第49話 失われた右腕、再び握る父の決意
第49話 失われた右腕、再び握る父の決意
帝政歴三四三年、五月十八日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前七時二十三分。
食堂の窓から差し込む朝日が、白い封筒を照らしていた。
レイブン・S・クロウは、食卓の前で一枚の通知書を握っていた。黒い猫耳は緊張からまっすぐ立ち、金色と黒色の左右異なる瞳は、紙面に印刷された文字を何度も追っている。
そこには、帝国陸軍中央志願兵教育学校の公印とともに、三段階の選抜試験すべてに合格したことが記されていた。
第一試験、身体能力評価。
第二試験、射撃および模擬戦闘評価。
第三試験、近接格闘評価。
そして、最終試験で発現した特殊能力〔身体超強化〕については、継続的な医療監督を条件に教育課程への参加が認められていた。
レイブンは通知書から顔を上げた。
「……全部、合格した」
隣に座っていたルナが勢いよく立ち上がった。
「お兄ちゃん、本当に!?」
「うん。正式に合格だって」
「やったあ!」
白い猫耳を揺らしながら、ルナは兄へ飛びついた。
レイブンは笑いながら妹を受け止めたが、その勢いに少しよろめいた。
「ルナ、危ないって!」
「だって、お兄ちゃんが合格したんだもん!」
セレナは二人を見つめ、優しく微笑んでいた。
「おめでとう、レイブン。本当によく頑張ったわね」
「ありがとう、母さん」
そして、レイブンは父へ目を向けた。
ヴァルター・A・クロウ。
帝国陸軍少佐であり、帝国陸軍中央教育学校の教官。
黒い猫耳と落ち着いた眼差しを持つ父は、いつものように軍服を着ていた。
ただし、その右袖には腕がない。
帝政歴三三四年、異界門に関係する事件で失われた右腕は、今も戻っていなかった。
ヴァルターは左手で通知書を受け取り、内容を確認した。
「……よくやったな、レイブン」
「ありがとう、父さん」
「だが、ここからが本番だ。入校すれば、これまで以上に厳しい教育が待っている」
「分かってる」
レイブンは頷いた。
「だから、これからも訓練は続けたい」
ヴァルターは少しだけ眉を上げた。
「合格したばかりだぞ。少しは休みたいと思わないのか?」
「休む日は休むよ。でも、入校するまで何もしないのは嫌なんだ」
その答えを聞き、父は静かに笑った。
「……そうか。ならば、今までどおり無理のない範囲で続けよう」
ファニータが温かい紅茶を運んできた。
長い金髪を後ろでまとめた十八歳の女性は、レイブンの手元にある合格通知を見ると、嬉しそうに表情を和らげた。
「レイブン様、改めまして、合格おめでとうございます」
「ありがとうございます、ファニータさん」
「本日はお祝いに、奥様から教わったお料理をお作りいたします」
ルナが顔を上げた。
「お兄ちゃんの好きなやつ?」
「はい。香草を控えめにした煮込み料理でございます」
「やった!」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
家族に祝福されることが、これほど嬉しいとは思っていなかった。
だが、その穏やかな朝から数日後、クロウ家を取り巻く空気は少しずつ変わり始めることになる。
帝政歴三四三年、五月二十一日。
午前六時十五分。
クロウ家別邸、屋外訓練区画。
朝露に濡れた芝生の向こうで、レイブンとファニータが向かい合っていた。
二人は防護手袋を着用し、軽い接触を伴う近接格闘の確認を行っていた。
ファニータは使用人服ではなく、身体の動きを妨げない訓練着を身につけている。
「レイブン様、昨日より動きが安定しております」
「本当ですか?」
「はい。ただし、まだ疲労が残っているように見受けられます」
レイブンは苦笑した。
「……分かっちゃいます?」
「お仕えする者として、体調の変化を見逃すわけにはまいりませんので」
ファニータは微笑んだ。
その少し離れた場所で、ヴァルターが二人の動きを見守っていた。
右袖は空のまま留められ、左手には訓練記録を挟んだ板を持っている。
「レイブン、今日は速度を競うな」
「はい!」
「最終試験で発現した能力を、無理に引き出そうとするなよ」
レイブンは真剣に頷いた。
「分かってる。あの時みたいに身体が動いても、その後に倒れたら意味がないから」
「そのとおりだ」
ヴァルターは満足そうに頷いた。
レイブンは再びファニータと向き合った。
彼女は一歩前へ出て、少年の動きを見た。
レイブンが姿勢を変えると、ファニータも自然に位置を変える。
