第65話 別れの朝、北へ向かう辞令
第65話 別れの朝、北へ向かう辞令
帝政歴三四四年、三月三十日。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、第二候補生宿舎第三〇七号室。
春の朝日が、古びた木製の窓枠を照らしていた。
レイブン・S・クロウは、自分の寝台に腰を下ろし、黒革の手帳を閉じた。
机の上には、前日に受け取った修了証書が置かれている。
志願兵教育課程修了。
その文字を見つめるたび、胸の奥に不思議な感覚が生まれた。
昨年十一月、初めてこの部屋へ入った日のことを思い出す。
知らない顔ばかりだった七人。
初対面から大きな声で笑っていたガイル。
眼鏡を掛け直しながら規則を確認していたユリウス。
誰よりも早く救護用品の置き場所を覚えたエミール。
黙々と装備を整えていたオスカー。
冗談ばかり言っていたフェリックス。
そして、最初はほとんど言葉を交わさなかったカール。
その七人が、今では互いの寝息まで分かるようになっていた。
「おい、レイブン。何をそんなに眺めてるんだ?」
背後から、ガイル・ベッカーの声が聞こえた。
振り返ると、ガイルは自分の背嚢へ衣類を詰め込んでいた。
「昨日の修了証書」
「また見てるのか?」
「うん。まだ実感がなくて」
「俺は実感あるぞ。身体中が痛いからな」
ガイルが肩を回すと、寝台の向こうからオスカー・グラーフが顔を出した。
「それは試験の疲労だろ」
「同じようなもんだ」
「全然違う」
フェリックス・ブラントが吹き出した。
「お前ら、最後の日くらい静かにできないのか?」
「お前が言うな」
オスカーの返答に、部屋の中で笑いが起こった。
ユリウス・ヴェーバーは机の上で書類を揃えていた。
「皆さん、今日の予定は確認しましたか? 午前九時に進路説明、その後に個別の書類確認があります」
「分かってるって」
ガイルは答えたが、ユリウスは眼鏡越しに彼を見た。
「昨日もそう言って、装備返納票を一枚忘れましたよね」
「……あれは偶然だ」
「偶然が多いですね」
エミール・シュナイダーは二人のやり取りを聞きながら、救護用品を整理していた。
「ガイル君、肩が痛いなら後で確認しましょうか?」
「いや、大丈夫だ。筋肉痛だよ」
「無理をしないでくださいね」
部屋の奥では、カール・リヒターが背嚢の留め具を締めていた。
以前の彼なら、周囲の会話に加わらず、黙って作業を続けていただろう。
しかし、今朝は違った。
「……ガイル」
「何だ?」
「……装備返納票、机の下に落ちてる」
ガイルが足元を見た。
そこには、折り畳まれた書類が一枚落ちていた。
「……あ」
フェリックスが腹を抱えて笑った。
「偶然がまた増えたな!」
ガイルは書類を拾い上げ、苦笑した。
「……お前ら、最後まで容赦ねえな」
レイブンも笑った。
だが、その笑いの中には、少しだけ寂しさが混じっていた。
この部屋で七人が朝を迎えるのは、今日が最後になるかもしれない。
誰も、まだそのことを口にはしなかった。
午前八時四十二分。
中央志願兵教育学校、第一教育大隊庁舎。
ヴァルター・A・クロウ少佐は、教官室の机に置かれた書類を読み進めていた。
修了者名簿。
適性評価。
進路希望調査。
そして、上級教育機関への選抜推薦書。
窓の外では、修了した候補生たちが装備返納のために移動している。
ヴァルターは一枚の書類を手に取った。
レイブン・S・クロウ。
十六歳。
志願兵基礎教育課程修了。
総合評価には、観察力、状況判断、班内の連携に関する所見が記されていた。
同時に、経験不足や慎重さゆえの判断の遅れについても指摘されている。
ヴァルターはその評価を読み、静かに頷いた。
息子だからといって、欠点が消えるわけではない。
