第42話 十五歳の決意、生きて帰るという約束
第42話 十五歳の決意、生きて帰るという約束
帝政歴三四二年、十一月二十五日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前六時三十八分。
晩秋の冷たい風が、庭園の木々を揺らしていた。
クロウ家の別邸では、暖炉に火が入り、使用人たちが朝食の準備を進めている。食堂へ続く廊下には焼きたてのパンの香りが漂い、窓硝子には夜明け前の冷気によって薄い曇りが生じていた。
レイブン・S・クロウは、自室の鏡の前に立っていた。
今日で十五歳になる。
一年前と比べて背が伸び、肩幅も少し広くなった。黒い髪は以前より短く整えられ、頭上の黒猫耳も成長に合わせて大きくなっている。
金色と黒色の左右異なる瞳には、少年らしさを残しながらも、以前にはなかった落ち着きが宿っていた。
机の上には、父から贈られた黒革の手帳が置かれている。
十四歳の誕生日から一年。
あの日、父と激しく衝突したことを、レイブンは忘れていなかった。
自分の夢を伝えたことで口論となり、初めて父に頬を叩かれた夜。
その後、父と話すことさえできなくなった日々。
市街地総合演習を見学し、軍人という職業の重さを知ったこと。
そして、父と母、妹が見守る中で、互いの気持ちを伝え合ったこと。
その記憶は、今も鮮明に残っていた。
レイブンは手帳を開いた。
最初の頁には、父の筆跡がある。
『十四歳のレイブンへ。
自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の道を歩め。
父より。』
少年はその文字を指先でなぞった。
この一年、何度も読み返した言葉だった。
そして今日、自分の進路を父と母へ伝えようと決めていた。
それは、簡単に認めてもらえるような選択ではない。
むしろ、二人とも反対するだろう。
それでも、話さなければならない。
レイブンは手帳を閉じた。
「……よし」
小さく呟き、制服の襟を整えた。
午前七時十二分。
クロウ家別邸、食堂。
「お兄ちゃん、誕生日おめでとう!」
食堂へ入った瞬間、ルナが駆け寄ってきた。
十一歳になった妹は、白い猫耳を嬉しそうに揺らしながら、両手で小さな包みを差し出している。
「ありがとう、ルナ」
「開けて!」
レイブンは包みを受け取った。
中には、革紐で編まれた小さな飾りが入っていた。
中央には、黒い鴉をかたどった銀色の金具が取りつけられている。
「これ、ルナが作ったの?」
「うん! 今年はお兄ちゃんの手帳につけられるようにしたの」
レイブンは飾りを持ち上げた。
「……すごいな。去年の栞も大事に使ってるよ」
「知ってる! この前、お兄ちゃんの机で見たもん」
ルナは得意そうに笑った。
その後ろから、セレナが近づいてきた。
「お誕生日おめでとう、レイブン」
「ありがとう、母さん」
セレナは息子を抱き締めた。
以前は母の胸元ほどしかなかった頭が、今では肩の近くまで届いている。
「十五歳になったのね」
「うん」
「大きくなったわ」
セレナは少し寂しそうに微笑んだ。
「でも、無理に大人になろうとしなくてもいいのよ」
レイブンは笑った。
「分かってるよ」
その時、食堂の入口から声がした。
「誕生日おめでとう、レイブン」
ヴァルターだった。
帝国陸軍の制服ではなく、濃紺のシャツと黒い上着を身につけている。
今日は息子の誕生日に合わせ、休暇を取っていた。
「ありがとう、父さん」
レイブンは父へ歩み寄った。
ヴァルターは左手を差し出した。
「十五歳か。随分と早いものだな」
レイブンはその手を握った。
「父さん、去年も似たようなこと言ってた」
「そうだったか?」
「うん」
ヴァルターは苦笑した。
「なら、来年も言うかもしれんな」
ルナが笑い声を上げた。
「お父さん、毎年同じこと言うの?」
「その可能性は高い」
セレナも笑った。
食堂には、穏やかな朝の空気が流れていた。
午前九時二十六分。
帝国中央学院、中等教育部。
レイブンは、進路指導室の前に立っていた。
廊下には、卒業予定者向けの案内が掲示されている。
就職。
高等成人学校への進学。
専門技術教育機関への進学。
そして、帝国軍への志願。
十五歳を迎えた生徒たちは、それぞれの適性や希望に応じて進路を考える時期に入っていた。
