第50話 十六歳の成人、黒鴉に託された誓い
第50話 十六歳の成人、黒鴉に託された誓い
帝政歴三四三年、十一月二十五日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前六時三十二分。
冬の訪れを告げる冷たい風が、屋敷の窓を小さく揺らしていた。
レイブン・S・クロウは、寝台の上でゆっくりと目を開けた。
いつもと変わらない天井。窓の向こうには、朝日に照らされた庭園が広がり、芝生の一部には薄い霜が降りている。
少年は枕元の時計を確認し、静かに身体を起こした。
今日で、十六歳。
帝国法では、満十六歳を迎えた者は成人として認められる。
それは帝国だけに限った制度ではなかった。長年対立を続けてきた連邦共和国でも、十六歳を成人年齢とする法律が施行されており、両国の政治体制や価値観が大きく異なる一方で、この点だけは共通していた。
レイブンも、今日から一人の成人として扱われる。
もっとも、昨日まで十五歳だった少年が、一夜にして何もかもできるようになるわけではない。
そのことは、本人が誰よりもよく分かっていた。
婚姻、契約、財産管理、家督継承。そして、本人の意思と適性審査を前提とする正規の軍務への志願。
十六歳という年齢は、社会から一人の成人として扱われる節目だった。
もちろん、成人したからといって、すべての責任を一人で背負わなければならないわけではない。
それでも、今日から自分は法律上の大人になる。
レイブンは自分の両手を見つめた。
「……十六歳、か」
その時、扉が軽くノックされた。
「レイブン様、お目覚めでございますか?」
聞き慣れた声だった。
「起きてます。どうぞ」
扉が開き、金髪の女性が姿を現した。
ファニータだった。
十八歳の彼女は、濃紺の使用人服を身につけ、いつものように落ち着いた表情をしていた。
しかし、今日の彼女は少しだけ嬉しそうだった。
「おはようございます、レイブン様」
「おはようございます、ファニータさん」
彼女は深く一礼した。
「そして、十六歳のお誕生日、誠におめでとうございます」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
「本日をもって、レイブン様も正式に成人でございますね」
「……まだ実感がありません」
ファニータは微笑んだ。
「そうでございましょうね。昨日までと、急に何かが変わるわけではございませんから」
レイブンは頷いた。
「でも、少し緊張します」
「それは自然なことでございます」
ファニータは窓のカーテンを開いた。
朝日が部屋へ差し込む。
「本日は、クロウ家の皆様が集まられます。アルベルト様、ヘレーネ様、クラウディア様、それからアメリア様もお越しになる予定です」
レイブンの猫耳が動いた。
「お祖父ちゃんたちも?」
「はい。皆様、とても楽しみにしておられます」
少年は微笑んだ。
「……嬉しいな」
ファニータは机の上に用意された衣服を確認した。
「本日は成人式に合わせ、礼装をご用意しております」
レイブンは椅子に掛けられた衣服を見た。
濃紺の上衣。
白いシャツ。
黒いネクタイ。
そして、クロウ家の家紋が控えめに刺繍された胸元。
「……これを着るんですか?」
「はい」
ファニータは微笑んだ。
「きっと、とてもお似合いになります」
レイブンは少し頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
午前八時十六分。
クロウ家別邸、食堂。
食卓には、温かな朝食が並んでいた。
ヴァルター・A・クロウは、いつもの軍服ではなく、落ち着いた色の私服を着ていた。
右腕には、五月に再構築された魔力義肢が装着されている。
半年ほどの適応訓練を経た義肢は、以前より自然に動くようになっていた。
それでも、細かな力加減には今なお注意が必要だった。
「おはよう、レイブン」
「おはよう、父さん」
ヴァルターは息子の姿を見て、静かに微笑んだ。
「……十六歳か」
「うん」
「早いものだな」
レイブンは椅子へ座った。
「父さんも、十六歳で成人したんだよね?」