むしろ、それを正しく認識することが、今後の教育には必要だった。
「クロウ少佐」
扉が開き、教育大隊の副官が入ってきた。
「北部教育管区から、追加の受け入れ枠について連絡がありました」
ヴァルターは顔を上げた。
「北部ですか」
「はい。国境警備部隊の再編に伴い、専門教育課程の受け入れ人数を増やす方針です。ただし、教育期間の短縮は行わないとのことです」
「それは妥当でしょう」
ヴァルターは書類を受け取った。
帝国と連邦共和国の関係は、依然として悪化していた。
国境付近では警備部隊の増強が進み、鉄道輸送にも軍需物資が優先され始めている。
しかし、正式な戦争が始まったわけではない。
軍は警戒態勢を強めながらも、教育を受けていない志願兵を安易に前線へ送り込まない方針を維持していた。
「候補生たちへの説明は?」
「本日午前九時です。希望と適性に基づく推薦であり、配属を確約するものではないことを明示します」
「了解しました」
副官が退室すると、ヴァルターは再び書類へ目を落とした。
そこには、レイブンを含む七人の名前があった。
彼らは、まだ若い。
これから先、どのような軍歴を歩むかは分からない。
それでも、昨日までの最終試験を終えた彼らは、確かに次の段階へ進もうとしていた。
ヴァルターは静かに呟いた。
「……ここからだな」
午前九時七分。
第一教育大隊、第三中隊講義室。
昨日まで演習場で訓練弾を撃ち合っていた候補生たちが、今日は磨き上げた軍靴と整った制服で席についていた。
教壇には教育中隊長と人事担当将校が立ち、背後の黒板には「修了後進路説明」と書かれている。
ガイルは椅子に深く座り、両腕を組んでいた。
「なあ、レイブン」
「何?」
「俺たち、もう候補生じゃなくなるんだよな」
「基礎教育は修了したけど、これから先も教育は続くよ」
「分かってる。ただ、昨日まで毎日同じ時間に起きて、同じ飯食って、同じ場所で訓練してたからさ」
ガイルは講義室を見渡した。
「急に別々になるって言われても、変な感じだ」
レイブンは答えなかった。
その気持ちは、自分も同じだったからだ。
「静粛に」
教育中隊長の声が響き、候補生たちは姿勢を正した。
「諸君は昨日、志願兵基礎教育課程の修了認定を受けた。まずは、その努力を称える」
中隊長は教室を見渡した。
「そして本日付で、諸君は志願兵候補生から新兵へと移行する。だが、ここから先は全員が同じ教育を受けるわけではない。志望、適性、身体検査、各教育部隊の受け入れ状況、軍全体の人員需要に基づき、次の教育先を決定する」
人事担当将校が説明を引き継いだ。
「本日交付する書類には、正式な教育先指定と、選抜審査中の推薦が混在している。両者を混同しないよう注意すること。専門教育を受けたからといって、希望する実戦部隊への配属が確約されるわけでもない」
フェリックスが小声で呟いた。
「……つまり、まだ決まってないこともあるのか」
ユリウスが小さく頷く。
「そういうことですね」
将校は続けた。
「国境情勢について質問がある者もいるだろう。現在、帝国軍では警戒態勢の見直しが行われている。しかし、諸君に対する教育期間の一律短縮や、基礎教育修了者の即時戦闘投入を命じる通達は出ていない」
教室の空気が少し変わった。
誰もが、その噂を耳にしていた。
軍用列車の増発。
国境地域での予備役への連絡。
新聞に並ぶ、外交交渉の行き詰まりを伝える見出し。
そして、街で囁かれる「来月には戦争が始まる」という根拠のない予測。
「諸君が軍人として最初に学ぶべきことの一つは、確認されていない情報で行動しないことだ」
人事担当将校は、ゆっくりと言った。
「命令には発令者と権限がある。報道には情報源がある。噂には、そのどちらもない場合がある」