ただし、軍への志願を希望したからといって、直ちに正規兵として任務に就けるわけではない。
年齢や適性に応じた審査、教育課程、保護者との協議が必要であり、未成年者が実戦部隊へ配属されることは認められていなかった。
レイブンは掲示された資料を読みながら、静かに考えていた。
自分が望んでいるのは、ただ軍服を着ることではない。
まして、戦場へ行って名誉を得ることでもない。
父の背中を見て育った。
右腕を失ってなお、兵士たちを教え続ける父。
家族を大切にしながら、軍人としての責任を果たそうとする父。
その姿を見て、自分も誰かを守れる人間になりたいと思った。
しかし、軍人になることが唯一の方法だとは限らない。
それも、レイブンは理解していた。
それでも、自分の中で最も強く残っている道は、軍への志願だった。
「クロウ君」
進路指導担当の教師が声を掛けた。
「はい」
「君の進路希望書だが、まだ最終欄が空白になっているね」
レイブンは頷いた。
「……はい」
「迷っているのかな?」
「少しだけ」
教師は穏やかに微笑んだ。
「君の成績なら、高等成人学校への進学も十分に考えられる。技術系の専門課程でも、良い評価を得られるだろう」
「ありがとうございます」
「もちろん、軍の教育課程を希望する道もある。ただし、志願には責任が伴う。家族ともよく話し合うように」
レイブンは真剣な表情で頷いた。
「……今日、話すつもりです」
「そうか」
教師は書類を閉じた。
「なら、まずは自分の考えを正直に伝えてきなさい」
「はい」
午前十一時四十八分。
帝国陸軍中央教育学校、教官室。
ヴァルターは休暇中にもかかわらず、午前中だけ教育学校へ立ち寄っていた。
翌週の教育計画に関する引き継ぎを終え、机の上の資料を整理している。
そこへ、エーリヒ・ベルクマン中尉が入ってきた。
「クロウ少佐、本日はご子息の誕生日でしたね」
「ああ。十五歳になった」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
エーリヒは微笑んだ。
「進路を考える年齢ですね」
ヴァルターの手が止まった。
「……そうだな」
「レイブン君なら、どの分野でも活躍できそうですが」
ヴァルターは窓の外へ目を向けた。
「……本人が何を選ぶかだ」
エーリヒは少し驚いた。
「以前の少佐なら、軍への志願には反対するとおっしゃっていたのでは?」
ヴァルターは苦笑した。
「今でも、反対したい気持ちはある」
「そうですか」
「ああ」
彼は失われた右腕の袖へ視線を落とした。
「できることなら、あいつには危険の少ない道を歩んでほしい」
エーリヒは黙って聞いていた。
「だが、私が望む人生と、息子が望む人生は同じとは限らん」
ヴァルターは静かに続けた。
「……それを、去年ようやく理解した」
エーリヒは頷いた。
「では、もし軍への志願を希望したら?」
ヴァルターは少し考えた。
「……まずは、最後まで話を聞く」
そして、小さく息を吐いた。
「その上で、反対するかもしれんがな」
エーリヒは笑った。
「少佐らしいですね」
ヴァルターも、わずかに笑った。
午後三時四十二分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
学院から帰宅したレイブンは、机の前に座っていた。
目の前には、進路希望書が置かれている。
第一希望の欄には、まだ何も書かれていなかった。
少年は万年筆を握り、しばらく考えた。
高等成人学校へ進学する道。
専門技術を学ぶ道。
民間企業へ就職する道。
いずれも、将来につながる選択肢だった。
しかし、レイブンの心は決まっていた。
彼は、第一希望の欄へ文字を書き込んだ。
『帝国軍志願教育課程』
書き終えた瞬間、胸が大きく鳴った。
父は、何と言うだろう。
母は、どんな顔をするだろう。
去年の誕生日の記憶が、一瞬だけ蘇った。
しかし、レイブンは万年筆を置き、深く息を吸った。
あの時とは違う。
自分は、軍人という職業について何も知らないまま憧れているわけではない。
もちろん、すべてを理解したとも思っていない。
それでも、考え続けた。
学び続けた。
父と話し、母と話し、学校でも多くのことを学んだ。
