第52話 脱柵した戦友、教官の拳
第52話 脱柵した戦友、教官の拳
帝政歴三四三年、十二月九日。
午前五時四十分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、第二候補生宿舎。
冬の朝は、まだ夜の名残を濃く残していた。
第三〇七号室では、起床を告げる鐘の音とともに、七人の候補生たちが一斉に寝台から身体を起こしていた。
「……寒い」
フェリックス・ブラントが毛布の中から顔を出し、情けない声を漏らした。
「毎朝そればっかりだな、お前」
オスカー・グラーフが笑いながら制服を手に取った。
「寒いものは寒いんだよ。地方じゃ、ここまで冷えなかったんだ」
ガイル・ベッカーは犬耳を動かしながら、すでに寝台を整えていた。
「ほら、急げよ。点呼に遅れるぞ」
ユリウス・ヴェーバーは眼鏡を掛け、壁の時計を確認した。
「集合まで、あと十四分です」
エミール・シュナイダーは衣類を畳みながら、隣の寝台へ目を向けた。
「……カール君?」
返事はなかった。
カール・リヒターは、寝台の端に座ったまま俯いていた。
普段から口数の少ない少年だったが、この数日間は特に様子がおかしかった。
食事を残すことが増え、夜中に目を覚ますこともあった。
訓練後、誰よりも早く部屋へ戻り、会話にもほとんど加わらない。
レイブン・S・クロウは、その変化に気づいていた。
「カール、大丈夫?」
カールはゆっくりと顔を上げた。
「……ああ」
「昨日も、あんまり眠れてなかっただろ」
「……問題ない」
そう答える声には、力がなかった。
レイブンは少し迷った。
無理に問い詰めるべきではない。
だが、放っておくこともできなかった。
「……何かあったら、言ってくれよ」
カールはしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……分かった」
しかし、その視線は最後までレイブンと合わなかった。
午前七時三十二分。
第二訓練場。
第三中隊第二小隊の候補生たちは、基礎体力訓練を終え、整列していた。
ヴァルター・A・クロウ少佐は、隊列の前に立っていた。
右腕には魔力義肢が装着され、軍服の袖口から黒い手袋が覗いている。
「本日の午前課程は、集団行動と基礎戦術の確認だ」
候補生たちは姿勢を正した。
「昨日の訓練記録を確認した。全体としては改善が見られるが、まだ動作にばらつきがある」
ヴァルターは一度、名簿へ視線を落とした。
「特に、疲労が蓄積している者は無理をするな。体調不良を隠して訓練を続けることは、規律違反にもつながる」
レイブンは、隣に立つカールへ目を向けた。
カールは正面を向いていた。
しかし、その顔色は明らかに悪かった。
ヴァルターも気づいたのか、隊列の前を歩きながら足を止めた。
「リヒター候補生」
「……はい」
「顔色が悪い。体調はどうだ?」
「……問題ありません」
ヴァルターは数秒間、カールを見つめた。
「無理をするな。必要なら医務室へ行け」
「……はい」
その返答は、どこか機械的だった。
ヴァルターは眉を寄せたが、ほかの候補生たちの前で問い詰めることはしなかった。
「訓練終了後、医務室で確認を受けろ」
「……了解しました」
カールは敬礼した。
レイブンは、胸の奥に小さな不安を覚えた。
午前十一時五十八分。
第二候補生宿舎、第三〇七号室。
午前課程を終えた七人は、昼食前の短い休憩に入っていた。
ガイルは水筒を飲みながら、窓の外を眺めていた。
「……今日も寒いな」
フェリックスは寝台へ腰を下ろした。
「午後は座学だろ? 助かったよ」
ユリウスは机の上に教本を並べていた。
「午後は軍紀と服務規則の講義ですね」
エミールはカールへ目を向けた。
「カール君、医務室には行きましたか?」
カールは短く答えた。
「……まだだ」
レイブンは顔を上げた。
「父さん……じゃなくて、クロウ少佐から言われてただろ?」
「……後で行く」
レイブンは少し迷った。
「……一緒に行こうか?」
カールは首を振った。
「……一人でいい」
その声には、明らかな拒絶があった。
レイブンはそれ以上、言葉を重ねなかった。
しかし、カールが机の引き出しを閉じる時、袖口から見えた手首に、薄い痣のようなものがあることに気づいた。
「……カール、その腕」
カールは素早く袖を下ろした。
「……何でもない」
「でも――」
「何でもないって言ってるだろ!」
突然の大声に、部屋が静まり返った。
