第51話 七人部屋の新兵候補生たち
第51話 七人部屋の新兵候補生たち
帝政歴三四三年、十一月二十七日。
午前六時四十八分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
冬の朝は、まだ薄暗かった。
庭園の木々には霜が降り、正門へ続く石畳の上には、前夜の冷え込みを物語る白い結晶が残っていた。
レイブン・S・クロウは、玄関広間に置かれた姿見の前で、制服の襟元を整えていた。
深緑色の上衣に同色の制帽。肩には帝国陸軍中央志願兵教育学校の候補生章が取り付けられている。
それは、昨日まで着ていた予科候補生用の制服とは異なるものだった。
満十六歳となり、必要な手続きを終えたレイブンは、今日から正式な志願兵教育課程へ進む。
胸元には、父から贈られた銀色のネクタイピンがあった。
翼を広げた黒鴉。
朝の光を受けるたび、黒い翼の輪郭が小さく輝いている。
「……よし」
レイブンが襟を直し終えた時、背後から声がした。
「少し曲がっておりますよ、レイブン様」
振り返ると、ファニータが立っていた。
金髪を丁寧にまとめた彼女は、いつもの使用人服ではなく、外出用の落ち着いた服装をしていた。
「えっ、まだ曲がってます?」
「ほんの少しだけです」
ファニータは近づき、ネクタイの位置を整えた。
「これで大丈夫でございます」
「ありがとうございます」
「本日からは、身だしなみもご自身で確認しなければなりませんね」
レイブンは苦笑した。
「分かってます。今のうちに覚えないと」
ファニータは微笑んだ。
「その意気でございます」
彼女には、教育学校から付添人としての限定的な立入り許可が出ていた。ただし、許可されているのは指定された生活支援区域までであり、候補生宿舎への常時出入りや訓練への参加は認められていない。
レイブンが寮で暮らす以上、洗濯も、掃除も、時間の管理も、基本的には自分で行うことになる。
ファニータは、そのことを誰よりも理解していた。
「レイブン様。昨日、奥様から教わった衣類の管理方法は覚えていらっしゃいますか?」
「はい。色物と白物を分けること、洗濯表示を確認すること。それから、制服は勝手に高温で洗わないこと」
「結構でございます」
彼女は満足そうに頷いた。
「私がいない場所でも、きちんと生活してくださいませ」
「……努力します」
「努力ではなく、実行でございます」
その口調が妙に母親に似ていて、レイブンは思わず笑った。
やがて、玄関の奥から足音が聞こえた。
セレナとルナ、そしてヴァルターが姿を現した。
「お兄ちゃん!」
ルナが駆け寄ってきた。
白い猫耳を揺らしながら、兄の制服を見上げる。
「……本当に行っちゃうんだね」
「うん。でも、ずっと会えないわけじゃないよ」
「手紙、書いてね」
「もちろん。ルナからもらった万年筆で書くよ」
ルナは嬉しそうに笑ったが、その目元には少し寂しさが残っていた。
セレナは息子の襟元を確認すると、優しく微笑んだ。
「忘れ物はない?」
「たぶん、大丈夫」
「たぶん、じゃ困るわね」
「……全部確認しました」
母の笑顔に促され、レイブンも笑った。
ヴァルターは少し離れた場所で、息子の姿を見つめていた。
五月に装着した魔力義肢は、半年間の適応訓練を経て、以前より自然に動くようになっている。右手の細かな動作にはまだ慎重さが必要だったが、日常生活では不自由を感じる場面も少なくなっていた。
「レイブン」
「はい、父さん」
「入校したら、家での訓練とは勝手が違う。まずは学校の規則を覚えろ」
「分かってる」
「分からないことがあれば、教官に質問しろ。勝手な判断で動くな」
「はい」
ヴァルターは頷いた。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「……それと、昨日の話も忘れるなよ」
レイブンは胸元のネクタイピンに触れた。
「忘れないよ」
父が前日に伝えてくれた言葉。
辞めたくなった時も、心が疲れた時も、遠慮なく帰ってこい。
あれは教官としての命令ではなく、父親としての訓示だった。
レイブンは家族を見渡した。
「……行ってきます」
