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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第59話 戦争を知る父、戦争を知らぬ息子たち

第59話 戦争を知る父、戦争を知らぬ息子たち


 帝政歴三四三年、十二月十六日。

午前六時四十八分。

帝国陸軍中央志願兵教育学校、第二候補生宿舎。

冬の朝は、まだ薄暗かった。

第三〇七号室の窓には白い霜が張りつき、遠くの街並みは灰色の雲に覆われている。昨夜の降雪は明け方には止んでいたものの、校庭には雪が残り、除雪車の走行音が時折聞こえていた。

レイブン・S・クロウは制服の襟元を整えながら、机の上に置かれた手帳を閉じた。

昨夜は、いつもより少し遅くまで起きていた。

理由は、窓の外から聞こえてきた列車の音だった。

普段なら夜間に貨物列車が通ることなど珍しくない。しかし昨夜は、長い編成が何度も通過し、時折、金属同士がぶつかるような重い音が響いていた。

そのことを思い出していると、隣の寝台からガイル・ベッカーの声が聞こえた。

「なあ、レイブン。昨日の夜、列車の音、聞こえたか?」

「うん。何度も通ってたね」

「だよな。俺、途中で目が覚めたんだ」

オスカー・グラーフが軍靴の紐を締めながら答えた。

「軍用貨物列車かもしれないな」

「軍用?」

フェリックス・ブラントが顔を上げた。

「何でそう思うんだ?」

「父親が鉄道輸送の仕事をしてた時期があるんだ。車両の連結音が、普段の貨物列車とは少し違って聞こえた」

オスカーは少し考えた。

「ただ、音だけで何を運んでるかまでは分からん」

ユリウス・ヴェーバーが眼鏡を掛けながら頷いた。

「最近、鉄道輸送の優先順位が変更されているという記事を見ました。軍需物資の輸送枠が増えているそうです」

「……軍需物資?」

ガイルの犬耳がわずかに動いた。

エミール・シュナイダーが静かに答えた。

「国境の情勢が悪化しているからでしょうか」

部屋の奥で、カール・リヒターが制服の袖を通す手を止めた。

「……昨日、リーナも言ってた」

レイブンが顔を向ける。

「何を?」

「……街の商店で、保存食を買う人が増えてるって」

カールは少し間を置いた。

「妹が昨日、買い物の手伝いに行った時、店の人から聞いたらしい」

フェリックスは小さく息を吐いた。

「……何だか、嫌な感じだな」

レイブンは窓の外へ目を向けた。

雪に覆われた校庭の向こうで、軍用車両が一台、管理棟へ向かって走っていった。

普段と変わらない朝のはずだった。

それでも、何かが少しずつ変わり始めている。

そんな気がしていた。

午前七時三十六分。

第二候補生宿舎、食堂。

食堂の入口には、数紙の新聞が置かれていた。

普段なら候補生たちは訓練予定や食事の話をしながら通り過ぎる場所だったが、今日は新聞台の前に人だかりができていた。

ガイルが足を止めた。

「……何だ?」

レイブンも近づいた。

新聞の一面には、大きな見出しが印刷されていた。

『帝国・連邦共和国間の軍事緊張、再び激化』

その下には、さらに小さな見出しが並んでいる。

『国境監視部隊の増強を確認』

『外交協議、実質的な進展なし』

『連邦共和国、帝国の軍事演習を強く非難』

『帝国政府、国境警備強化は防衛措置と説明』

レイブンは記事を読み進めた。

両国の代表団は、国境地帯での偶発的な衝突を防ぐため、軍事行動の制限や監視制度について協議を続けていた。

しかし、互いに相手側の部隊移動を問題視し、協議は繰り返し中断されている。

かつての国境事件後に成立した停戦・衝突防止の取り決めについても、その実効性を疑問視する声が強まっていた。

現時点で、両国が全面戦争に突入したわけではない。

だが、新聞の論調は明らかに変わっていた。

これまで使われていた『緊張緩和への期待』という言葉は、ほとんど見当たらない。

代わりに並ぶのは、『警戒』『動員』『国境』『軍事的対抗措置』という文字だった。

「……停戦交渉って、まだ続いてるんだよな?」

ガイルが尋ねた。

ユリウスは記事の下段を指さした。

「形式上は継続しています。ただ、次回協議の日程も決まっていないようです」

