第58話 雪原の行軍、七人の決意
第58話 雪原の行軍、七人の決意
帝政歴三四三年、十二月十五日。
午前五時三十二分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、第二候補生宿舎。
夜明け前の空は、まだ深い藍色に染まっていた。
窓の外では昨夜から降り続いた雪が校庭を覆い、街灯の下に白い地面が広がっている。風は弱まっていたものの、窓枠には薄い氷が張りつき、建物の外壁を伝う冷気が冬の厳しさを物語っていた。
第三〇七号室では、レイブン・S・クロウが目を覚ましていた。
黒い猫耳が、廊下を歩く当直教官の足音を捉える。
隣の寝台ではガイル・ベッカーが毛布にくるまり、顔だけを出していた。
「……レイブン」
「何?」
「今日、行軍だよな」
「うん。昨日の予定表に書いてあった」
「……雪、積もってるよな」
「積もってるね」
「……中止にならないかな」
レイブンは窓の外を見た。
校庭の積雪は、昨日の夕方より明らかに増えていた。
「天候次第じゃない?」
「そうだよな。安全第一って言ってたもんな」
ガイルは少し期待した表情を浮かべた。
その時、反対側の寝台からオスカー・グラーフの声が聞こえた。
「残念だったな。昨日の通達に、積雪時の行軍訓練って書いてあったぞ」
「……何?」
ガイルは勢いよく身体を起こした。
フェリックス・ブラントが毛布の中から笑った。
「お前、昨日の説明聞いてなかったのか?」
「聞いてたよ! ただ、雪がこんなに積もるとは思わなかったんだ!」
ユリウス・ヴェーバーは眼鏡を掛けながら、枕元の資料を確認した。
「予定では、冬季野外行動の基礎訓練です。積雪路での歩行、寒冷環境での装備管理、班単位の行動確認が中心ですね」
「……つまり、雪の中を歩くってことか」
「そういうことです」
ガイルは深いため息をついた。
その様子を見ていたエミール・シュナイダーが微笑んだ。
「でも、雪の中での行動は普段より体力を使いますから、無理は禁物ですよ」
「分かってるって」
「特に足先の冷えには気をつけてください。感覚が鈍くなったら、早めに報告することが大切です」
「……お前、もう衛生兵みたいだな」
ガイルが笑うと、エミールも少し照れくさそうに笑った。
レイブンは部屋の奥へ視線を向けた。
カール・リヒターは、すでに寝台から起き上がっていた。
制服の袖を通しながら、机の上に置かれた医務室の書類を確認している。
「カール、今日はどうするの?」
レイブンが尋ねると、カールは顔を上げた。
「……医師から、軽い訓練なら参加していいって言われた」
「行軍も?」
「……全行程はまだ駄目だ。途中の確認地点までなら、教官の判断で参加できるらしい」
エミールが頷いた。
「段階的な復帰ですね」
「……ああ」
カールは少し間を置いた。
「……正直、まだ不安はある」
レイブンは静かに頷いた。
「うん」
「でも、少しずつ戻りたい」
ガイルが笑った。
「じゃあ、今日は一緒に歩けるな!」
カールは小さく微笑んだ。
「……そうだな」
やがて起床の鐘が鳴り、七人は冬季訓練の準備を始めた。
午前六時五十八分。
第二候補生宿舎、装備点検室。
候補生たちは、冬季行軍用の装備を受け取っていた。
防寒服、手袋、保温性のある靴下、滑りにくい靴底を備えた軍靴、雨雪を防ぐ外装、個人用水筒、携行食、救急用品。
各候補生には、体格に応じて調整された背嚢が配られている。
ガイルは背嚢を肩へ掛け、少し驚いた顔をした。
「……思ったより重いな」
オスカーが隣で肩紐を調整した。
「雪道じゃ、普段より負担が大きいだろうな」
「お前は余裕そうだな」
「余裕じゃない。背負い方を調整してるだけだ」
オスカーはそう言って、腰の固定具を締め直した。
ユリウスは装備一覧表を見ながら、一つずつ確認していた。
