第71話 境界線の向こうにいる人
第71話 境界線の向こうにいる人
帝政歴344年4月22日、午前5時51分。
帝国陸軍ヴァイスベルク駐屯地、第三新兵宿舎第二〇六号室。
夜明け前から降り始めた雨は、起床ラッパが鳴り終わっても止む気配を見せなかった。窓の向こうでは灰色の雲が北部の山々を覆い、兵舎の屋根を叩く雨音が、廊下を行き交う軍靴の足音に重なっている。
レイブン・S・クロウは寝台の毛布を畳み、制服の襟元を整えていた。黒い猫耳が廊下の物音を捉えるたびにわずかに動き、腰の後ろでは黒い尾がゆっくりと揺れている。
隣ではガイル・ベッカーが、軍靴の紐と格闘していた。
「くそっ、また絡まった」
「昨日、脱ぐ時にほどかなかったからだよ」
「昨日は疲れてたんだって。お前だって見てただろ、ミリア伍長の訓練」
「見てたよ。最後の方は、ガイルの声が訓練場の反対側まで聞こえてた」
「それは元気がある証拠だ」
「シュタイン軍曹には、騒がしい証拠だって言われてたけど」
「……あの軍曹、容赦ねえよな」
レイブンは笑いながら自分の背嚢を持ち上げた。ガイルもようやく靴紐を結び終え、立ち上がる。
机の上には、昨日の比較教育で配布された資料が置かれていた。帝国軍と連邦共和国軍の教育制度を比較したもので、双方が公開を認めた範囲の内容に限られている。
レイブンは昨夜、その資料を読み返していた。
帝国軍は小規模部隊の自主判断と兵科間連携を重視する傾向が強く、連邦共和国軍は上級司令部による統制と計画的な部隊運用を重視する傾向がある。しかし、エリシア中尉は、その違いを単純な優劣として説明しなかった。
国が違えば、軍隊が置かれてきた環境も違う。
同じ問題に対して、異なる答えが生まれることもある。
それが昨日の授業で、レイブンが最も強く印象に残したことだった。
「なあ、レイブン」
「何?」
「今日も共和国の中尉が来るのか?」
「教育予定表には、午後の合同評価に参加するって書いてあったよ」
「そっか」
ガイルは窓の外へ目を向けた。
「……雨、強くなってきたな」
「うん」
「今日は泥だらけになりそうだ」
「昨日よりは、足元に気をつけないとね」
ガイルは肩を回した。
「よし。だったら、今日は俺が先に転ばないようにしてやる」
「昨日も似たようなこと言ってなかった?」
「昨日は昨日、今日は今日だ!」
レイブンは笑い、背嚢を肩へ掛けた。
二人は宿舎を出て、雨に濡れた駐屯地の道路へ歩き出した。
午前7時43分。
ヴァイスベルク駐屯地、中央兵器管理棟。
兵器管理棟の内部には、油と金属の匂いが漂っていた。作業台の向こうでは管理兵たちが銃器の点検記録を照合し、別の区画では整備担当者が前日に返却された装備の状態を確認している。
「ベッカー新兵、指定小銃一挺。管理番号照合、異常なし」
「了解しました!」
ガイルは受領記録に署名し、管理兵の指示に従って装備を受け取った。
続いてレイブンの名前が呼ばれる。
「クロウ新兵。SG-44、試験装備管理区分」
「はい」
兵器管理部のオットー・ヴァイス准尉が、保管台の向こうから顔を上げた。
「おはよう、クロウ新兵」
「おはようございます、准尉」
「昨日の報告書は読んだ。重量配分について、かなり細かく書いていたな」
「気づいたことを記録しました」
「それでいい。今日は追加の携行評価がある。実弾射撃ではなく、装備の適合性と操作負担の確認だ」
「了解しました」
ヴァイス准尉は黒い保管ケースを開いた。
内部にはSG-44が収められている。
十二番径の試験散弾銃。重厚な機関部と太い前床、そしてポンプ・アクションとセミオートを切り替えるための専用ボタン機構を備えている。
レイブンは管理官の監督下で安全状態と管理番号を確認し、受領票へ署名した。
昨日よりも、その重量を落ち着いて受け止めることができた。
「准尉、一つ質問してもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「この銃の切替機構は、今後も改良される予定なのでしょうか」
ヴァイス准尉は少し考えた。
「評価次第だな。現在の機構は開発側が求める基本機能を満たしているが、操作感や整備性については改善の余地がある」
