第43話 父の訓練、鉄の重みと卒業の日
第43話 父の訓練、鉄の重みと卒業の日
帝政歴三四二年、十一月二十六日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前五時四十二分。
まだ夜の名残が色濃く残る冬の早朝、レイブン・S・クロウは、廊下から響いた三度のノックで目を覚ました。
「レイブン、起きているか」
父、ヴァルター・A・クロウの声だった。
「……父さん?」
「五分後、裏庭へ来い。動きやすい服装でな」
それだけ告げると、足音が遠ざかっていった。
レイブンは寝台の上で上体を起こし、時計を確認した。
午前五時四十二分。
昨日、十五歳の誕生日を迎え、両親へ帝国軍の志願教育課程に進みたいと伝えたばかりだった。
父は最後まで反対していた。
母も同じだった。
それでも二人は、レイブンの決意を聞いた上で、志願教育課程への挑戦を認めてくれた。
ただし、絶対に生きて帰ること。
その約束だけは、何があっても忘れてはならない。
レイブンは寝台から降りた。
窓の外は暗く、庭園の木々が冷たい風に揺れている。
「……いよいよか」
少年は小さく呟き、訓練用の服へ着替え始めた。
午前五時五十八分。
クロウ家別邸、裏庭。
ヴァルターは、屋敷の裏手に設けられた小さな訓練区画で待っていた。
黒い訓練服を身につけ、右腕の失われた袖を身体に固定している。
その足元には、細長い布袋と、古びた木箱が置かれていた。
「おはようございます、父さん」
レイブンが声を掛けると、ヴァルターは時計へ目を向けた。
「おはよう。時間は守れたな」
「うん」
「では、今日から始める」
レイブンは姿勢を正した。
「……軍の訓練?」
「正確には、志願教育課程へ進む前の基礎準備だ。ここで何を教わろうと、正式な教育課程の修了資格にはならん。それに、お前はまだ学生だ。学業と健康を犠牲にするようなことはさせない」
ヴァルターは左手で布袋を持ち上げた。
「まず、これを受け取れ」
レイブンは差し出された袋を受け取った。
予想より重い。
口を開いて中身を取り出すと、一本の木製の棒が現れた。
長さは片手剣に近く、握りの部分には革が巻かれている。表面は滑らかに磨かれていたが、普通の木棒とは明らかに重量が違っていた。
「……木刀?」
「模擬刀だ。内部に鉄芯が入っている」
レイブンは両手で持ち直した。
「……重い」
「当然だ。軽い木刀では、武器の重さに振り回される感覚を覚えにくいからな。ただし、鉄芯が入っている以上、打ち合いに使えば危険だ。これは保持姿勢と身体の使い方を確認するためのものだと思え」
ヴァルターは模擬刀の先端を指した。
「人へ向けて振り回すな。実際の対人訓練では、別の安全な訓練具を使う」
「分かった」
レイブンは模擬刀を眺めた。
ただの棒ではない。
父が、これから始まる訓練のために用意したものだった。
ヴァルターは続いて、足元の木箱を開いた。
「そして、もう一つだ」
中から現れたのは、黒く鈍い光沢を放つ模擬銃だった。
レイブンは思わず息を呑んだ。
外見は古い軍用小銃に似ているが、機関部も銃身も一体の金属で作られており、引き金は動かない。弾薬を装填する構造も存在しなかった。
完全な訓練用の重量模型だった。
「……これも、俺に?」
「ああ」
ヴァルターは左手で模擬銃を持ち上げた。
「私が志願兵だった頃に使っていたものだ」
レイブンは父を見た。
「父さんが?」
「そうだ。もう二十年以上前になる」
ヴァルターは少し懐かしそうに笑った。
「当時の教官から渡された時、私も同じことを言ったよ。重い、とな」
レイブンは模擬銃を受け取った。
腕にずしりと重量がかかる。
「……本当に重い」
「鉄でできているからな。木製の模擬銃より頑丈だが、扱いを誤れば怪我をする。振り回すための道具ではない」
レイブンは銃床を見た。
そこには、小さな傷がいくつも残っていた。
長い年月の中で、何度も地面へ置かれ、持ち上げられ、運ばれてきた痕跡だった。
「父さんも、これを持って訓練したの?」
「ああ。何度もな」
「……じゃあ、父さんの最初の銃なんだ」
「銃ではなく模擬銃だが、そう呼んでも間違いではないかもしれんな」
ヴァルターは笑った。
