いいかしら?」
「もちろんです」
大尉は食事の盆を置き、向かいに腰を下ろした。
「帝国はどうだった?」
私は少し考えた。
「……勉強になることが多かったです」
「例えば?」
「教育方法の違いもそうですが、兵士たちの考え方に触れられたことが大きかったと思います」
大尉は頷いた。
「共和国の教育制度と、随分違ったでしょう?」
「はい。ただ、共通する部分も多くありました」
「そう」
ケスラー大尉はパンを一口食べた後、私を見た。
「帝国軍の兵士たちは、あなたをどう扱った?」
「礼節をもって接してくれました」
「警戒されなかった?」
「もちろん、立場の違いはありました。ですが、教育協力の範囲では問題ありませんでした」
私は少し微笑んだ。
「特に、若い新兵たちは熱心でした」
「新兵?」
「はい。十六歳の猫系亜人の少年と、犬系亜人の少年です」
大尉は興味深そうに眉を上げた。
「ずいぶん印象に残っているのね」
「……そうですね」
私は麦粥へ視線を落とした。
レイブンの慎重な質問。
ガイルの率直な物言い。
どちらも、私には新鮮だった。
「彼らは、軍人としてまだ学び始めたばかりでした。でも、仲間を守ろうとする気持ちを持っていました」
ケスラー大尉はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……その子たちが、戦場へ行かずに済めばいいわね」
私は顔を上げた。
「……はい」
それ以上、言葉は続かなかった。
午前8時17分。
連邦共和国陸軍北部軍管区司令部、帰任報告室。
共和国軍の司令部は、厚い石壁と鉄筋コンクリートで造られた大きな建物だった。
長い廊下には軍管区の地図が掲示され、事務室では通信兵や参謀たちが忙しく行き交っている。
私は指定された報告室の前で立ち止まり、軍帽を整えた。
扉を叩く。
「入れ」
室内から、低い男性の声が返ってきた。
「失礼します」
私は入室し、敬礼した。
「連邦共和国陸軍中尉、エリシア・L・ヴォルハラム。帝国軍との教育交流任務を終了し、帰任いたしました」
机の向こうに座るのは、北部軍管区教育監察部のアレクセイ・モロゾフ中佐だった。
四十代半ばほどの男性で、灰色がかった髪を短く刈り込み、鋭い目をしている。
「ご苦労、ヴォルハラム中尉。掛けたまえ」
「ありがとうございます」
私は椅子へ腰を下ろした。
中佐は、机の上に置かれた書類を開いた。
「派遣期間中の教育協力について、報告を受けたい」
「はい」
「まず、帝国軍側の受け入れ状況は?」
「良好でした。第十一独立特殊歩兵中隊の指揮官であるローゼンフェルト大尉をはじめ、教育担当者は協定に基づく範囲で協力的でした」
「活動制限は?」
「機密区画への立ち入りは許可されず、兵器の詳細性能や非公開の戦術資料についても接触していません」
中佐は頷いた。
「当然だな。こちらも同じ制限を課している」
「はい」
「教育内容については?」
私は準備していた報告書を開いた。
歩兵教育の一般的な構成。
班単位の連携教育。
装備適合性の考え方。
負傷者搬送訓練。
そして、両国の公開教範を用いた比較講義。
私は、確認できた事実と個人的な印象を分けながら説明した。
中佐は途中で幾つか質問を挟んだが、私の回答を急かすことはなかった。
やがて、彼は一枚の資料へ視線を落とした。
「帝国軍では、新型散弾銃の評価が進んでいるという公開情報がある」
私は姿勢を正した。
「はい。一般的な装備評価についての講義でも、試験装備の存在が話題になりました」
「実物を見たか?」
「携行されている様子は確認しました。ただし、詳細な技術情報には接していません」
中佐は私を見た。
「評価は?」
「私の立場から性能を判断できる材料はありません」
私ははっきり答えた。
「装備の重量や整備性が兵士の負担に関係するという一般的な教育内容については、意見交換を行いました。しかし、試験結果や内部構造は把握していません」
中佐は、しばらく私を見つめた。
そして、頷いた。
「よろしい。協定上の境界を守ったことは評価する」
「ありがとうございます」
「帝国と共和国は、互いの軍備を警戒している。しかし、正規の交流任務で得た情報と、機密を探る行為は区別しなければならん」
「はい」
中佐は書類を閉じた。
「最後に、個人的な所感を聞こう」
私は少しだけ息を整えた。
「……帝国軍の兵士たちは、私たちと異なる教育を受けています。ですが、任務に対する責任感や、仲間を守ろうとする姿勢には共通するものがありました」
