第68話 紅き髪の戦乙女たち
第68話 紅き髪の戦乙女たち
帝政歴三四四年、四月十九日。
午前五時四十八分。
帝国陸軍ヴァイスベルク駐屯地、第三新兵宿舎。
まだ夜の冷気が残る早朝、廊下に起床ラッパが響き渡った。
レイブン・S・クロウは毛布を払い、寝台から身体を起こした。窓の外には青白い朝靄が漂い、遠くの車両整備区画からは、すでにディーゼルエンジンの低い音が聞こえている。
中央志願兵教育学校を修了してから、まだ三週間も経っていない。
それでも、知らない宿舎で迎える朝は、以前とは違う緊張を伴っていた。
寝台の脇には、新しく交付された制服と個人装備が整然と置かれている。
レイブンは黒い猫耳を軽く動かし、壁の時計を確認した。
午前五時四十九分。
起床から点呼まで、まだ余裕がある。
隣の寝台では、大柄な犬系亜人の青年が毛布を頭まで被っていた。
「……ガイル」
返事はない。
「ガイル、起床時間だよ」
「……あと五分」
「点呼まで十五分しかないよ」
「……三分」
レイブンは苦笑した。
「昨日、初日から遅刻しないって言ってたのは誰だったかな」
毛布の中から、くぐもった声が返ってきた。
「……俺だ」
「じゃあ起きよう」
数秒後、ガイル・ベッカーは勢いよく上体を起こした。
「よし! 起きた!」
犬耳がぴんと立ち、彼は壁の時計を見た。
「……まだ五時五十分じゃねえか」
「だから、余裕を持って起きるんだよ」
「お前、ユリウスみたいなこと言うようになったな」
「一緒に生活してたからね」
レイブンは制服へ袖を通した。
ガイルも寝台から降り、軍靴を履き始める。
中央教育学校では、七人が同じ部屋で朝を迎えていた。
しかし、この駐屯地では専門教育の所属ごとに宿舎が分かれている。
ユリウスは通信教育棟。
エミールは衛生教育施設。
オスカーは機甲教育区画。
フェリックスは偵察教育分遣隊。
カールは補給教育棟。
そして、レイブンとガイルは歩兵継続教育隊。
昨日、七人が思いがけず再会できた喜びは、まだ胸に残っていた。
だが、今日からはそれぞれの場所で、新しい教育が始まる。
「なあ、レイブン」
ガイルが軍靴の紐を締めながら言った。
「俺たち、今日はどんな訓練をやるんだろうな」
「予定表には、受け入れ説明、基礎能力確認、それから合同訓練部隊への紹介って書いてあったよ」
「合同訓練部隊?」
「うん。詳しいことは、現地で説明するらしい」
ガイルは顎に手を当てた。
「……戦車部隊とか?」
「歩兵教育だから、どうだろう」
「山岳部隊かもしれねえな」
「可能性はあるね」
「それとも、特殊部隊とか!」
レイブンは笑った。
「いきなり特殊部隊に配属されるわけじゃないと思うよ」
「分かってるって。想像するくらいいいだろ」
ガイルはそう言って立ち上がった。
「よし、行こうぜ!」
レイブンは装備を確認し、黒革の手帳を鞄へ収めた。
父から贈られた言葉も、学校で得た教訓も、ここから先の訓練で試されることになる。
二人は宿舎を出た。
北部の冷たい朝風が、頬を撫でた。
午前七時三十二分。
ヴァイスベルク駐屯地、歩兵継続教育隊本部。
朝食と点呼を終えた新兵たちは、教育隊本部前の広場に集合していた。
レイブンとガイルのほかにも、各地の教育学校から到着した若い兵士たちが並んでいる。
人間種の青年。
犬系亜人の女性。
背の高い狐系亜人。
小柄な人間種の新兵。
帝国軍では、種族や出身地域の違いに応じて装備の調整が行われる。
猫系亜人のレイブンも、耳と尾の動きを妨げないよう調整された制服を着用していた。
やがて、一人の軍曹が広場へ現れた。
短く刈り込まれた髪。
日に焼けた顔。
左頬には、古い傷痕がある。
「全員、注目!」
新兵たちは姿勢を正した。
「俺は教育隊所属、フリードリヒ・ケラー軍曹だ。本日から諸君の基礎能力確認と、合同教育先への引率を担当する」
軍曹は名簿を開いた。
「まず確認しておく。諸君は基礎教育を修了した新兵だ。だが、ここではまだ一人前の歩兵として扱わん」
ガイルがわずかに眉を動かした。
軍曹は続けた。
「理由は簡単だ。中央教育学校で優秀だった者が、北部の実戦部隊でも同じように働けるとは限らん。気候、地形、装備、部隊の規則、そして任務の内容が違うからだ」
レイブンは静かに聞いていた。