そして、自分なりの答えにたどり着いた。
「……よし」
レイブンは進路希望書を折り畳み、机の上へ置いた。
午後五時十八分。
クロウ家別邸、居間。
セレナは、誕生日の夕食に向けて準備を進めていた。
ルナは食卓へ飾る花を選びながら、母へ話しかけている。
「お母さん、今日はお兄ちゃんの好きな料理ばっかりだね」
「誕生日だからね」
「私の誕生日も?」
「もちろんよ」
ルナは嬉しそうに笑った。
その時、レイブンが居間へ入ってきた。
「……母さん」
セレナは顔を上げた。
「どうしたの?」
少年は少し緊張した様子で答えた。
「……今日、夕食の後に父さんと母さんへ話したいことがある」
セレナは息子を見つめた。
「進路のこと?」
レイブンは頷いた。
「……うん」
セレナは少し考えた。
「分かったわ」
そして、穏やかに続けた。
「お父さんにも伝えておくわ」
「ありがとう」
ルナが兄を見た。
「お兄ちゃん、何か決めたの?」
レイブンは妹へ微笑んだ。
「……うん」
「教えて!」
「夕食の後にね」
「ええっ、気になる!」
レイブンは笑った。
「もう少し待って」
午後六時三十六分。
クロウ家別邸、食堂。
十五歳の誕生日を祝う夕食が始まった。
食卓には、レイブンの好物が並んでいた。
焼き上げられた肉料理、温かなスープ、香草を添えた野菜料理。
中央には、セレナが用意した誕生日のケーキが置かれている。
ルナは嬉しそうに拍手した。
「お兄ちゃん、十五歳おめでとう!」
「ありがとう」
ヴァルターは息子へ微笑んだ。
「十五歳か。随分と早いものだな」
レイブンは思わず笑った。
「父さん、それ去年も言ってた」
「……そうだったか?」
「うん。来年も言うって言ってた」
ヴァルターは少し考えた。
「なら、約束を守ったことになるな」
ルナが笑い声を上げた。
セレナも微笑んだ。
食事は穏やかに進んだ。
学院での出来事。
ルナが作っている船の模型。
年末に予定されている祖父母への訪問。
ヴァルターが教育学校で担当している新しい教育課程。
家族は、さまざまな話を交わした。
レイブンも笑い、父の話へ質問した。
しかし、胸の奥には、まだ伝えていない言葉が残っていた。
午後七時四十八分。
クロウ家別邸、居間。
夕食を終えた四人は、暖炉の前へ移動した。
セレナは紅茶を用意し、ルナは兄の隣へ座っている。
ヴァルターは左手でカップを持ち、息子へ目を向けた。
「……レイブン」
「何?」
「母さんから聞いた。進路について話したいことがあるそうだな」
レイブンは頷いた。
「……うん」
ヴァルターはカップを置いた。
「聞こう」
少年は深く息を吸った。
そして、父と母を見た。
「……父さん、母さん」
二人は黙って息子を見つめた。
レイブンは、ゆっくりと口を開いた。
「俺、軍に入りたい」
その瞬間、居間の空気が変わった。
ヴァルターの表情が硬くなる。
セレナも、思わず息を呑んだ。
ルナは兄の顔を見上げた。
しばらく沈黙が流れた。
そして、ヴァルターが口を開いた。
「……駄目だ」
レイブンは父を見た。
「……父さん」
「まだ十五歳だ。軍がどういう場所か、分かったつもりでいるのかもしれんが、私は賛成できん」
セレナも頷いた。
「私も反対よ」
レイブンは母を見た。
「……母さんも?」
「ええ」
セレナは静かに答えた。
「あなたが軍人に憧れていることは知っているわ。でも、私はあなたを危険な場所へ送り出したくない」
ヴァルターは続けた。
「高等成人学校へ進学する道もある。専門技術を学ぶこともできる。お前には、まだ多くの選択肢がある」
レイブンは頷いた。
「……分かってる」
「なら、なぜ軍なんだ?」
父の声が少し強くなった。
レイブンは一瞬、肩を強張らせた。
ヴァルターはそれに気づき、すぐに声を落とした。
「……すまん。続きを聞こう」
少年は深く息を吸った。
そして、父と母をまっすぐ見た。
「……俺は、父さんの背中を見て育った」
ヴァルターは黙った。
「小さい頃から、父さんが軍服を着て仕事へ行く姿を見てきた。右腕を失ってからも、訓練生たちを教えている姿を見てきた」
レイブンは続けた。
「去年の演習だって、覚えてる。父さんが何を教えていたのか、今でも考えることがある」
セレナは息子を見つめていた。
「……でも、俺は別に英雄になりたいから軍へ行くんじゃない」