そして、少し真剣な表情になった。
「レイブン。これらは、お前を強く見せるために渡すものではない」
少年は父を見た。
「武器を持つという行為に、どれほどの責任が伴うのかを学ぶためだ」
「……うん」
「重さを知れ。危険を知れ。そして、扱わなくて済む時には扱わない判断を覚えろ」
レイブンは模擬銃を抱え直した。
「……分かった」
ヴァルターは頷いた。
「では、明日から本格的に始めよう。今日は道具の確認と身体検査、それから訓練計画の説明だ」
レイブンは少し驚いた。
「今日から走るんじゃないの?」
「初日に無茶をさせて怪我をさせたら、教官失格だ」
父は淡々と答えた。
「それに、母さんから厳命されている」
「……何を?」
「お前を壊したら、私が家から追い出される」
レイブンは思わず吹き出した。
その笑い声を聞き、ヴァルターも口元を緩めた。
帝政歴三四二年、十一月二十七日。
午前五時五十分。
クロウ家別邸、裏庭。
翌朝、レイブンの訓練は始まった。
最初に命じられたのは、庭園の外周を走ることだった。
冬の空気は冷たく、吐く息が白い。
レイブンは一定の速度で走り始めた。
学院でも体力測定では上位に入っている。走ることには自信があった。
しかし、数周を終えた頃、ヴァルターから声が飛んだ。
「レイブン、速度が乱れている!」
「……はい!」
「最初から飛ばしすぎだ! 最後まで続けられる配分を考えろ!」
レイブンは呼吸を整えようとした。
だが、冷たい空気を吸い込みすぎて喉が痛む。
足取りも少し重くなってきた。
「……っ、はぁ……!」
「そこで無理をするな! 歩いて呼吸を整えろ!」
ヴァルターの声は厳しかった。
レイブンは悔しそうに顔を歪めた。
「……まだ走れます!」
「走れることと、適切に走れていることは違う!」
その一喝に、レイブンは足を止めた。
父は左手で時計を確認しながら近づいてきた。
「お前は、速く走れば評価されると思っているな」
「……少し」
「ここでは違う。体力を使い切ることが目的ではない。必要な時に動ける余力を残すことが大切だ」
レイブンは肩で息をしながら頷いた。
「……はい」
「水を飲め。五分休憩だ」
少年は用意された水筒を受け取った。
訓練は、想像していたものより地味だった。
そして、想像以上に難しかった。
午前六時二十四分。
訓練区画の地面には、低い障害物と安全用の敷物が配置されていた。
ヴァルターはレイブンの前に立ち、地面を指した。
「次は匍匐だ」
レイブンは頷いた。
「はい」
「最初は模擬銃を持たずに行う。身体の動かし方を確認するためだ」
ヴァルターは姿勢を説明し、補助教官として招いたヘルマン・フォーゲル曹長が実演を行った。
レイブンはその動きを真剣に見つめた。
そして、地面へ身体を伏せた。
「……こうですか?」
「違う! 腰が高い!」
ヴァルターの声が飛んだ。
レイブンは慌てて姿勢を直した。
「……はい!」
「慌てるな! 身体の動きがばらばらだ!」
少年は歯を食いしばった。
地面は前夜の雨で湿っており、服の胸元へ泥がついた。
少し進んだところで、肘が滑った。
「うわっ!」
レイブンは泥の上へ顔を近づける形で倒れ込んだ。
フォーゲル曹長が思わず眉を上げた。
「クロウ候補生、ずいぶん豪快に地面と挨拶しましたな」
「……すみません!」
「謝る相手は地面ではありませんぞ。落ち着いてやり直しましょう」
レイブンは顔を赤くした。
ヴァルターは腕を組む代わりに、左手を腰へ当てていた。
「レイブン! 何を焦っている!」
「……速く進もうと……!」
「速さだけ考えるから、姿勢が崩れるんだ!」
父の叱声が庭園に響く。
「そんな動きでは、訓練の最初の段階で失格だぞ!」
レイブンは悔しそうに唇を噛んだ。
その表情を見て、ヴァルターは一瞬だけ言葉を止めた。
そして、少し声を落とした。
「……もう一度だ。今度はゆっくりでいい」
レイブンは顔を上げた。
「……はい!」
少年は再び身体を伏せた。
泥が肘へ染み込み、膝が冷たくなる。
それでも、今度は焦らなかった。
少しずつ進み、最後の敷物までたどり着く。
「……できました!」
ヴァルターは頷いた。
「今の方がいい」
レイブンは安堵した。
しかし、次の言葉で表情が変わった。