「予備手袋、あります。防寒帽、あります。水筒、あります……」
フェリックスが笑った。
「お前、全部声に出すのか?」
「忘れ物を防ぐためです」
「なるほどな」
フェリックスは自分の背嚢を開き、慌てて予備靴下を取り出した。
「……危なかった。俺、これ忘れるところだった」
ユリウスは少し得意そうに微笑んだ。
「確認は大切でしょう?」
「……はい、先生」
その会話を聞いていたレイブンは、自分の装備を点検していた。
猫耳を保護する形状の防寒帽は、通常のものより少し複雑な構造になっている。耳の位置に合わせた内張りがあり、寒気を防ぎながら周囲の音もある程度聞き取れるよう調整されていた。
もっとも、防寒性を優先すれば聴覚は制限される。
レイブンは帽子を被り、首を動かして装着状態を確かめた。
「……大丈夫そうだ」
ガイルが横から覗き込んだ。
「お前、その帽子、耳のところどうなってるんだ?」
「内側に保護材が入ってる。耳が押し潰されないようになってるんだ」
「へえ。俺のも似たような仕組みだな」
ガイルは自分の犬耳を動かした。
「でも、長時間被ってると蒸れるんだよな」
レイブンは笑った。
「分かるよ」
その時、装備点検室の入口から声が響いた。
「候補生諸君、点検を開始する!」
ヴァルター・A・クロウ少佐が入室した。
候補生たちは姿勢を正した。
ヴァルターは全員を見渡した。
「本日の訓練は、冬季野外行動の基礎確認だ。目的は速さを競うことではない。寒冷環境で安全に移動し、班の状態を把握しながら行動することにある」
教官が点検表を持って列の前へ進んだ。
「装備不備、体調不良、痛み、違和感がある者は申告しろ。隠して参加することは認めない」
ヴァルターの視線が、カールへ向いた。
「リヒター候補生」
「はい!」
「本日の参加範囲は、医務室の指示に従う。途中で体調に変化があれば、直ちに報告すること」
「了解しました!」
「無理に他の候補生と同じ行程を進む必要はない」
「……はい」
カールは少し緊張した表情を見せたが、すぐに頷いた。
ヴァルターは全員へ視線を戻した。
「それでは、装備点検を開始する」
午前八時十二分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、北部演習区域。
雪に覆われた林道へ、候補生たちの隊列が進んでいた。
先頭には教官が配置され、各班は一定の間隔を保ちながら歩いている。
林道の両側には針葉樹が並び、枝に積もった雪が時折、風に揺られて落ちてきた。
レイブンは足元を確かめながら進んでいた。
雪の下には凍結した地面が隠れている。
普段のように歩けば、足を滑らせる危険があった。
「……思ったより歩きにくいな」
ガイルが隣で呟いた。
「雪の下が凍ってる」
レイブンが答える。
「そうなんだよ。足を置く場所を間違えると滑る」
オスカーが後方から声を掛けた。
「歩幅を少し小さくしろ。無理に速く進むな」
「分かってる!」
ガイルは返事をしたが、その直後、足元の雪を踏み抜いた。
「うわっ!」
身体が前へ傾く。
レイブンが反射的に手を伸ばした。
「ガイル!」
しかし、ガイルは自分で体勢を立て直した。
「……危なかった」
オスカーが呆れたように笑った。
「だから言っただろ」
「今のは分かってた!」
「分かってた奴の動きじゃなかったぞ」
フェリックスが笑った。
「ガイル、雪と喧嘩するなよ」
「してねえよ!」
そのやり取りに、周囲の候補生たちからも笑いが漏れた。
レイブンは少し微笑んだ。
だが、視線は常に隊列の前後へ向けていた。
カールは中央付近を歩いている。
歩行速度は安定していたが、時折、足元を慎重に確認していた。
エミールが隣を歩きながら声を掛けた。
「カール君、痛みはありませんか?」
「……今のところ、大丈夫だ」
「寒さで感覚が鈍ることもありますから、気をつけてください」