オスカーが低い声で言った。

「……話し合いをしてる間に、双方が兵を増やしてるのか」

エミールは新聞を見つめていた。

「戦争にならなければいいんですが……」

その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。

午前八時五十五分。

帝国陸軍中央志願兵教育学校、第三中隊教官室。

ヴァルター・A・クロウ少佐は、机の上に広げられた訓練計画書を確認していた。

昨日の冬季行軍訓練では、候補生たちに大きな負傷者は出なかった。カールの段階的な訓練復帰も、医務室の報告では順調とされている。

しかし、今日の教官室には普段とは異なる空気が漂っていた。

壁際では、二人の教官が新聞を読みながら小声で話している。

「……また協議が中断されたそうだ」

「今度は国境監視区域への立ち入りを巡って揉めたらしい」

「連邦共和国側は帝国軍の演習中止を求め、こちらは向こうの増援部隊の撤収を要求している」

「どちらも引かないだろうな」

ヴァルターは書類をめくる手を止めた。

教官の一人が、低い声で続けた。

「……停戦交渉なんて、もう意味を持っていないんじゃないか?」

その言葉に、ヴァルターの表情が変わった。

彼はゆっくりと顔を上げた。

「……交渉そのものに意味がないとは、まだ言い切れん」

二人の教官が振り返った。

「クロウ少佐」

ヴァルターは椅子から立ち上がった。

「たとえ成果が乏しくても、交渉の窓口が残っている限り、偶発的な衝突を防ぐ可能性はある」

年配の教官が頷いた。

「……確かに、そのとおりです。しかし、現場の部隊がそれを信じているかどうかは別問題でしょう」

「そうだな」

ヴァルターは静かに答えた。

「そこが、最も危険なところだ」

教官室の扉が開いた。

教育主任の中佐が、数枚の資料を手に入室してきた。

「各教官、少し時間をもらう」

室内の教官たちが姿勢を正した。

中佐は資料を机へ置いた。

「参謀本部から、教育機関向けの情勢説明が届いた」

ヴァルターは資料へ目を向けた。

「国境地域では、両国の警戒部隊が増強されている。帝国側でも、補給輸送の優先順位変更と予備役の連絡体制確認が進められている」

中佐は続けた。

「ただし、現時点で全面動員令が発令されたわけではない。候補生の教育課程も、原則として予定どおり継続する」

一人の教官が尋ねた。

「教育期間の短縮について、検討はあるのでしょうか」

「現時点で正式な指示はない」

中佐は即答した。

「噂だけで教育内容を変更することは認めない。特に、未熟な候補生を必要以上に追い込むようなことがあってはならん」

ヴァルターは静かに頷いた。

中佐は資料を閉じた。

「それから、候補生たちも新聞を読んでいる。家族が国境地域に住んでいる者もいるだろう。質問や不安を訴える者がいれば、事実を確認したうえで対応してほしい」

「了解しました」

教官たちの返事が揃った。

会議が終わった後も、ヴァルターはしばらく資料を見つめていた。

その視線は、国境部隊の配置図へ向けられている。

彼はかつて、同じような地図を何度も見たことがあった。

小さな国境事件。

局地的な武力衝突。

異界門周辺での戦闘。

地図上では数本の線と記号で表される出来事が、現場ではどれほど多くの人間の人生を変えてしまうのか。

ヴァルターは、それを知っていた。

午前十一時四十八分。

帝国陸軍中央志願兵教育学校、第二講義室。

午前の訓練を終えた候補生たちは、昼食前の短い休憩時間を過ごしていた。

レイブンは窓際の席で、朝の新聞を読み返していた。

そこへガイルが近づいてきた。

「……まだ読んでるのか?」

「うん。少し気になることがあって」

「何だ?」

「この記事」

レイブンは紙面の一角を指さした。

そこには、国境地域の民間鉄道輸送についての記事が掲載されていた。

軍用列車の増加に伴い、一部の旅客列車で時刻変更が発生しているという。

また、国境に近い地域では、住民向けの避難経路確認や防災用品の備蓄が進められていた。

「……軍だけじゃないんだね」

レイブンが呟いた。

ガイルは記事を覗き込んだ。

「……そうだな」