「ああ。だが、私の頃とは教育制度も少し変わっている」
ヴァルターは右手で紅茶のカップを持ち上げた。
以前のように食器を曲げてしまうことは、もうほとんどなかった。
「成人とは、急に何でもできるようになることではない。自分の判断に責任を持つようになるということだ」
レイブンは頷いた。
「……分かってる」
セレナが微笑んだ。
「でも、困った時には私たちを頼っていいのよ」
「……うん」
ルナは隣で嬉しそうに笑っていた。
「お兄ちゃん、大人になったんだね!」
「そうだね」
「じゃあ、もう子供扱いできない?」
レイブンは苦笑した。
「……ルナは、いつも俺を子供扱いしてたの?」
「ううん。でも、たまに!」
食卓に笑い声が響いた。
ヴァルターはその光景を見つめながら、静かに紅茶を飲んだ。
今日、息子は成人する。
そして数日後には、志願兵教育学校への入校を迎える。
父親として誇らしい。
だが、同時に胸の奥には、言葉にできない寂しさもあった。
帝政歴三四三年、十一月二十五日。
午前十時四十二分。
クロウ家別邸、大広間。
屋敷の大広間には、クロウ家の親族が集まっていた。
中央には、黒鴉を意匠とした家紋旗が掲げられている。
その下には、成人を迎えるレイブンのために用意された席があった。
最初に声を掛けたのは、祖父アルベルト・A・クロウだった。
クロウ家第十四代当主。
年齢を重ねてもなお、背筋の伸びた堂々とした姿が印象的だった。
「レイブン」
「はい、お祖父様」
アルベルトは孫を見つめた。
「十六歳の成人、おめでとう」
レイブンは深く一礼した。
「ありがとうございます」
「お前が生まれた日のことを、今でも覚えている」
祖父は静かに続けた。
「ヴァルターが、初めてお前を抱いた時の顔もな」
ヴァルターが少し眉を寄せた。
「……父上」
アルベルトは笑った。
「何だ。事実だろう」
ヘレーネも微笑んだ。
「ええ。あの時のヴァルターは、ずいぶん緊張していましたよ」
レイブンは父を見た。
「……父さんが?」
ヴァルターは苦笑した。
「……初めての子供だったからな」
その言葉に、親族たちから笑い声が上がった。
続いて、クラウディア・A・クロウが前へ出た。
ヴァルターの妹であり、レイブンにとっては叔母にあたる女性だった。
「レイブン、成人おめでとう」
「ありがとうございます、叔母様」
クラウディアは微笑んだ。
「もう十六歳なのね。小さい頃は、私の後ろをついて歩いていたのに」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「……そんなこともありましたね」
「ええ。懐かしいわ」
その隣には、従妹のアメリアが立っていた。
黒い猫耳を持つ少女は、レイブンを見上げていた。
「レイブンお兄ちゃん!」
「アメリア」
「成人、おめでとう!」
「ありがとう」
アメリアは嬉しそうに笑った。
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「……ねえ、レイブンお兄ちゃん」
「何?」
「私も大きくなったら、何かしたい」
レイブンは首を傾げた。
「何か?」
「うん。レイブンお兄ちゃんみたいに、自分で決めたことを頑張りたいの」
少年は少し驚いた。
アメリアは続けた。
「まだ何をしたいかは分からないけど、誰かの役に立てる人になりたい」
レイブンは静かに微笑んだ。
「……きっと、なれるよ」
「本当?」
「うん。でも、俺と同じことをしなくてもいいんだ」
アメリアは目を瞬かせた。
レイブンは続けた。
「アメリアには、アメリアのやりたいことがあるはずだから」
少女は少し考えた。
そして、嬉しそうに頷いた。
「……うん!」
レイブンは彼女の頭を優しく撫でた。
その光景を、クラウディアは穏やかな表情で見つめていた。
午前十一時三十六分。
クロウ家成人式。
大広間の中央に、レイブンが立っていた。
濃紺の礼装を身につけ、胸元にはクロウ家の家紋が輝いている。
アルベルトが静かに口を開いた。
「レイブン・S・クロウ」
「はい」
「本日、帝政歴三四三年十一月二十五日をもって、お前は満十六歳となった」