「なるほど」
「ただし、便利な機構を増やせば、その分だけ複雑にもなる。銃は使う兵士にとって分かりやすくなければ意味がない」
レイブンは頷いた。
「はい」
准尉はSG-44を見た。
「それから、クロウ新兵。今日の評価で、切替機構を必要以上に試そうとするな。指示された内容だけを行え」
「了解しました」
「お前の仕事は、新型銃の性能を証明することじゃない。実際に扱った結果を正確に伝えることだ」
「はい」
その言葉を聞き、レイブンは改めて銃を見下ろした。
まだ、このSG-44が自分にとってどのような存在になるのかは分からない。
だが、少なくとも今は、学ぶべきことが山ほどある装備だった。
午前8時36分。
第十一独立特殊歩兵中隊、第二訓練場。
雨に濡れた訓練場には、赤褐色の泥が広がっていた。
模擬建物の屋根から雨水が流れ落ち、障害物の周囲には浅い水溜まりができている。
レイブンとガイルが到着すると、白髪の猫系亜人であるミリア伍長が手を振った。
「おはよう、二人とも!」
「おはようございます!」
「今日は雨だから、昨日以上に足元を確認してね。滑って転んでも、私が全部受け止められるわけじゃないから」
ガイルは胸を張った。
「大丈夫です!」
ミリアは彼の顔を見た。
「その台詞、昨日も聞いた気がする」
「……気のせいです!」
レイブンは思わず笑った。
その後ろから、黒髪のシュタイン軍曹が現れた。
「ベッカー新兵。元気なのは結構だが、装備確認が終わるまで余計なことをするな」
「了解しました!」
「クロウ新兵。SG-44の携行評価は私が担当する。試験装備だからといって、特別な動きを求めるつもりはない」
「はい」
シュタイン軍曹は二人の装備を確認すると、訓練場の奥を指した。
「本日の午前訓練は、悪天候下での班行動と負傷者搬送の基礎だ。射撃は行わない。泥濘地での移動、報告、装備の保持、そして仲間への支援を確認する」
レイブンは頷いた。
「了解しました」
ガイルも姿勢を正した。
「了解しました!」
訓練が始まった。
午前9時18分。
第二訓練場、南側障害区画。
雨は一向に弱まらなかった。
レイブンはSG-44を携行し、女性兵士三名とともに障害物の間を移動していた。足元の泥は思っていた以上に深く、軍靴の底へまとわりつく。
前方を歩くシュタイン軍曹が振り返った。
「クロウ新兵、どうだ?」
「……銃の重量より、足元の不安定さが気になります」
「理由は?」
「歩幅が変わるので、装備を保持する姿勢も変わります」
「そうだな」
シュタイン軍曹は頷いた。
「悪天候では、いつもと同じ動きができるとは限らん。特に装備が重い場合、疲労の増え方も違う」
レイブンは足元を確認しながら答えた。
「はい」
その時、後方の女性兵士が泥に足を取られ、わずかによろめいた。
レイブンは反射的に身体を向けたが、彼女はすぐに姿勢を立て直した。
「大丈夫です」
「……よかった」
シュタイン軍曹が二人を見た。
「今のような時、助けようとして自分まで転倒するな。まず状況を確認しろ」
「了解しました」
レイブンは頷いた。
父ヴァルターから教わった言葉が、ふと頭をよぎった。
助けることと、無謀に飛び込むことは違う。
誰かを守ろうとして、自分まで倒れてしまえば意味がない。
レイブンは、SG-44の重みを改めて感じながら歩き始めた。
午前10時27分。
第二訓練場、西側搬送区画。
ガイルはミリア伍長の班で、負傷者役の訓練人形を搬送していた。
「ベッカー新兵! 力任せに持ち上げない!」
「了解!」
「仲間と動きを合わせて!」
「はい!」
ガイルは隣の女性兵士へ視線を向けた。
「準備いいか?」
「いいわ」
「じゃあ、合わせよう」
二人は互いの動きを確認しながら訓練人形を持ち上げた。
昨日までなら、ガイルは自分の力だけで何とかしようとしていたかもしれない。
しかし、今は違った。
隣の兵士の動きを確認し、歩調を合わせる。
ミリアは、その様子を見て満足そうに頷いた。
「うん。昨日よりずっといいよ」
「ありがとうございます!」
「でも、まだ肩に力が入りすぎ!」
「……はい!」
ガイルは苦笑した。
訓練場の向こうでは、レイブンも別の班とともに移動している。
