第41話 冬の街に届く知らせ
第41話 冬の街に届く知らせ
帝政歴三四一年、十二月六日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前六時四十八分。
窓の外では、今年最初の雪が降っていた。
まだ積もるほどではない。灰色の雲から舞い降りた小さな雪片は、庭園の石畳に触れるとすぐに溶け、黒く濡れた跡を残していた。
食堂の暖炉には朝早くから火が入り、焼きたてのパンと珈琲の香りが漂っている。
セレナ・クロウは食卓に皿を並べながら、窓辺に立つ娘へ声を掛けた。
「ルナ、そんなに窓へくっついていたら、硝子が曇ってしまうわよ」
「だって、お母さん。雪だよ!」
九歳のルナは白い猫耳をぴんと立て、窓の外を指差した。
「積もるかな?」
「どうかしら。まだ地面が温かいから、今日は難しいかもしれないわね」
「ええ……」
ルナは残念そうに肩を落とした。
その後ろから、制服姿のレイブンが食堂へ入ってきた。
「おはよう、母さん。おはよう、ルナ」
「お兄ちゃん、おはよう! 雪!」
「見たよ。朝から寒いと思った」
レイブンは窓辺へ近づき、妹の隣に立った。
黒い猫耳の先に、暖炉の光が柔らかく当たる。
「この降り方だと、積もる前にやみそうだね」
「お兄ちゃんまでそんなこと言う……」
「でも、山の方なら積もるかもしれない」
「ほんと?」
「たぶんね」
ルナはすぐに機嫌を直し、窓の向こうへ目を輝かせた。
セレナはそんな兄妹の様子を見ながら、温めたスープを器へ注いだ。
階段から足音が聞こえてきたのは、その時だった。
「おはよう」
ヴァルター・A・クロウが食堂へ入ってきた。
帝国陸軍の制服を身につけ、左手には折り畳んだ新聞を持っている。失われた右腕の袖は、いつものように肩の近くで整えられていた。
「おはよう、あなた」
「お父さん、おはよう!」
ルナが駆け寄った。
ヴァルターは左手で娘の頭を撫でる。
「今日は随分と元気だな」
「雪が降ってるから!」
「そうか。道が滑りやすくなるかもしれん。学校へ行く時は気をつけろ」
「はーい」
レイブンは少し離れた場所から父を見ていた。
六日前、二人はようやく向き合い、互いの気持ちを言葉にした。
あれから食卓での会話は戻りつつある。
けれど、以前とまったく同じではなかった。
父が急に大きな声を出すと、今でも身体が反応してしまうことがある。ヴァルターもそれに気づいており、息子へ近づく時は以前より慎重になっていた。
それでも、今朝のレイブンは父から目を逸らさなかった。
「……おはよう、父さん」
ヴァルターは穏やかに答えた。
「おはよう、レイブン。昨夜はよく眠れたか?」
「うん。今日は歴史の小テストが返ってくるんだ」
「そうか。結果が楽しみだな」
「まだ分からないよ」
「お前がきちんと準備したことは知っている。それで十分だ」
レイブンは少しだけ笑った。
「……ありがとう」
ヴァルターも微笑んだ。
セレナは二人のやり取りを見届けると、食卓へ声を掛けた。
「さあ、冷めないうちに食べましょう」
午前七時十九分。
クロウ家別邸、食堂。
朝食が半ばを過ぎた頃、ヴァルターは新聞を開いた。
紙面の上部には、帝国議会で審議されている次年度予算の記事が掲載されていた。
その隣に、北部国境地域の情勢を伝える見出しがある。
『帝国・連邦共和国間の国境協議、再び延期』
ヴァルターの視線が止まった。
記事によれば、両国の代表団は国境警備に関する定例協議を予定していたが、双方の主張が折り合わず、会合は翌月へ延期されたという。
国境付近では軍用車両の移動が増え、交易業者の間では輸送経路への影響を懸念する声が上がっていた。
ただし、報じられている部隊移動の目的について、両政府の説明は一致していなかった。
ヴァルターは記事を最後まで読み、新聞を静かに畳んだ。
「……父さん?」
レイブンが声を掛けた。
「何だ?」
「北部のこと?」
ヴァルターは息子を見た。
「記事が見えたのか」
「うん。最近、学院でも話題になってる」
レイブンはスープの器を置いた。
「先生は、新聞の見出しだけで物事を判断しないようにって言ってた。帝国側の新聞と連邦側の発表では、同じ出来事でも説明が違うことがあるって」
ヴァルターは静かに頷いた。
「良い先生だな」
「父さんは、どう思う?」
以前なら、ヴァルターはすぐに自分の考えを話していたかもしれない。
だが、今朝は少し時間を置いた。
「……何について知りたい?」
レイブンは父を見た。
「戦争になるのか、ってこと」
ルナがパンを持つ手を止めた。
セレナも夫へ視線を向ける。
ヴァルターは新聞へ目を落とした。
「今の段階で、そうなると断言できる者はいない。軍が警戒を強めることと、実際に戦争が始まることは別だ」
「でも、兵士が増えてるんでしょう?」
「報道ではそうだな。ただ、何のための移動なのかは慎重に見なければならん。訓練かもしれないし、警備の交代かもしれない。相手を牽制する意図がある可能性もある」