レイブンは真剣に聞いていた。
「帝国法に基づき、お前は成人としての権利と責任を持つことになる」
アルベルトは続けた。
「しかし、忘れてはならないことがある」
レイブンは祖父を見た。
「……何でしょうか」
「成人とは、家族から離れることではない」
祖父の声が、大広間に静かに響いた。
「自分の足で歩くことを認められる日だ。そして、歩き疲れた時に帰る場所がなくなる日ではない」
レイブンは静かに頷いた。
「……はい」
アルベルトは微笑んだ。
「お前が選んだ道を、我々は尊重する」
そして、右手を差し出した。
「成人、おめでとう」
レイブンは祖父の手を握った。
「……ありがとうございます」
その瞬間、親族たちから温かな拍手が送られた。
レイブンは深く一礼した。
帝政歴三四三年、十一月二十五日。
レイブン・S・クロウ、十六歳。
クロウ家の長男は、この日、正式に成人を迎えた。
午後一時十四分。
クロウ家別邸、祝宴会場。
成人式を終えた後、大広間では祝宴が開かれていた。
長い食卓には、肉料理、魚料理、焼きたてのパン、季節の野菜、果物、そして大きな誕生日ケーキが並んでいる。
セレナとファニータが中心となって準備した料理だった。
レイブンは親族たちに囲まれ、少し照れくさそうに笑っていた。
その時、ヴァルターが小さなグラスを二つ持って近づいてきた。
「……レイブン」
「何、父さん?」
「成人祝いだ。少しだけ、付き合うか?」
レイブンはグラスを見た。
中には、琥珀色の液体が入っていた。
「……お酒?」
「ああ。ただし、飲酒については成人年齢とは別の規定がある。今日のこれは、家族の監督下で認められる少量の祝い酒だ」
ヴァルターは静かに説明した。
「無理に飲む必要はないぞ」
レイブンは少し考えた。
「……少しだけ、試してみたい」
「分かった」
その時、アルベルトが近づいてきた。
「ほう。初めての酒か」
ヴァルターは頷いた。
「はい、父上」
アルベルトは笑った。
「ならば、私も一緒に教えてやろう」
レイブンは少し緊張した。
「……よろしくお願いします」
祖父は小さなグラスを見せた。
「まず、覚えておけ。酒は強さを競うものではない」
ヴァルターも頷いた。
「飲める量には個人差がある。無理に飲む必要も、誰かに勧められたからといって応じる必要もない」
レイブンは真剣に聞いていた。
「……はい」
アルベルトは続けた。
「そして、飲んだ後は判断力が鈍ることもある。軍務や危険な作業の前には、決して口にするな」
「分かりました」
ヴァルターは微笑んだ。
「今日は味を知るだけでいい」
レイブンは小さなグラスを受け取った。
そして、ほんの少しだけ口をつけた。
「……っ」
思わず眉を寄せる。
ヴァルターが笑った。
「どうだ?」
レイブンは正直に答えた。
「……苦い」
アルベルトが声を上げて笑った。
「ははは! 最初はそんなものだ!」
ヴァルターも笑った。
「無理に飲み干さなくていい」
レイブンはグラスを置いた。
「……俺、紅茶の方が好きかもしれない」
その言葉に、セレナが微笑んだ。
「それなら、温かい紅茶を持ってくるわね」
ファニータも静かに頷いた。
「かしこまりました」
ルナは兄の顔を見て、くすくす笑っていた。
「お兄ちゃん、すごい顔してた!」
「……そんなに?」
「うん!」
レイブンは苦笑した。
どうやら、大人になったからといって、酒が好きになるわけではないらしい。
午後三時二十七分。
クロウ家別邸、洗濯室。
祝宴の片づけが一段落した頃、セレナはレイブンを洗濯室へ呼んだ。
そこには、ヘレーネも待っていた。
「レイブン、少し時間はある?」
「うん。どうしたの?」
セレナは微笑んだ。
「入校前に、覚えておいてほしいことがあるの」
レイブンは首を傾げた。
「……何?」
ヘレーネが洗濯籠を示した。
「洗濯の仕方ですよ」
レイブンは目を瞬かせた。
「……洗濯?」
「ええ」
セレナは頷いた。
「学校では、自分の衣服を管理しなければならないでしょう?」
レイブンは少し考えた。
「……確かに」
ヘレーネは笑った。