ガイルは一瞬だけその姿を見た。
黒い猫耳。
黒い尾。
そして、昨日から携行しているSG-44。
学校で同じ部屋にいた頃から、レイブンは慎重な性格だった。
だが、ここへ来てから、その慎重さが少しずつ別の形に変わり始めているように感じた。
自分の弱点を知り、改善しようとする姿勢。
それは、ガイル自身も学ばなければならないことだった。
午前11時52分。
第十一独立特殊歩兵中隊、隊員食堂。
午前の訓練を終えた兵士たちは、濡れた装備を指定場所へ置き、食堂へ集まっていた。
ガイルは大きな皿を前に、幸せそうな顔をしている。
「……生き返る」
レイブンは笑った。
「まだ午前の訓練が終わっただけだよ」
「だからこそだろ。腹減ったんだって」
ミリア伍長が向かいの席で笑った。
「よく食べるねえ、ベッカー新兵」
「食べないと午後に動けませんから!」
「その調子で午後も頑張ってね」
「もちろんです!」
その時、食堂の入口からクラウディア大尉とエリシア中尉が入ってきた。
二人は何かを話していたが、レイブンにはその内容までは聞こえなかった。
エリシアの表情は、昨日よりも少し硬い。
彼女は食堂の奥へ進み、窓際の席へ腰を下ろした。
ガイルが小声で言った。
「……中尉、何かあったのかな」
レイブンも彼女を見た。
「……分からない」
「昨日の授業じゃ、あんな顔してなかったよな」
「うん」
ミリア伍長は二人の視線に気づいた。
「ヴォルハラム中尉のこと?」
ガイルが頷く。
「はい」
ミリアは少し声を落とした。
「詳しいことは私も知らないけど、最近は交流協定の見直しが進んでるらしいよ」
レイブンは顔を上げた。
「……見直し、ですか?」
「うん。国境の方が落ち着かないからね」
ミリアは窓の外へ目を向けた。
「今はまだ、同じ食堂で食事ができるけど」
その言葉の続きを、彼女は口にしなかった。
レイブンも、何も言えなかった。
午後1時16分。
第一訓練講堂。
午後の教育では、帝国軍と連邦共和国軍の一般的な歩兵装備運用について、比較講義が行われることになっていた。
講堂の前方には、公開可能な範囲の装備資料が並べられている。
クラウディア大尉が教壇に立った。
「本日の比較教育は、歩兵装備の設計思想と、その運用上の違いについて扱う」
兵士たちは静かに耳を傾けた。
「帝国軍では、兵士個人の装備選択と任務適合性を重視する傾向がある。一方、連邦共和国軍では、部隊全体の装備統一と補給効率を重視する傾向が強い」
クラウディアはエリシアへ視線を向けた。
「ヴォルハラム中尉、お願いします」
エリシアは頷き、教壇へ進んだ。
「ありがとうございます」
彼女は講堂を見渡した。
「共和国軍では、装備の統一性を重視する教育が行われています。これは、部隊全体の補給や整備を効率化するためです」
レイブンは手帳を開いた。
「ただし、すべての任務に同じ装備が適しているわけではありません。共和国軍でも、任務に応じた装備の変更や専門装備の運用は行われています」
エリシアは続けた。
「大切なのは、装備の性能だけでなく、部隊全体として運用できるかどうかです」
その時、クラウディアがレイブンへ視線を向けた。
「クロウ新兵」
「はい!」
「お前は昨日、SG-44を受領したな」
「はい」
「その装備について、今の講義を聞いてどう思う?」
レイブンは少し考えた。
「……性能が優れていても、整備や補給が難しければ、部隊全体では扱いにくくなると思います」
クラウディアは頷いた。
「続けろ」
「SG-44は試験装備なので、まだ評価が必要です。自分が扱えるようになるだけではなく、ほかの兵士や整備担当者が管理できるかどうかも重要だと思います」
エリシアは、その答えを聞いて少しだけ微笑んだ。
「……その通りね」
レイブンは彼女へ視線を向けた。
エリシアは続けた。
「兵器は、一人の兵士だけで使われるものではないわ。設計する人、製造する人、運ぶ人、整備する人。そして、実際に使う人。多くの人が関わっているの」
レイブンは頷いた。
「はい」
「だから、新しい装備を評価する時には、使いやすさだけでなく、維持できるかどうかも考えなければならないの」
レイブンは手帳へ、その言葉を書き留めた。