「……分かってる」
ガイルが振り返った。
「おーい、カール! 大丈夫か?」
「……大丈夫だ!」
カールは少し大きな声で答えた。
ガイルは満足そうに笑った。
午前九時四十六分。
北部演習区域、第一確認地点。
候補生たちは林道脇の開けた場所で停止した。
雪に覆われた広場には、簡易天幕と温かい飲料を用意した補給車両が配置されている。
教官の指示に従い、各班は装備を下ろして休息に入った。
ヴァルターは候補生たちの様子を確認していた。
「各班、人数と体調を報告」
班長役の候補生たちが順番に報告する。
レイブンたちの班では、オスカーが人数を確認した。
「七名、全員確認。リヒター候補生は医務室指定の行程を完了しました」
ヴァルターは頷いた。
「了解した。リヒター候補生は、ここから医療担当者の確認を受け、学校へ戻ること」
カールは少し残念そうな顔をした。
「……了解しました」
ガイルが肩を叩いた。
「よく頑張ったじゃないか」
「……まだ途中だ」
「途中まででも、ちゃんと歩けたんだろ?」
カールは少し考えた。
「……そうだな」
エミールも微笑んだ。
「今日は、それで十分ですよ」
カールは静かに頷いた。
その後、医療担当者による確認が行われた。
体温、手足の感覚、呼吸状態、疲労の程度。
カールは質問に答えながら、身体の状態を伝えた。
医療担当者は記録を確認し、頷いた。
「問題はありません。ただし、今日はここまでにしましょう」
「……はい」
「復帰は段階的に進めます。焦らずに」
カールは少し笑った。
「……分かりました」
やがて、学校へ戻る車両が準備された。
カールは背嚢を肩へ掛け直し、仲間たちを見た。
「……先に戻ってる」
ガイルが手を振った。
「おう! 帰ったら飯でも食おうぜ!」
「……また飯か」
カールは苦笑した。
レイブンも微笑んだ。
「お疲れさま、カール」
「……ああ。お前らも気をつけろ」
車両がゆっくりと走り出した。
カールは窓越しに手を振り、七人の班は一時的に六人となった。
午前十時二十八分。
北部演習区域、第二行軍区間。
林道は、緩やかな登り坂へ変わっていた。
雪の深さが増し、候補生たちの歩行速度は自然と落ちていく。
レイブンは呼吸を整えながら、前方の足跡を追っていた。
背嚢の重さが肩へ掛かり、足を持ち上げるたびに太腿へ負担がかかる。
普段なら問題のない距離でも、雪道では疲労が早く蓄積した。
ガイルは額の汗を拭った。
「……暑いんだか寒いんだか分からなくなってきた」
オスカーが答えた。
「動いてる時は暑い。でも止まれば冷える。だから衣服の調整が必要なんだろ」
「なるほどな」
ユリウスは呼吸を整えながら頷いた。
「汗をかいたまま休憩すると、体温が下がりやすいそうです」
フェリックスが笑った。
「ユリウス、今日も勉強熱心だな」
「大切なことですから」
レイブンは前方の林道へ目を向けた。
雪の表面には、風で作られた小さな波のような模様が広がっている。
遠くでは、別の班が斜面を登っていた。
その時、前方から教官の声が響いた。
「第二小隊、停止!」
候補生たちは順番に立ち止まった。
ヴァルターが隊列の前へ進み、地図を広げた。
「これより、班単位の経路確認訓練を行う。指定された地点まで、地図と方位を確認しながら進め」
教官が地図を配布した。
「各班には監督教官が同行する。安全上の問題が発生した場合は、直ちに訓練を中止する」
レイブンたちは地図を受け取った。
ユリウスが早速、地形を確認した。
「……ここが現在地ですね」
フェリックスが隣から覗き込んだ。
「目的地は?」
「この尾根の向こう側です。ただ、直線で進むと急斜面があります」
オスカーが頷いた。
「なら、林道を迂回した方が安全だな」
ガイルは地図を見つめた。
「……遠回りじゃないか?」
レイブンが答えた。
「でも、雪の斜面を無理に登るよりはいいと思う」
