第45話 従者のもう一つの顔、志願兵選抜試験
第45話 従者のもう一つの顔、志願兵選抜試験
帝政歴三四三年、三月二十二日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前五時四十七分。
夜明け前の冷たい空気が、屋敷の裏庭を包んでいた。
レイブン・S・クロウは訓練服を身につけ、父ヴァルターの前に立っていた。
十五歳の少年は、数か月にわたる基礎訓練によって、以前より引き締まった身体つきになっていた。黒い猫耳が朝の風にわずかに揺れ、金色と黒色の左右異なる瞳は、父の指示を真剣に待っている。
その隣には、一人の女性が立っていた。
ファニータ。
長い金髪を後ろで束ねた、長身で細身の人間種の女性だった。
卒業祝いの日に初めて紹介された彼女は、今日からレイブンの生活補助と教育課程への準備を本格的に手伝うことになっていた。
ただし、今朝の服装は、屋敷で見せていたものとは違っていた。
濃い灰色の運動服に、足首まで固定された訓練靴。髪は動きの邪魔にならないようまとめられ、表情にも普段の柔らかさとは異なる緊張感がある。
レイブンは彼女を横目で見た。
「……ファニータさんも訓練するんですか?」
ファニータは静かに微笑んだ。
「はい、レイブン様。本日は補助員として参加いたします」
「補助員?」
「訓練中の安全確認と、必要に応じた姿勢の修正を担当いたします」
レイブンは少し驚いた。
「……そういうこともできるんですね」
「多少は心得がございます」
その返答は、妙に控えめだった。
ヴァルターは二人を見ながら、左手で時計を確認した。
「レイブン、雑談はそこまでだ。準備運動を始めろ」
「はい!」
少年は返事をすると、身体を動かし始めた。
ファニータは少し離れた場所へ移動し、訓練区画全体を見渡していた。
その視線は、ただの使用人のものには見えなかった。
午前六時十一分。
クロウ家別邸、訓練区画。
レイブンは泥の残る地面に伏せ、匍匐訓練を続けていた。
前日の雨によって土は湿り、肘や膝を動かすたびに訓練服へ泥が付着する。
「レイブン、焦るな!」
ヴァルターの声が響いた。
「はい!」
「速さを求める前に、動作を安定させろ! 姿勢が乱れれば、それだけ無駄な体力を使う!」
レイブンは呼吸を整えた。
しかし、疲労が蓄積し始めた頃、右膝が滑った。
「……っ!」
身体が傾いた瞬間だった。
ファニータが素早く近づき、レイブンの肩を支えた。
「レイブン様、いったん停止してください」
その声は、普段の丁寧な口調のままだった。
しかし、迷いがなかった。
レイブンは驚いて顔を上げた。
「……ファニータさん?」
「右膝を確認させてください。痛みはございますか?」
「……少しだけ」
ファニータは訓練を中断させ、膝の状態を確認した。
ヴァルターも近づいてくる。
「どうだ?」
「軽い打撲と思われます。腫れは目立ちませんが、負荷を下げた方がよろしいかと」
ファニータは即座に答えた。
ヴァルターは頷いた。
「分かった。レイブン、五分休憩だ」
「……はい」
レイブンは立ち上がった。
その時、ファニータが訓練区画の入口へ目を向けた。
門の外から、荷物を運ぶ作業員の声が聞こえていた。
彼女は何気ない動作でレイブンの立ち位置を変え、通路を確認した。
ほんの一瞬のことだった。
しかし、レイブンは見逃さなかった。
彼女の視線は、門の位置、通路、周囲の人の動きを自然に捉えていた。
まるで、何かが起きた場合に備えているようだった。
「……ファニータさん」
「はい?」
「今、何を見てたんですか?」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「周囲の安全を確認しておりました」
「……訓練中なのに?」
「訓練中だからこそ、でございます」
レイブンは首を傾げた。
ファニータはそれ以上説明せず、水筒を差し出した。
「まずは水分補給をお願いいたします」
少年は受け取った。
しかし、その胸には小さな疑問が残った。
午前六時三十六分。
クロウ家別邸、訓練区画。
休憩を終えたレイブンは、鉄芯入りの模擬刀を手にしていた。
父から贈られた一本だった。
ヴァルターは少し離れた場所から姿勢を確認している。
「構えてみろ」
「はい!」
レイブンは模擬刀を持ち上げた。
しかし、疲労のために握りが不安定になっていた。
「……っ」
ヴァルターが声を掛けようとした、その時だった。
「レイブン様、いったん下ろしてください」
ファニータが静かに言った。