「それは報告書にも書いてあるな」
「はい」
「君は、帝国軍人に親近感を覚えたか?」
私は一瞬、答えを探した。
しかし、嘘をつく理由はなかった。
「……個人として尊敬できる人々はいました」
中佐の表情は変わらない。
「そうか」
「ですが、私は共和国軍人です。祖国に対する責任と、交流先で出会った人々への敬意は、別のものだと考えています」
中佐は、ゆっくりと頷いた。
「その区別を忘れるな」
「はい」
「それと同時に、相手を一括りにして見下すな。敵国になり得る相手だからこそ、正確に理解する必要がある」
私は顔を上げた。
「……承知しました」
中佐は報告書へ署名した。
「帰任報告を受理する。午後は健康確認と人事面談だ。次の配属については追って通知する」
「了解しました」
私は立ち上がり、敬礼した。
部屋を出た後、廊下の窓から外を見た。
広場には共和国軍の車両が並び、その向こうで兵士たちが整列している。
私は祖国へ帰ってきた。
そして、ここから先は、共和国軍人としての新しい任務が待っている。
午前11時42分。
北部軍管区司令部、通信管理室。
人事面談まで少し時間があったため、私は許可を得て家族への帰国連絡を送ることにした。
通信室の受付にいる若い女性兵士が、私の身分証を確認する。
「ヴォルハラム中尉。私信の送信ですね」
「ええ。帰任したことだけ伝えたいの」
「承知しました。通常の軍用郵便経路で処理します」
「ありがとう」
私は指定された用紙を受け取り、机へ向かった。
書き出しは、すぐに決まった。
『お父様、お母様へ』
『無事に共和国へ帰還しました。帝国での交流任務は予定より早く終了しましたが、健康上の問題はありません。』
そこで、ペンを止めた。
何を書こう。
帝国軍の教育制度については、家族に詳しく説明する必要はない。
任務の細部も書くべきではない。
それでも、向こうで過ごした日々が無意味ではなかったことは伝えたかった。
『短い滞在でしたが、良い出会いがありました。異なる国の人々と話すことができたのは、私にとって貴重な経験でした。』
私は少し考え、最後に書き加えた。
『次の任務が決まりましたら、また連絡します。どうか皆様もお元気で。』
署名を済ませ、封筒を閉じる。
エリシア・L・ヴォルハラム。
自分の名前を記すたびに、私は軍人としての責任を思い出す。
けれど、今日は少し違った。
帝国にいる、あの二人の新兵にも手紙を書けたら。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
だが、軍事交流任務は終了している。
今後の私的な連絡についても、両国の規則と許可が必要になるだろう。
私はその考えを胸の奥へしまい、封筒を受付へ提出した。
午後1時26分。
北部軍管区、教育人事局。
午後の面談では、帰任後の健康状態と今後の勤務希望について確認が行われた。
担当官は、私の経歴書を読みながら尋ねた。
「ヴォルハラム中尉。今後の配属について、希望はあるか?」
私は少し考えた。
「歩兵教育、あるいは部隊運用に関わる職務を希望します」
「引き続き教育畑か?」
「必要とされるなら、実働部隊への配属にも応じます」
担当官は頷いた。
「北部軍管区では、部隊の再編と教育課程の見直しが進んでいる。君のように国外の軍事交流経験を持つ将校は、教育部門でも活用できるだろう」
「ありがとうございます」
「ただし、情勢次第では希望通りにならないこともある」
「承知しています」
担当官は書類に記入した。
「正式な配属命令が出るまでは、司令部付属将校として待機し、指定された教育業務を補助してもらう」
「了解しました」
面談は、それで終わった。
私は廊下へ出て、静かに息を吐いた。
次の配属は、まだ決まっていない。
しかし、軍管区の空気が以前より慌ただしくなっていることは分かった。
廊下を行き交う参謀たちは分厚い書類を抱え、通信室では次々と電文が処理されている。
国境警備部隊の増強。
輸送計画の見直し。
補給拠点の整備。
それらのすべてが戦争を意味するわけではない。
だが、平時の軍隊とは違う緊張が、確かにそこにはあった。
午後3時14分。
北部軍管区司令部、屋外訓練広場。
私は教育人事局からの指示を受け、若い兵士たちの基礎教育を見学していた。
訓練広場では、新兵たちが班単位で行動している。
共和国軍の制式小銃を携行した兵士たちが、教官の指示に従って移動し、模擬負傷者の搬送訓練を行っていた。
私は少し離れた位置から、その様子を眺めた。