最終試験で見せた異常な速度は、今は現れない。
それでも、レイブンは以前より落ち着いて動けるようになっていた。
「……っ!」
少年は一度姿勢を崩したが、転倒する前に自分で立て直した。
ファニータは頷いた。
「今の判断は良かったと思います」
ヴァルターも声を掛けた。
「よし。そこまでだ」
レイブンは息を吐いた。
「……ありがとうございました!」
ファニータは一礼した。
「こちらこそ、お疲れさまでございました」
ヴァルターは息子の様子を確認し、記録板へ数字を書き込んだ。
その時、屋敷の正門付近から車両の音が聞こえた。
警備員が門を開け、一台の軍用車両を敷地内へ通している。
ヴァルターは顔を上げた。
「……何だ?」
車両から降りてきたのは、帝国陸軍の制服を着た若い士官だった。
彼はヴァルターを見つけると、急いで歩み寄ってきた。
「クロウ少佐!」
「どうした、ベルクマン中尉」
エーリヒ・ベルクマン中尉は敬礼した。
「中央教育学校より、至急の連絡です」
ヴァルターの表情が引き締まった。
「……内容は?」
ベルクマンは一瞬、レイブンとファニータへ視線を向けた。
「少佐、できればお二人で」
ヴァルターは頷いた。
「分かった。書斎へ来てくれ」
そして、レイブンへ振り返った。
「今日の訓練は終了だ。身体を休めておけ」
「……はい」
レイブンは父の表情を見た。
いつもの教官としての厳しさとは、少し違っていた。
何かを警戒している。
そんな顔だった。
午前七時二分。
クロウ家別邸、書斎。
ベルクマン中尉は、机の上へ一枚の報告書を置いた。
ヴァルターはそれを左手で受け取り、内容を確認した。
数秒後、眉間に深い皺が寄った。
「……連邦軍の兵士が?」
「はい。帝国中央部の市街地で、連邦共和国軍の制服に似た装備を着用した人物が複数目撃されています」
ヴァルターは報告書を読み進めた。
「身元は確認できたのか?」
「現時点では不明です。正式な軍事使節団や外交関係者として登録された人物とは一致していません」
「武装は?」
「目撃証言には食い違いがあります。拳銃らしきものを見たという証言もありますが、確認されていません」
ヴァルターは静かに息を吐いた。
帝国と連邦共和国。
両国の関係は、以前から冷え込んでいた。
国境付近では軍事演習が増え、外交交渉も難航している。
しかし、帝国中央部の市街地で連邦軍兵士らしき人物が目撃されたとなれば、話は別だった。
「……まだ断定はできんな」
「はい。憲兵隊と治安当局が調査を進めています」
ヴァルターは報告書を閉じた。
「噂が広がれば、市民が不安になる」
「すでに一部の商店街では、連邦軍が潜入したという話が出始めています」
ヴァルターは窓の外へ目を向けた。
庭園では、レイブンとファニータが訓練器材を片づけていた。
少し離れた場所では、ルナがセレナと一緒に花壇の手入れをしている。
いつもと変わらない光景だった。
だからこそ、胸の奥に冷たいものが広がった。
「……ベルクマン」
「はい」
「中央教育学校の警備態勢は?」
「現在、段階的に強化されています」
「了解した。私も後ほど出頭する」
「はっ!」
ベルクマン中尉は敬礼し、書斎を後にした。
ヴァルターはしばらく、その場から動かなかった。
そして、無意識に右肩へ視線を落とした。
そこには、失われた腕があったはずだった。
帝政歴三三四年。
異界門の向こうで負った傷。
九年という時間が過ぎても、右腕は戻っていない。
教官として働くことはできた。
家族を抱きしめることも、左腕だけで何とかできた。
しかし、もし再び戦争が起きたら。
もし、この屋敷へ危険が迫ったら。
その時、自分は家族を守れるのか。
ヴァルターは右肩を見つめた。
「……そろそろ、決断する時か」
その声は、誰にも聞こえなかった。
帝政歴三四三年、五月二十二日。
午後八時三十四分。
クロウ家別邸、夫妻の寝室。
セレナは机の前で書類を整理していた。
その隣には、医療用の魔導資料と、古い研究記録が積まれている。
扉が開き、ヴァルターが入ってきた。
「……セレナ」
妻は顔を上げた。
「あら、あなた。今日は早かったのね」
「ああ。少し話したいことがある」
その声を聞いたセレナは、夫の表情を見つめた。
「……何かあったの?」
ヴァルターは椅子へ腰を下ろした。
そして、空になった右袖へ視線を落とした。
「……右腕のことだ」
セレナの表情が変わった。
「……あなた」
「以前、魔力を使った義肢の再構築について話したことがあったな」
セレナは静かに頷いた。
「ええ。覚えているわ」