レイブンは模擬刀を下ろした。
「……どうしました?」
「握る力が強すぎます。指先が白くなっております」
彼女は少年の手元を見た。
「無理に力を込め続けると、かえって扱いにくくなります」
レイブンは自分の手を見た。
「……本当だ」
ファニータは微笑んだ。
「少し休ませましょう」
ヴァルターは黙ってその様子を見ていた。
レイブンは父へ目を向けた。
「……父さん」
「何だ?」
「ファニータさん、すごく詳しくない?」
ヴァルターは一瞬、口元を緩めた。
「……そうか?」
「そうだよ。俺よりずっと訓練に慣れてるみたいだ」
ファニータは少し困ったように微笑んだ。
「恐れ入ります」
ヴァルターは笑った。
「まあ、本人に聞いてみればいい」
レイブンはファニータを見た。
「……ファニータさん、前に何かやってたんですか?」
彼女は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……少々、護衛の仕事を」
レイブンは目を丸くした。
「……護衛?」
「はい」
ファニータは頷いた。
「私は、生活補助を行う使用人であると同時に、必要な場合には主の安全を守る役割も担っております」
レイブンは驚いた。
「……そんなことまで?」
ファニータは穏やかに微笑んだ。
「はい。ですが、普段はあくまで使用人でございます」
少年はしばらく彼女を見つめた。
その細身の身体からは想像しにくかったが、動きには確かな経験が感じられた。
ヴァルターは息子の反応を見て、少しだけ笑った。
午前七時二十四分。
クロウ家別邸、食堂。
訓練を終えたレイブンは、朝食の席で父へ尋ねた。
「……父さん」
「何だ?」
「ファニータさんって、どこで知り合ったの?」
ヴァルターは珈琲のカップを置いた。
「……本人から聞いていないのか?」
「護衛の仕事をしてたことは聞いたけど、それ以上は」
ヴァルターは少し考えた。
そして、静かに笑った。
「……昔の同期だ」
レイブンは動きを止めた。
「……えっ?」
「私が志願兵だった頃、同じ教育課程で学んでいた」
レイブンは目を見開いた。
「……ファニータさんが?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「当時から真面目でな。訓練では誰よりも規律に厳しかった」
レイブンは驚いたままだった。
「……でも、父さんと同じ頃ってことは……」
「そうだ。見た目よりずっと経験が長い」
ヴァルターは苦笑した。
「昔から、年齢より若く見られることが多かったがな」
レイブンは少し考えた。
「……じゃあ、父さんが俺のことを話してたの?」
ヴァルターは一瞬、視線を逸らした。
「……まあ、多少は」
その時、食堂へファニータが入ってきた。
「失礼いたします。レイブン様、お飲み物をお持ちいたしました」
レイブンは彼女を見た。
「……ファニータさん」
「はい?」
「父さんと同期だったんですね」
ファニータは一瞬、動きを止めた。
そして、ヴァルターへ視線を向けた。
「……クロウ少佐」
ヴァルターは珈琲を飲んだ。
「本人が聞いてきたのでな」
ファニータは小さく息を吐いた。
「……そうでございましたか」
レイブンは尋ねた。
「父さん、俺のことを話してたんですか?」
ファニータは少し微笑んだ。
「ええ。何度も」
ヴァルターが咳払いした。
「……ファニータ」
しかし、彼女は続けた。
「幼い頃のレイブン様が初めて歩かれたこと、学院で優秀な成績を収められたこと、妹君の面倒をよく見ておられること……」
レイブンは顔を赤くした。
「……そんなことまで?」
「はい」
ファニータは微笑んだ。
「クロウ少佐は、息子様のお話になると、たいへん嬉しそうでございました」
ヴァルターは額へ左手を当てた。
「……そこまで話さなくてもいい」
レイブンは父を見た。
「……父さん」
「何だ」
「……そんなに俺のこと話してたの?」
ヴァルターは少しだけ目を逸らした。
「……親が子供の話をするのは、珍しいことではないだろう」
レイブンは笑った。
ファニータも小さく笑った。
そして、彼女は静かに言った。
「ですから、レイブン様のことは以前から存じておりました。お仕えするにあたり、不安はございませんでした」
レイブンは少し考えた。
「……道理で、初めて会った時からあんなに詳しかったんですね」
「はい」
ファニータは頷いた。
「少佐から、散々お話を伺っておりましたので」
ヴァルターは苦笑した。
「……散々、か」
ファニータは微笑んだ。
