第75話 別離の朝、再会の誓い
第75話 別離の朝、再会の誓い
帝政歴344年4月25日、午前5時38分。
帝国陸軍北部守備管区、ヴァイスベルク駐屯地。
夜明け前の空には、薄い雲が広がっていた。
北部の山々から吹き下ろす風は冷たく、駐屯地の建物の間を抜けるたびに、窓枠が小さく震えた。昨日までの雨で湿った地面には、まだ幾つもの水溜まりが残っている。
レイブン・S・クロウは、起床ラッパより少し早く目を覚ました。
黒い猫耳が廊下の足音を捉え、金色と黒色の左右異なる瞳が、薄暗い天井を見つめる。
隣の寝台では、ガイル・ベッカーが毛布を肩まで引き上げて眠っていた。
レイブンはゆっくりと身体を起こし、机の上に置かれた手帳を手に取った。
昨日の記録。
SG-44の携行評価。
班単位の総合訓練。
そして、エリシア・L・ヴォルハラム中尉の挨拶。
『仲間を大切にすること。自分の役割を理解すること。そして、無事に帰ること』
彼女の言葉は、今も耳に残っていた。
「……レイブン」
隣の寝台から、眠たそうな声が聞こえた。
「起きてるのか?」
「うん。おはよう、ガイル」
「……おはよう」
ガイルは大きな欠伸をし、毛布を押しのけた。
「今日は何の訓練だっけ?」
「午前は装備点検と教育記録の整理。午後は通常の班訓練だったと思う」
「そっか」
ガイルは寝台から降り、軍靴を手に取った。
「……ヴォルハラム中尉、今日は来るのかな」
レイブンは少し考えた。
「……分からない」
「昨日の挨拶、何だか最後みたいだったよな」
「うん」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
やがて、廊下に起床ラッパが響いた。
レイブンは手帳を閉じ、制服へ袖を通した。
午前7時12分。
第三新兵宿舎、集合広場。
朝の点呼を終えた新兵たちは、ケラー軍曹の前に整列していた。
軍曹は名簿を確認し、いつもより少し硬い表情で口を開いた。
「本日の予定に変更がある」
新兵たちの視線が集まった。
「連邦共和国軍派遣将校、エリシア・L・ヴォルハラム中尉の帰国命令が正式に発令された」
レイブンは、思わず顔を上げた。
隣のガイルも、驚いたように耳を立てる。
ケラー軍曹は続けた。
「中尉は本日、帝国軍との教育協力任務を終了し、帰国する。出発に伴い、午前の教育予定を一部変更する」
ガイルが小さく呟いた。
「……今日、帰るのか」
レイブンは黙っていた。
昨日まで、同じ訓練場で言葉を交わしていた。
昨日まで、同じ講堂で教育を受けていた。
その彼女が、今日、共和国へ帰る。
頭では理解できても、すぐには実感が湧かなかった。
ケラー軍曹は二人へ視線を向けた。
「クロウ新兵。ベッカー新兵」
「はい!」
「お前たちは教育協力の対象者として、午前九時からの送別式に出席を許可する」
レイブンは姿勢を正した。
「了解しました!」
ガイルも続いた。
「了解しました!」
軍曹は頷いた。
「ただし、式典終了後は通常の教育予定へ戻る。私情で訓練を疎かにするな」
「了解!」
返事が揃った。
午前8時46分。
第十一独立特殊歩兵中隊、中隊本部前。
中隊本部前には、送別式の準備が整えられていた。
帝国軍の旗が掲げられ、その隣には、交流任務に関する式典用の旗が置かれている。
兵士たちは整列し、静かに開始を待っていた。
レイブンとガイルは、教育協力に参加した新兵として、列の後方に立っていた。
ガイルは、いつもより静かだった。
「……レイブン」
「何?」
「何て言えばいいんだろうな」
レイブンは少し考えた。
「……お礼を言えばいいんじゃないかな」
「それだけでいいのか?」
「うん。ちゃんと伝わると思う」
ガイルは頷いた。
「……そうだな」
やがて、中隊本部の扉が開いた。
クラウディア・フォン・ローゼンフェルト大尉が姿を現した。
その隣には、連邦共和国陸軍の制服を着たエリシア・L・ヴォルハラム中尉が立っている。
金色の髪は丁寧にまとめられ、肩には共和国軍中尉の階級章が輝いていた。
彼女は、いつもと変わらない落ち着いた表情をしていた。
しかし、レイブンには、その表情の奥にわずかな寂しさがあるように見えた。
クラウディアが前へ進み出た。
「全員、注目」
