第66話 父の腕、帰るべき場所
第66話 父の腕、帰るべき場所
帝政歴三四四年、四月二日。
帝国領、クロウ家本邸。
春の柔らかな日差しが、屋敷へ続く並木道を照らしていた。
冬の間、葉を落としていた木々には若葉が芽吹き、庭園の花壇では白や淡い紫の花が風に揺れている。遠くの丘陵には薄い雲がかかり、その下を走る街道には、朝から何台もの馬車や自動車が行き交っていた。
黒塗りの乗用車が、クロウ家本邸の正門を通過した。
後部座席に座っていたレイブン・S・クロウは、窓の外へ顔を向けた。黒い猫耳が、砂利道を踏むタイヤの音に合わせてわずかに動く。
十六歳になった彼の膝には、志願兵教育学校から持ち帰った小さな鞄が置かれていた。
中には修了証書と、学校から贈られた記念章が収められている。
NoX。
新兵になった記念として与えられた、彼自身のコールネームだった。
「レイブン様。もうすぐ到着いたします」
隣に座るファニータが声を掛けた。
彼女は十八歳になり、以前よりも落ち着いた雰囲気を身につけていたが、レイブンと話す時の柔らかな口調は変わっていない。
「うん。ありがとう、ファニータさん」
レイブンは微笑んだ。
「なんだか、久しぶりに帰ってきた気がする」
「昨年十一月のご入校から、ずいぶん長く感じられたのでしょうね」
「毎日いろんなことがあったから」
レイブンは窓の向こうに見える屋敷を眺めた。
見慣れた石造りの外壁。
南側に張り出した温室。
幼い頃、ルナと一緒に走り回った庭園。
何も変わっていないように見えるのに、自分だけが少し遠くへ行って戻ってきたような気がした。
「……ファニータさん」
「はい?」
「帰ってきたら、最初に何をしようか」
ファニータは少し考え、微笑んだ。
「まずは、ご家族へお顔を見せることではありませんか?」
「そうだね」
「それから、セレナ様がお祝いのお食事を用意されていると伺っています」
レイブンの耳がぴくりと動いた。
「母さんが?」
「はい。昨日から厨房の皆さんと相談されていました」
「……そんなに大げさにしなくてもいいのに」
「それだけ、レイブン様のお帰りを楽しみにされていたのですよ」
車が玄関前に停まった。
運転手が降りて後部座席の扉を開くと、春の空気とともに、懐かしい花の香りが流れ込んできた。
レイブンが車から降りた、その瞬間だった。
「お兄ちゃん!」
玄関の扉が勢いよく開いた。
白い猫耳を揺らしながら、一人の少女が駆け出してくる。
「ルナ!」
レイブンが名前を呼び終えるより早く、ルナ・V・クロウが胸元へ飛び込んできた。
「お帰り!」
「うわっ……!」
勢いを受け止めたレイブンは一歩後ろへ下がったが、どうにか踏みとどまった。
ルナは両腕を兄の背中へ回し、顔を押しつけた。
「遅い!」
「え?」
「もっと早く帰ってくると思ってた!」
「学校の手続きがあったんだよ」
「知ってる。でも遅い!」
レイブンは困ったように笑った。
「……ただいま、ルナ」
その言葉を聞くと、ルナはようやく顔を上げた。
「お帰り、お兄ちゃん」
金色の瞳が嬉しそうに細められる。
レイブンは妹の頭を優しく撫でた。
その様子を見ていたファニータも、思わず微笑んでいた。
「ルナ様、お久しぶりです」
「あっ、ファニータ!」
ルナはレイブンから離れ、今度はファニータの手を取った。
「ファニータもお帰り!」
「ただいま戻りました」
「二人とも、ちゃんと帰ってきてくれてよかった!」
何気なく口にした妹の言葉に、レイブンは一瞬だけ胸が温かくなった。
まだ戦場へ行ったわけではない。
それでも、帰りを待っている人がいる。
そのことを、今まで以上にはっきりと感じた。
「ルナ。お兄ちゃんを玄関で捕まえたままにしないの」
穏やかな女性の声が聞こえた。