カール自身も驚いたように口を閉じた。
レイブンはゆっくりと答えた。
「……ごめん」
カールは何も言わなかった。
そして、鞄を持って部屋を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、エミールが静かに言った。
「……何か、あったんでしょうか」
レイブンは扉を見つめた。
「……分からない」
しかし、胸の奥の不安は、さらに大きくなっていた。
午後一時十七分。
第三中隊、集合区画。
午後課程の開始を前に、候補生たちが整列していた。
ヴァルターは名簿を確認しながら、人数を数えていた。
「……一名足りないな」
レイブンは顔を上げた。
カールがいなかった。
ヴァルターは名簿を閉じた。
「リヒター候補生は?」
誰も答えられなかった。
レイブンが一歩前へ出た。
「クロウ少佐」
「何だ」
「昼前に宿舎を出ていくところを見ました。その後は、戻ってきていません」
ヴァルターの表情が引き締まった。
「医務室は確認したか?」
「まだです」
ヴァルターは近くの教官へ指示した。
「医務室と宿舎を確認しろ。警備詰所にも連絡だ」
「了解!」
数分後。
報告が届いた。
カール・リヒター候補生は、医務室にも宿舎にもいなかった。
さらに、学校外周の警備員から、正午過ぎに一人の候補生が許可なく敷地外へ出た可能性があるとの報告が入った。
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……無断離校か」
軍の教育施設では、許可なく敷地外へ出ることは重大な規律違反だった。
しかし、ヴァルターの表情には怒りよりも、強い懸念が浮かんでいた。
レイブンは一歩前へ出た。
「クロウ少佐」
「何だ、クロウ候補生」
「……カールを探しに行かせてください」
ヴァルターは息子を見た。
「理由は?」
「カールは、ここ数日ずっと様子がおかしかったんです。今朝も、顔色が悪くて……」
レイブンは続けた。
「それに、手首に痣がありました」
ヴァルターの目が鋭くなった。
「……痣?」
「はい。本人は何でもないと言っていましたが」
ヴァルターは数秒間考えた。
そして、レイブンへ告げた。
「単独行動は認めない」
レイブンは息を呑んだ。
しかし、ヴァルターは続けた。
「捜索は学校の責任で行う。お前が協力するなら、正式な許可と監督が必要だ」
レイブンは姿勢を正した。
「……はい」
ヴァルターは警備担当者へ連絡した。
そして、レイブンの同行を条件付きで認めた。
「クロウ候補生。学校の捜索班に同行しろ。無理な追跡はするな。発見したら、まず連絡だ」
「了解しました!」
レイブンは敬礼した。
そして、校門へ向かって走り出した。
午後二時四十六分。
帝国中央部、市街地。
冬の街には、冷たい風が吹いていた。
レイブンは捜索担当者とともに、カールが向かった可能性のある場所を探していた。
駅前。
商店街。
公園。
古い住宅街。
候補生の制服を着た少年を見なかったかと尋ねて回ったが、なかなか手掛かりは得られなかった。
午後三時を過ぎる頃には、レイブンの足も重くなっていた。
しかし、諦めることはできなかった。
カールの顔が、何度も頭に浮かんだ。
朝、寝台の端で俯いていた姿。
手首の痣。
そして、突然怒鳴った後の、あの表情。
レイブンは息を吐いた。
「……どこにいるんだよ、カール」
捜索担当者が声を掛けた。
「クロウ候補生、少し休め」
「……大丈夫です」
「無理をするな。捜索はまだ続く」
レイブンは頷いた。
その時、通りの向こうにある古い公園が目に入った。
木々に囲まれた、小さな公園だった。
その奥に、一人の少年が座っているように見えた。
黒髪。
濃緑色の上衣。
レイブンは目を凝らした。
「……あれは」
そして、声を上げた。
「カール!」
午後三時三十八分。
旧市街、小公園。
カール・リヒターは、古い木製のベンチに座っていた。
背中を丸め、両手で顔を覆っている。
レイブンが近づいても、すぐには顔を上げなかった。
「……カール」
少年の肩が小さく震えた。
「……来るな」
レイブンは足を止めた。
「……分かった。ここにいる」
カールは何も答えなかった。
レイブンは少し離れた場所へ腰を下ろした。
冬の風が、二人の間を吹き抜けた。
しばらくして、カールが小さく呟いた。
「……何で、探しに来た」
レイブンは静かに答えた。
「心配だったから」
「……俺は、脱柵したんだぞ」