オスカーが近づいてきた。

「うちの親父も、最近は鉄道の仕事が忙しいって言ってた」

「軍需輸送?」

「詳しいことは聞いてない。ただ、整備する車両が増えてるらしい」

ユリウスも会話に加わった。

「通信設備の点検も増えているそうです。父の知人が通信関係の仕事をしているんですが、非常時の回線確保について確認が行われていると聞きました」

エミールは少し心配そうに言った。

「病院でも、非常用の医療用品を増やしているところがあるみたいですね」

フェリックスは窓の外を眺めた。

「……何だか、街全体が戦争の準備をしてるみたいだな」

その言葉に、レイブンは黙った。

戦争。

新聞では何度も目にする言葉だった。

父からも、過去の戦闘について話を聞いたことがある。

しかし、自分自身が経験したことはない。

銃声が響く戦場。

砲弾が落ちる街。

負傷した兵士。

家族を失う人々。

知識としては理解しているつもりだった。

それでも、その現実をどこまで想像できているのか、レイブンには分からなかった。

午後三時四十二分。

帝国陸軍中央志願兵教育学校、管理棟。

ヴァルターは、午後の訓練報告を終えた後、教官室へ戻っていた。

窓の外には、雪に覆われた校庭が広がっている。

机の上には、今日届いた国境情勢の資料が置かれていた。

彼はその一枚を手に取った。

国境警備部隊の増強。

輸送網の再編。

軍需生産の優先順位変更。

民間防衛計画の確認。

それぞれは、まだ戦争そのものを意味するものではない。

しかし、すべてが同じ方向へ動き始めているように見えた。

ヴァルターは資料を置き、椅子の背もたれへ身体を預けた。

右腕の魔力義肢が、小さく駆動音を立てた。

彼はその音を聞きながら、かつての戦場を思い出していた。

帝政歴三三四年。

異界門周辺で発生した戦闘。

あの日、彼は右腕を失った。

しかし、失ったものは腕だけではなかった。

仲間の負傷。

部隊の混乱。

撤収できなかった装備。

そして、戦闘が終わった後も残り続ける記憶。

ヴァルターは目を閉じた。

戦場を知らない若者たちに、何を教えるべきなのか。

射撃技術か。

戦術か。

装備の扱い方か。

もちろん、それらは必要だ。

だが、それだけでは足りない。

戦場で何が起こるのか。

なぜ判断を誤るのか。

仲間を失うとは、どういうことなのか。

そして、生きて帰ることが、どれほど大切なのか。

ヴァルターはゆっくりと目を開いた。

「……話しておくべきだな」

彼はそう呟いた。

午後六時五十八分。

第二候補生宿舎、生活支援室。

夕食を終えた七人は、ファニータとリーナのもとを訪れていた。

リーナは机の上に新聞を広げ、少し難しい顔をしていた。

「……また、国境の話ですね」

カールが顔を向けた。

「……何かあったのか?」

「今日、街で買い物をしてきたんだけど……」

リーナは少し間を置いた。

「保存食とか、乾電池とか、毛布を買う人が増えてたの」

フェリックスが尋ねた。

「そんなに?」

「うん。お店の人も、最近は入荷した商品がすぐ売れるって言ってた」

ファニータは静かに頷いた。

「一部の商店では、供給が不安定になることを心配しているようでございます」

レイブンは顔を上げた。

「……ファニータさんも、何か聞いたんですか?」

「はい。生活用品の調達先から、輸送日程が変更される可能性があると連絡を受けました」

ガイルは少し眉を寄せた。

「……戦争になるのかな」

その言葉に、部屋の空気が静かになった。

リーナはカールの顔を見た。

カールは何も言わなかった。

ファニータは少し考えてから答えた。

「……私には、断言できません」

そして、七人を見渡した。

「ただ、不安だからこそ、確認できる情報と噂を区別することが大切でございます」

ユリウスが頷いた。

「そうですね」

ファニータは続けた。

「皆様は、まだ教育課程の途中です。今できることを、一つずつ確実に身につけてくださいませ」

レイブンは静かに頷いた。

「……はい」

午後八時十一分。

第二候補生宿舎、第三〇七号室。

七人は、翌日の訓練準備を終え、それぞれの机で過ごしていた。

ガイルは教本を開いていたが、どこか集中できない様子だった。