玄関の奥から、セレナ・クロウが姿を現した。
白い猫耳と柔らかな髪。
その表情はいつもどおり優しかったが、レイブンを見つめる瞳には、隠しきれない喜びが浮かんでいる。
「……母さん」
レイブンが声を掛けると、セレナはゆっくりと近づいた。
「お帰りなさい、レイブン」
「ただいま」
セレナは息子の頬に手を添えた。
「少し、顔つきが変わったわね」
「そうかな?」
「ええ。背も伸びたし……何より、目が違う」
レイブンは照れくさそうに笑った。
「そんなに変わってないと思うけど」
「母親には分かるのよ」
セレナはそう言って、息子を優しく抱き寄せた。
レイブンも母の背中へ腕を回した。
幼い頃から何度も受け止めてもらった、懐かしい温もりだった。
「修了、おめでとう」
「……ありがとう、母さん」
セレナは少しだけ抱き締める腕に力を込めた。
「無事に帰ってきてくれて、嬉しいわ」
レイブンは静かに頷いた。
「うん」
その背後で、ルナが頬を膨らませていた。
「お母さん、ずるい。私ももう一回!」
セレナが笑う。
「順番ね」
「じゃあ次、私!」
レイブンは苦笑しながら、もう一度妹を抱き留めた。
玄関には、久しぶりに家族の笑い声が響いていた。
午前十一時四十分。
クロウ家本邸、大食堂。
長い食卓には、普段よりも多くの料理が並べられていた。
香草を使ったロースト肉、焼きたてのパン、季節の野菜を添えた魚料理、温かなスープ。中央には、白いクリームと果物で飾られた祝いの菓子まで用意されている。
レイブンは席に着くなり、目を丸くした。
「……本当に、すごい量だね」
ルナが得意そうに胸を張った。
「私も手伝ったんだよ!」
「本当?」
「うん! 果物を並べた!」
セレナが微笑んだ。
「それと、何度も味見をしていたわね」
「お母さん!」
ファニータが口元を押さえて笑った。
レイブンも笑いながら、妹へ顔を向けた。
「ありがとう、ルナ」
「えへへ」
やがて食堂の扉が開き、ヴァルター・A・クロウが入ってきた。
濃い色の上着を身につけた父は、軍務中とは違い、階級章のない私服姿だった。
しかし、背筋の伸びた立ち姿と落ち着いた眼差しは、学校で見た教官の姿と変わらない。
「待たせたな」
ヴァルターは家族を見渡し、レイブンの顔で視線を止めた。
「改めて、お帰り」
「ただいま、父さん」
ヴァルターは小さく頷いた。
「修了、おめでとう」
「ありがとう」
父はそれ以上、大げさなことを言わなかった。
だが、レイブンには分かった。
普段よりも、少しだけ声が柔らかい。
全員が席に着くと、ヴァルターはグラスを手に取った。
「今日は、レイブンの志願兵教育課程修了と、新兵としての第一歩を祝う席だ」
ルナが嬉しそうにグラスを持ち上げる。
セレナも微笑み、ファニータも席で姿勢を正した。
「まだ、これから学ぶことは多いだろう。だが、まずはここまで努力したことを誇っていい」
ヴァルターはレイブンを見た。
「よく頑張ったな」
レイブンは父の眼差しを受け止めた。
「……うん。ありがとう」
「それでは」
ヴァルターがグラスを少し上げた。
「レイブンの修了を祝して」
「おめでとう!」
ルナの明るい声が、食堂いっぱいに響いた。
グラスが軽く触れ合い、祝いの食事が始まった。
食卓では、自然と学校での話題になった。
ガイルが班長に選ばれたこと。
ユリウスが通信記録を整理し続けていたこと。
エミールが仲間の体調を気遣っていたこと。
オスカーの装備管理。
フェリックスの冗談。
そして、カールが少しずつ自分の意見を言えるようになったこと。
レイブンが七人で撮影した記念写真の話をすると、ルナが身を乗り出した。
「見たい!」
「まだ現像が終わってないんだ」
「ええっ、じゃあ届いたら絶対見せてね!」
「もちろん」