「軍人を目指すなら、まず自分の生活を整えられなければなりません」
レイブンは頷いた。
「……分かりました」
セレナは衣類を広げた。
「まず、洗濯表示を確認するの」
レイブンは真剣に見つめた。
「……これ?」
「そう。素材によって、洗い方が違うのよ」
ヘレーネも続けた。
「汚れの種類や、色落ちにも注意すること。全部まとめて洗えばいいというものではありません」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
その後、二人はレイブンへ洗濯の基本を教えた。
衣類の分類。
洗剤の量。
汚れの確認。
乾燥方法。
そして、制服を傷めないための手入れ。
レイブンは何度も質問しながら、実際に作業を行った。
しばらくして、洗濯物を干し終えると、セレナが微笑んだ。
「上手にできたわね」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「……思ったより大変だった」
ヘレーネは頷いた。
「そうでしょう。でも、こういうことを続けられる人は、どこへ行っても生活を整えられます」
レイブンは静かに頷いた。
「……覚えておきます」
午後四時四十二分。
クロウ家別邸、書斎。
今度はクラウディアが、レイブンを呼んでいた。
机の上には、便箋と万年筆、そして筆記体の見本が並んでいる。
「レイブン、座って」
「はい、叔母様」
クラウディアは微笑んだ。
「今日は、少し違う勉強をしましょう」
レイブンは見本を見た。
「……筆記体?」
「そう。軍の書類や私的な手紙では、手書きの文字を使う機会もあるでしょう?」
レイブンは頷いた。
「……ありますね」
クラウディアは万年筆を手に取った。
「文字は、読みやすく書くことが大切よ。速く書くことだけを考えないで」
そして、便箋へ流れるような文字を書いた。
レイブンは目を見開いた。
「……綺麗ですね」
クラウディアは微笑んだ。
「ありがとう。さあ、やってみて」
レイブンは万年筆を握った。
そして、見本を参考に文字を書き始めた。
しかし、最初はなかなか思うように書けなかった。
「……難しい」
「慌てなくていいわ」
クラウディアは静かに続けた。
「文字にも、その人の性格が表れるものよ」
レイブンは少し笑った。
「……俺の文字は、まだ落ち着きがないですね」
「そうね。でも、丁寧に書こうとしているのは伝わるわ」
レイブンは頷いた。
何度か練習を重ねるうちに、少しずつ文字が整っていった。
クラウディアは満足そうに微笑んだ。
「……うん。良くなってきたわ」
レイブンは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
午後六時三十八分。
クロウ家別邸、居間。
夕食前、ルナがレイブンの前へ小さな箱を持ってきた。
「お兄ちゃん!」
「どうしたの?」
ルナは嬉しそうに笑った。
「成人祝い!」
レイブンは目を見開いた。
「……俺に?」
「うん!」
ルナは箱を差し出した。
レイブンは受け取り、ゆっくりと蓋を開けた。
中には、一本の万年筆が収められていた。
深い黒色の軸。
銀色の金具。
そして、軸の一部には小さな月と黒鴉を組み合わせた模様が刻まれていた。
レイブンは息を呑んだ。
「……綺麗だ」
ルナは嬉しそうに頷いた。
「お兄ちゃんが、学校でもいっぱい勉強できるようにって!」
レイブンは万年筆を手に取った。
少し重みがある。
しかし、握りやすかった。
「……ありがとう、ルナ」
ルナは笑った。
「大切にしてね!」
「もちろん」
レイブンは妹の頭を優しく撫でた。
「ずっと大切にするよ」
ルナは嬉しそうに笑った。
その光景を、セレナとヴァルターは穏やかに見つめていた。
午後九時十二分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
成人式と祝宴を終えたレイブンは、机の前に座っていた。
机の上には、今日受け取った贈り物が並んでいる。
ルナから贈られた万年筆。
クラウディアから教わった筆記体の練習用紙。
そして、祖父母から渡された成人祝いの記念品。