それは、ヴァルターが右腕を失った後、何度か検討された技術だった。
魔導技術によって失われた腕の機能を補い、神経系と魔力反応を接続する義肢。
一般的な機械式義肢とは異なり、使用者自身の魔力を利用して動作する特殊な装備だった。
ただし、技術的な難しさも多い。
長時間の使用による負担。
魔力供給の不安定さ。
神経接続の適合性。
そして、身体へ与える影響。
ヴァルターは、これまで本格的な導入を見送っていた。
セレナは静かに尋ねた。
「……今になって、どうして?」
ヴァルターは少し黙った。
そして、窓の外を見た。
「……街で、連邦軍兵士らしき人物が目撃された」
セレナは目を見開いた。
「……連邦軍?」
「ああ。ただし、まだ確認されたわけではない」
ヴァルターは続けた。
「だが、情勢が悪化していることは確かだ」
セレナは夫を見つめた。
「……それで、右腕を?」
「もしもの時、私は家族を守りたい」
ヴァルターは静かに答えた。
「レイブンも、ルナも、お前も」
セレナは何も言わなかった。
ヴァルターは続けた。
「右腕を失ってから、私は多くのことを諦めてきた。だが、今は違う」
彼は左手で右肩へ触れた。
「もう一度、両腕で家族を抱きしめたい」
セレナの瞳が揺れた。
「……あなた」
「そして、必要な時には、自分の身体で守れるようになりたい」
セレナはゆっくりと立ち上がった。
夫の前へ歩み寄り、左手を握る。
「……分かったわ」
ヴァルターは顔を上げた。
「セレナ」
「私も、あなたに無理をしてほしくない」
彼女は静かに続けた。
「でも、あなたが本当に望んでいるなら、協力する」
ヴァルターは妻を見つめた。
「……ありがとう」
セレナは微笑んだ。
「ただし、条件があるわ」
「何だ?」
「必ず、専門の医師と魔導技師の管理下で行うこと。無理な強化や、危険な出力試験はしないこと」
ヴァルターは頷いた。
「約束する」
セレナは夫の頬へ手を添えた。
「……それから、もう一つ」
「何だ?」
「あなた自身の身体も、大切にして」
ヴァルターは静かに微笑んだ。
「……ああ」
帝政歴三四三年、五月二十四日。
帝国中央軍医療研究施設。
午前九時十二分。
白い照明に照らされた処置室には、魔導技術を応用した医療装置が並んでいた。
ヴァルターは診察台へ座り、右肩の状態を確認されていた。
セレナはその隣に立っている。
担当医師は検査結果を見つめ、静かに頷いた。
「……クロウ少佐。右肩の神経反応と魔力適合性は、予想より良好です」
ヴァルターは尋ねた。
「義肢の接続は可能か?」
「可能性は高いと考えられます。ただし、完全な生体再生ではありません」
医師は説明を続けた。
「魔力を媒介として形成する人工的な右腕です。外見は通常の腕に近づけられますが、構造はあくまで義肢です」
ヴァルターは頷いた。
「それで構わない」
魔導技師が装置の準備を始めた。
処置台の周囲には、魔力の流れを制御するための環状装置が設置されている。
その中央に、右腕の骨格を模した人工構造体が置かれていた。
セレナは夫の左手を握った。
「……大丈夫?」
「ああ」
ヴァルターは静かに答えた。
「お前がいてくれるからな」
セレナは少しだけ微笑んだ。
医師が最終確認を行った。
「それでは、魔力義肢の初期接続を開始します」
装置が低い音を立てた。
環状の魔導回路に淡い光が灯る。
人工構造体の表面へ、細い光の筋が走った。
ヴァルターは右肩に、久しく感じていなかった感覚を覚えた。
温かい。
しかし、同時に少し重い。
失われた腕の先へ、何かがつながっていくようだった。
「……っ」
ヴァルターが小さく息を呑んだ。
セレナが手を握り直す。
「あなた?」
「……大丈夫だ」
魔導技師が装置の数値を確認した。
「接続反応、安定しています」
医師が頷いた。
「続行してください」
淡い光が、人工構造体の周囲へ広がった。
やがて、右肩から先に、腕の形が現れ始めた。
上腕。
肘。
前腕。
そして、手首と五本の指。
それは、生身の腕ではなかった。
しかし、確かに腕の形をしていた。
ヴァルターは息を止めるように、その光景を見つめていた。
魔導技師が静かに告げた。
「初期構築、完了」
医師はヴァルターへ向き直った。
「少佐。無理のない範囲で、指を動かしてみてください」
ヴァルターは右手を見つめた。
そして、ゆっくりと意識を向けた。
一本目の指が動いた。
続いて、二本目。
やがて、五本の指がわずかに曲がった。
「……動いた」
ヴァルターの声が震えた。
セレナは目を見開いた。
「……あなた」
ヴァルターは右手を見つめた。