セレナは嬉しそうに話を聞いていた。
ヴァルターも時折頷きながら、息子の話へ耳を傾けている。
やがて、ルナが尋ねた。
「ねえ、お兄ちゃん。学校から何か特別なものをもらったんでしょ?」
「特別なもの?」
「ファニータが言ってた。名前をもらったって」
レイブンは少し驚いた。
「……ああ、コールネームのこと?」
「そう、それ!」
レイブンは制服の内ポケットから、小さな記念章を取り出した。
食卓の上に置くと、金属の表面に刻まれた文字が、窓から差し込む光を受けて輝いた。
NoX。
ルナは興味津々で覗き込んだ。
「ノックス?」
「うん。学校の教官たちが付けてくれたんだ」
「かっこいい!」
セレナも記念章を見つめた。
「あなたに似合う名前ね」
「そうかな」
「ええ」
ヴァルターは静かに記念章へ目を向けた。
彼自身、学校の評価に関わる立場だったが、息子への呼称を私情で決めることはしていなかった。
その名は、複数の教官が記録を確認したうえで贈ったものだった。
「……NoXか」
ヴァルターが呟いた。
レイブンは父を見た。
「どう思う?」
ヴァルターは少し考えた。
「悪くない」
「それだけ?」
「名前は、付けられた時より、その後どう生きたかで意味が変わる」
レイブンは黙って聞いた。
「今は学校からの記念だ。だが、いつか誰かがその名を聞いて、お前自身を思い浮かべるようになるかもしれん」
ヴァルターは穏やかに続けた。
「その時、恥じる必要のない生き方をしていれば、それでいい」
レイブンは記念章を見つめた。
「……うん」
ルナは少し考えた後、にっこり笑った。
「じゃあ、私もお兄ちゃんのこと、ノックスって呼ぼうかな!」
「えっ?」
「ノックスお兄ちゃん!」
セレナが笑った。
「それは少し長いわね」
「じゃあ、ノックス兄!」
レイブンは困ったように笑った。
「いつもどおりでいいよ」
「ええー」
そのやり取りに、ヴァルターも小さく笑った。
レイブンは父の笑顔を見て、少し驚いた。
学校では厳格な教官だった父。
家では穏やかな時もあるが、ここまで自然に笑う姿は、久しぶりに見た気がした。
食事はゆっくりと続いた。
ルナは学校の話を何度も聞きたがり、セレナはレイブンがきちんと食事を取れていたかを気にしていた。
ファニータは料理を取り分けながら、時折レイブンの話へ加わった。
ヴァルターは必要以上に口を挟まず、家族の会話を聞いていた。
それは、どこにでもあるような穏やかな昼食だった。
けれど、レイブンにとっては、学校で過ごした数か月のどんな食事よりも、心が落ち着く時間だった。
午後三時十八分。
クロウ家本邸、南側庭園。
食後、レイブンはルナに連れられて庭園を歩いていた。
石畳の小道には春の花びらが落ち、温室のガラスには午後の日差しが反射している。
ルナは兄の少し前を歩きながら、何度も振り返った。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
「次はいつ帰ってくるの?」
レイブンは少し考えた。
「まだ分からないんだ。正式な教育先が決まってから、日程も決まると思う」
「北の方に行くかもしれないんだよね?」
「うん」
「遠い?」
「場所によるかな」
ルナは立ち止まった。
「……じゃあ、しばらく会えない?」
レイブンも足を止めた。
妹の白い猫耳が、少しだけ伏せられている。
「休暇が取れたら帰ってくるよ」
「絶対?」
「うん。できる限り」
ルナは兄を見つめた。
「……できる限り、じゃなくて、絶対がいい」
レイブンは返事に迷った。
軍務には、約束できないことがある。
学校でも、それは何度も教えられていた。
けれど、目の前の妹に、そのまま説明するのは少し違う気がした。
レイブンは膝を折り、ルナと目線を合わせた。