「ええ。ですが、良いお話ばかりでございました」
レイブンは照れくさそうに笑った。
そして、少しだけ安心した。
父の古い同期なら、きっと信頼できる。
そう思った。
帝政歴三四三年、三月二十五日。
帝国中央部、市街地。
午後二時十一分。
レイブンは、ファニータとともに書店へ向かっていた。
志願教育課程の選抜試験に備え、必要な参考書を購入するためだった。
ファニータは普段と同じ、落ち着いた服装をしている。
長い金髪を丁寧にまとめ、書類鞄を持ってレイブンの少し後ろを歩いていた。
「レイブン様、次の交差点を左へ曲がれば書店でございます」
「ありがとうございます」
レイブンは頷いた。
その時、通りの向こうから大きな声が聞こえた。
荷車の車輪が石畳の段差へ乗り上げ、積まれていた木箱が崩れかけていた。
近くには、小さな子供が立っている。
「危ない!」
レイブンが声を上げた。
しかし、その瞬間、ファニータが動いた。
彼女はレイブンの前へ出ると、通行人へ短く声を掛け、子供が荷車から離れるのを手助けした。
木箱は地面へ落ちたが、幸い誰も怪我をしなかった。
荷車の持ち主が慌てて駆け寄ってくる。
「す、すみません! 大丈夫でしたか!」
ファニータは落ち着いた声で答えた。
「怪我人はいないようです。ですが、荷物の固定を確認してください」
その口調は、普段の柔らかな使用人のものとは違っていた。
必要なことを、短く、正確に伝えている。
レイブンは彼女を見つめた。
「……ファニータさん」
彼女は振り返った。
「はい、レイブン様」
「……すごいですね」
ファニータは少し驚いた。
「……何がでしょうか?」
「さっき、すぐに動けたから」
ファニータは穏やかに微笑んだ。
「危険を見つけた時、できる範囲で人を守る。それが私の仕事でございます」
レイブンは頷いた。
その姿に、少しだけ尊敬の念を抱いた。
普段は丁寧に身の回りの世話をしてくれる女性。
しかし、外へ出れば、周囲の安全を確認し、必要な時には迷わず行動する護衛。
同じ人物なのに、まるで二つの顔を持っているようだった。
「……俺も、そういうふうになりたいです」
ファニータは少年を見た。
「……レイブン様」
「危ない時に、ちゃんと判断できる人間に」
彼女は静かに微笑んだ。
「きっと、なれます」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
帝政歴三四三年、四月十日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午後八時二十六分。
選抜試験まで、残り二日。
レイブンは書斎で、父とともに試験要項を確認していた。
机の上には、帝国軍志願兵教育課程の選抜案内が置かれている。
第一試験は、基礎身体能力と動作の正確性を確認する実技評価だった。
定められた区画を匍匐で移動し、指定位置で立射姿勢を取り、その後、二本の木製模擬刀を保持したまま、指定された地点まで走る。
模擬刀は両手で逆手に保持することが指定されていた。
ただし、刃に相当する部分は丸められており、対人使用を目的としたものではない。
試験官は、速度だけでなく、姿勢の安定性、指示への対応、安全確認、疲労時の判断などを総合的に評価する。
ヴァルターは要項を読み終え、息子へ目を向けた。
「……レイブン」
「はい」
「試験当日は、焦るな」
レイブンは頷いた。
「……分かってる」
「速く動こうとして、姿勢を崩すな。必要なら一度落ち着け」
「はい」
「そして、体調に異常があれば申告しろ。無理をして倒れることに価値はない」
レイブンは真剣に頷いた。
「……はい」
ヴァルターは少しだけ笑った。
「……最初の頃に比べれば、随分と良くなった」
レイブンは父を見た。
「……本当?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「少なくとも、今のお前なら、最後まで自分の頭で考えようとするだろう」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとう、父さん」
ヴァルターは静かに答えた。
「礼を言うのは、合格してからにしろ」
レイブンは笑った。
「……うん!」
帝政歴三四三年、四月十二日。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、選抜試験場。
午前八時四十三分。
春の空には薄い雲が広がり、冷たい風が試験場を吹き抜けていた。