午後2時38分。
第一訓練講堂。
講義の後半では、参加者からの質問が受け付けられた。
ガイルが手を挙げる。
「ヴォルハラム中尉!」
「はい、ベッカー新兵」
「共和国軍でも、兵士によって使う銃が違うことはあるんですか?」
エリシアは頷いた。
「もちろんあるわ。歩兵、偵察、機甲、通信、衛生。それぞれの任務に応じて装備が異なることはある」
「なるほど」
「ただし、装備の選択には部隊の方針や補給体制が関わるから、個人の好みだけで決められるわけではないの」
ガイルは頷いた。
「ありがとうございます!」
その後、別の女性兵士が質問した。
「中尉。帝国軍と共和国軍では、兵士の教育期間にも違いがあるのでしょうか?」
「ええ。教育課程の構成や、専門教育へ進む時期には違いがあるわ」
エリシアは資料を示しながら説明した。
「ただし、どちらの制度にも長所と課題がある。重要なのは、その国の軍隊が何を必要としているかということね」
レイブンは静かに聞いていた。
そして、ふと疑問を抱いた。
エリシアは、まだ若い。
それでも、すでに中尉として共和国軍に所属している。
彼女はどのような教育を受け、どのような経歴を歩んできたのだろうか。
レイブンは少し迷った後、手を挙げた。
「クロウ新兵。どうぞ」
「……中尉は、どうして軍人になろうと思われたんですか?」
講堂が、少し静かになった。
エリシアは一瞬、目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……私が軍人になった理由?」
「はい。差し支えなければ」
エリシアは少し考えた。
「……そうね」
彼女は窓の外へ目を向けた。
雨はまだ降り続いていた。
「私の家族には、軍に関わってきた人がいるの」
レイブンは静かに聞いていた。
「幼い頃から、軍人という仕事が身近だった。でも、最初から軍人になりたいと思っていたわけではないわ」
エリシアは少し笑った。
「むしろ、どうして大人たちは危険な仕事を選ぶのか、不思議だった」
講堂の兵士たちは、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「でも、ある時気づいたの。軍人の仕事は、戦うことだけじゃない。人を守ることも、災害で助けることも、国を支えることも含まれているんだって」
レイブンは頷いた。
「……それで、志願されたんですか?」
「ええ」
エリシアは微笑んだ。
「自分にできることを探したかったの」
レイブンは、その言葉を胸に刻んだ。
「……ありがとうございます」
エリシアは頷いた。
「こちらこそ。いい質問だったわ」
午後4時11分。
第十一独立特殊歩兵中隊、教育連絡室。
講義が終わった後、クラウディア大尉はエリシアを呼び止めた。
「ヴォルハラム中尉。少しいいか」
「はい、大尉」
二人は教育連絡室へ入った。
クラウディアは机の上に、一通の書類を置いた。
「本部から正式な通知が届いた」
エリシアは書類へ目を向けた。
「……派遣協定について、ですか?」
「ああ」
クラウディアは頷いた。
「共和国軍派遣将校の教育活動について、今月末までに再審査を行うことになった」
エリシアは黙っていた。
「現時点では、派遣終了が決まったわけではない。ただし、今後の活動範囲は縮小される可能性がある」
「……承知しました」
クラウディアは少しだけ声を落とした。
「君自身に問題があるわけではない。むしろ、教育協力者としての評価は高い」
エリシアは静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「だが、政治情勢が変われば、軍人個人の希望だけではどうにもならないことがある」
エリシアは書類を見つめた。
「……分かっています」
クラウディアは窓の外へ目を向けた。
「国境の警戒態勢も強化されている。軍事交流が続くかどうかは、今後の外交交渉次第だ」
エリシアは小さく息を吐いた。
「……そうですね」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
やがて、クラウディアが口を開いた。
「ヴォルハラム中尉」
「はい」
