第54話 七人の候補生、二人の護衛役
第54話 七人の候補生、二人の護衛役
帝政歴三四三年、十二月十一日。
午前五時三十分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、第二候補生宿舎。
起床を告げる鐘が鳴り響くよりも早く、レイブン・S・クロウは目を覚ました。
窓の外はまだ暗く、校舎の向こうには夜明け前の薄い青色が広がっている。
隣の寝台では、ガイル・ベッカーが毛布を頭まで被っていた。
「……あと五分」
寝言のような声が聞こえた。
レイブンは苦笑しながら寝台を降りた。
「ガイル、もうすぐ起床だぞ」
「……分かってる」
「昨日も同じこと言ってたよ」
「昨日は昨日、今日は今日だ」
そう言いながら、ガイルはようやく身体を起こした。
反対側では、オスカー・グラーフがすでに制服を着始めていた。
「お前ら、朝から元気だな」
「俺は元気じゃないぞ」
ガイルが真顔で答える。
フェリックス・ブラントが毛布の中から笑った。
「だったら早く起きろよ」
「お前に言われたくない!」
いつもの軽口が飛び交う。
その中で、カール・リヒターは静かに寝台を整えていた。
前日の夕方、妹のリーナが訪ねてきてから、彼の表情は少し変わっていた。
まだ疲労は残っている。
医師からも、当面は負荷を抑えた課程への参加を指示されていた。
それでも、以前のように周囲の声へ怯える様子は薄れていた。
「カール、おはよう」
レイブンが声を掛けると、カールは顔を上げた。
「……おはよう」
「眠れた?」
「……ああ。久しぶりに、ちゃんと眠れた」
その返事に、レイブンは安心した。
エミール・シュナイダーも微笑んだ。
「それはよかったです。朝食もしっかり取りましょう」
「……分かってる」
カールは少し笑った。
その時、起床の鐘が鳴り響いた。
ガイルが勢いよく立ち上がる。
「よし! 今日も一日、頑張るか!」
フェリックスが呆れたように言った。
「さっきまで五分寝かせろって言ってた奴が……」
部屋に笑い声が広がった。
午前六時五十八分。
第二候補生宿舎、共用生活区画。
朝食前の清掃時間。
第三〇七号室の七人は、担当区画の掃除を行っていた。
レイブンは床を掃き、ユリウス・ヴェーバーは備品の確認をしている。
オスカーとガイルは机を移動させ、フェリックスは窓を拭いていた。
その時、廊下の向こうから聞き慣れた声が響いた。
「おはようございます、皆様」
レイブンが振り返ると、ファニータが立っていた。
濃紺の実務服を身につけ、片手には書類を持っている。
その隣には、リーナ・リヒターがいた。
小柄な少女は、黒髪を後ろでまとめ、動きやすい服装をしていた。
「おはようございます!」
リーナは元気よく頭を下げた。
ガイルの犬耳が勢いよく立った。
「おお! 来た!」
フェリックスが笑った。
「朝から元気だな」
リーナは微笑んだ。
「皆さんも、お元気そうですね!」
そして、カールを見つけると表情を明るくした。
「お兄ちゃん!」
カールは少し困ったように答えた。
「……リーナ。声が大きい」
「だって、会えたんだもん」
「昨日も会っただろ」
「昨日は昨日、今日は今日!」
その言葉に、ガイルが大きく頷いた。
「分かるぞ!」
フェリックスは笑いを堪えられなかった。
「お前ら、妙なところで気が合うな」
ファニータは微笑みながら、書類を開いた。
「皆様、本日より生活支援の正式な運用が始まります」
ユリウスが顔を上げた。
「具体的には、どのような内容でしょうか」
「生活相談、衣類管理の助言、体調不良時の連絡支援、必要に応じた学校職員への報告でございます」
ファニータは続けた。
「ただし、掃除や洗濯、寝台の整頓などは、皆様ご自身で行っていただきます」
ガイルが肩を落とした。
「……やっぱりか」
ファニータは穏やかに微笑んだ。
「当然でございます」
レイブンは苦笑した。
「ファニータさん、家にいる時と変わらないですね」
「レイブン様こそ、学校でも油断なさらないでくださいませ」
リーナが楽しそうに笑った。