「では、休憩後に模擬銃を持って同じ動きを確認する」
「……えっ」
フォーゲル曹長が笑った。
「まだ朝飯前ですぞ、若旦那」
レイブンは空を見上げた。
「……本当に、朝飯前だ……」
午前七時八分。
クロウ家別邸、裏庭。
訓練の終盤、レイブンは泥だらけになっていた。
服の袖も膝も茶色く汚れ、額には汗が浮かんでいる。
ヴァルターは模擬銃を受け取り、安全な置き場へ戻した。
「次は立射姿勢の確認だ。ただし、今日は銃を構える姿勢だけにする」
レイブンは頷いた。
「……はい」
ヴァルターは姿勢を観察した。
「肩に力が入りすぎている」
レイブンは力を抜こうとした。
「……こうですか?」
「今度は上体が不安定だ」
「……難しい」
「簡単なら、教育課程など必要ない」
ヴァルターは少し笑った。
レイブンも苦笑した。
しかし、疲労で足元がふらついた瞬間、父の表情が変わった。
「そこまでだ」
「……まだできます」
「今日は終わりだ」
ヴァルターは時計を確認した。
「疲労が出ている。これ以上は集中力が落ちる」
レイブンは少し悔しそうだった。
「……分かりました」
父は頷いた。
「初日としては十分だ」
その言葉に、レイブンは顔を上げた。
「……本当?」
「ああ。できないことを知るのも訓練の一つだ」
フォーゲル曹長が笑った。
「それに、泥の付き方だけなら立派な新兵ですな」
レイブンは自分の服を見下ろした。
そして、苦笑した。
「……母さんに怒られそう」
ヴァルターは一瞬、顔を引きつらせた。
「……それは私も同じだ」
午前七時三十一分。
クロウ家別邸、玄関。
泥だらけのレイブンが戻ってくると、セレナが玄関で待っていた。
「……あなた」
その一言に、ヴァルターの背筋が伸びた。
「……セレナ」
セレナは息子の姿を見た。
泥だらけの服。
濡れた膝。
疲れた表情。
そして、隣に立つ夫。
「……初日から、随分と派手にやったのね」
ヴァルターは咳払いした。
「基礎訓練だ」
「そう」
セレナは微笑んだ。
しかし、その目は笑っていなかった。
「それで、怪我は?」
「ありません」
レイブンが答えた。
セレナは息子の手足を確認した。
「本当に?」
「うん。疲れただけ」
セレナは頷いた。
「なら、先に温かいお風呂へ入りなさい。朝食はその後よ」
「分かった」
レイブンは屋敷の中へ入っていった。
残されたヴァルターへ、セレナが静かに向き直る。
「……あなた」
「……何だ?」
「教育と八つ当たりは違うわよ」
ヴァルターは頷いた。
「分かっている」
「去年のこと、忘れていないでしょうね」
ヴァルターは真剣な表情になった。
「……忘れるものか」
セレナは少しだけ表情を和らげた。
「なら、いいわ」
そして、夫の肩へ手を置いた。
「厳しくすることは必要かもしれない。でも、あの子が何を学んだのか、ちゃんと見てあげて」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……ああ」
帝政歴三四二年、十二月三日。
午後七時二十一分。
クロウ家別邸、書斎。
訓練開始から一週間が過ぎた。
レイブンは学校へ通いながら、早朝と休日に基礎訓練を続けていた。
走る距離は少しずつ安定し、匍匐も最初ほどぎこちなくなくなっていた。
それでも、ヴァルターからの叱声は絶えなかった。
「姿勢が崩れている!」
「返事だけ立派でも意味がないぞ!」
「考えろ、レイブン! 言われたことを繰り返すだけでは駄目だ!」
父の声は、教育学校の教官としてのものだった。
レイブンは時に悔しさで涙を浮かべ、時には泥の上へ座り込んでしまうこともあった。
しかし、ヴァルターは失敗そのものを責めるのではなく、何が原因だったのかを考えさせた。
そして、必要な時には必ず休ませた。
この日の夜、レイブンは書斎で座学を受けていた。
机の上には、訓練用の無線機が置かれている。
「今日は、通信の基礎だ」
ヴァルターは説明を始めた。
「軍隊では、情報を正確に伝えることが重要になる。どれほど優秀な部隊でも、互いに状況が分からなければ適切に行動できん」
レイブンはノートを開いた。
「……はい」
ヴァルターは訓練用無線機を示した。