「もし帰国命令が出たら、君はどうする?」
エリシアは迷わず答えた。
「……従います」
クラウディアは頷いた。
「そうだろうな」
エリシアは続けた。
「私は共和国軍人です。祖国から正式な命令が出れば、それに従う責任があります」
その声は、落ち着いていた。
しかし、彼女の指先は、書類の端をわずかに押さえていた。
クラウディアは静かに言った。
「……君がここで教えたことは、無駄にはならない」
エリシアは顔を上げた。
「……ありがとうございます」
午後5時29分。
ヴァイスベルク駐屯地、中央道路。
雨はようやく弱まり、雲の切れ間から夕日が差し始めていた。
レイブンとガイルは、訓練を終えて宿舎へ戻る途中だった。
ガイルは肩を回しながら言った。
「……今日も疲れたな」
「うん」
「でも、面白かった」
「俺も」
ガイルは少し考えた。
「……なあ、レイブン」
「何?」
「ヴォルハラム中尉って、すごい人だな」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「俺たちとそんなに年が離れてないのに、もう中尉なんだろ?」
「そうだね」
「どうやったら、あんなふうになれるんだろうな」
レイブンは少し笑った。
「……努力したんじゃないかな」
「そりゃそうか」
ガイルも笑った。
二人はしばらく歩いた。
やがて、ガイルが静かに言った。
「……でも、もし戦争になったら、あの人も敵になるのかな」
レイブンは足を止めた。
雨上がりの道路には、水溜まりが残っている。
夕日が、その表面を赤く染めていた。
「……分からない」
レイブンは静かに答えた。
「でも、国が違うからって、今まで話したことが全部なくなるわけじゃないと思う」
ガイルはレイブンを見た。
「……そうだな」
二人は再び歩き始めた。
午後8時36分。
第三新兵宿舎、第二〇六号室。
消灯前の静かな時間。
レイブンは机に向かい、今日の記録を書いていた。
SG-44の携行評価。
悪天候下での班行動。
負傷者搬送。
帝国軍と共和国軍の装備運用の違い。
そして、エリシア中尉の話。
レイブンは、最後の項目でペンを止めた。
彼女は共和国軍人だ。
自分は帝国軍人だ。
その事実は変わらない。
だが、今日、彼女は自分が軍人になった理由を話してくれた。
人を守りたい。
自分にできることを探したい。
その思いは、帝国軍の兵士にも通じるものがある。
レイブンは手帳へ一文を書き加えた。
『軍旗が違っても、守りたいものが違うとは限らない』
そして、もう一文。
『ただし、軍人には従わなければならない命令がある』
レイブンは、静かにペンを置いた。
窓の外には、雨上がりの夜空が広がっていた。
遠くの山々は暗闇に沈み、駐屯地の照明だけが静かに灯っている。
レイブンは、父ヴァルターの言葉を思い出した。
『絶対に、五体満足で帰ってこい』
その言葉は、今も胸の奥に残っている。
そして、エリシアの言葉も。
『戦争になれば、どちらの国の兵士も傷つくわ』
レイブンは窓の外へ目を向けた。
帝国と連邦共和国。
二つの国家の間には、国境線がある。
しかし、その線の向こうにも、自分と同じように家族を持ち、友人を持ち、未来を考えている人々がいる。
そのことを、レイブンは少しずつ理解し始めていた。
帝政歴344年4月22日。
帝国軍新兵レイブン・S・クロウは、SG-44の習熟教育を続けながら、連邦共和国軍中尉エリシア・L・ヴォルハラムとの交流を深めていた。
しかし、両国の軍事交流協定は再審査の対象となり、彼女の派遣期間にも不確実性が生じ始めていた。
まだ戦争は始まっていない。
それでも、国境の向こうでは軍備増強が進み、外交交渉は難航している。
そして、帝国軍と共和国軍の双方で、兵士たちはそれぞれの命令に従っていた。
レイブンはまだ知らなかった。
今は同じ講堂で言葉を交わすエリシアと、いつか別の場所で再び向き合うことになるかもしれないことを。
その時、自分たちはどのような立場にいるのか。
何を守ろうとするのか。
そして、何を選ぶのか。
答えは、まだ誰にも分からなかった。
北部の夜空には、雨雲の切れ間から月が姿を現していた。
駐屯地の夜は、静かに更けていった。