セレナが微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
ルナは大きく手を振った。
「頑張ってね、お兄ちゃん!」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……行ってこい」
こうして、レイブンの新しい生活が始まった。
午前八時二十六分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、正門。
鉄製の大きな門の向こうには、整然と並ぶ校舎と訓練施設が広がっていた。
濃緑色の制服を着た候補生たちが、各地から集まっている。
人間種の青年。
猫系亜人の少女。
犬系亜人の少年。
さまざまな出身地や家柄を持つ若者たちが、緊張した面持ちで受付へ向かっていた。
レイブンは鞄を持ち直した。
「……ここからか」
選抜試験のために何度も訪れた学校だったが、正式な候補生として門をくぐるのは初めてだった。
受付では、軍服を着た事務担当者が名簿を確認していた。
「氏名と受験番号を」
「レイブン・S・クロウ。受験番号、四一七番です」
担当者は名簿へ視線を落とした。
「……確認した。クロウ候補生、入校手続きは完了している。所属は第一教育大隊、第三中隊、第二小隊」
「はい」
「宿舎は第二候補生宿舎、三階、第三〇七号室。部屋長は後ほど指定される」
レイブンは受け取った書類を確認した。
「ありがとうございます」
「集合時刻は十時三十分。遅れるなよ」
「はい!」
敬礼を返したレイブンは、宿舎へ向かった。
午前九時十二分。
第二候補生宿舎、第三〇七号室。
長い廊下の突き当たり近くに、その部屋はあった。
扉には小さな金属板が取り付けられ、黒い文字で部屋番号が刻まれている。
レイブンは一度深呼吸した。
そして、扉をノックした。
「失礼します」
扉を開けると、室内にいた六人が一斉に顔を上げた。
部屋には七台の寝台が並び、それぞれに机と衣類収納棚が備えられていた。
窓際では、背の高い犬系亜人の少年が荷物を整理している。
その隣には、がっしりした体格の青年が座っていた。
ほかにも、眼鏡を掛けた細身の少年、赤茶色の髪を持つ青年、無口そうな黒髪の少年、そして穏やかな表情をした青年がいた。
レイブンは姿勢を正した。
「初めまして。レイブン・S・クロウです。本日から、この部屋でお世話になります。よろしくお願いします」
一瞬の沈黙。
最初に口を開いたのは、犬系亜人の少年だった。
「おお、最後の一人か!」
彼は明るく笑い、レイブンへ歩み寄った。
「俺はガイル・ベッカー。十六歳。よろしくな!」
レイブンは差し出された手を握った。
「よろしく、ガイル」
「お前、猫系亜人か?」
「うん。黒猫系だよ」
「へえ、珍しいな。俺は犬系。見てのとおりだけどな!」
ガイルは自分の耳を指さして笑った。
その様子を見て、寝台に座っていた大柄な青年が口を開いた。
「おい、ガイル。少し落ち着け。入ってきたばかりだぞ」
「分かってるって!」
青年は立ち上がった。
「俺はオスカー・グラーフ。十七歳。よろしく」
レイブンは握手を交わした。
「よろしくお願いします」
「敬語はいらない。同期なんだからな」
オスカーは笑った。
その肩幅と腕の太さから、相当な体力があることが分かった。
続いて、眼鏡を掛けた少年が立ち上がった。
「僕はユリウス・ヴェーバー。十六歳です」
彼は少し緊張した様子で頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
ユリウスはレイブンの胸元へ視線を向けた。
「……そのネクタイピン、綺麗ですね」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「父さんから、成人祝いにもらったんだ」
「黒鴉の模様ですか?」
「うん。黒鴉っていうんだ」
ユリウスは興味深そうに頷いた。
「……素敵ですね」
その隣から、赤茶色の髪をした青年が声を掛けた。
「俺はフェリックス・ブラント。十六歳。よろしく!」