ユリウスも頷いた。
「距離は増えますが、勾配が緩やかです」
ガイルは少し考えた。
「……よし。じゃあ、そっちにしよう」
監督教官が近づいてきた。
「経路は決まったか?」
オスカーが代表して答えた。
「はい。林道を利用し、尾根の北側を迂回します」
教官は地図を確認した。
「理由は?」
「積雪と斜面の勾配を考慮しました。安全に移動できる経路を優先します」
教官は頷いた。
「よろしい。進め」
午前十一時三十八分。
北部演習区域、尾根北側林道。
六人は、雪に覆われた林道を進んでいた。
周囲の木々は次第にまばらになり、遠くの山並みが見え始めている。
空には灰色の雲が広がり、時折、細かな雪が舞っていた。
レイブンは隊列の後方を確認した。
ユリウスの歩行速度が、少し落ちている。
「ユリウス、大丈夫?」
「……はい。ただ、少し足が疲れてきました」
レイブンは頷いた。
「休憩を申告しよう」
「でも、もう少しで目的地ですし……」
「無理して転んだら、余計に時間がかかるよ」
ユリウスは少し考えた。
「……そうですね」
レイブンは監督教官へ報告した。
「教官、班員の疲労が見られます。短時間の休憩を申請します」
教官は隊列を確認した。
「了解した。安全な場所で停止し、全員の状態を確認しろ」
六人は林道脇の平坦な場所へ移動した。
オスカーが周囲を確認し、背嚢を下ろした。
ガイルは水筒を取り出した。
「ほら、ユリウス」
「ありがとうございます」
ユリウスは温かい飲み物を口にした。
フェリックスが笑った。
「お前、地図を見るのは得意だけど、雪道はまだ慣れてないんだな」
ユリウスは苦笑した。
「……そうですね」
レイブンは微笑んだ。
「でも、ユリウスがいなかったら、俺たち、もっと遠回りしてたかもしれない」
オスカーも頷いた。
「得意なことは人それぞれだ」
ガイルは笑った。
「そうそう。だから班なんだろ?」
ユリウスは少し驚いたように顔を上げた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その時、監督教官が声を掛けた。
「候補生諸君、よく聞け」
六人が顔を向けた。
「行軍では、最も速く歩ける者の速度に合わせるのではない。班全体が安全に移動できる速度を維持することが重要だ」
教官は続けた。
「一人が疲労しているなら、班全体で状況を確認する。無理に進ませることが、必ずしも正しい判断とは限らない」
レイブンは頷いた。
「了解しました」
教官は満足そうに頷いた。
「では、休憩を終えたら再出発する」
午後零時二十六分。
北部演習区域、第二確認地点。
六人は、予定された経路を通って目的地へ到着した。
広場には簡易天幕が設置され、補給担当の兵士たちが温かい食事を準備していた。
ガイルはその光景を見た瞬間、顔を輝かせた。
「……飯だ!」
フェリックスが笑った。
「お前、本当に飯のことしか考えてないな」
「腹が減ってるんだから仕方ないだろ!」
オスカーは背嚢を下ろし、肩を回した。
「……さすがに疲れたな」
レイブンも頷いた。
「うん。でも、いい訓練になった」
ユリウスは地図を折り畳みながら微笑んだ。
「予定より少し時間はかかりましたが、安全に到着できましたね」
エミールが頷いた。
「それが一番大切です」
六人は配膳列へ並んだ。
温かいシチューとパン、野菜の煮込み。
冷えた身体に、湯気の立つ食事が染み渡った。
ガイルは一口食べると、大きく息を吐いた。
「……生き返る」
フェリックスが笑った。
「大げさだな」
「いや、本当にそう思うぞ」
レイブンもスプーンを口へ運んだ。
温かい食事は、想像以上にありがたかった。
その時、ヴァルターが近づいてきた。
「諸君、行軍はどうだった」
オスカーが姿勢を正した。
「問題なく到着しました。ただし、途中で班員の疲労が見られたため、休憩を申請しました」