「今日から諸君は、駐屯地内の複数部隊と合同で訓練を受ける。歩兵、偵察、通信、衛生、工兵。場合によっては機甲部隊や航空支援部隊とも連携する」
軍曹は一度、名簿へ目を落とした。
「そのうち、クロウ新兵とベッカー新兵」
「はい!」
二人の返事が重なった。
「両名は本日、特別教育協力部隊へ出向する」
ガイルの耳が立った。
「……特別教育協力部隊?」
「質問は許可を得てからにしろ」
「失礼しました!」
軍曹は少しだけ口元を緩めた。
「もっとも、気になるのは分かる。諸君の教育先は、通常の歩兵中隊とは少し違う」
レイブンは顔を上げた。
「違う、とは?」
「現地で説明を受けろ」
軍曹は名簿を閉じた。
「クロウ、ベッカー。装備を持て。俺についてこい」
「了解!」
二人は背嚢を背負い、軍曹の後に続いた。
午前八時十一分。
ヴァイスベルク駐屯地、東部特別訓練区画。
駐屯地の中央道路から東へ進むと、建物の雰囲気が変わり始めた。
一般の歩兵教育施設とは異なり、東部区画には複数の屋内訓練棟と模擬市街地、障害物訓練場、射撃教育施設が集中していた。
道路脇には、整備を終えた装輪装甲車が並んでいる。
その近くでは、兵士たちが装備点検を行っていた。
レイブンは歩きながら、周囲を観察した。
最初に気づいたのは、兵士たちの装備が一様ではないことだった。
標準的な歩兵用小銃を持つ者。
短銃身のカービンを携える者。
分隊支援火器を点検している者。
長い銃身の精密射撃用小銃を整備台へ置いている者。
装備の組み合わせには、任務に応じた違いがある。
そして、もう一つ。
レイブンは、少し不思議に思った。
行き交う兵士たちの多くが、女性だった。
赤毛の女性。
金髪の女性。
黒髪の女性。
白髪の女性。
人間種だけではなく、猫系、犬系、狐系の亜人もいる。
若い兵士もいれば、長い軍歴を感じさせる年配の下士官もいた。
ガイルも、そのことに気づいたらしい。
「……なあ、レイブン」
「うん」
「ここ、女性兵士が多くないか?」
「……そうだね」
二人は周囲を見渡した。
ちょうど、訓練棟から一団の兵士が出てきた。
先頭を歩くのは、短い黒髪の女性軍曹。
その後ろには、赤毛の女性兵士と、銀白色の髪を持つ猫系亜人の女性が続いている。
さらに後方では、金髪の女性が通信装置を肩に掛け、別の兵士へ指示を出していた。
彼女たちはレイブンたちを一瞥すると、そのまま訓練場へ向かっていった。
ガイルは小声で言った。
「……もしかして、ここって……」
レイブンも何かを言いかけた。
しかし、その前にケラー軍曹が立ち止まった。
「到着だ」
二人が顔を上げる。
目の前には、二階建ての大きな隊舎があった。
正面玄関には帝国軍旗。
その隣には、銀色の翼と剣を組み合わせた部隊章が掲げられている。
部隊名を示す金属板には、こう刻まれていた。
帝国陸軍北部守備管区
第十一独立特殊歩兵中隊
通称
レイブンは、その文字を見つめた。
「……特殊歩兵中隊?」
ガイルが呟いた。
「……しかも、ヴァルキュリア?」
ケラー軍曹は二人を振り返った。
「そうだ」
そして、何でもないことのように告げた。
「この中隊は、現在の正式編制では女性軍人のみで構成されている」
ガイルは目を見開いた。
「……え?」
レイブンも驚いた。
「女性だけ、ですか?」
「ああ」
軍曹は頷いた。
「帝国軍でも珍しい編制だ。特殊な任務環境への対応を目的として設立され、女性志願兵の高度専門教育も担っている」
ガイルは隊舎を見上げた。
「……俺たち、男ですけど」
「見れば分かる」
ケラー軍曹は即答した。
「諸君は中隊の正式な隊員として編入されるわけではない。新兵継続教育の一環として、訓練協力要員として受け入れられる」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
「つまり、男女の別ではなく、教育適性と受け入れ条件で選ばれたということだ」
軍曹は二人を見た。
「ここで学ぶのは、通常歩兵とは異なる環境での行動、任務に応じた装備運用、そして経験豊富な兵士との連携だ」
ガイルは少しだけ緊張した顔になった。
「……了解しました」
レイブンも姿勢を正した。
「了解しました」
ケラー軍曹は頷いた。
「よし。入るぞ」
午前八時二十七分。
第十一独立特殊歩兵中隊、第一訓練講堂。