レイブンは父の言葉を思い出した。
撃つべきかどうかを決める前に、何を見ているのか確かめろ。
戦場であれ、平時の軍務であれ、その原則は変わらないのだろう。
説明が終わると、候補生たちの名前が順番に呼ばれ始めた。
封筒が一人ずつ手渡される。
やがて、第三〇七号室の七人にも、その時が来た。
「ガイル・ベッカー」
「はい!」
「レイブン・S・クロウ」
「はい」
「ユリウス・ヴェーバー」
「はい!」
「エミール・シュナイダー」
「はい」
「オスカー・グラーフ」
「はい!」
「フェリックス・ブラント」
「はい!」
「カール・リヒター」
「……はい」
七人は、それぞれ一通の封筒を受け取った。
その中に、これから歩む道が記されていた。
講義室を出ると、ガイルは誰よりも早く封筒を開いた。
「……歩兵戦闘教育課程への進級推薦。北部教育管区での選抜審査……よし!」
大きな犬耳が立った。
「北部だ!」
フェリックスが封筒を覗き込む。
「お前、まだ推薦だろ。合格したみたいに喜ぶなよ」
「いいだろ、希望が通ったんだから!」
オスカーは自分の書類を読み終え、眉を上げた。
「俺は機甲・機械化歩兵系統の適性審査だ。整備教育も含まれるらしい」
「似合ってるな」
ガイルが言うと、オスカーは肩をすくめた。
「重い物を持てるからって、全部機甲に回されるわけじゃないぞ」
ユリウスは封筒から二枚目の用紙を取り出した。
「僕は通信教育課程の選抜対象です。無線運用と記録管理の評価が高かったようですね」
「お前なら当然だろ」
フェリックスが笑う。
「俺の忘れ物まで記録してたんだから」
「それは必要な記録でした」
「必要だったのかよ!」
エミールは救護・衛生教育系統への推薦を受けていた。
本人は少し驚いていたが、レイブンには自然な結果に思えた。
エミールは訓練中、誰かが転んだ時も、疲労を訴えた時も、必ず最初に様子を確かめていた。
フェリックスには偵察・連絡任務に関する追加適性審査の通知が届いていた。
「走り回ってばっかりだったからなあ」
彼はそう言いながら、書類を何度も読み返した。
最後にカールが封筒を開いた。
六人は、彼が読み終えるまで黙って待った。
「……通信・補給支援教育課程」
カールは小さく呟いた。
「適性評価に基づく推薦、か」
ユリウスが顔を向けた。
「希望していた分野ですね」
「……ああ」
カールは頷いた。
「……記録を取るのは、嫌いじゃない」
ガイルが笑った。
「じゃあ、俺がどこかで書類をなくしたら、頼むぞ」
「……なくすな」
間髪を入れずに返ってきた言葉に、全員が笑った。
だが、レイブンだけはまだ封筒を開いていなかった。
「おい、レイブン」
ガイルが顔を寄せた。
「お前は?」
「……今から見るよ」
レイブンは封を切った。
中には、基礎教育修了の記録と、次段階の選抜推薦に関する通知が入っていた。
推薦先の一つに、北部教育管区の名がある。
歩兵・偵察系統。
上級基礎教育および専門適性審査。
正式な所属部隊と入校日は、後日通知。
レイブンは最後の一行まで読み終え、静かに息を吐いた。
「……俺も、北部教育管区への推薦がある」
ガイルの顔が明るくなった。
「本当か!」
「うん。ただ、正式に決まったわけじゃない」
「それでも、また一緒になれるかもしれないだろ!」
レイブンは微笑んだ。
「そうだね」
しかし、喜びの中に、一つの現実があった。
七人全員が同じ教育部隊へ進むとは限らない。
推薦先も、専門分野も、それぞれ違う。
昨日まで同じ部屋にいたからといって、明日からも同じ部屋にいられるわけではなかった。
ガイルも、そのことに気づいたらしい。
彼は少しだけ笑みを弱めた。
「……そうか」
フェリックスが肩を叩いた。
「何だよ。まだ別れるって決まったわけじゃないだろ」