「……帰れるように、ちゃんと頑張るよ」
ルナは少しだけ考えた。
「……うん」
そして、小指を差し出した。
「約束」
レイブンは微笑み、自分の小指を絡めた。
「約束」
春風が二人の間を吹き抜けた。
遠くでは庭師が花壇の手入れをしている。
その向こうで、ファニータが二人の様子を見守っていた。
レイブンは妹と歩きながら、ふと屋敷の二階へ目を向けた。
父の書斎がある窓だった。
厚いカーテンの隙間から、わずかに室内の明かりが見えている。
父は、もう仕事へ戻ったのだろうか。
そんなことを考えた時だった。
「レイブン様」
ファニータが近づいてきた。
「ヴァルター様から伝言を預かりました」
「父さんから?」
「はい。夕方、書斎へ来るようにとのことです」
レイブンは少し驚いた。
「何かあったのかな」
「詳しいことは伺っておりません。ただ、お一人でお越しになるようにと」
「……分かった」
レイブンは頷いた。
ルナが不満そうに声を上げた。
「えー、お父さんだけずるい!」
ファニータが微笑んだ。
「ルナ様。お二人だけでお話ししたいことがあるのかもしれません」
「……そうなの?」
「ええ」
ルナは少し考えた後、レイブンを見た。
「じゃあ、終わったらまた遊んでね」
「うん」
レイブンは妹の頭を撫でた。
夕方の書斎。
父から個人的に呼び出されることは、決して珍しくない。
幼い頃は勉強の進み具合を確認されたこともあった。
軍学校へ入る前には、進路について話し合ったこともある。
しかし、今日は少し違う気がした。
それが何なのか、レイブンにはまだ分からなかった。
午後五時四十二分。
クロウ家本邸、二階書斎。
西日が長い廊下を照らしていた。
レイブンは父の書斎の前で立ち止まり、制服の襟元を整えた。
扉を二度、軽く叩く。
「父さん。レイブンです」
少し間があった。
「入れ」
聞き慣れた低い声だった。
レイブンは扉を開けた。
書斎の中には、古い木材と紙の匂いが漂っていた。
壁一面に並ぶ書棚。
大きな執務机。
窓際には、帝国領と周辺諸国を示した地図が掛けられている。
机の上には、新聞と数枚の書類が置かれていた。
ヴァルターは窓際に立ち、外の庭園を見下ろしていた。
レイブンが入ると、ゆっくり振り返った。
「来たか」
「うん」
「扉を閉めてくれ」
「分かった」
レイブンは扉を閉めた。
ヴァルターは執務机の前へ移動し、椅子を示した。
「座りなさい」
レイブンは少し緊張しながら腰を下ろした。
父は向かい側の椅子に座った。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
窓の外では、鳥の鳴き声が聞こえている。
やがて、ヴァルターが口を開いた。
「……まず、改めて言っておく」
レイブンは顔を上げた。
「志願兵教育課程の修了、おめでとう」
「……ありがとう、父さん」
「学校では教官として接してきた。評価についても、他の候補生と同じ基準で扱った」
「うん」
「だが、今日は教官として呼んだわけじゃない」
レイブンは少し驚いた。
ヴァルターは静かに続けた。
「父親として、話しておきたいことがある」
その言葉に、レイブンは自然と背筋を伸ばした。
ヴァルターは机の上の新聞へ目を向けた。
そこには、連邦共和国との国境協議についての記事が掲載されている。
「最近、連邦共和国との関係がきな臭くなってきていることは、お前も知っているな」
「……うん」
「国境警備の増強、軍用列車の運行増加、外交交渉の停滞。新聞に出ているものだけでも、以前とは明らかに違う」
ヴァルターは新聞を閉じた。
「ただし、戦争が始まると決まったわけではない。今の段階で、いつ何が起こると断言することはできん」
「……分かってる」