レイブンの声が少し強くなった。
「誰かに褒められたいわけでも、勲章が欲しいわけでもない」
ヴァルターは息子を見つめた。
「……だったら、何のためだ?」
レイブンは答えた。
「家族を守りたいからだよ」
その言葉に、セレナの表情が変わった。
レイブンは続けた。
「父さんも、母さんも、ルナも。お祖父様も、お祖母様も。俺が大切に思ってる人たちを守りたい」
ルナは兄の手を握った。
少年は妹へ一瞬だけ微笑み、再び両親を見た。
「でも、それだけじゃない」
ヴァルターは静かに尋ねた。
「……どういうことだ?」
レイブンは深く息を吸った。
「……たとえ敵兵でも、家族がいるんだ」
居間が静まり返った。
「帝国の兵士だけじゃない。連邦共和国の兵士にも、帰りを待ってる人がいる。家族がいる。友達がいる」
レイブンは続けた。
「その人たちだって、最初から誰かを殺したくて軍に入ったとは限らない」
ヴァルターは息子を見つめた。
レイブンの声は、少し震えていた。
しかし、目を逸らさなかった。
「……だから、俺は誰かを死なせるために軍へ入るんじゃない」
少年は拳を握った。
「守るために入りたい」
セレナは何も言わなかった。
「もちろん、戦場では戦わなきゃいけないこともあると思う。敵が攻撃してきたら、止めなきゃいけない。仲間や住民を守るために、武器を使うことだってある」
レイブンは続けた。
「でも、敵だからって、何をしてもいいわけじゃないだろ?」
ヴァルターの表情が変わった。
「……そうだ」
「降伏した兵士や、怪我をして戦えなくなった兵士まで、殺す必要はないはずだ」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……そのとおりだ」
レイブンは父を見た。
「俺は、そういうことをちゃんと考えられる軍人になりたい」
少年は続けた。
「最悪、前線勤務でもいい。危険な任務だって、必要なら引き受ける覚悟はある」
セレナの眉が寄った。
ヴァルターも、厳しい表情になった。
しかし、レイブンは言葉を止めなかった。
「でも、死にたいわけじゃない。死ぬことが立派だとも思わない」
少年は胸へ手を当てた。
「俺は、生きて帰りたい」
ヴァルターは息を呑んだ。
「……父さんが、いつも言ってたから」
レイブンは静かに続けた。
「どれだけ任務が大事でも、生きて帰ることを諦めるなって」
ヴァルターは目を伏せた。
それは、かつて自分が訓練生たちへ繰り返し教えてきた言葉だった。
そして、息子へも何度となく話してきたことだった。
レイブンは続けた。
「俺は、まだ十五歳だ。知らないこともたくさんある。軍人として必要な技術だって、これから学ばなきゃいけない」
少年は進路希望書を取り出した。
「だから、まずは志願教育課程で学びたい。すぐに戦場へ行けるなんて思ってない」
ヴァルターは書類へ目を向けた。
「……そこまで考えていたのか」
「うん」
レイブンは頷いた。
「一年間、ずっと考えてた」
そして、最後に言った。
「……父さん、母さん。反対されるのは分かってる」
少年は深く頭を下げた。
「でも、俺は軍人になりたい」
居間に、長い沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、小さく音を立てた。
午後八時十七分。
クロウ家別邸、居間。
ヴァルターは、しばらく何も言わなかった。
息子の言葉を、一つ一つ思い返していた。
家族を守りたい。
敵兵にも家族がいる。
誰かを死なせるためではなく、守るために軍へ入りたい。
そして、生きて帰りたい。
それは、十五歳の少年が抱く理想だった。
だが、ただの憧れではなかった。
この一年、学び、考え、父の言葉を聞き、自分なりにたどり着いた答えだった。
ヴァルターは深く息を吐いた。
「……まったく」
レイブンは顔を上げた。
「……父さん?」
ヴァルターは額へ左手を当てた。
「……誰に似たんだ、お前は」
セレナが小さく笑った。
「あなたに決まっているでしょう」
ヴァルターは妻を見た。
「……私か?」
「ええ」
セレナは少し呆れたように微笑んだ。
「自分で考えて、自分で決めて、周りが何を言っても簡単には曲げないところなんて、そっくりよ」
ヴァルターは苦笑した。
