↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
PR
50/261

第50話 十六歳の成人、黒鴉に託された誓い

第50話 十六歳の成人、黒鴉に託された誓い


 帝政歴三四三年、十一月二十五日。

 帝国中央部、クロウ家別邸。

 午前六時三十二分。

 冬の訪れを告げる冷たい風が、屋敷の窓を小さく揺らしていた。

 レイブン・S・クロウは、寝台の上でゆっくりと目を開けた。

 いつもと変わらない天井。窓の向こうには、朝日に照らされた庭園が広がり、芝生の一部には薄い霜が降りている。

 少年は枕元の時計を確認し、静かに身体を起こした。

 今日で、十六歳。

 帝国法では、満十六歳を迎えた者は成人として認められる。

それは帝国だけに限った制度ではなかった。長年対立を続けてきた連邦共和国でも、十六歳を成人年齢とする法律が施行されており、両国の政治体制や価値観が大きく異なる一方で、この点だけは共通していた。

レイブンも、今日から一人の成人として扱われる。

もっとも、昨日まで十五歳だった少年が、一夜にして何もかもできるようになるわけではない。

そのことは、本人が誰よりもよく分かっていた。

 婚姻、契約、財産管理、家督継承。そして、本人の意思と適性審査を前提とする正規の軍務への志願。

 十六歳という年齢は、社会から一人の成人として扱われる節目だった。

 もちろん、成人したからといって、すべての責任を一人で背負わなければならないわけではない。

 それでも、今日から自分は法律上の大人になる。

 レイブンは自分の両手を見つめた。

「……十六歳、か」

 その時、扉が軽くノックされた。

「レイブン様、お目覚めでございますか?」

 聞き慣れた声だった。

「起きてます。どうぞ」

 扉が開き、金髪の女性が姿を現した。

 ファニータだった。

 十八歳の彼女は、濃紺の使用人服を身につけ、いつものように落ち着いた表情をしていた。

 しかし、今日の彼女は少しだけ嬉しそうだった。

「おはようございます、レイブン様」

「おはようございます、ファニータさん」

 彼女は深く一礼した。

「そして、十六歳のお誕生日、誠におめでとうございます」

 レイブンは少し照れくさそうに笑った。

「ありがとうございます」

「本日をもって、レイブン様も正式に成人でございますね」

「……まだ実感がありません」

 ファニータは微笑んだ。

「そうでございましょうね。昨日までと、急に何かが変わるわけではございませんから」

 レイブンは頷いた。

「でも、少し緊張します」

「それは自然なことでございます」

 ファニータは窓のカーテンを開いた。

 朝日が部屋へ差し込む。

「本日は、クロウ家の皆様が集まられます。アルベルト様、ヘレーネ様、クラウディア様、それからアメリア様もお越しになる予定です」

 レイブンの猫耳が動いた。

「お祖父ちゃんたちも?」

「はい。皆様、とても楽しみにしておられます」

 少年は微笑んだ。

「……嬉しいな」

 ファニータは机の上に用意された衣服を確認した。

「本日は成人式に合わせ、礼装をご用意しております」

 レイブンは椅子に掛けられた衣服を見た。

 濃紺の上衣。

 白いシャツ。

 黒いネクタイ。

 そして、クロウ家の家紋が控えめに刺繍された胸元。

「……これを着るんですか?」

「はい」

 ファニータは微笑んだ。

「きっと、とてもお似合いになります」

 レイブンは少し頬を赤くした。

「……ありがとうございます」

 午前八時十六分。

 クロウ家別邸、食堂。

 食卓には、温かな朝食が並んでいた。

 ヴァルター・A・クロウは、いつもの軍服ではなく、落ち着いた色の私服を着ていた。

 右腕には、五月に再構築された魔力義肢が装着されている。

 半年ほどの適応訓練を経た義肢は、以前より自然に動くようになっていた。

 それでも、細かな力加減には今なお注意が必要だった。

「おはよう、レイブン」

「おはよう、父さん」

 ヴァルターは息子の姿を見て、静かに微笑んだ。

「……十六歳か」

「うん」

「早いものだな」