「……まあな」
「それに、別々になったって会えるさ」
オスカーが頷いた。
「休暇が合えばな」
「お前、現実的すぎるぞ」
「軍人になるんだから当然だ」
七人は再び笑った。
その笑いは、朝のものより少しだけ静かだった。
その時、講義室の扉が開いた。
「第二候補生群、第三〇七号室の七名。まだ残っているか」
教育中隊長だった。
ガイルが反射的に姿勢を正した。
「はい! 七名、全員おります!」
「よろしい。少し時間をもらう」
中隊長の後ろには、記録担当の下士官が立っていた。
その手には、小さな紺色の箱が七つ載せられている。
「諸君には、もう一つ渡すものがある」
ガイルが箱を見た。
「……何でしょうか」
「新兵への移行を記念して、学校から贈るコールネームだ」
フェリックスが目を丸くした。
「コールネーム?」
「そうだ。ただし、正式な部隊の無線呼出符号や階級とは違う。学校での訓練記録を基に、諸君一人ひとりへ贈る記念呼称だ。今後の所属先でそのまま使えるとは限らん」
中隊長は、七人の顔を順番に見た。
「最終試験の評価だけで決めたわけではない。入校してからの行動、失敗、改善、仲間との関わり方を、複数の教官が確認した」
下士官が箱を一つ開いた。
中には、小さな金属製の記念章と、折り畳まれた認定カードが収められていた。
「まず、ガイル・ベッカー」
「はい!」
「コールネーム、HOUND」
ガイルは目を見開いた。
「……ハウンド?」
「仲間の動きを見失わず、必要な時には先頭に立つ。だが、勢いだけで動いて失敗したことも多い」
「……はい」
「その失敗を忘れるな。優れた猟犬は、ただ速く走るだけではない」
ガイルは記念章を受け取り、真剣な顔で敬礼した。
「ありがとうございます!」
「オスカー・グラーフ」
「はい」
「コールネーム、GRIZZLY」
オスカーは少し驚いた顔をした。
「……随分と大きな名前ですね」
「重い装備を任されても投げ出さず、班の負担を引き受けた。だが、何でも自分で抱え込むな」
「了解しました」
フェリックスが小声で囁いた。
「熊か。似合ってるな」
「聞こえてるぞ」
中隊長は次の箱を開いた。
「ユリウス・ヴェーバー」
「はい!」
「コールネーム、CIPHER」
ユリウスは眼鏡を上げた。
「……通信と記録から、でしょうか」
「そのとおりだ。情報を整理し、誤りを見つけ、必要な相手へ伝える力を評価した。ただし、正しい情報も伝達が遅れれば意味を失う」
「肝に銘じます」
「エミール・シュナイダー」
「はい」
「コールネーム、SAGE」
エミールは、静かに記念章を受け取った。
「仲間の体調や変化に気づくことができる。落ち着いた判断も評価された。しかし、救護に向かう者自身の安全を忘れてはならん」
「はい。ありがとうございます」
「フェリックス・ブラント」
「はい!」
「コールネーム、LYNX」
フェリックスの表情が明るくなった。
「おお、山猫!」
「偵察、経路の確認、周囲の変化への気づきを評価した。だが、余計な冗談で報告を曖昧にする癖は直せ」
「……はい!」
ガイルが肩を震わせた。
中隊長は、笑いを見逃さずに続けた。
「ベッカー。君も同様だ」
「はい!」
「カール・リヒター」
カールは、一瞬だけ身体を強張らせた。
「……はい」
「コールネーム、KEEPER」
カールは顔を上げた。
「……キーパー」
「記録を守り、物資を確認し、班の小さな変化を見逃さなかった。最終試験では、他の候補生が見落とした補給記録の不一致にも気づいたそうだな」
「……はい」
「君は、誰かに守られるだけの存在ではない。仲間が頼れる力を、すでに持っている」
カールは、しばらく言葉を返せなかった。