講堂の扉が開かれると、レイブンとガイルは思わず足を止めた。
室内には、すでに数十名の女性兵士が集まっていた。
赤毛、金髪、黒髪、白髪、栗色の髪。
長髪をまとめた者もいれば、短く切り揃えた者もいる。
軍帽を脱いだ猫系亜人の女性は、耳を軽く動かしながら隣の兵士と話していた。
犬系亜人の女性兵士は、大きな体格に合わせて調整された防弾装備を点検している。
人間種の女性軍曹は、訓練用小銃の状態を確認しながら、新兵らしい若い女性へ説明していた。
レイブンは、彼女たちの年齢や体格がさまざまであることに気づいた。
十代後半の若い兵士。
二十代の分隊長。
三十代と思われる熟練下士官。
さらに、四十代以上に見える女性将校もいる。
彼女たちは、特別な見世物のように集められた集団ではなかった。
それぞれが明確な役割を持つ、一つの軍事組織だった。
「……すごいな」
ガイルが小さく呟いた。
レイブンも頷いた。
「……うん」
その時、講堂の前方から声が響いた。
「ケラー軍曹。新兵を連れてきたのか?」
落ち着いた、しかしよく通る女性の声だった。
レイブンが顔を向ける。
前方の教壇近くに、一人の女性将校が立っていた。
長い赤毛を後ろでまとめ、濃い灰色の瞳を持つ人間種の女性。
年齢は二十代後半ほど。
制服の肩には大尉の階級章がある。
彼女は書類を片手に、こちらを見つめていた。
ケラー軍曹が敬礼する。
「はい。歩兵継続教育隊より、教育協力要員二名をお連れしました」
女性将校は頷いた。
「ご苦労」
そして、レイブンとガイルへ視線を向けた。
「クロウ新兵、ベッカー新兵だな?」
「はい!」
二人は姿勢を正した。
女性将校は教壇から降り、二人の前へ歩いてきた。
「私は、第十一独立特殊歩兵中隊長、クラウディア・フォン・ローゼンフェルト大尉だ」
彼女は右手を差し出した。
「ようこそ、ヴァルキュリアへ」
レイブンは一瞬驚いたが、すぐに握手を返した。
「レイブン・S・クロウ新兵です。よろしくお願いいたします」
クラウディアは微笑んだ。
「こちらこそ」
続いて、ガイルとも握手を交わした。
「ガイル・ベッカー新兵です!」
「元気がいいな」
「ありがとうございます!」
クラウディアは少し笑った。
「ただし、元気だけではここでは通用しないぞ」
「……はい!」
講堂の後方から、何人かの女性兵士が小さく笑った。
ガイルは少しだけ顔を赤くした。
レイブンは、その様子を見て微笑んだ。
クラウディアは二人を見渡した。
「まず、誤解のないように説明しておこう」
彼女は落ち着いた声で続けた。
「この中隊は女性軍人のみで編制されている。しかし、それは女性だから特別扱いされるという意味ではない」
講堂が静かになった。
「我々は帝国軍の歩兵だ。命令系統、訓練基準、安全規則、任務遂行責任は、ほかの部隊と変わらない」
レイブンは真剣に聞いていた。
「特殊歩兵中隊という名称は、特殊な任務環境に対応する能力を持つことを示している。偵察、警備、閉所行動、救出支援、機動戦闘、そして異なる兵科との連携だ」
クラウディアは二人へ視線を向けた。
「君たちは、ここでその一部を学ぶ。だが、我々の正式な隊員ではない。訓練中は指導教官の命令に従い、所属元の教育隊と連携して行動する」
「了解しました」
レイブンが答えた。
ガイルも続いた。
「了解しました!」
クラウディアは満足そうに頷いた。
「よろしい」
その時、講堂の右側から、一人の女性が歩いてきた。
淡い金髪を後ろで束ねた、人間種の女性。
年齢は十代後半。
青い瞳。
背筋の伸びた立ち姿。
ただし、その制服は講堂にいる女性兵士たちとは違っていた。
濃い緑を基調とする軍服。
帝国軍のものではない襟章。
左胸には、共和国軍の所属を示す徽章があった。
彼女の肩には中尉の階級章がある。
「ローゼンフェルト大尉。教育計画の準備が整いました」
クラウディアが頷いた。
「ありがとう、エリシア」
レイブンは、その名前を聞いて顔を上げた。
女性中尉がこちらへ視線を向ける。
そして、レイブンと目が合った。
ほんの一瞬。
彼女の青い瞳が、わずかに動いた。
「……あら」
レイブンは首を傾げた。
女性中尉は、少しだけ微笑んだ。
「……あなたが、クロウ新兵?」
「はい」
レイブンは姿勢を正した。