「……否定できんな」
レイブンは二人を見つめた。
「……それじゃあ」
ヴァルターは息子へ目を向けた。
「まだ、賛成したわけではない」
レイブンは口を閉じた。
「軍人になるということは、理想だけでは済まない。お前が言ったように、守るために武器を使わなければならない時もある」
ヴァルターは続けた。
「敵兵にも家族がいる。それは事実だ。だが、だからといって、目の前の危険が消えるわけではない」
レイブンは頷いた。
「……分かってる」
「いや。今は、分かろうとしている段階だ」
ヴァルターは静かに言った。
「本当に理解するには、まだ時間が必要だ」
レイブンは少し考え、頷いた。
「……うん」
ヴァルターは息子を見つめた。
「それでも、軍を志願するのか?」
レイブンは迷わなかった。
「……うん」
ヴァルターは長く息を吐いた。
そして、隣のセレナを見た。
「……どう思う?」
セレナは息子を見つめていた。
その目には、心配と寂しさが入り混じっていた。
「……本当は、反対よ」
レイブンは母を見た。
「……母さん」
「あなたが危険な場所へ行くかもしれないと思うだけで、怖いわ」
セレナは静かに続けた。
「私は、あなたに普通の生活をしてほしいと思っていた。学校へ通って、仕事を見つけて、いつか自分の家庭を持って……」
彼女は言葉を切った。
そして、小さく笑った。
「……でも、それは私が望んでいた未来なのね」
レイブンは黙って聞いていた。
「あなたには、あなたの人生がある」
セレナは息子へ近づいた。
「だから、私たちの心配を理解した上で、それでも進みたいというなら……」
彼女は一度、ヴァルターを見た。
ヴァルターは静かに頷いた。
セレナは、再び息子を見つめた。
「……一つだけ、約束して」
レイブンは顔を上げた。
「……何?」
セレナは息子の両肩へ手を置いた。
「絶対に、生きて帰ってくること」
レイブンは息を呑んだ。
ヴァルターも立ち上がった。
そして、息子の前へ歩み寄った。
「……レイブン」
「……父さん」
ヴァルターは左手を息子の肩へ置いた。
「母さんの言うとおりだ」
彼は静かに続けた。
「軍人になりたいというお前の決意は、もう十分に聞いた」
レイブンは父を見つめた。
「だが、私たちが何より望むことは変わらない」
ヴァルターは息子の目を見た。
「……絶対に、生きて帰ってこい」
その声は、命令に近かった。
しかし、軍人としての命令ではなかった。
父親としての願いだった。
「任務を果たすことも大切だ。仲間を守ることも大切だ。だが、自分の命を粗末にしてはならん」
ヴァルターは続けた。
「危険を避けられるなら避けろ。助けを求められるなら求めろ。退くべき時には退け」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「無理をして英雄になろうとするな」
「……うん」
「そして、帰る場所があることを忘れるな」
レイブンの目に涙が浮かんだ。
ヴァルターは左手で息子の肩を強く握った。
「……約束できるか?」
レイブンは深く息を吸った。
そして、はっきりと答えた。
「……約束する」
セレナは息子を抱き締めた。
レイブンも母の背中へ腕を回した。
「……必ず帰ってくる」
セレナは目を閉じた。
「……ええ」
ヴァルターは二人を見つめていた。
その時、ルナが椅子から立ち上がった。
「……お兄ちゃん」
レイブンは顔を上げた。
「……ルナ?」
少女は兄へ歩み寄った。
そして、両手で兄の服を握った。
「……私も、約束してほしい」
レイブンは妹を見た。
「……何を?」
ルナの目には涙が浮かんでいた。
「……帰ってきて」
レイブンは息を呑んだ。
「お兄ちゃんが軍人になっても、遠くへ行っても……ちゃんと帰ってきて」
少女は声を震わせた。
「……私、お兄ちゃんがいなくなるの、嫌だよ」
レイブンは妹を抱き締めた。
「……大丈夫」
ルナは兄の胸へ顔を埋めた。
「……本当?」
「うん」
レイブンは静かに答えた。
「……帰ってくるよ」
ヴァルターとセレナは、兄妹を見つめていた。
午後八時四十六分。
クロウ家別邸、書斎。
家族での話し合いを終えた後、ヴァルターはレイブンを自分の書斎へ呼んだ。
机の上には、先ほどの進路希望書が置かれている。
ヴァルターは椅子へ座り、息子へ向かい合った。