やがて、記念章を両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
最後に、中隊長はレイブンへ向き直った。
「レイブン・S・クロウ」
「はい」
差し出された箱の中には、ほかの六人と同じ形の記念章が収められていた。
「コールネーム、NoX」
レイブンは、その名を静かに聞いた。
「……ノックス」
「認定カードには《無名》という意味を添えてある」
中隊長は説明した。
「目立つことを目的とせず、誰かの功績を奪うこともなく、自分にできることを探していた。だが、無名であることと、責任を負わないことは違う」
レイブンは中隊長を見つめた。
「君は判断を迷うことがある。時には慎重すぎる。しかし、仲間の声を聞き、確かめ、決めた後は責任から逃げなかった」
「……ありがとうございます」
「この名を誇る必要はない。ただ、どういう兵士になりたいのかを考える時、思い出してくれればいい」
レイブンは記念章を受け取った。
冷たい金属の重みが、掌に残った。
中隊長は最後に言った。
「なお、諸君が学校で用いた訓練班の識別符号、**RAVENS**は、ここでの記録として保存される。個人の記念コールネームと、部隊の正式な無線呼出符号を混同しないように」
「はい!」
七人の返事が揃った。
中隊長は頷いた。
「諸君の今後の健闘を祈る」
教官たちが去った後、ガイルは自分の記念章を何度も眺めた。
「……HOUND、か」
フェリックスが笑った。
「似合ってるじゃないか」
「お前もLYNXだろ。偵察中に喋りすぎて獲物を逃がす山猫だな」
「何だと?」
オスカーが記念章を胸元に当ててみせた。
「少なくとも、俺は熊らしい」
ユリウスが静かに言った。
「動物の名前ばかりではありませんよ。僕はCIPHERです」
「俺はSAGEですね」
エミールが微笑んだ。
カールは自分の記念章を見つめていた。
「……KEEPER」
レイブンが隣に立った。
「いい名前だね」
「……うん」
カールは小さく笑った。
「……初めて、自分の名前以外で呼ばれて、嫌じゃなかった」
レイブンは何も言わず、頷いた。
ガイルが突然、七人の中央に立った。
「よし! せっかくだから、全員もう一回名乗ってみようぜ!」
「ここでか?」
オスカーが呆れた。
「いいだろ! 新兵になった記念だ!」
フェリックスが真っ先に応じた。
「LYNX、異常なし!」
「CIPHER、異常なし」
「SAGE、異常ありません」
「GRIZZLY、異常なし」
「KEEPER……異常なし」
ガイルは満足そうに頷き、レイブンを見た。
「お前は?」
レイブンは少しだけ笑った。
「……NoX、異常なし」
ガイルが大きく息を吸った。
「HOUND、異常なし!」
その声は廊下まで響き、近くにいた別の候補生たちが振り返った。
ユリウスが慌てて注意した。
「ガイル、ここはまだ校舎内ですよ!」
「分かってるって!」
七人は笑った。
まだ、正式な実戦部隊ではない。
まだ、戦場でその名を呼ばれたこともない。
それでも、学校から贈られた七つの名は、彼らにとって確かな節目になった。
午後零時四十分。
中央志願兵教育学校、正門前。
修了者の家族や迎えの車両が行き交う中、レイブンはファニータと合流した。
彼女はいつものように姿勢を正し、レイブンへ軽く頭を下げた。
「レイブン様。進路説明は終わりましたか?」
「うん。北部への推薦があったよ」
「そうでしたか」
ファニータは微笑んだが、その表情にはわずかな緊張があった。
「ご希望に近い結果ですね」
「まだ選抜があるけどね」
「ええ。ですが、ここまで努力されたことは変わりません」
レイブンは、制服の内側から小さな記念章を取り出した。
「それと、学校からコールネームをもらったんだ」
「コールネーム、ですか?」
