第72話 迫る帰還命令、交わされた約束
第72話 迫る帰還命令、交わされた約束
帝政歴344年4月23日、午前5時47分。
帝国北部、ヴァイスベルク駐屯地。
昨夜まで降り続いていた雨は止み、駐屯地の上空には薄い朝霧が広がっていた。北方の山々から吹き下ろす冷たい風が兵舎の窓を揺らし、まだ眠りの残る宿舎の廊下に、早朝の巡察兵の足音が響いている。
レイブン・S・クロウは、起床ラッパが鳴る少し前に目を覚ました。
枕元の時計は午前五時四十七分を示している。
隣の寝台では、ガイル・ベッカーが毛布を肩まで引き上げて眠っていた。
レイブンは寝台から起き上がり、制服の上着を手に取った。黒い猫耳が廊下の物音に反応し、金色と黒色の左右異なる瞳が、窓の外に広がる霧を捉える。
机の上には、昨夜書き終えた手帳が置かれていた。
昨日の最後の一文。
『軍旗が違っても、守りたいものが違うとは限らない』
レイブンはその文字を眺め、静かに手帳を閉じた。
「……レイブン」
背後から、眠たそうな声が聞こえた。
「起きてるのか」
「うん。おはよう、ガイル」
「……おはよう」
ガイルは大きな欠伸をし、毛布を押しのけた。
「今日は何の訓練だったっけ?」
「午前は装備習熟の継続評価。午後は小隊単位の連携教育だったと思う」
「そうだったな」
ガイルは寝台から降り、軍靴を手に取った。
「お前のSG-44、今日は撃てるのか?」
「まだ分からない。実弾射撃の許可は別だから」
「早く見てみたいんだけどな」
「俺も、どういう感触なのかは気になるよ」
レイブンは苦笑した。
SG-44。
帝国軍兵器技術管理部が開発を進める、十二番径の試験散弾銃。
ポンプ・アクションとセミオートを切り替えられる専用ボタン機構を備えた銃であり、レイブンはその評価対象として指定されている。
まだ正式な量産装備ではなく、彼自身も習熟教育の途中だった。
「まあ、焦るなよ」
ガイルは笑った。
「お前なら、そのうち使いこなすだろ」
「……そうかな」
「そうだって。教育学校の時だって、最初は何でも慎重だったじゃねえか」
レイブンは少し笑った。
「慎重なのは悪いことじゃないと思うけど」
「悪いとは言ってねえよ」
ガイルは軍靴の紐を結びながら続けた。
「ただ、考えすぎて動けなくなるなってこと」
レイブンは、その言葉を静かに受け止めた。
「……うん」
やがて、廊下に起床ラッパが響いた。
二人は準備を整え、宿舎を後にした。
午前7時58分。
中央兵器管理棟。
兵器管理棟の内部には、いつものように金属と油の匂いが漂っていた。
レイブンはSG-44の受領手続きを行い、管理番号と外観状態を確認した。
兵器技術管理部のオットー・ヴァイス准尉が、作業台の向こうから声を掛ける。
「クロウ新兵」
「はい」
「本日の評価では、銃の携行と操作負担に加えて、整備担当者から見た問題点も確認する」
「整備担当者から、ですか?」
「ああ」
ヴァイス准尉はSG-44を見た。
「新型兵器は、使う兵士だけが満足していても駄目だ。整備に時間が掛かりすぎたり、補給部品が特殊すぎたりすれば、部隊全体の負担になる」
レイブンは頷いた。
「……昨日、ヴォルハラム中尉も似たようなことを仰っていました」
「ほう」
「装備は、設計する人、製造する人、運ぶ人、整備する人、そして使う人が関わっている、と」
ヴァイス准尉は少し笑った。
「共和国軍の将校か。いいことを言う」
そして、少し表情を引き締めた。
「だが、試験装備の技術情報は、交流教育の範囲外だ。相手が誰であっても、許可されていない内容は話すな」
「了解しました」
レイブンは姿勢を正した。
「よろしい」
准尉は受領記録へ署名した。
「それと、今日は技術評価班が来る。お前の意見も聞かれるだろう。遠慮せず、正直に答えろ」
「はい」
レイブンはSG-44を受け取り、指定された携行姿勢を取った。
その重量は、もう初日のような驚きを与えなかった。
しかし、重さに慣れることと、扱いに熟達することは違う。
そのことを、彼は理解し始めていた。
午前9時16分。
第十一独立特殊歩兵中隊、第三訓練場。
訓練場では、複数の班が装備習熟教育を受けていた。
レイブンはシュタイン軍曹の指導の下、SG-44の携行評価を行っていた。