そして、ゆっくりと握った。
九年ぶりだった。
右手で、何かを握る感覚。
まだ完全ではない。
指先には違和感があり、動作もぎこちない。
それでも、確かに動いていた。
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……戻ってきた」
セレナは夫の肩へ額を寄せた。
「……よかった」
ヴァルターは左腕で妻を抱き寄せた。
そして、新しく構築された右腕を、ゆっくりと彼女の背中へ回した。
その動きは、まだ不器用だった。
しかし、セレナは何も言わなかった。
ただ、夫を強く抱きしめた。
帝政歴三四三年、五月二十七日。
午後四時三十八分。
クロウ家別邸、玄関広間。
レイブンは、ファニータとともに入校準備の荷物を整理していた。
机の上には、制服、訓練服、筆記具、手帳、そして教育課程で必要となる書類が並んでいる。
ルナはその隣で、兄の荷物を興味深そうに見ていた。
「お兄ちゃん、これ全部持っていくの?」
「うん。必要なものだけだけどね」
「……多いね」
「そうだね」
レイブンは笑った。
ファニータは書類を確認しながら、静かに頷いた。
「レイブン様、衣類と教材の確認は完了いたしました」
「ありがとうございます」
「残るのは、医療記録と能力管理に関する書類でございます」
レイブンは頷いた。
「……分かりました」
その時、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
聞き慣れた声が響いた。
レイブンは顔を上げた。
「……父さん?」
玄関に立っていたのは、ヴァルターだった。
帝国陸軍の軍服を着ている。
黒い猫耳。
落ち着いた眼差し。
いつもの父だった。
しかし、一つだけ、明らかに違っていた。
右腕があった。
濃緑色の軍服の右袖には、以前にはなかった腕の形があり、その先には黒い手袋を着用した右手が見えていた。
レイブンは、その場で固まった。
「…………え?」
ルナも動きを止めた。
「……お父さん?」
ヴァルターは少し照れくさそうに笑った。
「……驚いたか?」
レイブンは父の右腕を見つめた。
「……父さん、腕……」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「魔力義肢を装着した」
そして、ゆっくりと右手を持ち上げた。
指が動く。
手首が曲がる。
肘が動く。
その動きは、まだ少しぎこちなかった。
しかし、確かに父の意思で動いていた。
レイブンは目を見開いた。
「……本当に、動くの?」
「ああ」
ヴァルターは右手を握った。
「まだ慣れていないがな」
ルナが勢いよく駆け寄った。
「お父さん!」
ヴァルターは膝を曲げた。
「どうした、ルナ」
「……右手、触ってもいい?」
ヴァルターは微笑んだ。
「もちろんだ」
ルナは恐る恐る、父の右手へ触れた。
手袋越しに、しっかりとした感触が伝わる。
「……あったかい」
ヴァルターは頷いた。
「魔力が流れているからな」
ルナは嬉しそうに笑った。
「……すごい!」
レイブンも、ゆっくりと近づいた。
「……父さん」
「何だ?」
「……本当に、よかったね」
ヴァルターは息子を見た。
そして、静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
レイブンは父の右腕を見つめた。
九年前に失われた腕。
幼い頃から、父の右袖はいつも空だった。
だからこそ、今の姿が信じられなかった。
「……痛くないの?」
「少し違和感はある。だが、医師からは順調だと言われている」
レイブンは頷いた。
「……そっか」
ヴァルターは右手を差し出した。
「……握ってみるか?」
レイブンは少し驚いた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
父の右手を握る。
手袋越しに、確かな力が伝わった。
以前、父と握手する時は、いつも左手だった。
しかし、今は違う。
右手で握手している。
レイブンは、少しだけ目を潤ませた。
「……父さん」
「何だ?」
「……おかえり」
ヴァルターは静かに笑った。
「……ただいま」
その時、セレナが廊下から姿を現した。
彼女は夫と子供たちの姿を見て、優しく微笑んだ。
「……もう見せたのね」
ヴァルターは頷いた。
「ああ」
ルナが振り返った。
「お母さん! お父さんの腕、すごいよ!」
セレナは笑った。
「ええ。私もそう思うわ」