「うん。NoXっていう名前」
ファニータは記念章を見つめた。
「……素敵な記念ですね」
「まだ正式な部隊の呼び名じゃないけど」
「それでも、学校で過ごされた時間の証でしょう」
レイブンは頷いた。
その隣では、リーナ・リヒターが兄の書類を覗き込もうとしていた。
「ねえ、お兄ちゃん。見せてよ」
「……後で」
「どうして?」
「……まだ説明を読んでる」
「もう三回読んでるじゃない」
カールは返事に困り、レイブンへ視線を向けた。
レイブンは笑いを堪えた。
「リーナさん、もう少し待ってあげて」
「レイブンまでお兄ちゃんの味方なの?」
「そういうわけじゃないけど」
ファニータが穏やかに言った。
「正式な書類ですから、落ち着いて確認する時間も必要でしょう」
リーナは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
「……分かった。じゃあ、あとでちゃんと教えてね」
カールは頷いた。
「……ああ」
そして、少し迷った後で、妹へ記念章を見せた。
「……これも、もらった」
リーナは目を輝かせた。
「KEEPER? お兄ちゃんの名前?」
「……学校から」
「いいじゃない! 私、大事に覚えておくね」
カールは照れくさそうに視線を逸らした。
その時、正門の外から路面電車のベルが聞こえた。
学校の前を通る通りには、いつもより多くの軍用車両が走っている。
交差点では憲兵が交通整理を行い、軍需輸送車両と一般車両を順番に通していた。
向かいの新聞売り場には、新しい夕刊の予告が貼り出されている。
帝国・連邦共和国、国境協議再開の見通し立たず。
北部鉄道、貨物輸送優先による旅客ダイヤ変更。
商店街では、軍需工場からの注文増加を歓迎する店主がいる一方、日用品の仕入れ価格を心配する声も聞こえた。
戦争は、まだ始まっていない。
だが、戦争を恐れる人々の生活は、すでに変わり始めていた。
レイブンは新聞売り場を見つめた。
「……ファニータさん」
「はい」
「北部って、今はどんな様子なんだろう」
ファニータは少し考えた。
「私が確認できた範囲では、鉄道の運行変更や軍施設周辺の警備強化が進んでいます。ただし、地域によって状況は違います」
「そうなんだ」
「新聞に書かれていることが、すべての街で同じように起きているわけではありません」
レイブンは頷いた。
彼女の言葉は、父が教えてくれたこととよく似ていた。
確認できたことと、まだ分からないことを分ける。
それは簡単なようで、案外難しい。
午後二時十一分。
第一教育大隊庁舎、監察連絡室。
ヴァルターは、机を挟んで座る監察担当将校から、一通の書類を受け取っていた。
そこには、昨年十二月に発生した候補生への不適切な指導と、それに伴う教官間の暴力事案について、追加聴取を行う旨が記されていた。
ヴァルターは黙って目を通した。
マティアス・クルーガー大尉による候補生への行為。
そして、それを知った自分がクルーガーを殴打したこと。
両者は、別々の問題として調査されている。
「クロウ少佐。候補生への不当な扱いについては、複数の証言と医療記録の照合が進んでいます」
監察担当将校は、淡々と説明した。
「一方、少佐ご自身の行為についても、職務上の適切性を審査する必要があります」
「承知しています」
ヴァルターは答えた。
「当時の行動について、責任を否定するつもりはありません」
「候補生を守ろうとした動機と、教官への暴力行為が許容されるかどうかは、別の問題です」
「……そのとおりです」
ヴァルターは静かに頷いた。
右腕の魔力再構築部位に、鈍い疲労が残っている。
それは過去の戦場で負った傷の名残だった。
だが、今日の話は戦場の傷ではない。
自分が教官として犯した判断の誤りについてだった。