兵士たちは姿勢を正した。
「本日をもって、連邦共和国陸軍エリシア・L・ヴォルハラム中尉の教育協力任務が終了する」
クラウディアはエリシアへ視線を向けた。
「中尉は、短い期間ながらも、我々の教育活動に貴重な協力を提供してくれた」
彼女は続けた。
「異なる国家の軍人が互いの考え方を理解することは、容易ではない。しかし、その努力には意味がある」
レイブンは静かに聞いていた。
「本中隊を代表し、ヴォルハラム中尉の協力に感謝する」
クラウディアは敬礼した。
エリシアも、共和国軍の礼式に従って答礼した。
その後、エリシアが一歩前へ出た。
「皆さん」
彼女の声が、静かな広場に響いた。
「短い間でしたが、皆さんと教育を共にできたことを、私はとても嬉しく思っています」
レイブンは顔を上げた。
「私は連邦共和国軍人です。皆さんとは、所属する国家も、軍の制度も違います」
エリシアは続けた。
「それでも、兵士として学ぶべきことには、多くの共通点があると感じました」
彼女は、整列する兵士たちを見渡した。
「仲間を大切にすること。自分の役割を理解すること。そして、無事に帰ること」
レイブンは、その言葉を胸に刻んだ。
「どうか、皆さんがこれからも学び続け、無事に任務を果たせることを願っています」
エリシアは微笑んだ。
「ありがとうございました」
式典に参加した兵士たちが拍手を送った。
クラウディアも、静かに拍手していた。
午前9時28分。
第十一独立特殊歩兵中隊、中隊本部前。
送別式が終わると、兵士たちは順番にエリシアへ挨拶をしていた。
ミリア伍長は、少し寂しそうに笑った。
「中尉、短い間でしたけど、ありがとうございました」
エリシアは微笑んだ。
「こちらこそ。ミリア伍長の明るさには、何度も助けられたわ」
「そんなことないですよ」
「いいえ。本当よ」
二人は握手を交わした。
続いて、シュタイン軍曹が前へ出た。
「ヴォルハラム中尉。教育協力に感謝します」
「こちらこそ、ありがとうございました」
シュタイン軍曹は頷いた。
「共和国へ戻られても、ご健勝を」
エリシアは敬礼した。
「ありがとうございます」
その後、レイブンとガイルの順番が来た。
二人はエリシアの前に立ち、姿勢を正した。
「ヴォルハラム中尉」
レイブンが口を開いた。
「短い間でしたが、ありがとうございました」
ガイルも続いた。
「俺もです! いろいろ教えてもらって、本当に勉強になりました!」
エリシアは、二人を見て微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう」
彼女はレイブンへ視線を向けた。
「クロウ新兵。SG-44の習熟教育、これからも続くのでしょう?」
「はい」
「焦らず、少しずつ覚えていきなさい」
レイブンは頷いた。
「了解しました」
エリシアは続けた。
「新しい装備を使う時ほど、自分の判断を大切にしてね」
「はい」
次に、ガイルへ視線を向けた。
「ベッカー新兵」
「はい!」
「あなたは、仲間を引っ張ろうとする力があるわ」
ガイルは少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「でも、周りを見ながら進むことも忘れないで」
「……はい!」
エリシアは笑った。
「二人とも、きっといい兵士になれると思う」
レイブンは、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに口を開いた。
「……中尉」
「何かしら?」
「もし、いつかまたお会いできることがあったら」
エリシアは、彼を見た。
「……はい?」
レイブンは少し迷った後、続けた。
「その時も、今日みたいに話せたら嬉しいです」
エリシアは、一瞬だけ驚いたような顔をした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうね」
彼女は静かに答えた。
「私も、そう思うわ」
ガイルが明るく言った。
「じゃあ、約束ですね!」
エリシアは笑った。
「ええ。約束ね」
レイブンも、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