オスカーは軍靴の手入れをしている。

ユリウスは通信の基礎資料を読み、フェリックスは故郷から届いた手紙を眺めていた。

エミールは救護用品の説明書を確認している。

カールは机に向かい、今日の訓練記録を整理していた。

レイブンは黒革の手帳を開いていたが、まだ何も書いていなかった。

その時、扉が三度、静かに叩かれた。

「……入ってもいいか」

聞き慣れた声だった。

レイブンが顔を上げた。

「……父さん?」

扉が開いた。

そこには、ヴァルター・A・クロウ少佐が立っていた。

しかし、いつものような教官としての厳しい表情ではなかった。

軍服の上着は脱ぎ、落ち着いた色のシャツとズボンを身につけている。

右腕の魔力義肢も、普段より簡素な外装になっていた。

ガイルが慌てて立ち上がろうとした。

「少佐!」

ヴァルターは片手を上げた。

「そのままでいい」

七人は顔を見合わせた。

ヴァルターは穏やかに微笑んだ。

「今夜は教官としてではなく、レイブンの父親として来た」

レイブンは少し驚いた。

「……父さん?」

「少し、話をしてもいいか」

オスカーが頷いた。

「もちろんです」

ヴァルターは椅子を一つ借り、七人の前へ座った。

しばらく、部屋の中には静かな時間が流れた。

ヴァルターは七人の顔を見渡した。

「……今日の新聞を読んだか」

ガイルが頷いた。

「はい」

ユリウスも答えた。

「国境情勢についての記事ですね」

「そうだ」

ヴァルターは静かに頷いた。

「今、帝国と連邦共和国の関係は、非常に不安定になっている」

レイブンは父の顔を見つめた。

ヴァルターは続けた。

「外交交渉は続いているが、双方の主張は大きく隔たっている。軍も、万が一に備えた準備を進めている」

ガイルが尋ねた。

「……戦争になるんでしょうか」

ヴァルターはすぐには答えなかった。

少し考えた後、静かに口を開いた。

「……分からない」

七人は黙って聞いていた。

「戦争を避けようとする者もいる。だが、軍事的な対立を強めようとする者もいる。国家の判断は、私一人に分かるほど単純なものではない」

ヴァルターは右腕へ視線を落とした。

「ただ、一つだけ言えることがある」

レイブンは息を呑んだ。

「……戦争が始まれば、新聞に書かれているような言葉だけでは済まなくなる」

部屋の空気が変わった。

ヴァルターは静かに続けた。

「私は、これまで何度か実戦を経験している」

オスカーが姿勢を正した。

ヴァルターは少し間を置いた。

「今日は、その話をしようと思う」

午後八時二十七分。

第三〇七号室。

ヴァルターは、七人の前でゆっくりと話し始めた。

「最初に覚えておいてほしい。実戦は、訓練のようには進まない」

ガイルが顔を上げた。

「……どういうことですか?」

「訓練では、目的が決められ、教官が状況を管理している。危険が大きくなれば中止できる。しかし、実戦ではそうはいかない」

ヴァルターは静かに続けた。

「情報が間違っていることもある。通信が途切れることもある。味方が予定どおり動けないこともある」

ユリウスが真剣に聞いていた。

「……通信が途切れた場合、どうするんですか?」

「状況による。事前に定めた行動基準に従うこともあれば、現場の指揮官が判断しなければならないこともある」

ヴァルターは少し考えた。

「私が若い頃、国境付近で警戒任務に就いていた時のことだ」

七人は静かに耳を傾けた。

「その日は、霧が濃かった。視界が悪く、部隊同士の位置関係も把握しにくかった」

ヴァルターは窓の外を見た。

「そんな中で、前方から銃声が聞こえた」

ガイルが息を呑んだ。

「……敵ですか?」

「そう思った者もいた」

ヴァルターは頷いた。

「だが、実際には、近くにいた別の警戒部隊が誤って発砲した可能性があった。状況が確認できないまま応射していれば、味方同士で撃ち合っていたかもしれない」

ユリウスが小さく呟いた。

「……誤認ですか」

「そうだ」

ヴァルターは続けた。

「戦場では、敵を見つけることだけが重要なのではない。撃ってはいけない相手を、撃たない判断も必要になる」

レイブンは静かに頷いた。

父の言葉は、訓練で聞く説明とは少し違っていた。