「必要であれば、再度証言します」
「お願いします」
担当将校は書類を閉じた。
「なお、リヒター候補生本人への追加聴取については、医療担当者と調整します。本人の意思と負担を考慮し、既存の記録で足りる部分は重ねて尋ねません」
ヴァルターは顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。適正な手続きです」
監察担当将校はそう答えた。
部屋を出たヴァルターは、廊下の窓から中庭を見下ろした。
修了した候補生たちが、家族と笑いながら歩いている。
その中に、レイブンたちの姿が見えた。
ヴァルターはしばらく立ち止まった。
自分が彼らへ教えたことは、正しかっただろうか。
軍人としての判断。
命令と責任。
恐怖との向き合い方。
そして、仲間を守るということ。
少なくとも、自分が間違えた時には、それを認める姿を見せなければならない。
ヴァルターは静かに息を吐き、歩き始めた。
午後五時三十六分。
第二候補生宿舎、第三〇七号室。
部屋の中は、朝よりも広く感じられた。
七人の背嚢はほとんど整理され、机の上に積まれていた教本も、指定された箱へ収められている。
壁に掛けていた上着。
寝台の横に置いた軍靴。
誰かが置き忘れた鉛筆。
いつもなら気にも留めないものが、今日は妙に目についた。
ガイルは自分の寝台に腰を下ろしていた。
「……なあ」
フェリックスが顔を向けた。
「今度は何だ?」
「俺たち、記念写真を撮ってなくないか?」
ユリウスが眼鏡を上げた。
「修了式の集合写真なら撮影しましたよ」
「そうじゃなくて、七人だけのやつだ」
ガイルは部屋を見渡した。
「この部屋で、七人揃って」
オスカーが頷いた。
「……確かに」
エミールも微笑んだ。
「いいですね」
カールは少し考えた。
「……撮るなら、今しかないかもしれない」
レイブンは机の引き出しを開けた。
中には、入校時から使っていた小さな筆記具と、ルナから贈られた黒革の手帳が入っている。
その横に、簡易写真機の貸出申請書があった。
「学校の記録係に頼めば、撮ってもらえると思う」
ガイルの顔が明るくなった。
「よし、決まりだ!」
しばらくして、宿舎の廊下に七人が並んだ。
記録係の候補生が写真機を構え、レンズの位置を調整している。
ガイルは自分の記念章を胸元に付けようとしたが、ユリウスに止められた。
「制服への取り付けは、許可された位置だけですよ」
「……じゃあ、手に持つ」
「それなら構いません」
ほかの六人も、それぞれの記念章を手に取った。
「もう少し中央へ寄ってください」
ガイルがレイブンの肩を抱いた。
「ほら、こっち来い!」
「ちょっと、近いよ」
「いいだろ、記念なんだから」
フェリックスが反対側から顔を出した。
「俺も入れてくれよ!」
「お前は最初から入ってるだろ」
オスカーが呆れたように言った。
ユリウスは制服の襟を整え、エミールはカールの肩へそっと手を置いた。
カールは少し戸惑ったが、逃げることはなかった。
記録係が声を掛けた。
「撮りますよ。動かないでください」
ガイルが笑った。
「全員、いい顔しろよ!」
「お前が一番動いてる!」
フェリックスの声が重なった。
そして、シャッターが切られた。
七人の笑顔が、一枚の写真に収められた。
その写真が、彼らにとってどれほど大切なものになるのか。
この時は、まだ誰も知らなかった。
午後八時四十四分。
第三〇七号室。
消灯前の静かな時間が訪れていた。
ガイルは寝台に横になり、天井を見つめている。
フェリックスは翌日の移動準備について何かを呟き、オスカーに「もう寝ろ」と言われていた。
ユリウスは最後の書類確認を終え、眼鏡を外した。
エミールは窓の鍵を確かめ、カールは自分の荷物を寝台の下へ収めた。