銃の重量、装備との干渉、長時間保持による疲労。
そして、訓練中に発見した問題点を記録すること。
「クロウ新兵、どうだ?」
シュタイン軍曹が尋ねた。
「……前床の位置と装備の配置によって、身体への負担が変わるように感じます」
「具体的には?」
レイブンは少し考えた。
「背嚢を装着した状態だと、長時間携行した時に肩への負担が増えます」
軍曹は頷いた。
「なるほど」
彼女は記録用紙へ何かを書き込んだ。
「ほかには?」
「……切替機構がある分、操作部の位置を覚える必要があります。慣れない兵士が使う場合、教育時間が必要になると思います」
シュタイン軍曹は少し笑った。
「いい観察だ」
レイブンは頷いた。
「ありがとうございます」
軍曹は続けた。
「ただし、銃の性能を評価するのは技術班だ。お前は、実際に扱って感じたことを伝えればいい」
「了解しました」
その頃、ガイルはミリア伍長の班で、小隊単位の連携教育を受けていた。
「ベッカー新兵! 前に出すぎ!」
「了解!」
「班の動きを見て!」
「はい!」
ガイルは慌てて歩調を調整した。
昨日よりは改善していたが、まだ自分の動きが先行することがある。
ミリアは彼の肩を軽く叩いた。
「焦らなくていいよ。自分一人で全部やろうとしないこと」
ガイルは苦笑した。
「……はい」
「それに、力があるのは長所だけど、仲間と合わせられなければ意味がないからね」
「分かりました」
ガイルは頷いた。
そして、訓練場の向こうにいるレイブンへ視線を向けた。
黒い猫耳。
黒い尾。
そして、SG-44。
教育学校の頃から、レイブンは周囲をよく見ていた。
ガイルは、少しだけ笑った。
「……俺も負けてられねえな」
午前11時34分。
第十一独立特殊歩兵中隊、教育連絡室。
エリシア・L・ヴォルハラム中尉は、机の上に置かれた書類を見つめていた。
そこには、連邦共和国陸軍北部軍管区司令部から送られてきた通知があった。
『軍事交流派遣将校の活動状況確認』
『帰国準備に関する予備通達』
エリシアは静かに息を吐いた。
まだ、正式な帰国命令ではない。
しかし、帰国に備えた準備を始めるよう指示されていた。
彼女は窓の外へ目を向けた。
訓練場では、帝国軍の兵士たちが教育を受けている。
その中には、レイブンとガイルもいるはずだった。
エリシアは、昨日の講義を思い出した。
『どうして軍人になろうと思われたんですか?』
レイブンの質問。
そして、自分の答え。
『自分にできることを探したかったの』
エリシアは小さく微笑んだ。
あの新兵は、まだ十六歳だ。
それでも、相手の言葉を真剣に聞こうとする姿勢がある。
ガイルも、明るく率直な性格の裏に、仲間を大切にする気持ちを持っている。
二人とも、これから多くのことを学んでいくのだろう。
だが、もし帝国と連邦共和国が戦争になれば。
エリシアは、その先を考えるのをやめた。
机の上の通知書へ視線を戻す。
自分は連邦共和国軍人だ。
命令が出れば、祖国へ帰る。
それが、軍人としての責任だった。
午前11時58分。
第十一独立特殊歩兵中隊、隊員食堂。
昼食時間。
レイブンとガイルは、食堂の隅にある席で食事を取っていた。
ガイルは大きな皿を前に、満足そうな顔をしている。
「……やっぱり訓練の後の飯はうまいな」
レイブンは笑った。
「毎日言ってるね」
「毎日うまいんだから仕方ねえだろ」
「それもそうだね」
二人が笑っていると、食堂の入口からエリシアが入ってきた。
彼女は書類を抱え、少し疲れた表情をしていた。
ガイルが小声で言った。
「……なあ、レイブン」
「何?」
「中尉、今日も元気なさそうじゃないか?」
レイブンはエリシアを見た。
「……うん」
エリシアは食事を受け取り、窓際の席へ腰を下ろした。
レイブンは少し迷った。
軍人として、上官に不用意に話しかけるべきではない。
しかも、彼女は共和国軍の将校だ。
しかし、昨日までの彼女とは明らかに様子が違う。
ガイルが言った。
「……声、掛けてみるか?」
レイブンは少し考えた。
「……うん」
二人は食事を終え、エリシアの席へ向かった。
「ヴォルハラム中尉」
エリシアが顔を上げた。
「あら、クロウ新兵。ベッカー新兵」
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