「それでも、軍人になる以上、その可能性から目を逸らすことはできない」
レイブンは静かに頷いた。
ヴァルターは息子を見つめた。
「お前は、これから専門教育を受ける。配属先によっては、国境地域に近い場所へ行くこともあるだろう」
「うん」
「その先で、実際に任務を与えられる日が来るかもしれん」
ヴァルターの声は落ち着いていた。
しかし、レイブンには分かった。
父は、言葉を一つひとつ選んでいる。
「レイブン」
「……何?」
「お前に、一つだけ命じておきたい」
レイブンは父の目を見た。
ヴァルターは、ゆっくりと言った。
「絶対に、五体満足で帰ってこい。」
レイブンは息を止めた。
その言葉は、思っていたよりも強く胸に響いた。
ヴァルターは続けた。
「無理をして英雄になろうとするな。功績のために命を賭けるな。仲間を守ることは大切だが、自分の命を粗末にしていい理由にはならん」
レイブンは黙って聞いていた。
「判断に迷ったら、確認しろ。撤収すべき時は撤収しろ。助けが必要なら、必ず求めろ」
ヴァルターは一度、視線を落とした。
机の上に置かれた右手が、わずかに動いた。
魔力によって再構築された右腕。
かつて異界門の戦闘で失われた、本来の腕の代わりだった。
レイブンも、その腕へ目を向けた。
ヴァルターは苦く笑った。
「……俺が言うと、説得力がないかもしれんな」
「父さん……」
「俺は、五体満足では帰れなかった」
静かな声だった。
「生きて戻ることはできた。だが、右腕を失った。家族には心配をかけたし、その後の生活も変わった」
ヴァルターは再構築された右手をゆっくり握った。
「魔力で補えているからといって、失ったものがなかったことになるわけじゃない」
レイブンは父の顔を見つめた。
父が腕を失った日のことを、すべて知っているわけではない。
だが、その傷が父にとってどれほど重いものだったのかは、少しずつ理解できるようになっていた。
「……父さんは、後悔してる?」
レイブンが尋ねると、ヴァルターはしばらく考えた。
「……あの日、助けられた者がいたことは後悔していない」
そして、静かに続けた。
「だが、もっと良い判断ができたのではないかと考えることはある」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「だから、お前には同じ思いをしてほしくない」
ヴァルターは息子の目を見た。
「お前には、お前の人生がある。これから出会う仲間もいる。やりたいことも、まだたくさんあるだろう」
レイブンは何も言わなかった。
「それを、戦場で終わらせるな」
父の声が、わずかに低くなった。
「お前がどれほど優秀な兵士になったとしても、俺にとっては息子だ」
その言葉に、レイブンの胸が熱くなった。
ヴァルターは続けた。
「母さんも、ルナも、ファニータも、お前の帰りを待っている」
「……うん」
「そして、俺もだ」
レイブンは唇を結んだ。
父がここまで直接的に、自分の帰りを願う言葉を口にしたことは、ほとんどなかった。
ヴァルターは椅子から立ち上がった。
レイブンも、反射的に立ち上がる。
「……父さん?」
ヴァルターは机の横を回り、息子の前へ歩いてきた。
そして、少しだけ躊躇った。
レイブンは首を傾げた。
「どうしたの?」
ヴァルターは困ったように笑った。
「……いや」
その表情は、学校で何百人もの候補生を指導してきた教官のものではなかった。
言葉を探している、一人の父親の顔だった。
「……こういうことは、あまり得意じゃなくてな」
レイブンが返事をする前に、ヴァルターは両腕を広げた。
そして、息子を抱き締めた。
「……っ」
レイブンは驚いて身体を強張らせた。
父から、こんなふうに抱き締められたことはなかった。