レイブンは机に向かい、黒革の手帳を開いていた。
月と鴉の意匠が刻まれた万年筆を手に取る。
今日の日付を書き、その下へゆっくりと文章を綴った。
志願兵教育課程を修了した。
七人全員が修了できた。
今日、学校からNoXというコールネームをもらった。
ガイルはHOUND、オスカーはGRIZZLY、ユリウスはCIPHER、エミールはSAGE、フェリックスはLYNX、カールはKEEPER。
これから先、別々の道へ進むかもしれない。
それでも、ここで出会ったことは忘れたくない。
レイブンは筆を止めた。
その時、背後からガイルの声が聞こえた。
「……レイブン」
「何?」
「お前、北部に行くことになったらさ」
「うん」
「また一緒に訓練しようぜ」
レイブンは振り返った。
ガイルは天井を見つめたまま、続けた。
「別の班でも、別の中隊でもいい。どっかで会ったら、また勝負しよう」
レイブンは微笑んだ。
「もちろん」
「今度は、俺が勝つからな」
「何の勝負?」
「……何でもだ」
フェリックスが毛布の中から笑った。
「じゃあ、書類整理で勝負しろよ」
「それは嫌だ!」
ユリウスが静かに答えた。
「勝負になりませんからね」
部屋に笑い声が広がった。
やがて、カールが口を開いた。
「……俺は」
六人が顔を向けた。
カールは少しだけ視線を落とした。
「……ここに来たばかりの頃、軍を辞めることばかり考えてた」
誰も茶化さなかった。
「……自分には向いてないと思ってたし、誰も信用できなかった」
彼は、ガイルを見た。
次に、レイブン。
そして、ほかの四人へ視線を向けた。
「……でも、今は違う」
エミールが穏やかに尋ねた。
「どう違うんですか?」
カールは少し考えた。
「……自分で、次の場所へ行ってみたいと思ってる」
レイブンは静かに微笑んだ。
ガイルは寝台から上体を起こした。
「……そっか」
そして、いつもの大きな声ではなく、落ち着いた声で言った。
「よかったな、カール」
カールは頷いた。
「……ああ」
その時、宿舎の消灯予告が鳴った。
七人はそれぞれの寝台へ戻った。
レイブンは手帳を閉じ、机の引き出しへ収めた。
そして、今日受け取った小さな記念章を、枕元に置いた。
NoX。
まだ、誰かにその名で呼ばれることには慣れていない。
けれど、その名を受け取った時の教官の言葉は、はっきりと覚えていた。
無名であることと、責任を負わないことは違う。
レイブンは、記念章をもう一度見つめた。
窓の外では、春の夜風が木々の枝を揺らしている。
遠くの鉄道線路から、貨物列車の長い汽笛が聞こえた。
北へ向かう列車だろうか。
それとも、国境警備部隊へ物資を運ぶ軍用列車だろうか。
レイブンには分からなかった。
ただ、その音が、これから自分の向かう場所とどこかで繋がっているように感じられた。
帝政歴三四四年三月三十日。
七人は、志願兵教育課程を修了し、新兵となったばかりの若者だった。
まだ戦争を知らず、まだ多くの別れを知らない。
しかし、彼らが学んだことは、射撃や行軍だけではなかった。
恐怖を認めること。
誤りを正すこと。
仲間を信じること。
そして、誰かと再び会うために、生きて帰ること。
消灯した第三〇七号室で、レイブンは静かに目を閉じた。
北へ向かう辞令が正式に届くのは、まだ先のことだった。
その先で新しい仲間と出会い、やがて帝国全土を揺るがす戦争へ巻き込まれることになるなど、この夜の彼には知る由もなかった。
それでも、確かなことが一つだけあった。
第三〇七号室で過ごした日々は、これからどれほど遠くへ進もうとも、決して消えることはない。
そして、学校から贈られた七つの名もまた、それぞれが歩む未来へと持ち運ばれていくのだった。