エリシアは微笑んだ。
「どうしたの?」
レイブンは少し言葉を選んだ。
「……昨日から、少しお疲れのように見えたので」
エリシアは一瞬、驚いたような顔をした。
そして、小さく笑った。
「……よく見ているのね」
「すみません。余計なことでしたら」
「いいえ」
エリシアは首を横に振った。
「心配してくれて、ありがとう」
ガイルが口を開いた。
「何かあったんですか?」
エリシアは少し考えた。
「……そうね」
彼女は窓の外へ目を向けた。
「まだ正式に決まったわけではないけれど、私の派遣任務が早く終わるかもしれないの」
レイブンは目を見開いた。
「……帰国されるんですか?」
「可能性はあるわ」
エリシアは頷いた。
「共和国軍から、帰国準備に関する予備通達が届いたの」
ガイルは黙っていた。
レイブンも、すぐには言葉が出なかった。
「……そうですか」
エリシアは二人を見た。
「そんな顔をしないで」
彼女は微笑んだ。
「まだ決まったわけではないし、軍人なら異動や帰任は珍しいことじゃないでしょう?」
レイブンは頷いた。
「……はい」
「それに、私の祖国は共和国だから」
エリシアは静かに続けた。
「命令が出れば、帰らなければならないの」
レイブンは、その言葉を胸に刻んだ。
「……分かりました」
ガイルが少し寂しそうに笑った。
「せっかく仲良くなれたのにな」
エリシアは小さく笑った。
「そうね」
そして、二人へ視線を向けた。
「でも、ここで学んだことは、きっと忘れないわ」
レイブンは頷いた。
「……俺もです」
午後1時27分。
第十一独立特殊歩兵中隊、第一訓練講堂。
午後の教育では、小隊単位の連携と指揮系統の確認について講義が行われていた。
クラウディア大尉が教壇に立ち、複数の事例を用いて説明している。
「小隊単位の行動では、指揮官の意図を理解することが重要だ」
兵士たちは静かに耳を傾けた。
「命令を待つだけでは、状況の変化に対応できない場合がある。しかし、勝手な判断が部隊全体を危険にさらすこともある」
レイブンは手帳を開いた。
クラウディアは続けた。
「重要なのは、与えられた任務の目的を理解し、自分の役割を果たすことだ」
その時、彼女はレイブンへ視線を向けた。
「クロウ新兵」
「はい!」
「お前は、昨日からSG-44の評価を続けているな」
「はい」
「では質問する。お前の銃が故障した場合、どうする?」
レイブンは少し考えた。
「……まず安全を確保し、状況を報告します。訓練中であれば教官の指示に従い、必要に応じて使用を中止します」
クラウディアは頷いた。
「よろしい」
彼女は続けた。
「重要なのは、装備の不具合を隠さないことだ。新型兵器であればなおさらだ」
レイブンは頷いた。
「了解しました」
講義はその後も続いた。
午後3時46分。
第十一独立特殊歩兵中隊、教育連絡室。
クラウディア大尉は、エリシアを再び呼び出していた。
机の上には、新たな書類が置かれている。
「ヴォルハラム中尉」
「はい」
「共和国軍北部軍管区から、追加の連絡が入った」
エリシアは姿勢を正した。
「……帰国命令ですか?」
クラウディアは首を横に振った。
「まだ正式命令ではない。ただし、帰国準備を進めるよう、再度通知があった」
エリシアは頷いた。
「承知しました」
クラウディアは続けた。
「帝国軍側も、派遣将校の活動範囲を縮小する方針だ。今後は、一般的な教育講義と交流行事に限定される」
「了解しました」
エリシアは静かに答えた。
クラウディアは少し考えた後、口を開いた。
「……君は、帝国軍の新兵たちをどう思う?」
エリシアは少し驚いた。
「……新兵たち、ですか?」
「ああ」
エリシアは窓の外へ目を向けた。
「……真面目な子たちだと思います」
クラウディアは黙って聞いていた。
「まだ未熟なところはあります。でも、学ぼうとする姿勢がある。仲間を大切にしようとする気持ちもあります」
エリシアは少し微笑んだ。
「……できれば、戦場では会いたくありません」
クラウディアは静かに頷いた。
「……私もだ」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
午後5時18分。
ヴァイスベルク駐屯地、中央道路。