広大な訓練区画には、多くの志願者が集まっている。
十五歳から十代後半までの候補者たちは、指定された訓練服を身につけ、試験官の説明を聞いていた。
レイブン・S・クロウも、その中にいた。
胸元には、候補者番号が記されている。
彼は深く息を吸った。
緊張していた。
しかし、恐怖だけではなかった。
これまで積み重ねてきた訓練を、試す日が来たのだ。
試験場の外側には、保護者や関係者が待機できる区画が設けられていた。
そこには、ヴァルターとセレナ、ルナ、そしてファニータの姿があった。
ヴァルターは軍服姿だったが、今日は試験官ではない。
息子の選抜試験に関して、評価や判定へ関与しないことが事前に確認されていた。
セレナは少し不安そうに試験場を見つめている。
「……大丈夫かしら」
ヴァルターは静かに答えた。
「……あいつなら、自分で考えて動ける」
ルナは両手を握り締めていた。
「お兄ちゃん、頑張って……」
ファニータは、少し離れた場所で試験場全体を見渡していた。
その表情は、普段の柔らかなものとは違っていた。
周囲の人の動き、通路、出入口、緊急時の避難経路。
彼女は自然にそれらを確認していた。
しかし、視線がレイブンへ向くと、わずかに表情が和らいだ。
「……レイブン様」
小さく呟いた。
「どうか、ご無事で」
午前九時十七分。
第一試験区画。
試験官の声が響いた。
「候補者番号、四一七番!」
レイブンは顔を上げた。
「はい!」
「前へ!」
少年は指定位置へ進んだ。
目の前には、低い障害物が設けられた匍匐区画が広がっている。
その先には立射姿勢を確認する地点があり、さらに奥には走行区画が続いていた。
終点には、赤と白の標識が立てられている。
試験官は説明を始めた。
「第一試験は、指定された動作を連続して行う。各地点で指示に従い、安全確認を怠るな」
レイブンは頷いた。
「了解しました!」
「なお、模擬刀の保持方法は指定どおりとする。危険な振り回しや、他候補者への接近は禁止だ」
「はい!」
試験官は時計を確認した。
「準備!」
レイブンは開始位置へ立った。
地面は湿っている。
前夜の雨によって、ところどころに泥が残っていた。
少年は一瞬、父との訓練を思い出した。
初めて匍匐を行った朝。
泥に滑り、姿勢を崩し、父から厳しく叱られたこと。
何度も失敗し、悔しさで唇を噛んだこと。
そして、少しずつできるようになったこと。
試験官の声が響いた。
「開始!」
レイブンは地面へ身体を伏せた。
冷たい泥が訓練服へ染み込む。
しかし、少年は焦らなかった。
呼吸を整え、指定された区画を進んでいく。
周囲からは、他の候補者たちの足音や試験官の声が聞こえていた。
レイブンは前方の標識を見つめた。
そして、最後の障害物を越えた。
「四一七番、次!」
試験官の指示が飛んだ。
レイブンは立ち上がり、指定された位置へ移動した。
そこには、立射姿勢の評価に使用する訓練用模擬銃が置かれている。
少年はそれを手に取り、指定された姿勢を取った。
呼吸が少し乱れていた。
腕にも疲労が残っている。
しかし、父の言葉を思い出した。
『速く動こうとして、姿勢を崩すな』
レイブンは無理に急がなかった。
試験官が姿勢を確認する。
「……保持!」
数秒が過ぎた。
腕がわずかに震える。
それでも、少年は姿勢を保った。
「……よし! 次へ!」
レイブンは模擬銃を指定位置へ戻した。
そして、走行区画へ向かった。
そこには、二本の木製模擬刀が置かれていた。
レイブンは一瞬、足を止めた。
父から贈られた鉄芯入りの模擬刀とは違う。
試験用の木刀は軽量で、刃に相当する部分が丸められている。
しかし、二本を同時に持つことは、普段の訓練とは異なる感覚だった。
試験官が声を掛けた。
「四一七番! 両手で保持!」
「はい!」
レイブンは二本の木刀を手に取った。
右手に一本。
左手に一本。
指定どおり、両手で逆手に保持する。
そして、前方の標識を見た。
走行区画の先には、指定された到達地点がある。
距離は長くない。
しかし、匍匐と立射姿勢の評価を終えた直後だった。
脚には疲労が残り、呼吸も完全には整っていない。
レイブンは深く息を吸った。
試験官が時計を確認した。
「準備!」
少年は姿勢を整えた。
黒い猫耳が風に揺れる。
金色と黒色の瞳が、前方を見据えた。
そして、試験官の声が響いた。
「走れ!」
レイブンは地面を蹴った。
全力で走り始める。
足元の泥が跳ね、訓練服へ付着した。
両手には、逆手に保持した二本の木刀。
腕を大きく振ることはできない。