「ファニータさん、厳しいですね!」
「必要なことを申し上げているだけでございます」
その返答があまりにも自然だったため、七人は思わず笑ってしまった。
午前八時二十分。
第二訓練場。
第三中隊第二小隊の候補生たちが、整列していた。
隊列の前には、ヴァルター・A・クロウ少佐が立っている。
前日付の辞令により、彼は第三中隊の指導教官、訓練教官、相談役を兼任することになっていた。
もっとも、正式な成績評価や懲戒判断には別の担当者が関与することになっている。
ヴァルターは名簿を閉じた。
「本日の訓練は、基礎体力、集団行動、そして負傷者への対応だ」
候補生たちは姿勢を正した。
「戦場では、自分一人が動ければよいというものではない。仲間の状態を把握し、必要な時には助け合わなければならない」
ヴァルターは続けた。
「ただし、無理な救助行動は二次被害を招く。状況を確認し、適切な手順を踏むことが重要だ」
レイブンは真剣に聞いていた。
ヴァルターは隊列を見渡した。
「リヒター候補生」
「はい!」
「本日は医師の指示に従い、見学と記録を中心に参加しろ」
「了解しました!」
カールは敬礼した。
その表情に、以前のような怯えはなかった。
ヴァルターは頷いた。
「では、開始する」
午前九時四十六分。
第二訓練場、救護訓練区画。
候補生たちは二人一組となり、負傷者の状態確認と搬送の基礎を学んでいた。
レイブンの相手は、ガイルだった。
「よし、レイブン。俺が負傷者役な!」
「分かった」
ガイルは地面へ横になった。
「……うう、やられた」
レイブンは一瞬、動きを止めた。
「……ガイル」
「何だ?」
「演技、ちょっと大げさじゃない?」
「負傷者らしくしてるんだよ!」
そのやり取りを聞いていたヴァルターが、静かに声を掛けた。
「ベッカー候補生」
「はい!」
「演技に集中するのは構わないが、指示された姿勢を守れ」
「了解しました!」
ガイルは慌てて姿勢を直した。
レイブンは笑いを堪えながら、訓練を再開した。
まず周囲の安全を確認する。
次に、相手の反応を確かめる。
そして、教官から指示された手順に従い、救護担当者へ状況を報告する。
ヴァルターは近くで動作を確認していた。
「クロウ候補生。報告は簡潔に、必要な情報を優先しろ」
「了解しました!」
「ベッカー候補生。負傷者役でも、指示を聞くこと」
「はい!」
訓練は続いた。
その後、二人一組での搬送練習へ移る。
オスカーは大柄な体格を活かし、安定した動作を見せていた。
ユリウスは慎重に手順を確認しながら進めている。
フェリックスは少し慌てたものの、エミールの助言を受けて落ち着きを取り戻した。
カールは記録係として、それぞれの動作を観察していた。
レイブンは、その姿を見て少し安心した。
カールは、もう一度ここで頑張ろうとしている。
それが嬉しかった。
午前十一時三十八分。
第二訓練場、休憩区画。
候補生たちは水分を取り、短い休憩に入っていた。
ガイルは水筒を飲みながら、大きく息を吐いた。
「……いやあ、疲れた」
オスカーは笑った。
「まだ午前中だぞ」
「分かってるって!」
フェリックスは地面へ腰を下ろした。
「でも、救護訓練って思ったより難しいな」
エミールが頷いた。
「相手の状態を見ながら動かなければなりませんからね」
ユリウスは手元の記録を確認していた。
「それに、報告の順番も重要ですね」
レイブンは頷いた。
「……うん」
その時、訓練場の入口から二人の姿が見えた。
ファニータとリーナだった。
学校側の許可を受け、指定された区域で生活支援の確認を行っていた。
リーナは兄を見つけると、小さく手を振った。
「お兄ちゃん!」
カールは少し驚いた。
「……リーナ?」
リーナは駆け寄りたい様子だったが、ファニータが静かに声を掛けた。
「リーナ様。訓練区域への立入りは、許可を受けてからでございます」
リーナは足を止めた。
「あっ、そうでした!」
そして、少し照れくさそうに笑った。
ガイルが小声で呟いた。
「……元気だな、あの子」
フェリックスも頷いた。
「本当にな」