「分かってる」
「戻ったら、処罰される」
「……そうかもしれない」
カールは顔を上げた。
その目は赤く腫れていた。
「……だったら、放っておけよ」
レイブンは首を振った。
「できない」
「……何でだよ」
「同じ部屋の仲間だから」
カールは唇を噛んだ。
そして、突然、涙をこぼした。
「……もう、嫌なんだ」
レイブンは何も言わなかった。
カールは震える声で続けた。
「……俺、ちゃんとやってたんだ」
涙が頬を伝った。
「訓練も、勉強も、全部……」
レイブンは静かに聞いていた。
「……でも、何をやっても駄目だって言われて」
カールは袖をまくった。
手首から前腕にかけて、複数の痣が残っていた。
レイブンの表情が変わった。
「……それ、どうしたんだ」
カールは俯いた。
「……指導教官に」
レイブンは息を呑んだ。
「……教官?」
「……失敗したら、殴られた」
カールの声が震えた。
「最初は、俺が悪いんだと思った。もっと頑張れば、認めてもらえると思った」
彼は涙を拭った。
「でも、何をしても……」
言葉が途切れた。
レイブンは拳を握った。
しかし、怒りをそのまま口にすることはしなかった。
今、目の前にいるのは、傷ついた仲間だった。
「……カール」
少年は顔を上げた。
「戻ろう」
カールは首を振った。
「……嫌だ」
「分かるよ。怖いんだろ」
カールは何も答えなかった。
レイブンは続けた。
「でも、俺たちがいる。ガイルも、オスカーも、ユリウスも、フェリックスも、エミールも」
そして、静かに言った。
「一人で抱えなくていい」
カールの目から、また涙がこぼれた。
「……俺、弱いのかな」
レイブンは首を振った。
「違う」
その声には、迷いがなかった。
「殴られても黙って耐えることが、強さじゃない」
カールはレイブンを見つめた。
「……本当に、戻ってもいいのか」
「もちろん」
レイブンは手を差し出した。
「一緒に帰ろう」
カールはしばらく、その手を見つめていた。
そして、震える手を伸ばした。
レイブンは、しっかりと握り返した。
午後四時二十一分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、指導教官室。
その頃、ヴァルターはクルーガー大尉と向き合っていた。
机の上には、カール・リヒター候補生の訓練記録が置かれている。
「……クルーガー大尉」
「はい、少佐」
「リヒター候補生について、何か報告はないか」
クルーガーは書類をめくった。
「訓練成績は平均程度です。ただし、精神面に問題があるように見受けられます」
ヴァルターは眉を寄せた。
「……精神面?」
「はい。指導に対して反応が鈍く、積極性に欠けます」
ヴァルターは静かに尋ねた。
「具体的には?」
クルーガーは肩をすくめた。
「多少、厳しく指導したことはあります」
「……厳しく?」
「ええ。何度か手を上げました」
その瞬間。
ヴァルターの表情が変わった。
「……何だと?」
クルーガーは平然と答えた。
「訓練中に態度が悪かったので、軽く殴っただけです」
ヴァルターは椅子から立ち上がった。
「……候補生を殴ったのか」
「はい」
「許可なく?」
「……少佐。軍人を育てるには、多少の厳しさも必要でしょう」
ヴァルターは一歩前へ出た。
「……それを、厳しさと呼ぶのか」
クルーガーは不思議そうに首を傾げた。
「何か問題でも?」
次の瞬間。
鈍い音が、部屋に響いた。
ヴァルターの右拳が、クルーガーの顔面を打っていた。
クルーガーは椅子ごと倒れ、床へ転がった。
「……っ!」
ヴァルターは低い声で言った。
「……お前は、何を教えていた」
クルーガーは頬を押さえながら立ち上がった。
「……少佐! 何をするんですか!」
ヴァルターは怒りを隠さなかった。
「候補生を殴り、それを指導だと言い張るのか!」
クルーガーは言い返した。
「規律を教えるためです!」
「規律は、暴力で教えるものではない!」
ヴァルターは再び一歩踏み出した。
クルーガーも怒りに任せて立ち上がり、胸倉をつかもうとした。
次の瞬間、二人の身体がぶつかった。
机が揺れ、書類が床へ散らばった。
廊下にいた教官たちが、騒ぎを聞いて駆け込んできた。
「少佐! 何をしているんです!」
「離れてください!」
複数の教官が、ヴァルターとクルーガーの間へ割って入った。
ヴァルターはなおも怒りを抑えきれず、クルーガーを睨みつけていた。
「……候補生は、お前の怒りをぶつける道具じゃない」