彼は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「なあ、クロウ。お前、どこの出身だ?」
「帝国中央部だよ」
「じゃあ、この辺りには詳しいのか?」
「多少は」
「よかった! 俺、地方から来たばかりで、右も左も分からないんだよ」
フェリックスは笑った。
「休暇が出たら、街を案内してくれよ」
「いいよ」
レイブンが答えると、フェリックスは嬉しそうに頷いた。
続いて、黒髪の少年が静かに立ち上がった。
「……カール・リヒター」
短い自己紹介だった。
レイブンは頷いた。
「よろしく、カール」
「……ああ」
カールはそれだけ答え、荷物の整理へ戻った。
しかし、無愛想というよりは、単に口数が少ないように見えた。
最後に、穏やかな表情をした青年が近づいてきた。
「僕はエミール・シュナイダー。十七歳です」
彼は柔らかく微笑んだ。
「よろしくお願いします、クロウ君」
「よろしく、エミール」
こうして、七人全員の自己紹介が終わった。
ガイルが部屋の中央へ立ち、両手を広げた。
「よし! これで全員そろったな!」
オスカーが苦笑した。
「お前、もう部屋長みたいな顔してるぞ」
「別にいいだろ。どうせ誰かがまとめないといけないんだから」
フェリックスが笑った。
「じゃあ、お前が部屋長をやれば?」
「お、いいな!」
ユリウスが困ったように口を挟んだ。
「……部屋長は、教官が指定するんじゃないでしょうか」
ガイルは一瞬固まった。
「……そうなのか?」
カールが静かに答えた。
「入校案内に書いてあった」
部屋に笑い声が響いた。
レイブンも思わず笑った。
初対面の六人。
出身地も、性格も、体格も違う。
それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。
レイブンは窓際に空いていた寝台へ荷物を置いた。
その隣で、ガイルが声を掛けてきた。
「なあ、レイブン」
「何?」
「お前、どうして軍に入ろうと思ったんだ?」
レイブンは少し考えた。
「……父さんが軍人なんだ」
「へえ!」
「それで、小さい頃から軍の話を聞いてた。もちろん、それだけじゃないけど」
レイブンは続けた。
「自分でも、誰かを守れる人間になりたいと思ったんだ」
ガイルは頷いた。
「……いいな、それ」
「ガイルは?」
「俺か?」
彼は笑った。
「俺は、昔から身体を動かすのが好きでさ。それに、故郷の人たちを守れる仕事がしたかった」
オスカーも会話へ加わった。
「俺は家族に軍人が多い。まあ、家の伝統みたいなものだな」
ユリウスは少し遠慮がちに答えた。
「僕は、通信や機械の分野に興味があって……軍の技術教育を受けたいと思ったんです」
フェリックスは肩をすくめた。
「俺は、故郷を出て何か大きなことをしたかった。もちろん、軍人になるからには真面目にやるつもりだけどな」
カールは少し黙った後、短く答えた。
「……自分の力を試したかった」
エミールは静かに微笑んだ。
「僕は、負傷した人を助けられる仕事がしたいと思っています。将来は衛生兵か、軍医関係の道へ進みたいですね」
レイブンは六人の顔を見渡した。
同じ学校へ入ってきた七人でも、志願した理由はそれぞれ違う。
そのことが、少し嬉しかった。
午前十時二十六分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、第一講堂。
広い講堂には、新入候補生たちが整列していた。
レイブンたち七人も、第三中隊第二小隊の列に並んでいる。
壇上には、数名の教官が立っていた。
やがて、中央に立つ中年の士官が前へ出た。
「新入候補生諸君。帝国陸軍中央志願兵教育学校への入校を歓迎する」
低く、よく通る声だった。
彼は一度、講堂全体を見渡した。
「私は第一教育大隊、第三中隊の指導教官、マティアス・クルーガー大尉だ」
レイブンは顔を上げた。
見覚えのある人物だった。
五月の射撃試験で、試験監督を務めていた士官である。
クルーガー大尉は続けた。
「諸君は、厳しい選抜試験を通過し、この場に立っている。しかし、試験に合格したことと、軍人として完成したことは同じではない」
講堂は静まり返っていた。