幼い頃、肩に手を置かれたことはある。
頭を撫でられたこともある。
剣術や体術の稽古で、身体を支えられたこともあった。
けれど、父の方から腕を回し、何も言わずに抱き締めてくるのは、これが初めてだった。
ヴァルターの左腕が、レイブンの背中を包んでいる。
そして、魔力で再構築された右腕も、同じように息子を抱いていた。
その腕には、確かな力があった。
しかし、痛いほど強くはなかった。
ただ、離したくないという気持ちが伝わってくるような抱擁だった。
「……父さん?」
レイブンが小さく呼ぶと、ヴァルターは低い声で答えた。
「……少しだけ、このままでいさせてくれ」
レイブンは何も言わなかった。
父の胸元に顔が近づく。
衣服には、紙と革、それから微かな煙草の残り香が染みついていた。
昔から知っている、父の匂いだった。
ヴァルターは息子の背中へ回した腕に、ほんの少し力を込めた。
「……レイブン」
「……うん」
「頼むから、生きて帰ってきてくれ」
その声は、教官が命令を下す時のものではなかった。
軍人としての威厳も、階級も、そこにはなかった。
ただ、息子を失いたくない父親の願いだった。
レイブンはゆっくりと腕を上げた。
そして、父の背中へ回した。
「……分かった」
声が、少し震えた。
「……必ず帰ってくる」
ヴァルターは何も言わなかった。
レイブンは続けた。
「父さんみたいに、誰かを守れる兵士になりたい。でも……」
一度、言葉を切った。
「……自分も、ちゃんと帰ってくる」
ヴァルターの腕が、わずかに震えた。
「……ああ」
それだけだった。
けれど、その短い返事には、言葉にしきれない感情が込められていた。
書斎の時計が、静かに秒を刻んでいる。
窓の外では、夕日が庭園の木々を赤く染め始めていた。
父と息子は、しばらくそのままでいた。
やがて、ヴァルターがゆっくりと腕を解いた。
レイブンも一歩下がった。
父の顔を見ると、いつもの落ち着いた表情に戻ろうとしていた。
だが、その目元には、わずかな赤みがあった。
レイブンは、あえて何も言わなかった。
ヴァルターも、息子の目元を見て何かを察したらしい。
小さく咳払いをした。
「……すまんな。急に」
レイブンは首を振った。
「ううん」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「……嬉しかった」
ヴァルターは一瞬、目を見開いた。
それから、静かに微笑んだ。
「……そうか」
「うん」
レイブンは父の右腕へ目を向けた。
「……父さん」
「何だ?」
「その腕でも、ちゃんと温かかったよ」
ヴァルターは、ゆっくりと自分の右手を見た。
魔力で再構築された腕。
失ったものを完全に取り戻したわけではない。
それでも、今は息子を抱き締めることができる。
ヴァルターは小さく息を吐いた。
「……それなら、よかった」
レイブンは微笑んだ。
父は執務机へ戻り、一枚の小さな紙を手に取った。
「最後に、もう一つ」
「何?」
「これは命令ではない。頼みだ」
ヴァルターは紙を差し出した。
そこには、クロウ家本邸の住所と、軍用郵便で利用できる連絡先が記されていた。
「配属先が決まったら、知らせてくれ。手紙でも構わん」
「うん」
「忙しくても、時々でいい。元気だと分かれば、それでいい」
レイブンは紙を受け取った。
「……分かった」
ヴァルターは頷いた。
「それから」
「うん?」
「ルナへの手紙も忘れるな。あの子は、お前からの便りを何度も読み返すからな」
レイブンは思わず笑った。
「……そうなんだ」
「母さんが、何度も同じ手紙を読んでいるところを見ている」
「じゃあ、ちゃんと書かないとね」
「ああ」
父と息子は、しばらく笑い合った。
やがて、ヴァルターは扉へ目を向けた。