カールは困ったように顔を伏せた。
「……あいつ、昔からああなんだ」
レイブンは笑った。
「でも、いい妹だと思うよ」
カールは少し黙った。
そして、小さく頷いた。
「……ああ」
午後一時二十二分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、第三講義室。
午後の課程は、軍用装備の基礎管理だった。
ヴァルターは机の上に、訓練用の装備品を並べていた。
防護手袋。
訓練用ヘルメット。
携行品を収納する装具。
そして、訓練用の模擬短剣。
「軍用装備は、ただ身につければよいというものではない」
ヴァルターは候補生たちを見渡した。
「自分の身体に合っているか、破損していないか、使用目的に適しているかを確認する必要がある」
レイブンは真剣に聞いていた。
ヴァルターは続けた。
「特に、近接用の装備は扱いを誤れば、自分や仲間を傷つける危険がある」
その時、教室の扉がノックされた。
「失礼いたします」
ファニータだった。
その隣には、リーナが立っている。
ヴァルターは頷いた。
「入れ」
二人は教室へ入った。
候補生たちは少し驚いた様子で顔を上げた。
ヴァルターは説明した。
「本日の装備管理課程では、学校の許可を受けた補助担当者にも参加してもらう」
ファニータは深く一礼した。
「ファニータと申します。本日はよろしくお願いいたします」
リーナも明るく頭を下げた。
「リーナ・リヒターです。よろしくお願いします!」
ガイルは小声で呟いた。
「……おお」
フェリックスも笑った。
「今日は賑やかだな」
ヴァルターは二人へ目を向けた。
「まず、訓練用短剣の安全確認を実演してもらう」
ファニータは頷いた。
「承知いたしました」
リーナも姿勢を正した。
「はい!」
ファニータは訓練用短剣を手に取り、刃先が安全な方向を向いていることを確認した。
そして、固定具と鞘の状態を調べる。
「近接用装備は、携行時の安全確認が重要でございます」
彼女は静かに説明した。
「不用意に取り出したり、周囲へ向けたりしてはいけません」
リーナも頷いた。
「それに、訓練中は相手との距離を守ることが大切です」
ヴァルターは満足そうに頷いた。
「よろしい」
そして、候補生たちへ告げた。
「諸君も、装備の安全確認を徹底しろ」
午後三時十七分。
第三講義室。
装備管理課程の最後に、ヴァルターはファニータとリーナへ簡単な模擬動作の実演を求めた。
使用するのは、柔らかい訓練用の模擬短剣だった。
実演は、接触を伴わない基本動作の確認に限られている。
ファニータは静かに構えた。
リーナも向かい合う。
二人の動きには、明らかな違いがあった。
ファニータは落ち着いた姿勢を保ち、無駄な動きを抑えている。
一方、リーナは小柄な体格を活かし、軽やかに位置を変えていた。
しかし、どちらも相手へ不用意に近づくことはなかった。
ヴァルターは説明した。
「体格が違えば、適した動作も変わる。重要なのは、無理に相手の動きを真似ることではない」
レイブンは真剣に見つめていた。
ファニータは静かに一歩下がった。
リーナも動きを止めた。
そして、二人は同時に一礼した。
候補生たちから、小さな拍手が起こった。
ガイルは目を輝かせていた。
「……すげえ」
フェリックスも頷いた。
「本当に相性がいいんだな」
オスカーは腕を組んだ。
「動きがぶつからない。よく練習してるんだろうな」
ユリウスは記録を取りながら呟いた。
「……互いの位置をよく見ていますね」
カールは妹を見つめていた。
その表情には、少しだけ誇らしさがあった。
午後五時四十二分。
第二候補生宿舎、共用生活区画。
夕方の課程を終えた七人は、生活支援室の前に集まっていた。
ファニータが、翌日の予定を確認している。
リーナは机の上に、小さな箱を置いていた。
「皆さん、よかったらどうぞ!」
箱の中には、個包装された焼き菓子が入っていた。
ガイルの耳が立った。
「……お菓子?」
「はい! 学校の規則で持ち込みが認められているものだけです」
ユリウスは確認した。