 レイブンは椅子へ座った。

「父さんも、十六歳で成人したんだよね?」

「ああ。だが、私の頃とは教育制度も少し変わっている」

 ヴァルターは右手で紅茶のカップを持ち上げた。

 以前のように食器を曲げてしまうことは、もうほとんどなかった。

「成人とは、急に何でもできるようになることではない。自分の判断に責任を持つようになるということだ」

 レイブンは頷いた。

「……分かってる」

 セレナが微笑んだ。

「でも、困った時には私たちを頼っていいのよ」

「……うん」

 ルナは隣で嬉しそうに笑っていた。

「お兄ちゃん、大人になったんだね!」

「そうだね」

「じゃあ、もう子供扱いできない?」

 レイブンは苦笑した。

「……ルナは、いつも俺を子供扱いしてたの?」

「ううん。でも、たまに!」

 食卓に笑い声が響いた。

 ヴァルターはその光景を見つめながら、静かに紅茶を飲んだ。

 今日、息子は成人する。

 そして数日後には、志願兵教育学校への入校を迎える。

 父親として誇らしい。

 だが、同時に胸の奥には、言葉にできない寂しさもあった。

 帝政歴三四三年、十一月二十五日。

 午前十時四十二分。

 クロウ家別邸、大広間。

 屋敷の大広間には、クロウ家の親族が集まっていた。

 中央には、黒鴉を意匠とした家紋旗が掲げられている。

 その下には、成人を迎えるレイブンのために用意された席があった。

 最初に声を掛けたのは、祖父アルベルト・A・クロウだった。

 クロウ家第十四代当主。

 年齢を重ねてもなお、背筋の伸びた堂々とした姿が印象的だった。

「レイブン」

「はい、お祖父様」

 アルベルトは孫を見つめた。

「十六歳の成人、おめでとう」

 レイブンは深く一礼した。

「ありがとうございます」

「お前が生まれた日のことを、今でも覚えている」

 祖父は静かに続けた。

「ヴァルターが、初めてお前を抱いた時の顔もな」

 ヴァルターが少し眉を寄せた。

「……父上」

 アルベルトは笑った。

「何だ。事実だろう」

 ヘレーネも微笑んだ。

「ええ。あの時のヴァルターは、ずいぶん緊張していましたよ」

 レイブンは父を見た。

「……父さんが?」

 ヴァルターは苦笑した。

「……初めての子供だったからな」

 その言葉に、親族たちから笑い声が上がった。

 続いて、クラウディア・A・クロウが前へ出た。

 ヴァルターの妹であり、レイブンにとっては叔母にあたる女性だった。

「レイブン、成人おめでとう」

「ありがとうございます、叔母様」

 クラウディアは微笑んだ。

「もう十六歳なのね。小さい頃は、私の後ろをついて歩いていたのに」

 レイブンは少し照れくさそうに笑った。

「……そんなこともありましたね」

「ええ。懐かしいわ」

 その隣には、従妹のアメリアが立っていた。

 黒い猫耳を持つ少女は、レイブンを見上げていた。

「レイブンお兄ちゃん!」

「アメリア」

「成人、おめでとう!」

「ありがとう」

 アメリアは嬉しそうに笑った。

 そして、少しだけ真剣な表情になった。

「……ねえ、レイブンお兄ちゃん」

「何?」

「私も大きくなったら、何かしたい」

 レイブンは首を傾げた。

「何か?」

「うん。レイブンお兄ちゃんみたいに、自分で決めたことを頑張りたいの」

 少年は少し驚いた。

 アメリアは続けた。

「まだ何をしたいかは分からないけど、誰かの役に立てる人になりたい」

 レイブンは静かに微笑んだ。

「……きっと、なれるよ」

「本当?」

「うん。でも、俺と同じことをしなくてもいいんだ」

 アメリアは目を瞬かせた。

 レイブンは続けた。

「アメリアには、アメリアのやりたいことがあるはずだから」

 少女は少し考えた。

 そして、嬉しそうに頷いた。

「……うん!」

 レイブンは彼女の頭を優しく撫でた。

 その光景を、クラウディアは穏やかな表情で見つめていた。

 午前十一時三十六分。

 クロウ家成人式。

 大広間の中央に、レイブンが立っていた。

 濃紺の礼装を身につけ、胸元にはクロウ家の家紋が輝いている。

 アルベルトが静かに口を開いた。

「レイブン・S・クロウ」