「レイブン・S・クロウです」
女性中尉は、静かに頷いた。
「そう」
そして、名乗った。
「私は、連邦共和国陸軍のエリシア・L・ヴォルハラム中尉。現在は両国の軍事交流協定に基づき、この駐屯地で教育協力を行っているわ」
レイブンは敬礼した。
「よろしくお願いいたします、ヴォルハラム中尉」
エリシアも答礼した。
「こちらこそ、クロウ新兵」
ガイルは、彼女の制服へ目を向けた。
「……連邦共和国軍、ですか?」
「ええ」
エリシアは頷いた。
「驚いた?」
「……少し」
クラウディアが説明を引き継いだ。
「ヴォルハラム中尉は、軍事交流協定による期限付きの派遣将校だ。現在の両国関係を考えれば、珍しく見えるだろう」
レイブンは黙って聞いていた。
「だが、協定そのものはまだ有効だ。彼女は許可された教育科目について助言と指導協力を行う。帝国軍の指揮権や機密情報へのアクセス権を与えられているわけではない」
エリシアは穏やかに続けた。
「私は共和国軍人だけれど、今日ここにいるのは、あなたたちの教育を支援するためよ」
その声は落ち着いていた。
しかし、レイブンは彼女の眼差しに、何か不思議なものを感じた。
優しさだけではない。
冷静さ。
観察力。
そして、自分たちとは異なる軍事教育を受けた者特有の、物事を見る視線。
ガイルが隣で小声を漏らした。
「……すげえな」
レイブンが横目で見る。
「何が?」
「……いや、何でもない」
エリシアは二人の様子を見て、少しだけ笑った。
「緊張している?」
ガイルが慌てて答えた。
「い、いえ!」
「そう?」
エリシアは穏やかに続けた。
「初めての部隊なら、緊張して当然よ。まして、違う国の軍人までいるんですもの」
レイブンは少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます」
エリシアは頷いた。
「ただし、訓練が始まったら話は別。安全確認と指示への応答は、きちんとしてもらうから」
「はい!」
二人の返事が揃った。
クラウディアは、そのやり取りを見てから言った。
「では、教育協力要員二名の受け入れを開始する」
講堂の女性兵士たちが、一斉に姿勢を正した。
クラウディアは続けた。
「本日は基礎能力確認と、装備適合検査、そして班単位の連携訓練を行う。新兵だからといって過度な負荷を与えるつもりはないが、手を抜くつもりもない」
レイブンは頷いた。
ガイルも、真剣な表情になった。
その時、講堂の後方から、明るい声が響いた。
「中隊長! 質問してもいいですか?」
クラウディアが顔を向けた。
「許可する」
声の主は、短い白髪を持つ猫系亜人の女性兵士だった。
彼女は笑顔で二人を見ていた。
「その二人、中央志願兵教育学校の最終試験で、教官部隊相手に粘ったっていう新兵ですか?」
レイブンは驚いた。
ガイルも目を見開いた。
クラウディアは書類を確認した。
「……そうだ。最終総合戦闘試験の評価記録に、そのような所見がある」
白髪の女性兵士が嬉しそうに笑った。
「へえ!」
隣にいた黒髪の女性軍曹が、呆れたように言った。
「ミリア。余計なことを聞くな」
「だって気になるじゃないですか!」
クラウディアは苦笑した。
「ミリア。質問はそれで終わりか?」
「はい!」
白髪の女性兵士は元気よく答えた。
エリシアはレイブンへ視線を向けた。
「……最終試験で、教官部隊と交戦したの?」
「はい」
「どうだった?」
レイブンは少し考えた。
「……強かったです」
講堂の一部から、小さな笑い声が聞こえた。
しかし、エリシアは笑わなかった。
「それで?」
レイブンは続けた。
「自分たちだけで何とかしようとすると、すぐに崩されました。通信も乱されて、判断が遅れた場面もありました」
エリシアは頷いた。
「……なるほど」
「でも、仲間と確認しながら動くことで、最後まで七人で試験を終えられました」
その言葉に、エリシアの表情が少し柔らかくなった。
「……いい答えね」
ガイルが胸を張った。
「俺たち、全員で帰ってきました!」
クラウディアは、静かに微笑んだ。
「それは立派なことだ」
そして、二人へ向き直った。
「ただし、ここではさらに難しいことを学んでもらう」
レイブンは顔を上げた。
「……難しいこと、ですか?」
「ああ」