教本に書かれた規則の向こう側に、実際の人間の命がある。

そのことが、少しずつ伝わってきた。

午後八時四十三分。

第三〇七号室。

ヴァルターは二つ目の話を始めた。

「……次は、負傷者の話だ」

エミールが顔を上げた。

「負傷者、ですか」

「ああ」

ヴァルターは静かに頷いた。

「ある任務で、私の部隊は負傷した兵士を後方へ搬送することになった」

部屋は静まり返っていた。

「その兵士は、足を負傷していた。自力で歩くことは難しかったが、意識はあった」

ヴァルターは少し間を置いた。

「当時、部隊は予定より遅れていた。周囲の状況も不安定で、早く移動しなければならなかった」

オスカーが尋ねた。

「……置いていくという判断も、あり得たんですか?」

ヴァルターは静かに答えた。

「戦場では、そうした厳しい判断を迫られることもある」

七人は黙った。

「だが、その時は搬送できると判断した。部隊の速度を落とし、交代で負傷者を運んだ」

エミールは真剣に聞いていた。

「……助かったんですか?」

ヴァルターは頷いた。

「ああ。後方の医療施設へ引き渡すことができた」

エミールは小さく息を吐いた。

しかし、ヴァルターは続けた。

「ただし、毎回そうできるとは限らない。だからこそ、負傷者を出さないための準備と、負傷した時に適切な救護を受けられる体制が重要になる」

エミールは静かに頷いた。

「……はい」

ヴァルターは彼へ目を向けた。

「シュナイダー候補生。衛生科を希望しているそうだな」

「はい」

「なら、覚えておいてほしい。救護は勇気だけではできない。知識と訓練、そして冷静さが必要だ」

エミールは背筋を伸ばした。

「……分かりました」

午後九時零二分。

第三〇七号室。

ヴァルターは、しばらく黙っていた。

七人も、次の言葉を待っていた。

やがて、彼は右腕の魔力義肢へ視線を落とした。

「……最後に、私自身の話をしよう」

レイブンは父の右腕を見た。

ヴァルターはゆっくりと袖をまくった。

そこには、魔力によって駆動する義肢の接続部があった。

金属と魔導素材が組み合わされた構造は、通常の人間の腕とは明らかに異なる。

ガイルは息を呑んだ。

フェリックスも、言葉を失っていた。

ヴァルターは静かに話し始めた。

「帝政歴三三四年。私は、異界門周辺で発生した戦闘に参加した」

レイブンは、その年を知っていた。

父が右腕を失った年だった。

「当時、私たちは異界門周辺の状況を確認し、必要に応じて部隊を撤収させる任務を受けていた」

ヴァルターは少し間を置いた。

「しかし、現場の状況は想定より悪かった」

カールが静かに尋ねた。

「……何があったんですか?」

「敵性存在との接触が発生した。部隊は応戦しながら、撤収の準備を進めた」

ヴァルターは右腕へ視線を落とした。

「その時、私は判断を誤った」

レイブンは驚いた。

父が、自分の判断を誤りだったと語るのを、ほとんど聞いたことがなかった。

ヴァルターは続けた。

「状況を把握しきれないまま、危険な位置へ進みすぎた。部隊の動きを確認することに意識を向け、周囲の変化への対応が遅れた」

七人は黙って聞いていた。

「その結果、私は右腕を失った」

ヴァルターは義肢の指をゆっくり動かした。

小さな駆動音が、静かな部屋に響いた。

「……痛かったんですか?」

ガイルが思わず尋ねた。

ヴァルターは少し考えた。

「……ああ」

その返事は短かった。

「だが、最初に感じたのは痛みだけではなかった」

レイブンは父の顔を見つめた。

「……何?」

「恐怖だ」

ヴァルターは静かに答えた。

「自分が死ぬかもしれないという恐怖。部下を置いていくことになるかもしれないという恐怖。そして、家族のもとへ帰れないかもしれないという恐怖だ」

レイブンは息を呑んだ。

ヴァルターは息子へ目を向けた。

「……あの時、私はお前たちのことを考えていた」

レイブンの喉が小さく動いた。

「……俺たち?」

「ああ。セレナと、お前と、ルナだ」

ヴァルターは静かに頷いた。

「お前はまだ幼かった。ルナも小さかった。私は、二人の成長を見届けられないかもしれないと思った」

レイブンは何も言えなかった。