「はい」

「本日、帝政歴三四三年十一月二十五日をもって、お前は満十六歳となった」

 レイブンは真剣に聞いていた。

「帝国法に基づき、お前は成人としての権利と責任を持つことになる」

 アルベルトは続けた。

「しかし、忘れてはならないことがある」

 レイブンは祖父を見た。

「……何でしょうか」

「成人とは、家族から離れることではない」

 祖父の声が、大広間に静かに響いた。

「自分の足で歩くことを認められる日だ。そして、歩き疲れた時に帰る場所がなくなる日ではない」

 レイブンは静かに頷いた。

「……はい」

 アルベルトは微笑んだ。

「お前が選んだ道を、我々は尊重する」

 そして、右手を差し出した。

「成人、おめでとう」

 レイブンは祖父の手を握った。

「……ありがとうございます」

 その瞬間、親族たちから温かな拍手が送られた。

 レイブンは深く一礼した。

 帝政歴三四三年、十一月二十五日。

 レイブン・S・クロウ、十六歳。

 クロウ家の長男は、この日、正式に成人を迎えた。

 午後一時十四分。

 クロウ家別邸、祝宴会場。

 成人式を終えた後、大広間では祝宴が開かれていた。

 長い食卓には、肉料理、魚料理、焼きたてのパン、季節の野菜、果物、そして大きな誕生日ケーキが並んでいる。

 セレナとファニータが中心となって準備した料理だった。

 レイブンは親族たちに囲まれ、少し照れくさそうに笑っていた。

 その時、ヴァルターが小さなグラスを二つ持って近づいてきた。

「……レイブン」

「何、父さん?」

「成人祝いだ。少しだけ、付き合うか?」

 レイブンはグラスを見た。

 中には、琥珀色の液体が入っていた。

「……お酒?」

「ああ。ただし、飲酒については成人年齢とは別の規定がある。今日のこれは、家族の監督下で認められる少量の祝い酒だ」

 ヴァルターは静かに説明した。

「無理に飲む必要はないぞ」

 レイブンは少し考えた。

「……少しだけ、試してみたい」

「分かった」

 その時、アルベルトが近づいてきた。

「ほう。初めての酒か」

 ヴァルターは頷いた。

「はい、父上」

 アルベルトは笑った。

「ならば、私も一緒に教えてやろう」

 レイブンは少し緊張した。

「……よろしくお願いします」

 祖父は小さなグラスを見せた。

「まず、覚えておけ。酒は強さを競うものではない」

 ヴァルターも頷いた。

「飲める量には個人差がある。無理に飲む必要も、誰かに勧められたからといって応じる必要もない」

 レイブンは真剣に聞いていた。

「……はい」

 アルベルトは続けた。

「そして、飲んだ後は判断力が鈍ることもある。軍務や危険な作業の前には、決して口にするな」

「分かりました」

 ヴァルターは微笑んだ。

「今日は味を知るだけでいい」

 レイブンは小さなグラスを受け取った。

 そして、ほんの少しだけ口をつけた。

「……っ」

 思わず眉を寄せる。

 ヴァルターが笑った。

「どうだ?」

 レイブンは正直に答えた。

「……苦い」

 アルベルトが声を上げて笑った。

「ははは! 最初はそんなものだ!」

 ヴァルターも笑った。

「無理に飲み干さなくていい」

 レイブンはグラスを置いた。

「……俺、紅茶の方が好きかもしれない」

 その言葉に、セレナが微笑んだ。

「それなら、温かい紅茶を持ってくるわね」

 ファニータも静かに頷いた。

「かしこまりました」

 ルナは兄の顔を見て、くすくす笑っていた。

「お兄ちゃん、すごい顔してた!」

「……そんなに?」

「うん!」

 レイブンは苦笑した。

 どうやら、大人になったからといって、酒が好きになるわけではないらしい。

 午後三時二十七分。

 クロウ家別邸、洗濯室。

 祝宴の片づけが一段落した頃、セレナはレイブンを洗濯室へ呼んだ。

 そこには、ヘレーネも待っていた。

「レイブン、少し時間はある?」

「うん。どうしたの?」

 セレナは微笑んだ。

「入校前に、覚えておいてほしいことがあるの」

 レイブンは首を傾げた。

「……何?」

 ヘレーネが洗濯籠を示した。

「洗濯の仕方ですよ」