「まず、これは送受信の練習に使う教育用機材だ。外部の軍用通信網には接続されていない」
レイブンは頷いた。
「分かった」
「無線で大切なのは、短く、正確に、必要なことを伝えることだ」
父は続けた。
「だが、短ければ何でもいいわけではない。相手が理解できなければ意味がない」
レイブンはノートへ書き込んだ。
ヴァルターは簡単な模擬通信を行わせた。
最初、レイブンは緊張のあまり、必要以上に長く話してしまった。
「……こちら、ええと、訓練班のレイブンです。今、机の上に置いてある資料を確認していて、それで……」
ヴァルターは左手を上げた。
「待て」
レイブンは口を閉じた。
「……はい」
「何を伝えたい?」
「資料を確認したことです」
「なら、それを先に言えばいい」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
「もう一度」
少年は深く息を吸った。
「こちら訓練班。資料確認完了」
ヴァルターは頷いた。
「今の方がいい」
レイブンは少し笑った。
「……できた」
「まだ基礎だがな」
父は笑った。
その時、書斎の扉が開いた。
「お兄ちゃん、まだ勉強してるの?」
ルナだった。
手には、温かい飲み物の入った盆を持っている。
「母さんが持っていってって」
レイブンは微笑んだ。
「ありがとう、ルナ」
少女は机の上の無線機を見た。
「……それ、何?」
「訓練用の無線機だよ」
「話せるの?」
「うん。外にはつながらないけどね」
ルナは目を輝かせた。
「私もやってみたい!」
ヴァルターは笑った。
「では、簡単な通信練習をしてみるか」
ルナは嬉しそうに頷いた。
「うん!」
その夜、書斎には兄妹の笑い声が響いた。
帝政歴三四三年、一月十八日。
午前六時十二分。
クロウ家別邸、裏庭。
冬の寒さが厳しくなっていた。
庭園の地面には霜が降り、訓練区画の周囲には薄い雪が残っている。
レイブンは訓練服を身につけ、父の前に立っていた。
数か月前と比べ、姿勢が安定している。
呼吸の乱れも少なくなった。
ヴァルターは息子を観察し、静かに頷いた。
「……よし」
レイブンは顔を上げた。
「……父さん?」
「今日は、ここまでだ」
「もう?」
「ああ」
ヴァルターは時計を確認した。
「最近は、学校の卒業準備も忙しいだろう。訓練だけがすべてではない」
レイブンは頷いた。
「……うん」
父は少し考え、続けた。
「レイブン」
「何?」
「最初に渡した模擬刀と模擬銃、どう思う?」
少年は少し考えた。
「……最初は、ただ重いだけだと思った」
ヴァルターは頷いた。
「今は?」
「……重さに慣れることより、ちゃんと扱うことの方が難しいって分かった」
ヴァルターは微笑んだ。
「そうか」
レイブンは続けた。
「それに、父さんが何度も言ってたことも、少し分かってきた」
「何だ?」
「……武器を持つことが、強いってことじゃない」
ヴァルターは黙っていた。
「必要な時に、ちゃんと判断できることが大事なんだって」
父は静かに頷いた。
「……そのとおりだ」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
ヴァルターは息子の肩へ左手を置いた。
「……よく頑張っている」
その言葉に、レイブンは目を見開いた。
「……本当?」
「ああ」
父は穏やかに答えた。
「まだまだ未熟だが、確実に成長している」
レイブンは嬉しそうに笑った。
「……ありがとう、父さん」
帝政歴三四三年、三月二十日。
帝国中央学院、中等教育部。
午前十時三十二分。
卒業式が行われていた。
講堂には、多くの生徒と保護者が集まっている。
壇上では、学院長が卒業生たちへ言葉を贈っていた。
「諸君は今日、それぞれの道へ進む。進学する者、職業を選ぶ者、専門教育へ進む者。その道は異なっていても、学び続ける姿勢を忘れないでほしい」
レイブンは、卒業生の列に立っていた。
胸元には、学院の紋章が輝いている。
十五歳。
帝国中央学院での学びを終え、次の道へ進もうとしていた。
講堂の後方には、ヴァルターとセレナ、ルナの姿があった。
セレナは息子の姿を見つめながら、静かに涙を拭っていた。
「……大きくなったわね」
ヴァルターは頷いた。
「……ああ」