「ヴォルハラム中尉」
隣に立っていた教育担当の男性軍曹が声を掛けてきた。
「はい」
「帝国軍でも、同じような訓練を行っていましたか?」
「ええ。方法には違いがありましたが、目的は似ていました」
軍曹は頷いた。
「なるほど」
私は訓練中の兵士たちを見た。
一人の新兵が、搬送の途中で足を滑らせた。
隣の兵士が支え、二人は姿勢を立て直す。
教官が声を掛け、訓練は一度中断された。
その光景を見た瞬間、私はヴァイスベルク駐屯地の訓練場を思い出していた。
泥に足を取られながら、SG-44を携行していたレイブン。
仲間と歩調を合わせようと必死になっていたガイル。
そして、二人を指導していたシュタイン軍曹とミリア伍長。
国が違っても、兵士が失敗し、学び、成長していく姿はよく似ていた。
「……中尉?」
軍曹の声で、私は我に返った。
「あ、ごめんなさい」
「何かお気づきの点が?」
私は訓練広場へ視線を戻した。
「……兵士たちが、互いの動きをよく見ていますね」
「ありがとうございます」
「ただ、負傷者役を支える時に、少し急いでいるように見えました。教育担当者と確認して、もう一度落ち着いて実施させた方がいいかもしれません」
軍曹は頷いた。
「承知しました。教官へ伝えます」
私は微笑んだ。
「お願いします」
訓練が再開された。
私は、その様子を静かに見守った。
午後5時37分。
北部軍管区司令部、将校休憩室。
夕方になると、空は薄い橙色に染まり始めていた。
私は休憩室の窓際に腰を下ろし、温かい紅茶を手にしていた。
机の上には、今日受け取った人事関係の書類が置かれている。
正式な配属先は未定。
当面は司令部付属将校として教育業務を補助する。
それが、現在の私の立場だった。
扉が開き、ケスラー大尉が入ってきた。
「あら、エリシア。ここにいたのね」
「大尉」
「面談は終わった?」
「はい。しばらくは司令部付属になるようです」
大尉は頷いた。
「そう。なら、少しは落ち着けるかもしれないわね」
「……そうだといいのですが」
ケスラー大尉は私の向かいに腰を下ろした。
「何か気になることでも?」
私は少し迷った。
けれど、彼女には以前から相談に乗ってもらっている。
私は正直に答えることにした。
「……帝国で出会った人たちのことを、考えていました」
大尉は静かに頷いた。
「朝も話していたわね」
「はい」
「帰ってきたばかりだもの。無理に忘れる必要はないわ」
私は紅茶へ視線を落とした。
「……もし戦争になったら、どうなるのでしょう」
ケスラー大尉は、すぐには答えなかった。
窓の外では、夕日が司令部の建物を赤く染めている。
「……それは、誰にも分からないわ」
やがて、彼女は静かに言った。
「ただ、一つだけ確かなことがある」
私は顔を上げた。
「何でしょうか」
「私たちは共和国軍人よ。命令が下れば、与えられた任務を果たさなければならない」
「……はい」
「でも、それは相手の人間性を否定していいという意味じゃない」
私は黙って聞いていた。
ケスラー大尉は続けた。
「戦争になれば、敵味方という区別は必要になる。でも、その向こうにも人がいるということまで忘れてしまったら、軍人として大切なものを失うと思うの」
私は、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
大尉は少し微笑んだ。
「あなたはまだ若い。これから、いろいろな経験をするでしょう」
「はい」
「その時に、今日まで学んだことを忘れないで」
私は姿勢を正した。
「……ありがとうございます」
大尉は笑った。
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ」
私も、少しだけ笑った。
午後7時46分。
北部軍管区司令部付属宿舎、将校用個室。
夜になると、共和国軍の駐屯地は昼間とは違う静けさに包まれた。
私は机に向かい、今日の記録を整理していた。
帰任報告。
健康確認。
人事面談。
教育補助業務。
そして、帝国での交流任務についての私的な覚え書き。
私は手帳の最後の頁を開いた。
そこには、ヴァイスベルク駐屯地で出会った人々の名前を書いていた。
クラウディア・フォン・ローゼンフェルト大尉。
シュタイン軍曹。
ミリア伍長。
ガイル・ベッカー。
そして、レイブン・S・クロウ。
私は、その最後の名前でペンを止めた。
黒い猫耳。
左右で色の違う瞳。
慎重で、少し控えめな話し方。