夕暮れの空は、薄い橙色に染まっていた。
レイブンとガイルは、訓練を終えて宿舎へ戻る途中だった。
ガイルは、いつもより静かだった。
レイブンが声を掛ける。
「……ガイル」
「ん?」
「どうしたの?」
ガイルは少し考えた。
「……ヴォルハラム中尉のこと」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「帰っちまうかもしれないんだろ?」
「そうだね」
ガイルは小さく息を吐いた。
「……何だかな」
レイブンは黙っていた。
ガイルは続けた。
「昨日まで普通に話してたのに、急に帰るかもしれないって言われても、実感湧かねえよ」
レイブンは静かに答えた。
「……俺も」
二人はしばらく歩いた。
やがて、ガイルが口を開いた。
「……もし戦争になったらさ」
レイブンは顔を上げた。
「うん」
「俺たち、あの人と戦うことになるのかな」
レイブンは、すぐには答えられなかった。
夕日が、駐屯地の建物を赤く染めている。
遠くでは、整備車両のエンジン音が響いていた。
「……分からない」
レイブンは静かに答えた。
「でも、そうならないでほしいと思う」
ガイルは頷いた。
「……俺もだ」
午後7時12分。
第十一独立特殊歩兵中隊、教育連絡室。
エリシアは、一人で机に向かっていた。
机の上には、帰国準備に関する書類と、今日の教育記録が並んでいる。
彼女は、レイブンとガイルの名前が記された記録を見つめた。
レイブン・S・クロウ。
ガイル・ベッカー。
二人とも、まだ若い新兵だ。
しかし、彼らの目には、未来への希望があった。
エリシアは小さく息を吐いた。
「……戦争なんて、起きなければいいのに」
その言葉は、誰にも届かなかった。
彼女は引き出しから、小さな封筒を取り出した。
そこには、共和国にいる家族から届いた手紙が入っている。
エリシアは封筒を開き、便箋を広げた。
『エリシアへ』
『こちらは皆、元気にしています』
『あなたの任務が無事に終わることを願っています』
『どうか、身体に気をつけて』
エリシアは、静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
彼女は手紙を丁寧に折り畳み、封筒へ戻した。
そして、窓の外へ目を向けた。
夜空には、薄い雲が広がっている。
その向こうに、自分の祖国がある。
彼女は、静かに呟いた。
「……帰らなきゃね」
午後8時43分。
第三新兵宿舎、第二〇六号室。
レイブンは机に向かい、今日の記録を書いていた。
SG-44の装備評価。
小隊単位の連携教育。
そして、エリシア中尉の帰国準備に関する話。
レイブンは、最後の項目でペンを止めた。
彼女は、連邦共和国軍人だ。
自分は、帝国軍人だ。
その事実は変わらない。
しかし、彼女から学んだことは、確かに自分の中に残っている。
レイブンは手帳へ一文を書き加えた。
『国が違っても、学んだことは消えない』
そして、少し考えた後、もう一文を書いた。
『もし別れることになっても、互いが無事であることを願いたい』
レイブンは静かに手帳を閉じた。
窓の外には、北部の夜空が広がっていた。
遠くの山々は暗闇に沈み、駐屯地の照明だけが静かに灯っている。
レイブンは、父ヴァルターの言葉を思い出した。
『絶対に、五体満足で帰ってこい』
その言葉は、今も胸の奥に残っている。
そして、エリシアの言葉も。
『戦争になれば、どちらの国の兵士も傷つくわ』
レイブンは静かに息を吐いた。
帝政歴344年4月23日。
帝国軍新兵レイブン・S・クロウは、SG-44の習熟教育を続けながら、連邦共和国軍中尉エリシア・L・ヴォルハラムとの交流を深めていた。
しかし、両国の軍事交流協定は再審査の対象となり、彼女の帰国準備が始まりつつあった。
まだ、正式な帰国命令は出ていない。
それでも、二人が同じ駐屯地で過ごせる時間は、少しずつ短くなっていた。
レイブンはまだ知らなかった。
この出会いが、やがて自分の人生を大きく変えていくことになることを。
そして、異なる軍旗の下に立つ二人が、いつか再び向き合う日が来るかもしれないことを。
北部の夜空には、雲の切れ間から月が姿を現していた。
駐屯地の夜は、静かに更けていった。