それでも、少年は身体のバランスを保ちながら、前方へ進んでいった。
試験場の外側では、ルナが思わず声を上げた。
「お兄ちゃん、頑張って!」
セレナは両手を握り締めた。
ヴァルターは黙って息子を見つめていた。
ファニータも、レイブンの姿から目を離さなかった。
少年は走り続けた。
泥が跳ねる。
呼吸が荒くなる。
脚が重くなる。
しかし、止まらなかった。
目の前には、赤と白の標識が近づいていた。
レイブンは歯を食いしばった。
そして、最後の力を振り絞った。
「……っ、ああああっ!」
少年は指定地点へ向かって駆け抜けた。
試験官の笛が鳴り響いた。
レイブンは勢いを抑えながら停止した。
胸が激しく上下している。
汗が頬を伝い、泥だらけの訓練服が身体に張りついていた。
試験官が時計を確認した。
そして、記録用紙へ何かを書き込んだ。
「候補者四一七番、第一試験終了!」
レイブンは深く息を吐いた。
「……はい!」
試験官は少年を見た。
「指定動作は確認した。結果は後ほど通知する。待機区画へ移動しろ」
「了解しました!」
レイブンは二本の木刀を指定された場所へ戻した。
そして、待機区画へ歩き始めた。
その足取りは、少し重かった。
しかし、顔には小さな笑みが浮かんでいた。
午前九時三十二分。
第一試験場、関係者待機区画。
レイブンが戻ってくると、ルナが真っ先に駆け寄った。
「お兄ちゃん!」
少年は笑った。
「……ただいま」
「すごかったよ!」
「まだ結果は出てないよ」
「でも、最後まで走った!」
ルナは嬉しそうに笑った。
セレナも近づいた。
「お疲れさま、レイブン」
「ありがとう、母さん」
セレナは息子の泥だらけの姿を見て、少し困ったように笑った。
「……また随分と汚したわね」
レイブンは苦笑した。
「……うん」
ヴァルターが近づいた。
「レイブン」
「……父さん」
父は息子を見つめた。
「どうだった?」
レイブンは少し考えた。
「……きつかった」
ヴァルターは頷いた。
「そうか」
「でも、最後までできた」
父は静かに微笑んだ。
「……それでいい」
レイブンは少し驚いた。
「……結果、気にならないの?」
「もちろん気になる」
ヴァルターは答えた。
「だが、結果が出る前に、お前が自分でどう感じたのかを聞きたかった」
レイブンは頷いた。
「……そっか」
その時、ファニータが近づいてきた。
「レイブン様」
「……ファニータさん」
彼女は清潔なタオルと水筒を差し出した。
「お疲れさまでございました」
「ありがとうございます」
レイブンはタオルを受け取った。
ファニータは少年の顔を見つめた。
「……ご立派でした」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「……まだ第一試験だけですよ」
「存じております」
彼女は静かに微笑んだ。
「ですが、最後までご自身の力で進まれたことを、私は誇りに思います」
レイブンは少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
ファニータは深く一礼した。
その姿を見て、ヴァルターは小さく笑った。
午前十時四十六分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、選抜試験場。
第一試験を終えた候補者たちは、次の案内を待っていた。
レイブンも、その中にいた。
身体には疲労が残っていたが、気持ちは落ち着いていた。
父との訓練。
泥にまみれた朝。
何度も失敗した匍匐。
重い模擬銃を持って学んだ姿勢。
ファニータから教わった安全確認。
その一つ一つが、今日の試験につながっていた。
しかし、まだ終わりではない。
第一試験の結果は、まだ発表されていなかった。
そして、志願教育課程へ進むためには、さらに複数の審査を受けなければならない。
レイブンは窓の外を見た。
春の空には、薄い雲が広がっていた。
その向こうには、帝国中央部の街並みが続いている。
少年は静かに息を吐いた。
「……次も、頑張ろう」
そう呟き、再び試験場の方へ目を向けた。
帝政歴三四三年、四月十二日。
レイブン・S・クロウ、十五歳。
父の元同期であり、護衛を兼ねる使用人ファニータとの新たな関係が始まり、志願兵教育課程への選抜試験が幕を開けた。
その第一試験で、少年は自ら積み重ねてきた訓練の成果を示した。
だが、合否はまだ決まっていない。
彼が進もうとする道は、ようやく最初の関門を迎えたばかりだった。