ヴァルターは頷いた。
「適切な判断だ」
ユリウスが少し驚いた顔をした。
ヴァルターは続けた。
「訓練の目的は、無理をして倒れることではない。自分と仲間の状態を把握し、必要な判断を下すことだ」
レイブンは静かに頷いた。
ヴァルターは六人を見渡した。
「午後は帰路の行軍となる。天候の変化に注意しろ」
「了解しました!」
六人の返事が揃った。
午後二時五十六分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、北門。
候補生たちの隊列が、次々と学校へ戻ってきた。
雪は昼過ぎから弱まり、雲の切れ間から淡い陽光が差し込んでいた。
レイブンたち六人も、無事に帰着した。
ガイルは門をくぐると、深く息を吐いた。
「……帰ってきた!」
フェリックスが笑った。
「お疲れさん」
オスカーは背嚢を背負い直した。
「まだ装備点検があるぞ」
「……分かってるよ」
ガイルは少し肩を落とした。
その時、校庭の向こうから声が聞こえた。
「……おーい!」
レイブンが顔を上げた。
そこには、カールが立っていた。
防寒服を着込み、片手を上げている。
ガイルは嬉しそうに手を振った。
「カール!」
六人が近づくと、カールは少し笑った。
「……お帰り」
レイブンも微笑んだ。
「ただいま」
「……どうだった?」
ガイルが即答した。
「寒かった! 疲れた! でも飯は美味かった!」
カールは呆れたように笑った。
「……お前らしいな」
エミールが尋ねた。
「カール君、戻ってから体調はどうでしたか?」
「……問題ない。医務室でも確認してもらった」
「それならよかったです」
カールは少し間を置いた。
「……みんなが戻るまで、少し心配だった」
レイブンは微笑んだ。
「ありがとう」
カールは少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……別に、大したことじゃない」
その様子を見て、ガイルが笑った。
「お前、最近ちょっと素直になったよな」
「……うるさい」
七人の笑い声が、冬の校庭に広がった。
午後五時四十二分。
第二候補生宿舎、第三〇七号室。
夕食を終えた七人は、それぞれ装備を整理していた。
濡れた防寒具は指定された乾燥室へ運び、軍靴は泥と雪を落としてから点検する。
ユリウスは机に向かい、今日の行軍記録をまとめていた。
フェリックスが隣から覗き込んだ。
「お前、また記録してるのか?」
「はい。今日の経路と、休憩を取った地点をまとめています」
「真面目だなあ」
「忘れないうちに書いておきたいんです」
オスカーは軍靴の状態を確認しながら頷いた。
「いいことだ。次の訓練に役立つだろう」
ガイルは寝台へ腰を下ろし、足を伸ばした。
「……明日は筋肉痛だな」
エミールが笑った。
「軽いストレッチをしておいた方がいいですよ」
「……今から?」
「はい」
「……分かったよ」
ガイルは渋々立ち上がった。
レイブンは窓際で、雪に覆われた校庭を眺めていた。
その隣へ、カールが歩いてきた。
「……レイブン」
「何?」
「……今日、途中までしか歩けなかったけど」
レイブンは顔を向けた。
「うん」
「……前より、少し自信が戻った気がする」
レイブンは微笑んだ。
「それはよかった」
カールは窓の外を見つめた。
「……まだ怖いこともある。でも、もう逃げたくない」
レイブンは静かに答えた。
「逃げたくなる時があってもいいと思うよ」
カールは少し驚いた顔をした。
「……え?」
「怖い時に、無理して平気なふりをしなくてもいいってこと」
レイブンは続けた。
「困ったら、また俺たちに言ってよ」
カールはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……ああ」
その時、ガイルが後ろから声を掛けた。