レイブンは黒革の手帳を開いた。
そして、ルナから贈られた万年筆を握った。
『帝政歴三四三年、十一月二十五日。
今日、十六歳になった。
帝国の法律では、今日から成人らしい。
でも、正直に言うと、まだ実感がない。
お祖父様とお祖母様、叔母様、アメリアが来てくれた。
父さんとお祖父様からは、少しだけお酒の味を教わった。
苦かった。
俺は、まだ紅茶の方が好きだ。
母さんとお祖母様からは、洗濯の仕方を教わった。
叔母様からは、筆記体の書き方を教わった。
ルナからは、新しい万年筆をもらった。
すごく嬉しかった。
アメリアは、大きくなったら自分も何かしたいと言っていた。
俺みたいに頑張りたいらしい。
でも、アメリアにはアメリアの道を見つけてほしいと思う。
数日後には、志願兵教育学校へ入校する。
少し怖い。
でも、楽しみでもある。
俺は、今日から成人だ。
だからこそ、自分の選んだ道を大切にしたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、手帳を閉じた。
窓の外には、冬の夜空が広がっていた。
明日は、入校前の最後の準備日。
その翌日には、帝国陸軍中央志願兵教育学校へ向かう予定だった。
レイブンは静かに息を吐いた。
「……もうすぐだ」
帝政歴三四三年、十一月二十六日。
午前七時四十八分。
クロウ家別邸、食堂。
朝食を終えたレイブンは、父ヴァルターから書斎へ来るように言われていた。
少年は少し不思議に思いながら、書斎の扉をノックした。
「父さん、入るよ」
「ああ」
扉を開けると、ヴァルターは机の前に立っていた。
今日は軍服ではなく、濃い灰色の上衣を着ている。
右腕には、魔力義肢が装着されていた。
ヴァルターは息子を見た。
「……レイブン」
「何?」
「入校前に、渡しておきたいものがある」
レイブンは首を傾げた。
「……何?」
ヴァルターは机の引き出しを開けた。
そして、小さな黒い箱を取り出した。
「これだ」
レイブンは箱を受け取った。
「……開けてもいい?」
「ああ」
少年はゆっくりと蓋を開けた。
中には、銀色のネクタイピンが収められていた。
細長い金属の表面には、黒鴉を模した精巧な装飾が施されている。
翼を広げた黒鴉。
鋭い眼差し。
そして、羽根の一枚一枚まで丁寧に刻まれた意匠。
レイブンは息を呑んだ。
「……これ……」
ヴァルターは静かに微笑んだ。
「黒鴉だ」
レイブンは父を見た。
「……ブラック・レイブン?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「クロウ家の象徴をもとに、職人へ特別に依頼した」
レイブンはネクタイピンを見つめた。
黒鴉の翼が、朝日に照らされて輝いている。
「……すごい」
ヴァルターは続けた。
「いずれ、お前が自分の愛銃を持つようになった時、その銃にも同じ意匠を刻んでもらうといい」
レイブンは目を見開いた。
「……俺の銃にも?」
「ああ。だが、今すぐではない。お前が正式な軍人となり、自分の装備に責任を持てるようになってからだ」
レイブンは静かに頷いた。
「……分かった」
ヴァルターは息子の前へ歩み寄った。
「レイブン」
「……はい」
父は右手を差し出した。
魔力義肢の指先が、少しだけ動いた。
レイブンはその手を握った。
ヴァルターは静かに口を開いた。
「お前は一人じゃない、家族がいる。だから、辞めたくなったり、ストレスを抱えたときは遠慮なく帰ってこい、レイブン。これは父としての訓示だ」
レイブンは、父の顔を見つめた。
その言葉は、軍人としての命令ではなかった。
教官としての指導でもなかった。
一人の父親が、これから家を離れる息子へ伝えた言葉だった。
「……父さん」
レイブンの声が少し震えた。
ヴァルターは静かに続けた。
「軍人として強くなることは大切だ。だが、それ以上に、お前自身を失わないことが大切だ」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「もし、道に迷ったら帰ってこい。失敗しても、挫折しても構わない」