ルナは兄を見つめ、嬉しそうに微笑んでいた。
「お兄ちゃん、かっこいい」
ヴァルターは娘の頭を撫でた。
「そうだな」
卒業証書授与が始まった。
レイブンの名前が呼ばれる。
「レイブン・S・クロウ」
「はい!」
少年は壇上へ進み、学院長から卒業証書を受け取った。
その姿を、家族は静かに見守っていた。
午後一時四十七分。
帝国中央学院、正門前。
卒業式を終えたレイブンは、家族と合流していた。
「お兄ちゃん、卒業おめでとう!」
ルナが駆け寄った。
「ありがとう」
セレナは息子を抱き締めた。
「本当におめでとう」
「ありがとう、母さん」
ヴァルターも近づいた。
「よく頑張ったな、レイブン」
少年は父を見た。
「……ありがとう、父さん」
ヴァルターは静かに頷いた。
「今日は、家族で祝おう」
レイブンは笑った。
「うん!」
しかし、その時、セレナが夫へ視線を送った。
ヴァルターは小さく頷いた。
二人の間で、何かが確認されたようだった。
レイブンは首を傾げた。
「……父さん?」
「何だ?」
「……何かあるの?」
ヴァルターは少し笑った。
「帰ってからのお楽しみだ」
セレナも微笑んだ。
「そうね」
ルナは二人を見比べた。
「……えっ、何? 私も知らない!」
ヴァルターは笑った。
「お前にも、後で教える」
レイブンは不思議そうに首を傾げた。
午後四時二十六分。
クロウ家別邸、玄関ホール。
帰宅したレイブンは、卒業証書を自室へ置いた後、両親に呼ばれて玄関ホールへ向かった。
ヴァルターとセレナが待っていた。
ルナも、その隣に立っている。
「……父さん、母さん?」
レイブンは不思議そうに尋ねた。
「どうしたの?」
セレナは微笑んだ。
「レイブン、少し付き合ってくれる?」
「……うん」
ヴァルターは左手に、黒い布を持っていた。
レイブンは目を丸くした。
「……それ、何?」
ヴァルターは笑った。
「目隠しだ」
「……目隠し?」
「ああ」
セレナが続けた。
「卒業のお祝いに、あなたへ見せたいものがあるの」
レイブンは二人を見比べた。
「……何を?」
ヴァルターは首を振った。
「それは、見てからのお楽しみだ」
ルナが興奮した様子で口を挟んだ。
「お兄ちゃん、私もまだ知らないの!」
レイブンは苦笑した。
「……なんだか、すごく気になるんだけど」
セレナは優しく笑った。
「大丈夫。怖いことはしないわ」
ヴァルターは息子へ尋ねた。
「目隠しをしてもいいか?」
レイブンは少し考えた。
そして、笑った。
「……うん」
ヴァルターは左手で黒い布を広げた。
セレナが息子の髪と猫耳を避けるように整え、ヴァルターが慎重に目隠しを結ぶ。
視界が暗くなった。
「……何も見えない」
レイブンが呟く。
セレナは息子の手を握った。
「私が案内するから、ゆっくり歩いてね」
「うん」
ヴァルターは反対側に立った。
「段差があるところでは声を掛ける。焦らなくていい」
レイブンは頷いた。
ルナが嬉しそうに笑う。
「お兄ちゃん、どこに行くんだろうね!」
「……ルナも知らないんでしょ?」
「うん!」
レイブンは思わず笑った。
そして、両親に導かれながら、ゆっくりと歩き始めた。
目隠しの向こうでは、何かの扉が開く音がした。
外から、冷たい春先の風が流れ込んでくる。
遠くで、小鳥の鳴き声が聞こえた。
レイブンは足を止めた。
「……父さん?」
「何だ?」
「……どこに行くの?」
ヴァルターは少し笑った。
「もう少しだ」
セレナも微笑んだ。
「楽しみにしていて」
レイブンは小さく頷いた。
そして、再び歩き始めた。
帝政歴三四三年、三月二十日。
レイブン・S・クロウ、十五歳。
帝国中央学院を卒業した少年は、志願教育課程へ進むための準備を重ねていた。
父から受け取った鉄芯入りの模擬刀。
父が志願兵時代に使用していた、鉄製の模擬銃。
泥にまみれながら繰り返した基礎訓練。
そして、通信や安全管理について学んだ座学。
それらは、少年にとって新しい道への第一歩だった。
しかし、この日、両親が用意していたものは、まだ明かされていなかった。
目隠しをされたレイブンは、父と母に手を引かれながら、屋敷の外へ歩いていく。
その先に何が待っているのか。
少年は、まだ知らなかった。