クラウディアは、講堂の女性兵士たちを見渡した。
「自分たちの仲間だけでなく、初めて会った兵士とも、同じように連携できるかどうかだ」
レイブンは、その言葉を胸に刻んだ。
中央教育学校では、七人の仲間がいた。
互いの癖も、得意なことも、苦手なことも知っていた。
しかし、軍ではいつも同じ仲間と任務を行えるとは限らない。
初めて会った兵士。
異なる兵科。
異なる階級。
異なる種族。
そして、異なる経験を持つ人々。
その中で、自分の役割を果たさなければならない。
レイブンは、改めて講堂を見渡した。
赤毛の中隊長。
金髪の共和国軍中尉。
白髪の猫系亜人。
黒髪の女性軍曹。
そして、多くの女性兵士たち。
彼女たちは、これから自分たちが学ぶべき相手だった。
午前九時四十六分。
第十一独立特殊歩兵中隊、第二訓練場。
レイブンとガイルは、訓練用装備へ着替えていた。
防護装備。
訓練用小銃。
個人通信装置。
そして、身体に合わせて調整された装具。
レイブンの装備には、猫耳と尾の可動を妨げない構造が採用されていた。
ガイルも、犬系亜人の体格に合わせた装具を着用している。
訓練場には、複数の模擬障害物と建物模型が配置されていた。
エリシアは、クラウディアから許可された教育協力科目について、二人の前で説明していた。
「今日は、射撃の腕前を競うわけではないわ」
彼女は訓練場を示した。
「まず、装備を着けた状態での基本動作を確認する。それから、班の中での位置取り、報告、移動、負傷者対応の基礎を見せてもらう」
ガイルが頷いた。
「了解しました!」
エリシアはレイブンへ視線を向けた。
「クロウ新兵。あなたは副班長の経験があるそうね」
「はい。中央教育学校では、ベッカーが班長でした」
「では、今日は二人とも別々の班で評価を受けてもらうわ」
ガイルが驚いた。
「別々ですか?」
「ええ。帝国軍側の担当教官にも、その方針でお願いしてあるの」
エリシアは微笑んだ。
「いつまでも同じ相手に頼るわけにはいかないでしょう?」
レイブンは頷いた。
「……了解しました」
「よろしい」
エリシアは、近くにいた二人の女性下士官を呼んだ。
「シュタイン軍曹、レイブンをお願いします。ミリア伍長、ガイルを担当していただけますか?」
「了解しました」
黒髪の女性軍曹が答えた。
白髪の猫系亜人の女性兵士も、元気よく敬礼した。
「了解です!」
ガイルはミリアを見た。
「よろしくお願いします!」
ミリアは笑った。
「こちらこそ、HOUND君!」
ガイルが驚いた。
「……え?」
「学校の記録、読んだよ」
ミリアは楽しそうに続けた。
「でも、ここでは勝手にコールネームを無線で使っちゃ駄目だからね」
「了解しました!」
レイブンの担当となったシュタイン軍曹は、落ち着いた声で言った。
「クロウ新兵。まず装備の確認をする」
「はい」
「それから、無理に良いところを見せようとするな。分からないことがあれば聞け」
「了解しました」
シュタイン軍曹は頷いた。
「よし。始めよう」
レイブンは訓練場へ歩き出した。
その背後で、ガイルがミリアと何かを話している。
聞こえてきたのは、ミリアの明るい声だった。
「ベッカー新兵、まずは準備運動から!」
「了解!」
「その前に、装備の留め具が一つ緩んでるよ!」
「……えっ?」
レイブンは思わず笑った。
シュタイン軍曹が振り返る。
「どうした?」
「……いえ。何でもありません」
「そうか」
軍曹は淡々と答えた。
「では、こちらも確認を始める」
レイブンは姿勢を正した。
「はい!」
訓練が始まった。
午前十一時二十三分。
第二訓練場。
レイブンは、初めて組む女性兵士たちと班単位の移動訓練を行っていた。
前方には、黒髪のシュタイン軍曹。
その隣には、短い金髪の女性兵士。
後方には、通信担当の若い女性兵士がいる。
レイブンは、与えられた位置で周囲を確認しながら移動していた。
中央教育学校では、仲間の動きを予測することができた。
ガイルが前へ出るタイミング。
ユリウスが通信を確認する癖。
フェリックスが周囲を見渡す時の視線。
しかし、ここでは違う。
初めて組む兵士たちの動きに合わせる必要があった。
シュタイン軍曹が声を掛ける。
「クロウ新兵。今、何を見ていた?」
「前方の障害物と、右側の建物模型です」