その声には、深い怒りがあった。
午後五時十二分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、医務室。
カールは、医師の診察を受けていた。
レイブンは廊下の椅子に座り、結果を待っている。
しばらくして、医師が姿を現した。
「クロウ候補生」
「はい」
「リヒター候補生には、複数の打撲痕が確認された。今後、正式な調査が必要になる」
レイブンは頷いた。
「……分かりました」
医師は続けた。
「本人はかなり疲弊している。今日は休ませる」
「はい」
その時、廊下の向こうからガイルたちが駆け寄ってきた。
「レイブン!」
「ガイル?」
ガイルは息を切らしていた。
「カール、見つかったんだってな!」
「うん。今、診察を受けてる」
オスカーが尋ねた。
「……何があった?」
レイブンは少し迷った。
しかし、カールが医師へ話した範囲で、状況を説明した。
六人の表情が変わった。
ユリウスは眼鏡を押し上げた。
「……体罰ですか」
フェリックスは拳を握った。
「……ふざけるなよ」
エミールは静かに目を伏せた。
「……だから、あんなに苦しそうだったんですね」
カールのことを考え、誰も大声では話さなかった。
その時、廊下の向こうから一人の教官が歩いてきた。
「クロウ候補生」
「はい」
「クロウ少佐が、指導教官室で問題を起こした」
レイブンは顔を上げた。
「……父が?」
「クルーガー大尉と衝突した。現在、事情聴取が行われている」
レイブンは息を呑んだ。
そして、立ち上がった。
「……行かせてください」
教官は少し迷った。
しかし、頷いた。
「関係者として、事情を聞く必要がある。同行しろ」
レイブンは敬礼した。
午後五時三十八分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、臨時審問室。
扉の向こうから、複数の声が聞こえていた。
レイブンは教官に案内され、室内へ入った。
そこには、ヴァルターが立っていた。
右手には、魔力義肢の黒い手袋がある。
その表情は、まだ厳しかった。
そして、少し離れた場所には、クルーガー大尉が座っていた。
頬には、殴打された痕が残っている。
しかし、その態度には反省の色がなかった。
「……少佐の行為は、明らかな暴行です」
クルーガーは平然と主張していた。
「私は、候補生を教育しただけです」
レイブンは、その言葉を聞いた。
胸の奥で、何かが燃え上がった。
カールが泣いていた。
公園のベンチで、身体を震わせながら。
自分が弱いのかと尋ねていた。
その姿が、頭から離れなかった。
レイブンは一歩前へ出た。
「……教育?」
室内の視線が、一斉に集まった。
ヴァルターが顔を向けた。
「……レイブン」
レイブンはクルーガーを見つめた。
「……あれが、教育なんですか」
クルーガーは眉を寄せた。
「候補生。発言を許可した覚えはない」
レイブンは拳を握った。
しかし、声を荒らげることはしなかった。
「……カールは、泣いていました」
クルーガーは肩をすくめた。
「精神的に弱いからだろう」
その瞬間。
レイブンの表情が変わった。
「……違う」
低い声だった。
「カールは、ずっと頑張っていました」
クルーガーは鼻で笑った。
「努力が足りなかっただけだ」
レイブンは一歩前へ出た。
「……あなたは、カールの何を見ていたんですか」
クルーガーは立ち上がった。
「候補生の分際で、上官に口答えするのか!」
レイブンは動かなかった。
しかし、その瞳には、強い怒りが宿っていた。
ヴァルターが静かに声を掛けた。
「……レイブン」
少年は父を見た。
ヴァルターは短く言った。
「下がれ」
レイブンは唇を噛んだ。
そして、父の後ろへ下がった。
それでも、クルーガーから目を逸らすことはなかった。
審問を担当する上級士官が、机を軽く叩いた。
「静粛に」
室内が静まり返った。
「本件については、二つの問題がある」
上級士官は書類を確認した。
「第一に、クルーガー大尉による候補生への不適切な指導」
そして、ヴァルターへ目を向けた。
「第二に、クロウ少佐による上官同士の暴力行為」
さらに、レイブンへ視線を向けた。
「第三に、クロウ候補生による審問中の無許可発言」
レイブンは姿勢を正した。
上級士官は続けた。
「それぞれ、規律上の責任を確認する必要がある」
その時だった。
扉の外から、騒がしい足音が聞こえた。