父は右手を少しだけ強く握った。
「クロウ家は、お前の帰る場所だ」
レイブンは目を伏せた。
胸の奥が熱くなった。
それは、〔身体超強化〕の発現とは違う。
もっと静かで、温かな感覚だった。
「……ありがとう、父さん」
ヴァルターは微笑んだ。
「……ああ」
レイブンはネクタイピンを胸元へ当てた。
黒鴉の翼が、朝日に照らされて輝いていた。
午前九時二十三分。
クロウ家別邸、玄関広間。
レイブンは、入校に必要な荷物を確認していた。
ファニータが書類を整理し、セレナが衣類を確認している。
ルナは兄の鞄を見つめながら、少し寂しそうな表情をしていた。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「学校に行ったら、あんまり会えなくなる?」
レイブンは少し考えた。
「……今までみたいには会えないかもしれない」
ルナは俯いた。
レイブンは妹の前へしゃがんだ。
「でも、手紙を書くよ」
ルナは顔を上げた。
「……本当?」
「うん。昨日もらった万年筆で」
ルナは嬉しそうに笑った。
「……約束!」
レイブンは頷いた。
「約束」
セレナはその光景を見つめ、優しく微笑んだ。
ファニータも静かに一礼した。
「レイブン様、準備はすべて整っております」
レイブンは頷いた。
「ありがとうございます」
その時、ヴァルターが玄関へ姿を現した。
右手には、レイブンの入校書類が握られている。
「……レイブン」
「はい」
「明日は早い。今日は無理をせず、身体を休めておけ」
「……分かった」
ヴァルターは頷いた。
そして、息子の胸元にあるネクタイピンへ目を向けた。
黒鴉の意匠が、静かに輝いていた。
父は少しだけ微笑んだ。
「……似合っているぞ」
レイブンは照れくさそうに笑った。
「……ありがとう」
午後九時三十六分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
入校前夜。
部屋の中には、整理された荷物が並んでいた。
制服。
訓練服。
筆記具。
黒革の手帳。
そして、父から贈られた《ブラック・レイブン》のネクタイピン。
レイブンは机の前に座り、ルナから贈られた万年筆を握った。
そして、手帳を開いた。
『帝政歴三四三年、十一月二十六日。
明日、志願兵教育学校へ入校する。
今日は父さんから、ネクタイピンをもらった。
黒鴉の模様が入っている。
父さんは、いつか俺が自分の愛銃を持つようになった時、同じ模様を刻んでもいいと言ってくれた。
それから、大切なことを言ってくれた。
お前は一人じゃない。
家族がいる。
辞めたくなったり、ストレスを抱えた時は、遠慮なく帰ってこい。
これは父としての訓示だ、と。
俺は、その言葉を忘れない。
軍人になりたい。
強くなりたい。
でも、何よりも大切なのは、自分が帰る場所を忘れないことだと思う。
明日から、新しい生活が始まる。
きっと、失敗もする。
怒られることもある。
それでも、少しずつ進んでいこう。
そして、必ず帰ってくる。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、黒革の手帳を閉じた。
机の上には、黒鴉のネクタイピンが置かれている。
少年はそれを手に取り、静かに見つめた。
翼を広げた黒鴉。
その姿は、どこか遠くへ飛び立とうとしているように見えた。
「……行ってきます、父さん」
小さく呟いた。
そして、ネクタイピンを丁寧に箱へ戻した。
帝政歴三四三年、十一月二十六日。
レイブン・S・クロウ、十六歳。
成人を迎えた少年は、家族から数多くの教えと贈り物を受け取り、志願兵教育学校への入校を翌日に控えていた。
祖父からは、成人としての責任。
祖母と母からは、生活を支える知恵。
叔母からは、言葉を丁寧に記す技術。
妹からは、新しい万年筆。
従妹からは、未来へ向かう夢。
そして父からは、《ブラック・レイブン》のネクタイピンと、何よりも大切な言葉。
お前は一人じゃない。
家族がいる。
その言葉を胸に、少年は新たな道へ踏み出そうとしていた。