「左側は?」
レイブンは一瞬、言葉に詰まった。
「……確認が遅れました」
「そうだ」
軍曹は落ち着いた声で続けた。
「お前は観察力がある。だが、一つの情報を詳しく見ようとするあまり、ほかの情報を見落とすことがある」
「……はい」
「悪い癖だと決めつける必要はない。ただ、班で動く時には、自分だけで全部を見ようとするな」
レイブンは頷いた。
「了解しました」
「仲間が何を見ているか、確認しろ。必要なら役割を分ける」
「はい」
レイブンは周囲を見渡した。
金髪の女性兵士が、左側の監視を担当している。
通信担当は後方との連絡を維持している。
自分がすべてを見ようとする必要はない。
むしろ、仲間の役割を理解し、その情報を組み合わせることが重要なのだ。
レイブンは静かに息を吐いた。
「……勉強になります」
シュタイン軍曹は小さく笑った。
「まだ初日だ。覚えることはいくらでもある」
レイブンも微笑んだ。
「はい」
その頃、訓練場の反対側では、ガイルがミリア伍長から指導を受けていた。
「ベッカー新兵!」
「はい!」
「今、どうして先頭へ出たの?」
「前方の確認を早くするためです!」
「それ自体は悪くないよ。でも、後ろの二人がまだ準備できてなかったでしょ?」
ガイルは振り返った。
確かに、後方の兵士たちは装備の調整を終えたばかりだった。
「……すみません」
ミリアは笑顔を崩さなかった。
「謝るより、次にどうするか考えよう」
「……了解しました」
「君は身体も大きいし、動きも速い。だからこそ、周りに合わせることを覚えたら、もっと頼れる兵士になれるよ」
ガイルは真剣に頷いた。
「……はい!」
ミリアは満足そうに笑った。
「よし。もう一回!」
午後零時四十八分。
第十一独立特殊歩兵中隊、隊員食堂。
午前の訓練を終えたレイブンとガイルは、女性兵士たちと同じ食堂で昼食を取っていた。
ガイルは大きな皿を前に、満足そうな顔をしている。
「……うまい!」
ミリアが笑った。
「気に入った?」
「はい!」
「ここの厨房、結構評判いいんだよ」
ガイルは頷いた。
「毎日ここで食べたいくらいです!」
シュタイン軍曹が静かに言った。
「訓練協力期間が終われば、元の教育隊へ戻るぞ」
「……そうでした」
周囲から笑い声が上がった。
レイブンも微笑んだ。
その時、食堂の入口からエリシアが入ってきた。
彼女は昼食の盆を持ち、空いている席を探していた。
ミリアが手を振る。
「中尉! こちら空いてますよ!」
エリシアは微笑み、近づいてきた。
「ありがとう」
そして、レイブンの隣へ腰を下ろした。
「午前の訓練はどうだった?」
レイブンは姿勢を正そうとした。
エリシアが軽く手を上げる。
「食事中だから、そのままでいいわ」
「……ありがとうございます」
レイブンは少し考えた。
「……自分の癖が、よく分かりました」
「どんな癖?」
「一つのことを詳しく見ようとして、ほかの確認が遅れることがあります」
エリシアは頷いた。
「そう」
「それと、初めて組む人たちの動きに合わせるのが、思っていたより難しかったです」
エリシアは少し微笑んだ。
「それに気づけたなら、初日としては十分よ」
レイブンは顔を上げた。
「……そうでしょうか」
「ええ。最初から全部できる必要はないわ。大切なのは、何ができなかったかを理解して、次に改善すること」
レイブンは頷いた。
「はい」
エリシアは、レイブンの黒い猫耳へ一瞬だけ視線を向けた。
「それにしても、あなた……」
「はい?」
「お父様に、少し似ているわね」
レイブンは驚いた。
「……父をご存じなんですか?」
エリシアは頷いた。
「直接お会いしたことはないけれど、今回の交流教育で公開されたクロウ少佐の教育資料は読んだことがあるわ」
「そうなんですね」
「観察と確認を重視するところが、よく似ていると思ったの」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとうございます」
エリシアも微笑んだ。
「褒め言葉のつもりよ」
その時、ガイルが隣から顔を出した。
「中尉! レイブンは昔からそうなんです!」
レイブンが驚く。
「ガイル?」
「考えすぎる時もありますけど、頼れる奴なんですよ!」
エリシアはガイルを見た。
「そうなの?」