午前10時03分。
ヴァイスベルク駐屯地、東側正門。
エリシアの帰国に伴う車両が、正門前で待機していた。
帝国軍の連絡将校と共和国軍の随行員が、書類の確認を進めている。
エリシアは小さな旅行鞄を持ち、車両の前に立っていた。
クラウディア大尉が、最後の確認を行っている。
「移動経路は確認済みだ。国境の引き継ぎ地点までは、帝国軍の連絡車両が同行する」
「ありがとうございます」
エリシアは頷いた。
クラウディアは少しだけ声を落とした。
「……無事に帰れよ」
エリシアは、静かに微笑んだ。
「はい。大尉も、どうかお元気で」
二人は握手を交わした。
その時、少し離れた場所から声が聞こえた。
「ヴォルハラム中尉!」
エリシアが振り返る。
そこには、レイブンとガイルが立っていた。
二人は送別式の後、ケラー軍曹から短時間の見送りを許可されていた。
ガイルが大きく手を振った。
「中尉! お気をつけて!」
エリシアは微笑んだ。
「ありがとう、ベッカー新兵!」
レイブンも、姿勢を正した。
「……どうか、ご無事で」
エリシアは、彼を見つめた。
「クロウ新兵」
「はい」
「あなたも、無事に帰ることを忘れないでね」
レイブンは頷いた。
「……はい」
エリシアは、少しだけ笑った。
「約束よ」
「……約束します」
彼女は、二人へ最後の敬礼を送った。
レイブンとガイルも、帝国軍の礼式に従って敬礼した。
やがて、エリシアは車両へ乗り込んだ。
扉が閉まる。
エンジンが始動する。
車両はゆっくりと動き出し、正門を通過していった。
レイブンは、その姿を見つめ続けた。
車両が遠ざかり、やがて北部の道路の向こうへ消えていく。
ガイルが小さく呟いた。
「……行っちまったな」
レイブンは頷いた。
「……うん」
二人の間に、静かな風が吹いた。
午前11時26分。
ヴァイスベルク駐屯地、中央兵器管理棟。
見送りを終えたレイブンとガイルは、通常の教育予定へ戻っていた。
レイブンはSG-44の装備点検を受け、ヴァイス准尉から今日の評価内容について説明を受けていた。
「クロウ新兵」
「はい」
「今日は、これまでの評価記録を整理する。実際に使用した際の負担や問題点を、改めて確認したい」
「了解しました」
レイブンは記録用紙を受け取った。
しかし、少しだけ集中が途切れていた。
ヴァイス准尉は、その様子に気づいた。
「……何かあったか?」
レイブンは顔を上げた。
「……いえ」
准尉は少し考えた。
「共和国軍の派遣将校が帰国したそうだな」
レイブンは頷いた。
「……はい」
「そうか」
准尉は静かに答えた。
「軍人には、別れがつきものだ」
レイブンは黙っていた。
准尉は続けた。
「だが、別れたからといって、そこで学んだことが消えるわけじゃない」
レイブンは顔を上げた。
「……はい」
「だったら、今は自分の任務に集中しろ」
レイブンは姿勢を正した。
「了解しました」
准尉は頷いた。
「よろしい」
レイブンはSG-44へ視線を向けた。
黒い銃身。
重厚な機関部。
そして、ポンプ・アクションとセミオートを切り替える専用ボタン機構。
昨日まで、エリシアはこの銃についても助言をしてくれた。
装備の性能だけでなく、使う兵士や整備担当者、補給を支える人々のことも考える。
その言葉は、今も彼の中に残っていた。
午後2時17分。
ヴァイスベルク駐屯地、第二訓練場。
午後の訓練では、レイブンとガイルは再び班単位の連携教育を受けていた。
シュタイン軍曹は、レイブンの動きを見ていた。
「クロウ新兵。集中しろ」
「……はい!」
「考え事をしているなら、訓練が終わってからにしろ」
レイブンは姿勢を正した。
「申し訳ありません」
シュタイン軍曹は少しだけ表情を和らげた。
「……別れは寂しいものだ」
レイブンは顔を上げた。
「……はい」
「だが、軍人は自分の任務を果たさなければならん」
「了解しました」
「それに、相手も同じだ」
レイブンは静かに頷いた。
「……はい」
シュタイン軍曹は、再び訓練を開始した。
その頃、ガイルはミリア伍長の班で訓練を受けていた。
「ベッカー新兵!」
「はい!」
「今日は少し静かだね」
ガイルは苦笑した。
「……そうですか?」
「うん。いつもより声が小さい」