父は、これまで何度も右腕のことを話してくれた。

しかし、その時に何を考えていたのかを、ここまで詳しく聞いたことはなかった。

ヴァルターは続けた。

「私は、仲間に助けられた」

その声は、少しだけ柔らかくなった。

「負傷した私を、部下たちが安全な場所まで運んでくれた。医療担当者が処置を行い、後方へ搬送してくれた」

エミールは静かに聞いていた。

「……その後、義肢を?」

「ああ。治療と長いリハビリを経て、今の腕を使えるようになった」

ヴァルターは右手を開いた。

「だが、以前とまったく同じではない。できることもあれば、できなくなったこともある」

オスカーが尋ねた。

「……それでも、軍へ戻ろうと思ったんですか?」

ヴァルターは頷いた。

「……ああ」

そして、七人を見渡した。

「自分が経験したことを、次の世代へ伝えたいと思ったからだ」

レイブンは静かに父を見つめた。

ヴァルターは続けた。

「私は、諸君に英雄になれとは言わない」

その言葉に、七人は顔を上げた。

「戦場で勇敢に戦うことは、時に必要だ。だが、無謀な行動を勇気と勘違いしてはいけない」

ヴァルターは静かに続けた。

「生きて帰ること。仲間を守ること。命令を理解し、必要な時には疑問を確認すること。そして、自分の判断が間違っていたと気づいたら、修正すること」

彼は一人ずつ、七人の顔を見た。

「……それが、私の考える軍人の強さだ」

部屋は静まり返っていた。

午後九時十九分。

第三〇七号室。

ヴァルターは袖を下ろし、椅子から立ち上がった。

「……少し長く話しすぎたな」

ガイルが慌てて首を振った。

「いえ!」

オスカーも頷いた。

「……とても勉強になりました」

ユリウスは静かに言った。

「教本では分からないことが、たくさんありました」

エミールも頷いた。

「……僕、もっと救護について勉強したいです」

フェリックスは少し考えてから口を開いた。

「……俺、戦争って、もっと遠い話だと思ってました」

ヴァルターは静かに頷いた。

「そう思うのも無理はない」

カールが顔を上げた。

「……少佐」

「何だ」

「……怖いと思っても、軍人になれるんでしょうか」

ヴァルターは少し驚いたようにカールを見た。

そして、穏やかに答えた。

「……なれる」

カールは息を呑んだ。

「恐怖を感じない人間など、ほとんどいない。大切なのは、その恐怖を理解し、必要な判断を下せるようになることだ」

ヴァルターは続けた。

「そして、どうしても耐えられない時には、助けを求めてもいい」

カールは静かに頷いた。

「……ありがとうございます」

ヴァルターは微笑んだ。

その時、レイブンが口を開いた。

「……父さん」

「何だ?」

「……話してくれて、ありがとう」

ヴァルターは息子を見た。

レイブンは少し言葉を探した。

「俺、父さんの右腕のことは知ってた。でも、あの時、そんなことを考えてたなんて知らなかった」

ヴァルターは静かに頷いた。

「……そうだな」

「……怖かったんだね」

ヴァルターは少し笑った。

「ああ。今でも思い出すことはある」

レイブンは父の顔を見つめた。

「……それでも、帰ってきてくれてよかった」

その言葉に、ヴァルターはしばらく黙った。

そして、ゆっくりと頷いた。

「……私も、帰ってこられてよかったと思っている」

レイブンは微笑んだ。

ヴァルターは七人を見渡した。

「諸君。明日も訓練がある。今日は、しっかり休め」

「はい!」

七人の返事が揃った。

ヴァルターは扉へ向かった。

しかし、出ていく直前に足を止めた。

「……それから」

七人が顔を上げた。

「戦争が始まるかどうかは、まだ分からない」

ヴァルターは静かに続けた。

「だが、もし始まったとしても、諸君が今すぐ戦場へ行くわけではない。教育課程には意味がある。焦って先へ進もうとするな」

ガイルが頷いた。

「了解しました」

ヴァルターは微笑んだ。

「……おやすみ」

「おやすみなさい!」

扉が静かに閉じられた。

午後九時三十二分。

第三〇七号室。

ヴァルターが去った後も、七人はしばらく黙っていた。

最初に口を開いたのは、ガイルだった。

「……なあ」