「……そろそろ夕食の時間だな」
「うん」
「母さんたちを待たせるわけにはいかん」
レイブンは頷き、扉へ向かった。
しかし、取っ手に手を掛けたところで、振り返った。
「……父さん」
「何だ?」
レイブンは少しだけ笑った。
「……ありがとう」
ヴァルターは、静かに頷いた。
「……こちらこそ」
レイブンは扉を開け、廊下へ出た。
扉が閉まる直前、父の声がもう一度聞こえた。
「レイブン」
「うん?」
「……お前を誇りに思っている」
レイブンは、しばらく動けなかった。
そして、ゆっくりと笑った。
「……ありがとう、父さん」
扉が静かに閉まった。
書斎に一人残ったヴァルターは、しばらくその場に立っていた。
窓の外では、夕日が地平線へ沈もうとしている。
彼は自分の右手を見つめた。
かつて失い、魔力によって再構築された腕。
今日、その腕で初めて息子を抱き締めた。
なぜ、もっと早くそうしなかったのだろう。
そんな思いが、胸をよぎった。
ヴァルターは小さく笑った。
「……不器用な父親だな、俺は」
誰に聞かせるでもない呟きだった。
だが、その表情は、どこか穏やかだった。
午後六時二十七分。
クロウ家本邸、大食堂。
夕食の席では、ルナが相変わらず楽しそうに話していた。
「ねえ、お兄ちゃん。明日は何する?」
「まだ決めてないよ」
「じゃあ、一緒に街へ行こう!」
「いいよ」
「本当?」
「うん」
ルナは嬉しそうに笑った。
セレナは、その様子を見ながら微笑んでいた。
ファニータも穏やかな表情で食事を取っている。
やがて、ヴァルターが食堂へ入ってきた。
「遅くなった」
セレナが顔を向けた。
「お仕事、終わったの?」
「ああ」
ヴァルターは席に着き、レイブンへ一瞬だけ視線を向けた。
レイブンも、父を見た。
二人は何も言わなかった。
ただ、小さく頷き合った。
セレナは、その様子を見逃さなかった。
「……何か、いいことでもあったの?」
ヴァルターは少し驚いた顔をした。
「いや、別に」
レイブンも慌てて答えた。
「何でもないよ」
セレナは二人を見比べた。
そして、何かを察したように微笑んだ。
「……そう」
それ以上は聞かなかった。
ルナだけが、不思議そうに首を傾げている。
「えー、何? 私だけ知らないの?」
レイブンは笑った。
「秘密」
「ずるい!」
ヴァルターも小さく笑った。
「男同士の話だ」
「お父さんまで!」
食堂に、再び笑い声が広がった。
レイブンは、その光景を静かに見つめた。
母の笑顔。
妹の明るい声。
ファニータの穏やかな眼差し。
そして、父の少し照れくさそうな表情。
この場所が、自分の帰る家なのだと、改めて感じた。
帝政歴三四四年四月二日。
レイブン・S・クロウ、十六歳。
志願兵教育課程を修了し、新兵となった彼は、次の教育先へ向かう前に故郷へ帰ってきた。
家族から祝福を受け、妹と再会し、母の温もりに触れた。
そして、父から初めて抱き締められた。
その日の夕暮れ、父が告げた言葉は、レイブンの胸に深く刻まれた。
絶対に、五体満足で帰ってこい。
それは、軍人としての訓示であると同時に、一人の父親から息子へ向けられた、切実な願いだった。
やがて、帝国と連邦共和国の間に戦火が広がる日が来る。
その時、レイブンは幾度となく、この日のことを思い出すことになるだろう。
父の腕の温もり。
書斎に差し込んでいた夕日。
そして、自分の帰りを待っている人々の存在を。
けれど、今はまだ、穏やかな春の夜だった。
クロウ家本邸の窓からは、温かな明かりが漏れている。
食堂では、家族の笑い声が続いていた。
レイブンは、その声を聞きながら、心の中で静かに誓った。
必ず、ここへ帰ってくる。
誰かの英雄になるためではなく。
この家で、もう一度、家族と笑うために。