ファニータは少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
彼女はヴァルターの右腕へ目を向け、静かに一礼した。
「クロウ少佐。義肢の接続成功、おめでとうございます」
ヴァルターは頷いた。
「ありがとう、ファニータ」
そして、少しだけ真剣な表情になった。
「だが、まだ完全ではない。これから適応訓練が必要だ」
ファニータは頷いた。
「承知しております」
レイブンは父を見た。
「……じゃあ、父さんも訓練するの?」
「ああ」
ヴァルターは微笑んだ。
「今度は、私が一から学び直す番だ」
レイブンは笑った。
「……じゃあ、一緒に頑張ろう」
ヴァルターは少し驚いた。
そして、静かに頷いた。
「……そうだな」
午後六時二十一分。
クロウ家別邸、食堂。
その日の夕食は、いつもより賑やかだった。
セレナとファニータが用意した料理が食卓に並び、ルナは父の右腕について何度も質問していた。
「お父さん、右手で字を書ける?」
「まだ練習が必要だな」
「じゃあ、お箸は?」
「それも練習中だ」
「剣は?」
ヴァルターは苦笑した。
「いきなりそこまで使うつもりはない」
レイブンが笑った。
「父さん、ルナに質問攻めされてるね」
「……まったくだ」
ヴァルターは右手でスプーンを持とうとした。
しかし、少し力が入りすぎた。
金属製のスプーンが、わずかに曲がった。
食卓が静まり返った。
「…………」
ヴァルターはスプーンを見つめた。
レイブンも見つめた。
ルナは目を丸くした。
「……お父さん、すごい力!」
セレナは額へ手を当てた。
「……あなた」
ヴァルターは苦笑した。
「……どうやら、出力調整が必要らしい」
ファニータは静かに立ち上がった。
「新しいスプーンをお持ちいたします」
レイブンは笑いを堪えきれなかった。
「……父さん、最初から飛ばしすぎだよ」
ヴァルターも笑った。
「……そうだな」
セレナは夫を見つめ、少しだけ微笑んだ。
その笑顔には、安堵があった。
九年間、夫が右腕を失ったことを、誰よりも近くで見てきた。
そして今日、再び両腕を持つ姿を見られた。
それだけで、十分だった。
午後九時十四分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは机の前に座り、黒革の手帳を開いていた。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
少年は万年筆を握った。
『帝政歴三四三年、五月二十七日。
今日は、忘れられない日になった。
父さんの右腕が戻ってきた。
正確には、魔力で動く義肢らしい。
でも、俺には本当に腕が戻ったように見えた。
父さんが右手を差し出してくれた時、少し泣きそうになった。
小さい頃から、父さんの右袖はいつも空だった。
だから、今日の姿は本当に嬉しかった。
でも、街では連邦軍の兵士らしき人が目撃されているらしい。
父さんが右腕を取り戻そうと思った理由には、家族を守りたいという気持ちがあったそうだ。
俺も、もっと強くなりたい。
ただし、力だけじゃ駄目だ。
父さんが教えてくれたように、自分の頭で考えて、仲間を大切にして、無事に帰ってくる。
入校まで、あと少し。
俺も、父さんも、新しい一歩を踏み出した。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、手帳を閉じた。
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
遠くから、列車の汽笛が聞こえる。
少年は静かに息を吐いた。
「……父さんも、頑張ってるんだな」
その時、廊下から足音が聞こえた。
続いて、父の声が響いた。
「……セレナ、すまん。また取っ手を壊してしまった」
「あなた! だから力加減に気をつけてって言ったでしょう!」
レイブンは思わず笑った。
どうやら、父の新しい右腕には、まだまだ慣れる時間が必要らしい。
しかし、その笑い声の向こうで、帝国と連邦共和国の緊張は静かに高まり続けていた。
帝政歴三四三年、五月二十七日。
レイブン・S・クロウ、十五歳。
すべての選抜試験に合格し、入校を待つ少年。
そして、九年ぶりに右腕の機能を取り戻した父ヴァルター。
クロウ家に新たな希望が生まれたその日、帝国中央部では、連邦共和国軍の不審な目撃情報が少しずつ増え始めていた。
まだ誰も、その噂が何を意味するのかを知らなかった。
ただ、確かなことが一つだけあった。
平穏な日々の裏側で、何かが動き始めていた。