レイブンが顔を向けた。

「何?」

「……お前の父さん、すごい人だな」

レイブンは少し考えた。

「……うん」

ガイルは続けた。

「でも、何ていうか……」

「うん?」

「……ちゃんと怖いって言ってくれたのが、少し安心した」

オスカーが頷いた。

「分かる」

ユリウスも静かに答えた。

「経験のある軍人でも、恐怖を感じるんですね」

エミールは少し考えた。

「……それでも、必要なことを続けてきたんでしょうね」

フェリックスは窓の外を見た。

「……俺、戦争になってほしくないな」

その言葉に、誰も反論しなかった。

カールが静かに答えた。

「……俺もだ」

レイブンは六人を見渡した。

「……俺も」

しばらく、静かな時間が流れた。

やがて、ガイルが口を開いた。

「……でも、もし何かあったら」

レイブンは顔を向けた。

「うん」

「……俺たち、ちゃんと助け合おうな」

レイブンは微笑んだ。

「もちろん」

オスカーも頷いた。

「約束しただろ」

ユリウスが静かに続けた。

「仲間を見捨てない、ですね」

エミールも微笑んだ。

「はい」

フェリックスは笑った。

「忘れるわけないだろ」

カールも頷いた。

「……ああ」

七人は互いの顔を見渡した。

その約束は、以前より少し重みを増していた。

午後九時四十八分。

第三〇七号室。

消灯前。

レイブンは机の前に座り、黒革の手帳を開いていた。

ルナから贈られた万年筆を握り、ゆっくりと文字を書き始める。

『帝政歴三四三年、十二月十六日。

今日は、新聞で帝国と連邦共和国の関係が悪くなっていることを知った。

街でも、戦争に備えるような動きが増えているらしい。

夜、父さんが部屋に来てくれた。

教官としてではなく、父親として。

父さんは、自分が経験した戦闘の話をしてくれた。

通信が途切れること。

判断を間違えること。

負傷した仲間を助けること。

そして、父さんが右腕を失った時のこと。

父さんは、怖かったと言っていた。

俺は、それが少し意外だった。

父さんは、いつも強い人だと思っていたから。

でも、今日の話を聞いて、強いということは怖くないことじゃないんだと思った。

怖くても、仲間を守ろうとすること。

間違いを認めて、次に生かすこと。

そして、生きて帰ること。

俺も、そんな軍人になりたい。

それから、父さんが帰ってきてくれて、本当によかったと思った。

いつか俺も戦場へ行く日が来るかもしれない。

でも、今はまだ分からない。

だから、今できることを学ぼうと思う。』

レイブンは万年筆を置いた。

そして、手帳を閉じた。

窓の外には、冬の夜空が広がっていた。

遠くの街では、まだ明かりが灯っている。

新聞には、国境情勢の悪化が報じられていた。

鉄道は軍需輸送を増やし、商店では保存食が売れ、政府は非常時の備えを進めている。

それでも、街の人々は今日も働き、家族と食事を取り、明日の生活を考えていた。

レイブンは、そのことを静かに思った。

戦争になってほしくない。

その願いは、決して弱さではないのだろう。

隣の寝台では、ガイルが小さく欠伸をしていた。

「……レイブン」

「何?」

「……明日も、よろしくな」

レイブンは微笑んだ。

「……こちらこそ」

その隣で、カールが静かに呟いた。

「……俺も、もっと強くなりたい」

レイブンは顔を向けた。

「うん」

カールは少し考えた。

「……でも、今度は無理をしない」

ガイルが笑った。

「それでいいんだよ!」

七人の間に、小さな笑い声が広がった。

やがて、部屋の明かりが消えた。

帝政歴三四三年、十二月十六日。

帝国と連邦共和国の関係は、少しずつ危険な方向へ傾いていた。

停戦交渉は続いていたが、その言葉は以前ほど人々を安心させなくなっていた。

そして、その夜。

第三〇七号室の七人は、一人の軍人が語った過去の戦闘を通じて、戦争というものを少しだけ現実に近いものとして受け止め始めていた。

彼らはまだ、戦争を知らない。

だが、戦争を知る父の言葉は、確かに七人の胸へ刻まれていた。

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