「おーい、二人とも! 何してるんだ?」
レイブンが振り返った。
「ちょっと話してた」
「なら、こっち来いよ。明日の予定を確認しようぜ」
カールは少し笑った。
「……行こう」
レイブンも頷いた。
二人は机の方へ戻った。
午後八時五十六分。
第三〇七号室。
消灯前の静かな時間。
レイブンは黒革の手帳を開き、今日の出来事を書き留めていた。
『帝政歴三四三年、十二月十五日。
今日は雪の中で行軍訓練を行った。
思っていた以上に大変だった。
雪道は歩きにくく、普段より疲れる。
でも、みんなで協力して目的地へ到着できた。
途中でユリウスが疲れた時、班全体で休憩を取った。
教官は、それが正しい判断だと言ってくれた。
カールも途中まで参加できた。
少しずつ元気になっているようで、嬉しい。
今日、改めて思った。
強い兵士になるというのは、一人で何でもできるようになることじゃない。
仲間の状態を知って、必要な時に支え合えることなんだと思う。
まだ分からないことは多い。
でも、少しずつ学んでいきたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
遠くの街には、家々の明かりが灯っている。
その明かりの一つ一つに、誰かの暮らしがある。
レイブンはふと、家族のことを思い出した。
母のセレナ。
妹のルナ。
そして、今も学校で教官として働く父のヴァルター。
自分がこうして訓練を受けている間も、街では人々が普段どおりの生活を続けている。
店を開く者。
列車を動かす者。
工場で働く者。
家族の帰りを待つ者。
軍人の仕事は、そうした人々の生活と無関係ではないのだろう。
レイブンは手帳を閉じた。
隣の寝台では、ガイルがすでに眠りかけていた。
「……レイブン」
「何?」
「……明日、雪降るかな」
「どうだろう」
「……できれば、もう少し少ないといいな」
レイブンは小さく笑った。
「そうだね」
ガイルは満足そうに目を閉じた。
部屋の奥では、カールが静かに寝台へ横になっていた。
ユリウスは眼鏡を外し、オスカーは明日の装備を確認している。
フェリックスはエミールと小声で話していた。
七人の候補生たちは、それぞれの疲労を抱えながらも、穏やかな夜を迎えていた。
午後九時二十七分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、管理棟。
ヴァルターは、今日の訓練報告書を確認していた。
候補生たちの行軍成績。
体調管理の記録。
途中離脱者の状況。
各班の判断と行動。
その中に、レイブンたちの班の記録もあった。
『班員の疲労を確認し、休憩を申請。経路変更なし。全員安全に帰着』
ヴァルターは小さく頷いた。
「……悪くない」
その時、机の上の電話が鳴った。
ヴァルターは受話器を取った。
「クロウ少佐だ」
『少佐、当直室です。参謀本部から、教育学校宛てに新しい通達が届いております』
「内容は?」
『国境情勢に関する警戒情報です。明朝、教育主任へ正式に提出される予定ですが、当直責任者への事前連絡が必要とのことです』
ヴァルターの表情が引き締まった。
「……分かった。資料をこちらへ回してくれ」
『了解しました』
受話器を置くと、ヴァルターは窓の外へ目を向けた。
雪に覆われた校庭は、静まり返っている。
候補生たちは、今頃眠りについているだろう。
明日もまた、訓練が続く。
彼らには、まだ学ぶべきことが多く残されている。
ヴァルターは机の上の書類を整え、静かに息を吐いた。
「……どうか、時間が残されていてくれ」
その願いが誰に届くのか、彼自身にも分からなかった。
やがて、廊下の向こうから当直兵の足音が近づいてきた。
新しい資料が届けられる。
ヴァルターは椅子へ座り直し、机の照明を少し明るくした。
冬の夜は、まだ長かった。