「……許可は取ってあるんですか?」
リーナは元気よく頷いた。
「もちろん!」
ファニータも微笑んだ。
「生活支援室での配布について、事前に許可をいただいております」
ガイルは嬉しそうに笑った。
「やった!」
フェリックスも手を伸ばした。
「ありがとう、リーナちゃん!」
リーナは微笑んだ。
「どういたしまして!」
そして、カールへ一つ差し出した。
「お兄ちゃんも」
カールは少し困ったように答えた。
「……俺はいい」
リーナは首を傾げた。
「えー? 昔は好きだったのに」
「……今も嫌いじゃない」
「じゃあ、食べて!」
カールは少し黙った。
そして、焼き菓子を受け取った。
「……ありがとう」
リーナは嬉しそうに笑った。
ガイルが小声で呟いた。
「……カール、妹には弱いな」
オスカーが笑った。
「そうみたいだな」
カールは眉を寄せた。
「……聞こえてるぞ」
その言葉に、全員が笑った。
午後七時二十六分。
第二候補生宿舎、第三〇七号室。
夕食を終えた七人は、各自の机で翌日の準備をしていた。
レイブンは、訓練服の状態を確認していた。
セレナとヘレーネから教わった洗濯の知識が、早くも役立っていた。
ガイルは隣で靴を磨いている。
「……なあ、レイブン」
「何?」
「お前、家でちゃんと洗濯とかしてたのか?」
レイブンは少し笑った。
「入校前に、母さんとお祖母ちゃんから教わったんだ」
「へえ」
ガイルは感心したように頷いた。
「俺も、もっと覚えておけばよかったな」
フェリックスが笑った。
「今から覚えればいいだろ」
「それはそうだけどよ」
ユリウスは机の上に教本を並べていた。
「明日は、通信の基礎講義ですね」
エミールが頷いた。
「それから、午後は救護訓練の続きです」
オスカーは腕を組んだ。
「少しずつ、本格的になってきたな」
カールは静かに答えた。
「……ああ」
レイブンは六人の顔を見渡した。
入校から、まだ二週間ほどしか経っていない。
しかし、その短い間に、さまざまなことがあった。
初めての共同生活。
厳しい訓練。
カールの脱柵事件。
教官による体罰の発覚。
そして、新しい生活支援体制の開始。
レイブンは静かに思った。
軍人になるということは、ただ強くなることではない。
仲間と生活し、互いの違いを理解し、困難を乗り越えることでもあるのだ。
午後九時十二分。
第三〇七号室。
消灯前。
レイブンは机の前に座り、黒革の手帳を開いていた。
ルナから贈られた万年筆を握り、ゆっくりと文字を書き始める。
『帝政歴三四三年、十二月十一日。
今日も訓練があった。
午前は救護訓練。
午後は装備管理の講義だった。
ファニータさんとリーナが、訓練用短剣の安全確認を見せてくれた。
二人とも、動きがとても綺麗だった。
父さんは、体格が違えば適した動作も変わると言っていた。
俺も、もっと勉強したい。
それから、リーナがお菓子を持ってきてくれた。
カールが少し笑っていた。
最近、あいつの笑顔を見ることが増えた気がする。
それが嬉しい。
この部屋の七人は、まだまだ未熟だと思う。
でも、少しずつ成長している。
俺も、負けないように頑張ろう。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、手帳を閉じた。
窓の外には、冬の夜空が広がっていた。
遠くから、見回りの教官の足音が聞こえる。
隣の寝台では、ガイルが小さく欠伸をしていた。
「……なあ、レイブン」
「何?」
「明日も頑張ろうな」
レイブンは微笑んだ。
「……うん」
その隣で、カールが静かに呟いた。
「……俺も、頑張る」
レイブンは顔を向けた。
カールは少しだけ笑っていた。
ガイルも笑った。
「よし! 七人で頑張ろうぜ!」
やがて、部屋の明かりが消えた。
帝政歴三四三年、十二月十一日。
第三中隊第二小隊。
七人の候補生たちは、今日も訓練を終えた。
新しい指導体制。
ファニータとリーナによる生活支援。
そして、少しずつ深まる仲間たちの信頼。
彼らの志願兵としての日々は、まだ始まったばかりだった。