「……失礼します!」
扉が開いた。
ガイル・ベッカーが立っていた。
その後ろには、オスカー、ユリウス、フェリックス、エミールがいる。
そして、少し遅れてカールも姿を現した。
レイブンは目を見開いた。
「……みんな?」
ガイルは姿勢を正した。
「第三中隊第二小隊、ガイル・ベッカー候補生!」
上級士官が眉を寄せた。
「何の用だ」
ガイルは深く息を吸った。
「……俺たちにも、話をさせてください!」
室内が静まり返った。
上級士官は少し考えた。
そして、頷いた。
「……発言を許可する」
ガイルは一歩前へ出た。
「俺たちは、カールと同じ部屋で生活しています」
オスカーが続けた。
「カールの様子が変わっていたことには、全員が気づいていました」
ユリウスは手元の記録を差し出した。
「訓練後の体調変化と、欠席の有無を記録していました」
フェリックスは拳を握った。
「俺たちは、カールが怠けていたなんて思ってません」
エミールは静かに続けた。
「医務室で確認された打撲痕についても、正式な調査をお願いします」
そして、最後にカールが前へ出た。
顔色はまだ悪かった。
しかし、その足取りは、先ほどよりしっかりしていた。
「……俺からも、話があります」
上級士官は頷いた。
「……述べなさい」
カールは一度、レイブンを見た。
レイブンは静かに頷いた。
カールは深く息を吸った。
「……俺は、クルーガー大尉から、何度も殴られました」
室内が静まり返った。
「訓練で失敗した時も、質問した時も……」
カールは唇を噛んだ。
「……怖くて、誰にも言えませんでした」
クルーガーが口を開こうとした。
しかし、上級士官が制した。
「大尉。今は発言を控えろ」
カールは続けた。
「……今日、学校から逃げました」
涙が頬を伝った。
「でも、レイブンが探しに来てくれました」
レイブンは静かに聞いていた。
「……戻ってもいいって、言ってくれました」
カールは顔を上げた。
「俺は、軍人になりたいです」
その声は震えていた。
「でも、殴られるために入校したわけじゃありません」
上級士官は、しばらく何も言わなかった。
そして、静かに頷いた。
「……分かった」
審問は、一時中断された。
午後七時十二分。
臨時審問室。
追加の証言と医療記録の確認を終え、上級士官たちが再び席についた。
室内には、重い空気が漂っていた。
上級士官は書類を閉じた。
「……本件について、暫定的な判断を伝える」
全員が姿勢を正した。
「クルーガー大尉による候補生への体罰については、複数の証言と医療記録により、重大な規律違反の疑いが認められる」
クルーガーの表情が変わった。
「……しかし、私は――」
「発言は許可していない」
上級士官は厳しく告げた。
「候補生への暴力を教育として正当化することはできない」
そして、ヴァルターへ目を向けた。
「クロウ少佐」
「はい」
「あなたがクルーガー大尉を殴打したことも、決して適切な行為ではない」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……承知しております」
「しかし、今回の事情と、候補生保護のための行動を考慮し、正式な懲戒処分は見送る」
レイブンは息を呑んだ。
上級士官は続けた。
「ただし、今後同様の行為を行わないよう、厳重に注意する」
「……了解しました」
ヴァルターは敬礼した。
続いて、上級士官はレイブンへ視線を向けた。
「クロウ候補生」
「はい!」
「審問中の無許可発言については、状況を考慮し、処分しない」
レイブンは姿勢を正した。
「……ありがとうございます」
上級士官は最後に、クルーガーへ目を向けた。
「クルーガー大尉」
「……はい」
「あなたを、中央志願兵教育学校の指導教官職から解任する」
クルーガーは目を見開いた。
「……何ですと?」
「さらに、教育職への適性を欠くものとして、前線部隊への配置転換を命ずる」
室内が静まり返った。
「正式な懲戒手続きと並行して、軍紀監察部による調査を継続する」
クルーガーは言葉を失った。
上級士官は続けた。
「教育を受ける候補生に対して、暴力を振るう権利など、誰にもない」
その声は、静かだった。
しかし、揺るぎないものだった。
午後八時三十八分。
第二候補生宿舎、第三〇七号室。
七人は、再び同じ部屋に集まっていた。
カールは寝台の端に座り、毛布を膝へ掛けていた。
エミールが温かい飲み物を差し出した。
「……どうぞ」
カールは小さく頷いた。