 レイブンは目を瞬かせた。

「……洗濯?」

「ええ」

 セレナは頷いた。

「学校では、自分の衣服を管理しなければならないでしょう?」

 レイブンは少し考えた。

「……確かに」

 ヘレーネは笑った。

「軍人を目指すなら、まず自分の生活を整えられなければなりません」

 レイブンは頷いた。

「……分かりました」

 セレナは衣類を広げた。

「まず、洗濯表示を確認するの」

 レイブンは真剣に見つめた。

「……これ?」

「そう。素材によって、洗い方が違うのよ」

 ヘレーネも続けた。

「汚れの種類や、色落ちにも注意すること。全部まとめて洗えばいいというものではありません」

 レイブンは頷いた。

「……なるほど」

 その後、二人はレイブンへ洗濯の基本を教えた。

 衣類の分類。

 洗剤の量。

 汚れの確認。

 乾燥方法。

 そして、制服を傷めないための手入れ。

 レイブンは何度も質問しながら、実際に作業を行った。

 しばらくして、洗濯物を干し終えると、セレナが微笑んだ。

「上手にできたわね」

 レイブンは少し照れくさそうに笑った。

「……思ったより大変だった」

 ヘレーネは頷いた。

「そうでしょう。でも、こういうことを続けられる人は、どこへ行っても生活を整えられます」

 レイブンは静かに頷いた。

「……覚えておきます」

 午後四時四十二分。

 クロウ家別邸、書斎。

 今度はクラウディアが、レイブンを呼んでいた。

 机の上には、便箋と万年筆、そして筆記体の見本が並んでいる。

「レイブン、座って」

「はい、叔母様」

 クラウディアは微笑んだ。

「今日は、少し違う勉強をしましょう」

 レイブンは見本を見た。

「……筆記体?」

「そう。軍の書類や私的な手紙では、手書きの文字を使う機会もあるでしょう?」

 レイブンは頷いた。

「……ありますね」

 クラウディアは万年筆を手に取った。

「文字は、読みやすく書くことが大切よ。速く書くことだけを考えないで」

 そして、便箋へ流れるような文字を書いた。

 レイブンは目を見開いた。

「……綺麗ですね」

 クラウディアは微笑んだ。

「ありがとう。さあ、やってみて」

 レイブンは万年筆を握った。

 そして、見本を参考に文字を書き始めた。

 しかし、最初はなかなか思うように書けなかった。

「……難しい」

「慌てなくていいわ」

 クラウディアは静かに続けた。

「文字にも、その人の性格が表れるものよ」

 レイブンは少し笑った。

「……俺の文字は、まだ落ち着きがないですね」

「そうね。でも、丁寧に書こうとしているのは伝わるわ」

 レイブンは頷いた。

 何度か練習を重ねるうちに、少しずつ文字が整っていった。

 クラウディアは満足そうに微笑んだ。

「……うん。良くなってきたわ」

 レイブンは嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます」

 午後六時三十八分。

 クロウ家別邸、居間。

 夕食前、ルナがレイブンの前へ小さな箱を持ってきた。

「お兄ちゃん!」

「どうしたの?」

 ルナは嬉しそうに笑った。

「成人祝い!」

 レイブンは目を見開いた。

「……俺に?」

「うん!」

 ルナは箱を差し出した。

 レイブンは受け取り、ゆっくりと蓋を開けた。

 中には、一本の万年筆が収められていた。

 深い黒色の軸。

 銀色の金具。

 そして、軸の一部には小さな月と黒鴉を組み合わせた模様が刻まれていた。

 レイブンは息を呑んだ。

「……綺麗だ」

 ルナは嬉しそうに頷いた。

「お兄ちゃんが、学校でもいっぱい勉強できるようにって!」

 レイブンは万年筆を手に取った。

 少し重みがある。

 しかし、握りやすかった。

「……ありがとう、ルナ」

 ルナは笑った。

「大切にしてね!」

「もちろん」

 レイブンは妹の頭を優しく撫でた。

「ずっと大切にするよ」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 その光景を、セレナとヴァルターは穏やかに見つめていた。