「はい!」
レイブンは困ったように笑った。
「……そんなに大げさに言わなくても」
ガイルは胸を張った。
「本当のことだろ!」
エリシアは二人を見比べた。
そして、少し楽しそうに笑った。
「……いい関係ね」
レイブンは頷いた。
「……はい」
ガイルも笑った。
「もちろんです!」
午後三時十七分。
第十一独立特殊歩兵中隊、第一訓練講堂。
午後の訓練を終えた二人は、クラウディア大尉から初日の講評を受けていた。
講堂には、午前と同じ女性兵士たちが集まっている。
クラウディアは記録用紙を手に、二人へ向き直った。
「クロウ新兵、ベッカー新兵。初日の評価を伝える」
「はい!」
二人は姿勢を正した。
「まず、基礎体力と装備操作については、中央教育学校で必要な訓練を受けていることが確認できた」
ガイルは少しだけ嬉しそうな顔をした。
「ただし、課題もある」
クラウディアはレイブンを見た。
「クロウ新兵。観察力は高いが、情報の優先順位を決めるまでに時間がかかる場面がある」
「はい」
「今後は、班内での役割分担と、短い報告を意識しろ」
「了解しました」
次に、ガイルへ視線を向けた。
「ベッカー新兵。積極性と身体能力は評価できる。しかし、周囲の準備を確認する前に動き出す傾向がある」
「……はい」
「指揮を執る者は、自分が先に進むことだけを考えていてはならん」
「了解しました!」
クラウディアは頷いた。
「二人とも、改善できる課題だ」
そして、講堂の女性兵士たちを見渡した。
「明日からは、より実際の任務環境に近い訓練へ進む。ただし、訓練内容は段階的に増やす。無理な負荷を与えることはしない」
レイブンは静かに頷いた。
ガイルも真剣な表情になっていた。
クラウディアは最後に言った。
「我々は、強い兵士を育てたい。だが、それ以上に、仲間とともに帰ってこられる兵士を育てたい」
レイブンの胸に、父の言葉が蘇った。
絶対に、五体満足で帰ってこい。
あの書斎で、父が初めて自分を抱き締めた時の温もり。
それは、まだ鮮明に残っている。
レイブンは静かに息を吐いた。
「……はい」
クラウディアは頷いた。
「本日の教育は以上。各自、装備点検と記録提出を終えた後、解散とする」
女性兵士たちが一斉に敬礼した。
レイブンとガイルも、それに続いた。
午後五時二十六分。
ヴァイスベルク駐屯地、中央道路。
訓練を終えたレイブンとガイルは、歩兵継続教育隊の宿舎へ戻る途中だった。
夕日が駐屯地の建物を赤く染めている。
遠くの車両整備区画では、まだ作業が続いていた。
ガイルは肩を回しながら、大きく息を吐いた。
「……いやあ、初日から濃かったな」
レイブンは笑った。
「うん」
「まさか女性だけの特殊歩兵中隊で訓練することになるとは思わなかった」
「俺もだよ」
ガイルは少し考えた。
「……でも、すごかったな」
「うん」
「みんな、動きに無駄がないっていうか……俺たちとは違う経験を積んでる感じがした」
レイブンは頷いた。
「そうだね」
ガイルは、ふと笑った。
「それに、ミリア伍長、面白い人だったな」
「うん。明るい人だった」
「でも、指導は結構厳しかったぞ」
「ガイルが先に動きすぎたからじゃない?」
「……それはそう」
二人は笑った。
やがて、ガイルがレイブンへ顔を向けた。
「……なあ」
「何?」
「ヴォルハラム中尉、どう思った?」
レイブンは少し考えた。
「……落ち着いていて、よく周りを見ている人だと思った」
「それだけ?」
「それだけって?」
ガイルは少し笑った。
「いや、何でもない」
レイブンは首を傾げた。
「……変なガイル」
「何だよ!」
二人は笑いながら歩いた。
だが、ガイルは少し歩いたところで、再び口を開いた。
「……でも、共和国軍の人が帝国の駐屯地にいるなんてな」
レイブンも表情を改めた。
「うん。俺も驚いた」
「国境の方、最近ずっと騒がしいだろ。大丈夫なのかな」
「……分からない」
レイブンは、北の空へ目を向けた。
「でも、今はまだ交流協定が続いてる。だったら、その機会に学べることはあると思う」
ガイルは少し考えた後、頷いた。
「……そうだな」
その頃。
第十一独立特殊歩兵中隊、教育連絡室。
エリシア・L・ヴォルハラム中尉は、今日の訓練記録を確認していた。
机の上には、レイブンとガイルの評価用紙が置かれている。