けれど、疑問を持てば、相手が将校であっても礼儀正しく質問してくる。
彼はまだ十六歳だった。
私より、一つ年下。
帝国軍の新兵。
私は共和国軍の中尉。
立場も、階級も、所属する国家も違う。
それなのに、彼と話している時、不思議と年齢や国籍の違いを強く意識することはなかった。
もちろん、軍人としての距離は守らなければならない。
それでも、彼が何かを理解しようと真剣に考えている姿を見ると、私も自然と丁寧に答えたくなった。
私は手帳へ一文を書いた。
『帝国軍新兵、レイブン・S・クロウ。観察力があり、慎重。新型散弾銃の評価を担当。仲間への配慮が見られる。』
少し考え、次の行へ書き加える。
『ガイル・ベッカー。明朗で積極的。仲間を引っ張る力があるが、時々先走る。改善しようとする姿勢は良好。』
私は、二人の名前を見つめた。
軍人としての記録なら、これで十分だろう。
しかし、私が本当に残しておきたかったのは、評価だけではなかった。
私は頁の下へ、もう一文を書き加えた。
『二人とも、無事に生きていてほしい。』
ペンを置いた。
窓の外には、共和国の夜空が広がっている。
帝国の夜空と、何も変わらない星が瞬いていた。
私は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。
遠くの街には、民家の明かりが灯っている。
家族が食卓を囲み、子供たちが眠りにつく。
兵士たちも、それぞれの宿舎で明日の任務に備えている。
共和国には、守るべき人々がいる。
帝国にも、同じように人々が暮らしている。
その事実は、どちらかの軍旗を掲げたからといって変わるものではない。
「……レイブン」
私は、彼の名前を小さく口にした。
昨日、別れ際に交わした約束。
『その時も、今日みたいに話せたら嬉しいです』
『ええ。約束ね』
私は窓の外を見つめた。
「……もし、また会えたなら」
言葉が途中で止まった。
何を話そう。
帝国軍の訓練はどうだったか。
SG-44の扱いには慣れたか。
ガイルは、少しは周囲を見るようになったか。
そんな、他愛もない話でいい。
できれば、軍事機密も政治情勢も関係のない場所で。
制服を着ていても、いなくても。
ただ、互いの無事を確かめられるような再会がいい。
私は、静かに息を吐いた。
「……その日が来るといいわね」
その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。
続いて、宿舎の当直兵が扉を叩いた。
「ヴォルハラム中尉。司令部から連絡です」
私は振り返った。
「はい。どうぞ」
扉が開き、当直兵が封筒を差し出した。
「明朝の軍管区教育会議への出席命令です」
「ありがとう」
私は封筒を受け取った。
当直兵が敬礼し、部屋を出ていく。
封筒を開くと、明朝の会議予定が記されていた。
議題は、北部軍管区における教育課程の再編と、国境警備部隊の増強に伴う人員配置の見直し。
私は書類を読み終え、机へ置いた。
祖国へ帰ってきたばかりだというのに、もう次の任務が始まろうとしている。
私は軍帽を手に取り、机の上へ丁寧に置いた。
そして、もう一度だけ手帳を開いた。
最後の頁には、二人の名前が残っている。
私はその下へ、小さく書き加えた。
『再会する時まで、私も自分の任務を果たす。』
手帳を閉じ、灯りを落とした。
帝政歴344年4月26日。
連邦共和国陸軍中尉エリシア・L・ヴォルハラムは、帝国軍との教育交流任務を終え、祖国へ帰還した。
彼女を待っていたのは、共和国軍人としての新たな職務と、国境情勢の悪化によって変化しつつある軍管区の空気だった。
帝国軍の新兵たちとの交流は、すでに過去の出来事になり始めている。
しかし、そこで交わした言葉は、彼女の中に残っていた。
レイブン・S・クロウ。
ガイル・ベッカー。
二人の若い兵士が、これからどのような道を歩むのか。
彼女には分からない。
ただ、無事でいてほしいと願っていた。
帝国と連邦共和国の間には、国境線が引かれている。
その境界は、政治によって定められ、軍隊によって守られていた。
けれど、夜空に浮かぶ月は、どちらの国のものでもなかった。
その夜、エリシアは祖国の宿舎で眠りについた。
翌朝には、また共和国軍人としての一日が始まる。
そして、遠く離れた帝国のヴァイスベルク駐屯地でも、レイブンとガイルが、それぞれの訓練を続けているはずだった。
彼らが再び同じ場所に立つ日は、まだ訪れていない。
それでも、別れ際に交わした約束だけは、確かに残っていた。