 午後九時十二分。

 クロウ家別邸、レイブンの自室。

 成人式と祝宴を終えたレイブンは、机の前に座っていた。

 机の上には、今日受け取った贈り物が並んでいる。

 ルナから贈られた万年筆。

 クラウディアから教わった筆記体の練習用紙。

 そして、祖父母から渡された成人祝いの記念品。

 レイブンは黒革の手帳を開いた。

 そして、ルナから贈られた万年筆を握った。

『帝政歴三四三年、十一月二十五日。

 今日、十六歳になった。

 帝国の法律では、今日から成人らしい。

 でも、正直に言うと、まだ実感がない。

 お祖父様とお祖母様、叔母様、アメリアが来てくれた。

 父さんとお祖父様からは、少しだけお酒の味を教わった。

 苦かった。

 俺は、まだ紅茶の方が好きだ。

 母さんとお祖母様からは、洗濯の仕方を教わった。

 叔母様からは、筆記体の書き方を教わった。

 ルナからは、新しい万年筆をもらった。

 すごく嬉しかった。

 アメリアは、大きくなったら自分も何かしたいと言っていた。

 俺みたいに頑張りたいらしい。

 でも、アメリアにはアメリアの道を見つけてほしいと思う。

 数日後には、志願兵教育学校へ入校する。

 少し怖い。

 でも、楽しみでもある。

 俺は、今日から成人だ。

 だからこそ、自分の選んだ道を大切にしたい。』

 レイブンは万年筆を置いた。

 そして、手帳を閉じた。

 窓の外には、冬の夜空が広がっていた。

 明日は、入校前の最後の準備日。

 その翌日には、帝国陸軍中央志願兵教育学校へ向かう予定だった。

 レイブンは静かに息を吐いた。

「……もうすぐだ」

 帝政歴三四三年、十一月二十六日。

 午前七時四十八分。

 クロウ家別邸、食堂。

 朝食を終えたレイブンは、父ヴァルターから書斎へ来るように言われていた。

 少年は少し不思議に思いながら、書斎の扉をノックした。

「父さん、入るよ」

「ああ」

 扉を開けると、ヴァルターは机の前に立っていた。

 今日は軍服ではなく、濃い灰色の上衣を着ている。

 右腕には、魔力義肢が装着されていた。

 ヴァルターは息子を見た。

「……レイブン」

「何?」

「入校前に、渡しておきたいものがある」

 レイブンは首を傾げた。

「……何?」

 ヴァルターは机の引き出しを開けた。

 そして、小さな黒い箱を取り出した。

「これだ」

 レイブンは箱を受け取った。

「……開けてもいい?」

「ああ」

 少年はゆっくりと蓋を開けた。

 中には、銀色のネクタイピンが収められていた。

 細長い金属の表面には、黒鴉を模した精巧な装飾が施されている。

 翼を広げた黒鴉。

 鋭い眼差し。

 そして、羽根の一枚一枚まで丁寧に刻まれた意匠。

 レイブンは息を呑んだ。

「……これ……」

 ヴァルターは静かに微笑んだ。

「黒鴉(ブラック・レイブン)だ」

 レイブンは父を見た。

「……ブラック・レイブン?」

「ああ」

 ヴァルターは頷いた。

「クロウ家の象徴をもとに、職人へ特別に依頼した」

 レイブンはネクタイピンを見つめた。

 黒鴉の翼が、朝日に照らされて輝いている。

「……すごい」

 ヴァルターは続けた。

「いずれ、お前が自分の愛銃を持つようになった時、その銃にも同じ意匠を刻んでもらうといい」

 レイブンは目を見開いた。

「……俺の銃にも?」

「ああ。だが、今すぐではない。お前が正式な軍人となり、自分の装備に責任を持てるようになってからだ」

 レイブンは静かに頷いた。

「……分かった」

 ヴァルターは息子の前へ歩み寄った。

「レイブン」

「……はい」

 父は右手を差し出した。

 魔力義肢の指先が、少しだけ動いた。

 レイブンはその手を握った。

 ヴァルターは静かに口を開いた。

「お前は一人じゃない、家族がいる。だから、辞めたくなったり、ストレスを抱えたときは遠慮なく帰ってこい、レイブン。これは父としての訓示だ」

 レイブンは、父の顔を見つめた。

 その言葉は、軍人としての命令ではなかった。

 教官としての指導でもなかった。

 一人の父親が、これから家を離れる息子へ伝えた言葉だった。

「……父さん」

 レイブンの声が少し震えた。

 ヴァルターは静かに続けた。

「軍人として強くなることは大切だ。だが、それ以上に、お前自身を失わないことが大切だ」