ただし、それらは帝国軍側の正式な人事記録ではない。
交流協定に基づき、教育協力者として閲覧を許可された範囲の資料だった。
エリシアは、レイブンの記録へ目を向けた。
レイブン・S・クロウ。
十六歳。
猫系亜人。
中央志願兵教育学校修了。
学校記念コールネーム、NoX。
彼女は、その文字をしばらく見つめた。
「……NoX、ね」
小さく呟いた。
そして、訓練中のレイブンの姿を思い出した。
慎重な観察。
仲間の動きを確認しようとする姿勢。
自分の失敗を隠さず、改善しようとする態度。
まだ経験は浅い。
しかし、伸びる余地は十分にある。
エリシアは、協定上認められた教育所見欄へ、短い文章を書き加えた。
『状況判断に慎重さが見られる。情報整理能力は良好。班内連携について、継続教育により改善が期待できる』
ペンを置いた時、扉が軽く叩かれた。
「ヴォルハラム中尉、いるか?」
クラウディア大尉だった。
「はい、大尉」
クラウディアは室内へ入り、机の書類へ目を向けた。
「今日の二人はどうだった?」
エリシアは少し考えた。
「……面白い新兵たちですね」
「ほう」
「ベッカー新兵は積極的で、仲間を引っ張る力があります。ただし、勢いが先行することがあります」
「なるほど」
「クロウ新兵は、その逆です。よく見て、よく考えます。でも、考える時間が長くなることがある」
クラウディアは頷いた。
「対照的だな」
「ええ」
エリシアは微笑んだ。
「だからこそ、二人で組んでいた時は、互いの欠点を補えていたのかもしれません」
クラウディアは少し笑った。
「……今後が楽しみだな」
「はい」
エリシアは、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの駐屯地。
訓練場の向こうには、北部の山々が見えている。
そのさらに向こうには、連邦共和国との国境がある。
彼女の祖国だった。
エリシアは静かに息を吐いた。
「……大尉」
「何だ?」
「最近、両国の関係が悪くなっていますね」
クラウディアは、しばらく黙っていた。
「……ああ」
「共和国でも、国境の警戒が強まっていると聞いています」
「こちらも同じだ」
クラウディアは窓の外を見た。
「軍人同士がこうして教育について話せるうちは、まだ道が残っていると思いたいがな」
エリシアは頷いた。
「……私も、そう思います」
クラウディアは少しだけ表情を和らげた。
「君の派遣期間についても、上層部で再検討が始まっているらしい」
エリシアは驚かなかった。
「……承知しています」
「政治情勢次第では、予定より早く帰国することになるかもしれん」
「はい」
短い返事だった。
それでも、彼女の声にはわずかな寂しさがあった。
エリシアは再び評価用紙へ目を向けた。
NoX。
その名が、いつかどのような意味を持つことになるのか。
今の彼女には、まだ分からなかった。
帝政歴三四四年四月十九日。
レイブン・S・クロウとガイル・ベッカーは、女性のみで構成された帝国軍特殊歩兵中隊で、初めての合同訓練を受けた。
そこには、これまで出会ったことのない多くの兵士たちがいた。
赤毛の中隊長。
白髪の猫系亜人。
黒髪の女性軍曹。
そして、さまざまな経験を積んだ女性兵士たち。
さらに、もう一人。
帝国軍の制服を着ていない、淡い金髪の女性将校。
連邦共和国陸軍中尉、エリシア・L・ヴォルハラム。
彼女は帝国軍人ではなかった。
祖国も、所属する軍も、レイブンとは異なっていた。
それでも、この日、二人は同じ訓練場に立ち、同じ教育について言葉を交わした。
後に《ヴァルキリー》と呼ばれることになる女性。
そして、遠い未来において、レイブン・S・クロウの人生を大きく変えることになる人物だった。
しかし、この日の二人は、まだ知らない。
自分たちの祖国が、やがて戦争へ向かうことを。
今は教育協力者と新兵として言葉を交わしている二人が、いつか異なる軍服を着たまま、別の場所で向き合うかもしれないことを。
そして、その出会いが、どれほど長い時間をかけて二人の運命を変えていくことになるのかを。
北部の空には、夕闇が静かに広がっていた。
駐屯地の照明が、一つ、また一つと灯り始める。
その下で、新兵たちの訓練は、明日も続いていく。