「……中尉が帰っちゃったので」
ミリアは少しだけ微笑んだ。
「……そっか」
ガイルは頷いた。
「でも、ちゃんと訓練はやります!」
ミリアは笑った。
「うん。それでいいよ」
そして、彼の肩を軽く叩いた。
「中尉も、きっとそうしてほしいと思ってる」
ガイルは大きく頷いた。
「……はい!」
午後5時36分。
ヴァイスベルク駐屯地、第三新兵宿舎。
夕食前の自由時間。
レイブンとガイルは、宿舎の前にあるベンチへ腰を下ろしていた。
夕日が駐屯地の建物を赤く染めている。
ガイルは空を見上げた。
「……なあ、レイブン」
「何?」
「また会えると思うか?」
レイブンは少し考えた。
「……分からない」
「そっか」
「でも、約束したから」
ガイルは顔を向けた。
「……そうだな」
レイブンは続けた。
「いつかまた会えたら、今日みたいに話したい」
ガイルは笑った。
「俺もだ」
二人は、しばらく夕日を眺めていた。
やがて、ガイルが立ち上がった。
「よし!」
レイブンは顔を上げた。
「どうしたの?」
「腹減った!」
レイブンは思わず笑った。
「……やっぱりガイルだね」
「何だよ、それ!」
二人は笑いながら宿舎へ戻った。
午後7時48分。
連邦共和国領内、北部軍管区方面。
夕暮れの道路を、一台の軍用車両が走っていた。
車内では、エリシア・L・ヴォルハラム中尉が窓の外を見つめていた。
帝国領を離れ、国境での引き継ぎ手続きを終えた後、彼女は共和国軍の車両へ乗り換えていた。
窓の外には、共和国の街並みが広がっている。
自分の祖国。
自分が帰るべき場所。
エリシアは、静かに息を吐いた。
今日の送別式。
クラウディア大尉。
シュタイン軍曹。
ミリア伍長。
そして、レイブンとガイル。
短い期間だったが、多くの人々と出会った。
彼女は、レイブンの言葉を思い出した。
『その時も、今日みたいに話せたら嬉しいです』
エリシアは、少しだけ微笑んだ。
「……そうね」
彼女は小さく呟いた。
「また、会えるといいわね」
しかし、その表情はすぐに引き締まった。
共和国軍の車両。
共和国軍の制服。
共和国軍の階級章。
自分は、連邦共和国軍人だ。
帝国軍の新兵たちとは、異なる軍旗の下に立っている。
そして、両国の関係は悪化していた。
エリシアは窓の外へ目を向けた。
遠くの空には、暗い雲が広がっている。
「……戦争にならなければいいけれど」
その言葉は、車両のエンジン音に紛れて消えた。
午後8時42分。
第三新兵宿舎、第二〇六号室。
レイブンは机に向かい、今日の記録を書いていた。
SG-44の装備点検。
班単位の連携教育。
そして、エリシア中尉の帰国。
レイブンは、最後の項目でペンを止めた。
今日、彼女は共和国へ帰った。
帝国軍の新兵である自分とは、異なる軍旗の下へ。
しかし、別れ際に交わした約束は、今も胸に残っている。
『また会えたら、今日みたいに話したい』
レイブンは手帳へ一文を書き加えた。
『いつか再会する日まで、学び続ける』
そして、もう一文。
『その時も、互いが無事であることを願う』
レイブンは静かにペンを置いた。
窓の外には、北部の夜空が広がっていた。
遠くの山々は暗闇に沈み、駐屯地の照明だけが静かに灯っている。
レイブンは、父ヴァルターの言葉を思い出した。
『絶対に、五体満足で帰ってこい』
そして、エリシアの言葉も。
『あなたも、無事に帰ることを忘れないでね』
二つの言葉は、不思議と重なっていた。
レイブンは、静かに手帳を閉じた。
帝政歴344年4月25日。
帝国軍新兵レイブン・S・クロウは、連邦共和国軍中尉エリシア・L・ヴォルハラムとの短い交流を終えた。
彼女は正式な帰国命令に従い、祖国へ帰った。
二人は、異なる軍旗の下に立つ軍人だった。
しかし、別れ際には再会を願う言葉を交わした。
その約束が、いつ果たされるのか。
誰にも分からなかった。
帝国と連邦共和国の国境では、軍備増強が進み、外交交渉は難航している。
戦争の足音は、確実に近づいていた。
そして、レイブンとエリシアは、それぞれの祖国で軍人としての道を歩み始めていた。
北部の夜空には、冷たい風が吹いていた。
二つの国を隔てる国境線の上には、同じ月が浮かんでいた。