「……レイブン」
「何?」
「一つ、確認しておきたい」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「お前が希望しているのは、軍の志願教育課程だな」
「うん」
「正規部隊への即時配属ではない」
「分かってる」
ヴァルターは頷いた。
「なら、まずは適性審査と教育課程の条件を確認する必要がある」
レイブンは真剣な表情になった。
「……うん」
「学力だけではない。身体検査、適性評価、面接、規律に関する審査もある」
ヴァルターは続けた。
「それに、教育課程へ進んだからといって、必ず希望する職種に就けるわけではない」
レイブンは頷いた。
「……分かってる」
「本当に?」
ヴァルターは少し厳しい表情になった。
レイブンは父を見た。
「……全部分かってるとは言えない」
ヴァルターは黙った。
「でも、分からないことは勉強する。できないことは練習する」
少年は続けた。
「それでも向いてないって言われたら、ちゃんと考える」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……それでいい」
そして、進路希望書を手に取った。
「私は、父親としてお前の進路を考える。だが、軍人として特別扱いはしない」
レイブンは頷いた。
「……うん」
「私の息子だからといって、審査が甘くなることもない」
「分かってる」
「むしろ、周囲の目は厳しくなるかもしれん」
レイブンは少し考えた。
「……それでもいい」
ヴァルターは息子を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……そうか」
午後九時二十七分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは机に向かい、父から贈られた黒革の手帳を開いていた。
十五歳の誕生日。
今日、自分の進路を父と母へ伝えた。
最初は、二人とも反対した。
それでも、最後まで話を聞いてくれた。
そして、一つの約束を交わした。
レイブンは万年筆を握り、ゆっくりと書き始めた。
『帝政歴三四二年、十一月二十五日。
今日で十五歳になった。
父さんと母さんに、軍へ入りたいと伝えた。
二人とも、最初は反対した。
でも、俺の話を最後まで聞いてくれた。
俺は、英雄になりたいわけじゃない。
誰かを死なせるために軍へ入りたいわけでもない。
家族を守りたい。
仲間を守りたい。
そして、敵兵にも家族がいることを忘れたくない。
父さんと母さんは、最後に一つだけ約束させた。
絶対に、生きて帰ってくること。
ルナも、同じことを言った。
俺は約束した。
どんな道を歩くことになっても、帰る場所を忘れない。
これから、軍の志願教育課程を目指す。
まだ知らないことも多い。
だから、もっと勉強する。
父さんの背中を追うだけじゃなく、自分の道を歩けるように。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、手帳の最初の頁を開いた。
そこには、一年前に父が記した言葉がある。
『自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の道を歩め。』
少年は静かに微笑んだ。
窓の外では、冷たい風が木々を揺らしていた。
遠くの街では、夜間列車の汽笛が響いている。
帝国と連邦共和国の間には、依然として緊張が続いていた。
しかし、レイブンはまだ知らなかった。
自分が選ぼうとしている道が、やがてどれほど大きな戦乱へつながっていくのかを。
それでも、少年の決意は変わらなかった。
誰かを守るために。
そして、必ず生きて帰るために。
帝政歴三四二年、十一月二十五日。
レイブン・S・クロウ、十五歳。
この日、彼は初めて自分の進路を明確に選び、両親へその意思を伝えた。
ヴァルターとセレナは、息子の決意を完全に喜んだわけではなかった。
むしろ、これから先も心配し続けるだろう。
それでも、二人は息子の意思を尊重し、条件付きで軍の志願教育課程への挑戦を認めた。
その条件は、ただ一つ。
絶対に、生きて帰ってくること。
それは、クロウ家における新たな約束となった。