「……ありがとう」
ガイルは椅子へ腰を下ろした。
「……いやあ、今日は大変だったな」
オスカーが頷いた。
「まったくだ」
フェリックスはレイブンを見た。
「でも、お前が探しに行ってくれてよかった」
レイブンは首を振った。
「……俺だけじゃないよ」
ユリウスが微笑んだ。
「そうですね。みんなで戻ってこられましたから」
カールは、しばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「……みんな」
六人が顔を向けた。
「……ありがとう」
その声は、少し震えていた。
「俺、もう駄目だと思ってた」
レイブンは静かに聞いていた。
「……でも、戻ってきてよかった」
ガイルは笑った。
「当たり前だろ!」
オスカーも頷いた。
「これからも、同じ部屋だ」
フェリックスは肩をすくめた。
「一人だけ勝手にいなくなるなよ。心配するだろ」
カールは少しだけ笑った。
「……悪かった」
エミールは微笑んだ。
「無理をせず、少しずつ戻していきましょう」
レイブンは頷いた。
「……うん」
その時、扉が軽くノックされた。
「入るぞ」
ヴァルターの声だった。
七人は一斉に立ち上がった。
「クロウ少佐!」
ヴァルターは右手を軽く上げた。
「休め」
そして、カールへ目を向けた。
「リヒター候補生」
「……はい」
「身体の具合はどうだ」
「……少し、痛みます」
ヴァルターは頷いた。
「無理をするな。医師の指示に従え」
「……はい」
ヴァルターは少し黙った。
そして、静かに言った。
「……今回の件について、私にも責任がある」
カールは顔を上げた。
「……少佐?」
「お前の異変に気づきながら、十分に対応できなかった」
ヴァルターは続けた。
「教官として、申し訳なかった」
カールは目を見開いた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「……少佐は、悪くありません」
ヴァルターは静かに答えた。
「それでも、見過ごしてしまったことは事実だ」
カールは唇を噛んだ。
「……ありがとうございます」
ヴァルターは頷いた。
そして、七人を見渡した。
「諸君。今日のことを忘れるな」
候補生たちは姿勢を正した。
「軍人に必要なのは、命令に従うことだけではない。仲間の異変に気づき、必要な時に助けを求めることも重要だ」
ヴァルターは続けた。
「そして、上官の行為であっても、規則に反するものを無条件に正当化してはならない」
レイブンは静かに頷いた。
ヴァルターは最後に告げた。
「……今日は、よく休め」
「はい!」
七人の声が重なった。
ヴァルターは敬礼し、部屋を後にした。
午後九時二十六分。
第三〇七号室。
消灯前。
レイブンは机の前に座り、黒革の手帳を開いていた。
ルナから贈られた万年筆を握り、ゆっくりと文字を書き始める。
『帝政歴三四三年、十二月九日。
今日は、忘れられない日になった。
カールが学校からいなくなった。
街を探し回って、ようやく見つけた。
カールは泣いていた。
教官から殴られていたらしい。
俺は、すごく腹が立った。
父さんも怒っていた。
でも、俺たちが怒るだけでは、何も解決しない。
ガイルたちが来てくれて、カール自身も話してくれた。
それで、ようやく状況が変わった。
カールは、戻ってきてくれた。
それが、一番嬉しかった。
父さんは、仲間の異変に気づくことも軍人に必要だと言っていた。
俺も、そう思う。
これからは、もっと周りを見よう。
誰かが苦しんでいたら、気づけるようになりたい。
そして、できることがあれば、助けたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、手帳を閉じた。
隣の寝台では、カールが静かに横になっていた。
まだ眠ってはいないようだった。
「……レイブン」
「何?」
カールは少し黙った。
そして、小さく言った。
「……ありがとう」
レイブンは微笑んだ。
「……うん」
それ以上、言葉は必要なかった。
帝政歴三四三年、十二月九日。
志願兵教育学校で起きた、候補生の無断離校事件。
それは、単なる規律違反では終わらなかった。
教官による体罰。
候補生たちの証言。
そして、仲間を守ろうとした七人の行動。
この日、第三〇七号室の七人は、初めて大きな困難をともに乗り越えた。
彼らの間には、入校初日にはなかった確かな信頼が生まれていた。