「これから諸君には、軍紀、体力、基礎戦術、通信、救護、兵器の安全管理、そして集団生活について学んでもらう」
クルーガーは一呼吸置いた。
「私は諸君に、無意味な苦痛を与えるつもりはない。しかし、必要な訓練から逃げることも許さない」
その言葉に、候補生たちの表情が引き締まった。
「そして、もう一つ」
クルーガーは声を少し強めた。
「体調不良、負傷、精神的な不調を隠すな。訓練を継続できない状態で無理をすることは、勇敢さではない」
レイブンは、昨日の父の言葉を思い出した。
辞めたくなったり、ストレスを抱えた時は、遠慮なく帰ってこい。
父もまた、同じことを教えようとしていたのだろう。
クルーガーは手元の書類を確認した。
「それでは、各小隊の担当訓練教官を紹介する」
候補生たちの間に、小さな緊張が走った。
第一小隊。
第二小隊。
第三小隊。
それぞれの担当者が順番に紹介されていく。
そして、クルーガーは一枚の書類をめくった。
「第三中隊、第二小隊」
レイブンは姿勢を正した。
隣では、ガイルも真剣な表情になっている。
「担当訓練教官は、帝国陸軍中央教育学校より派遣された教官が務める」
クルーガーは一度、講堂の側面へ目を向けた。
「ヴァルター・A・クロウ少佐」
その瞬間、レイブンの思考が止まった。
「…………え?」
思わず、小さな声が漏れた。
隣のガイルが顔を向けた。
「……クロウ?」
レイブンは答えられなかった。
講堂の側面にある扉が開いた。
そして、一人の軍人が姿を現した。
濃緑色の軍服。
黒い猫耳。
落ち着いた眼差し。
右腕には、魔力義肢を装着している。
その人物は、ゆっくりと壇上へ歩み寄った。
ヴァルター・A・クロウ少佐。
レイブンの父だった。
ヴァルターは壇上中央で立ち止まり、候補生たちを見渡した。
その表情は、家で見せる父親のものではなかった。
帝国陸軍の教官としての、厳格な顔だった。
「第三中隊第二小隊、担当訓練教官のヴァルター・A・クロウ少佐だ」
低い声が講堂に響いた。
「本日より、諸君の基礎訓練を担当する」
レイブンは父を見つめていた。
昨夜、あれほど穏やかに話していた父が、今は壇上に立っている。
しかも、自分たちの担当教官として。
ガイルが小声で尋ねた。
「……なあ、レイブン」
「……何?」
「今の人、お前と同じ名字だよな?」
レイブンは少しだけ目を閉じた。
「……うん」
「もしかして、親戚か?」
レイブンは小さく答えた。
「……父さん」
ガイルの耳が勢いよく立った。
「…………は?」
隣のオスカーも目を見開いた。
ユリウスは眼鏡を押し上げ、フェリックスは驚いた顔でレイブンを見つめている。
カールだけは静かに壇上を見ていたが、その眉がわずかに動いた。
エミールは困ったように微笑んだ。
「……これは、驚きましたね」
しかし、その直後。
「私語を慎め」
ヴァルターの声が響いた。
七人は一斉に姿勢を正した。
ヴァルターは候補生たちを見渡した。
「ここでは、家柄も出身地も関係ない。諸君は全員、同じ教育課程を受ける候補生だ」
そして、レイブンのいる列へ視線を向けた。
「私の息子も、この小隊に所属している」
講堂の一部に、わずかなざわめきが生まれた。
ヴァルターは続けた。
「だが、訓練において特別扱いはしない。評価は規定に基づいて行う。私情による加点も、逆に不当な減点も認めない」
クルーガー大尉が頷いた。
「なお、公平性を確保するため、クロウ少佐の親族に関係する正式な成績評価については、別の評価官による確認を行う」
その説明を聞き、レイブンは少しだけ安心した。
父は、父親としてではなく、教官としてここにいる。
そして、自分もまた、息子としてではなく、一人の候補生として扱われる。
ヴァルターは最後に告げた。
「私からは以上だ。諸君の努力に期待する」
敬礼。
候補生たちも、それに応じた。
レイブンは、父の右腕が自然に動く様子を見つめた。
五月、義肢を装着したばかりの頃は、スプーンの力加減さえ難しかった。
それが今では、軍服の袖を通し、教官として壇上に立っている。
その姿を見て、レイブンは少しだけ誇らしくなった。
だが、同時に別の感情も湧いていた。
――父さんが、俺の教官になる?