 レイブンは頷いた。

「……うん」

「もし、道に迷ったら帰ってこい。失敗しても、挫折しても構わない」

 父は右手を少しだけ強く握った。

「クロウ家は、お前の帰る場所だ」

 レイブンは目を伏せた。

 胸の奥が熱くなった。

 それは、〔身体超強化(リミット・ブレイク)〕の発現とは違う。

 もっと静かで、温かな感覚だった。

「……ありがとう、父さん」

 ヴァルターは微笑んだ。

「……ああ」

 レイブンはネクタイピンを胸元へ当てた。

 黒鴉の翼が、朝日に照らされて輝いていた。

 午前九時二十三分。

 クロウ家別邸、玄関広間。

 レイブンは、入校に必要な荷物を確認していた。

 ファニータが書類を整理し、セレナが衣類を確認している。

 ルナは兄の鞄を見つめながら、少し寂しそうな表情をしていた。

「……お兄ちゃん」

「何?」

「学校に行ったら、あんまり会えなくなる?」

 レイブンは少し考えた。

「……今までみたいには会えないかもしれない」

 ルナは俯いた。

 レイブンは妹の前へしゃがんだ。

「でも、手紙を書くよ」

 ルナは顔を上げた。

「……本当?」

「うん。昨日もらった万年筆で」

 ルナは嬉しそうに笑った。

「……約束!」

 レイブンは頷いた。

「約束」

 セレナはその光景を見つめ、優しく微笑んだ。

 ファニータも静かに一礼した。

「レイブン様、準備はすべて整っております」

 レイブンは頷いた。

「ありがとうございます」

 その時、ヴァルターが玄関へ姿を現した。

 右手には、レイブンの入校書類が握られている。

「……レイブン」

「はい」

「明日は早い。今日は無理をせず、身体を休めておけ」

「……分かった」

 ヴァルターは頷いた。

 そして、息子の胸元にあるネクタイピンへ目を向けた。

 黒鴉の意匠が、静かに輝いていた。

 父は少しだけ微笑んだ。

「……似合っているぞ」

 レイブンは照れくさそうに笑った。

「……ありがとう」

 午後九時三十六分。

 クロウ家別邸、レイブンの自室。

 入校前夜。

 部屋の中には、整理された荷物が並んでいた。

 制服。

 訓練服。

 筆記具。

 黒革の手帳。

 そして、父から贈られた《ブラック・レイブン》のネクタイピン。

 レイブンは机の前に座り、ルナから贈られた万年筆を握った。

 そして、手帳を開いた。

『帝政歴三四三年、十一月二十六日。

 明日、志願兵教育学校へ入校する。

 今日は父さんから、ネクタイピンをもらった。

 黒鴉の模様が入っている。

 父さんは、いつか俺が自分の愛銃を持つようになった時、同じ模様を刻んでもいいと言ってくれた。

 それから、大切なことを言ってくれた。

 お前は一人じゃない。

 家族がいる。

 辞めたくなったり、ストレスを抱えた時は、遠慮なく帰ってこい。

 これは父としての訓示だ、と。

 俺は、その言葉を忘れない。

 軍人になりたい。

 強くなりたい。

 でも、何よりも大切なのは、自分が帰る場所を忘れないことだと思う。

 明日から、新しい生活が始まる。

 きっと、失敗もする。

 怒られることもある。

 それでも、少しずつ進んでいこう。

 そして、必ず帰ってくる。』

 レイブンは万年筆を置いた。

 そして、黒革の手帳を閉じた。

 机の上には、黒鴉のネクタイピンが置かれている。

 少年はそれを手に取り、静かに見つめた。

 翼を広げた黒鴉。

 その姿は、どこか遠くへ飛び立とうとしているように見えた。

「……行ってきます、父さん」

 小さく呟いた。

 そして、ネクタイピンを丁寧に箱へ戻した。

 帝政歴三四三年、十一月二十六日。

 レイブン・S・クロウ、十六歳。

 成人を迎えた少年は、家族から数多くの教えと贈り物を受け取り、志願兵教育学校への入校を翌日に控えていた。

 祖父からは、成人としての責任。

 祖母と母からは、生活を支える知恵。

 叔母からは、言葉を丁寧に記す技術。

 妹からは、新しい万年筆。

 従妹からは、未来へ向かう夢。

 そして父からは、《ブラック・レイブン》のネクタイピンと、何よりも大切な言葉。

 お前は一人じゃない。

 家族がいる。

 その言葉を胸に、少年は新たな道へ踏み出そうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。