昨日まで考えてもいなかった現実だった。
午後零時四十一分。
第二候補生宿舎、第三〇七号室。
昼食を終えた七人は、部屋へ戻っていた。
扉が閉まると同時に、ガイルがレイブンへ振り返った。
「おい、レイブン!」
「……何?」
「お前の父さん、あのクロウ少佐なのか!?」
レイブンは苦笑した。
「……うん」
フェリックスも近づいてきた。
「いやいや、待てよ! 何で先に言わなかったんだ!?」
「……俺も、担当教官になるなんて知らなかったんだよ」
オスカーは腕を組んだ。
「なるほどな。だから、あんなに驚いていたのか」
ユリウスは少し考え込んだ。
「でも、クロウ少佐は中央教育学校の教官なんですよね?」
「うん」
「それなら、教育学校への派遣自体は不思議ではありませんね」
カールが静かに口を開いた。
「……問題は、俺たちの担当になることだ」
ガイルは大きく頷いた。
「そう! そこだよ!」
エミールは微笑んだ。
「でも、評価の公平性については説明がありましたし、心配しすぎる必要はないと思います」
レイブンは頷いた。
「……俺も、そう思う」
フェリックスは少し悪戯っぽく笑った。
「なあ、レイブン」
「何?」
「家では、あの少佐ってどんな感じなんだ?」
レイブンは少し考えた。
そして、昨日のことを思い出した。
成人祝い。
黒鴉のネクタイピン。
父としての訓示。
そして、五月に義肢を装着したばかりの頃、スプーンを曲げてしまった父の姿。
「……普通の父さんだよ」
ガイルが首を傾げた。
「普通?」
「うん。家族のことを心配するし、冗談も言うし、たまに失敗もする」
フェリックスは笑った。
「へえ。意外だな」
レイブンも笑った。
「でも、訓練中は厳しいよ」
その一言で、六人の表情が変わった。
ガイルが真剣に尋ねた。
「……どれくらい?」
レイブンは少し考えた。
「……かなり」
沈黙。
そして、フェリックスが天井を見上げた。
「……入校初日から、なかなか大変そうだな」
部屋に笑い声が響いた。
レイブンも笑った。
不安はある。
緊張もある。
だが、それ以上に、新しい仲間たちと過ごす時間が楽しみだった。
午後三時十八分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、第二訓練場。
第三中隊第二小隊の候補生たちが、整列していた。
ヴァルターは列の前に立ち、手元の名簿を確認している。
「これより、基礎体力および集団行動の確認を行う」
候補生たちは姿勢を正した。
「本日は初日だ。無理な負荷は掛けない。ただし、指示を正確に聞き、行動すること」
ヴァルターは続けた。
「まず、各員の氏名と所属を確認する」
一人ずつ名前が呼ばれていく。
「ガイル・ベッカー」
「はい!」
「オスカー・グラーフ」
「はい!」
「ユリウス・ヴェーバー」
「はい!」
「フェリックス・ブラント」
「はい!」
「カール・リヒター」
「はい!」
「エミール・シュナイダー」
「はい!」
そして。
「レイブン・S・クロウ」
レイブンは姿勢を正した。
「はい!」
ヴァルターは名簿から顔を上げた。
父と息子の視線が、一瞬だけ交わった。
しかし、そこに私的な言葉はなかった。
「よろしい」
ヴァルターは名簿を閉じた。
「では、訓練を開始する」
レイブンは静かに息を吐いた。
ここでは、父さんではない。
クロウ少佐。
自分は、その指導を受ける候補生の一人だ。
そのことを、改めて胸に刻んだ。
午後七時四十六分。
第二候補生宿舎、第三〇七号室。
初日の課程を終えた七人は、各自の寝台で荷物を整理していた。
ガイルは椅子へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「……初日から疲れたな」
オスカーは笑った。
「まだ本格的な訓練も始まってないぞ」
「分かってるって!」
フェリックスは寝台へ腰掛けた。
「でも、クロウ少佐、思ったより話が分かる人だったな」
ユリウスが頷いた。
「指示が明確でしたし、体調確認も丁寧でした」
カールは静かに答えた。
「……無駄がない」
エミールは微笑んだ。
「厳しいですが、理不尽ではありませんね」
レイブンは六人の言葉を聞きながら、少しだけ安心していた。
父が、教官として評価されている。
それが嬉しかった。
ガイルはレイブンへ振り返った。
「なあ、レイブン」
「何?」
「これから、よろしくな」
レイブンは少し驚いた。
「……急にどうしたの?」
「いや、改めて言っておこうと思ってさ」
ガイルは笑った。
「同じ部屋で生活するんだ。何かあったら助け合おうぜ」
オスカーも頷いた。
「そうだな」
ユリウスは微笑んだ。
「よろしくお願いします」
フェリックスは片手を上げた。
「俺も!」
カールは短く頷いた。
「……ああ」
エミールも静かに微笑んだ。
「よろしくお願いします」
レイブンは六人の顔を見渡した。
そして、笑った。
「……こちらこそ、よろしく」
七人の候補生。
それぞれ異なる故郷、家族、夢を持つ若者たち。
今日、彼らは同じ部屋で生活を始めた。
まだ互いのことを、ほとんど知らない。
それでも、これから同じ時間を過ごし、同じ訓練を受け、少しずつ関係を築いていくことになる。
午後九時二十一分。
第三〇七号室。
消灯前。
レイブンは机の前に座り、黒革の手帳を開いていた。
ルナから贈られた万年筆を握り、ゆっくりと文字を書き始める。
『帝政歴三四三年、十一月二十七日。
今日、志願兵教育学校へ入校した。
部屋は三〇七号室。
ルームメイトは六人。
ガイル、オスカー、ユリウス、フェリックス、カール、エミール。
みんな、いい人たちだと思う。
これから一緒に生活するのが楽しみだ。
それから、驚いたことがあった。
父さんが、俺たちの担当訓練教官になった。
まったく知らなかった。
講堂で名前を呼ばれた時は、本当に驚いた。
でも、父さんは教官として、きちんと公平に接してくれた。
俺も、父さんの息子だからではなく、一人の候補生として頑張りたい。
今日は、たくさんのことがあった。
でも、一番嬉しかったのは、六人の仲間ができたことだ。
明日から、もっと頑張ろう。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、手帳を閉じた。
窓の外には、静かな夜空が広がっていた。
遠くから、見回りの教官が歩く足音が聞こえる。
隣の寝台では、ガイルがすでに横になっていた。
「……なあ、レイブン」
「何?」
「明日も頑張ろうな」
レイブンは微笑んだ。
「……うん」
そして、部屋の明かりが消えた。
帝政歴三四三年、十一月二十七日。
レイブン・S・クロウ、十六歳。
志願兵教育学校への入校初日。
六人の新しい仲間との出会い。
そして、父ヴァルターとの、教官と候補生としての再会。
少年の新しい生活は、静かに始まった。