レイブンは考え込んだ。
「……一つの記事だけじゃ分からないんだ」
「ああ。分からないことを、分かったふりで埋めるのが一番危険だ」
ヴァルターはそこで言葉を切り、息子の表情を確かめた。
「難しい話になったな」
「ううん。聞きたい」
レイブンは答えた。
ヴァルターは頷いた。
「なら、夕食の後にでも続きを話そう」
「……うん」
ルナが小さく手を上げた。
「私も聞いていい?」
「もちろんだ」
「でも、難しい言葉は少なくしてね」
ヴァルターは笑った。
「努力しよう」
午前八時三十七分。
帝国中央学院、中等教育部。
レイブンの教室では、歴史の授業が始まっていた。
教師のフリードリヒ・ヴェーバーは、採点済みの答案を教卓へ置き、生徒たちを見渡した。
「今回の小テストは、近代国家の成立と外交関係についてだった。平均点は前回より上がっている」
教室のあちこちから安堵の声が上がる。
「ただし、年号を覚えているだけでは十分ではない。なぜその出来事が起きたのか、そこまで考えてほしい」
教師は答案を配り始めた。
レイブンの机へ一枚の紙が置かれる。
右上には、赤い文字で満点を示す数字が記されていた。
「よくできている、クロウ。ただし、最後の記述問題はもう少し詳しく書けるはずだ」
「はい、先生」
レイブンは答案を受け取った。
隣席の少年、オスカー・リヒターが身を乗り出してくる。
「また満点かよ」
「たまたまだよ」
「たまたまで毎回取れるなら苦労しないって」
オスカーは自分の答案を見せた。
「俺はここで五点落とした」
レイブンは問題を覗き込んだ。
設問は、国境を接する二国が軍備を増強した場合、どのような問題が生じるかを説明するものだった。
「……オスカー、答えは間違ってないと思う」
「でも、減点されたぞ」
「たぶん、相手の国がどう受け取るかを書いてないからじゃないかな」
オスカーは眉を寄せた。
「相手がどう受け取るか?」
「自分たちは守るために兵士を増やしても、相手からは攻める準備に見えることがあるって、先生が前に言ってた」
オスカーは答案を見直した。
「……ああ、そういうことか」
レイブンは頷いた。
「それで相手も兵士を増やしたら、両方がもっと怖くなる」
「なるほどな」
オスカーは少し考え、苦笑した。
「お前、教えるのうまいな。将来は先生になれば?」
レイブンは一瞬、言葉に詰まった。
「……先生か」
「嫌なのか?」
「嫌じゃないよ。ただ、まだ考えてるところ」
そう答えると、オスカーは不思議そうな顔をした。
「珍しいな。お前なら、もう何でも決めてそうなのに」
レイブンは答案を机へ戻した。
「……決めてないことの方が多いよ」
その答えは、以前の彼なら口にしなかったかもしれなかった。
午前十時五十六分。
帝国中央学院、校舎北側。
休み時間、レイブンは廊下の窓から校庭を見下ろしていた。
朝の雪はすでにやみ、雲の切れ間から淡い日差しが差し込んでいる。
校庭では下級生たちが走り回っていた。
その中に、見慣れた白い髪があった。
ルナだった。
彼女は数人の友人と一緒に、細長い木製の模型を囲んでいる。
模型は小さな船だった。
先端が尖り、中央には低い船室のようなものが取りつけられている。
レイブンは思わず笑った。
「……また船を作ってる」
最近、ルナは河川を行き来する小型艇に強い興味を持っていた。
学校の工作課題でも船を作り、図書室から河川交通の本を借りてきては、船体の形や水の流れについて調べている。
兄の勉強を真似するだけだった頃とは違い、妹は自分の好きなことを見つけ始めていた。
その時、廊下の向こうから声が掛かった。
「クロウ、先生が呼んでるぞ」
レイブンは振り返った。
「分かった。ありがとう」
窓の外では、ルナが模型を抱え、友人たちと笑っていた。
午後零時二十八分。
帝国陸軍中央教育学校、教官用食堂。
ヴァルターはエーリヒ・ベルクマン中尉と向かい合い、昼食を取っていた。
周囲では教官や事務職員たちが談笑している。
エーリヒはスープを一口飲むと、向かいの上官へ目を向けた。
「クロウ教官、先日の演習の映像記録をご覧になりましたか?」
「ああ。昨夜、主要部分を確認した」
「訓練生たちの反応が良かったそうです」
「反応が良いことと、課題を理解したことは別だ」
ヴァルターは淡々と答えた。
エーリヒは笑った。
「相変わらず厳しいですね」
「厳しいつもりはない。実演を見て感心するだけでは、教育にならんからな」
「それでも、片腕での再装填実演は相当な刺激になったようです」
ヴァルターは左手で水のグラスを持ち上げた。
「私の動きをそのまま覚えようとする者が出てこなければいいが」
「教官も、同じことを講評でおっしゃっていましたね」
「ああ。身体条件が違えば、適した動きも変わる。必要なのは見栄えではなく、安全と確実性だ」
エーリヒは頷いた。
少しして、話題が変わった。
「そういえば、昨日、北部方面から教育課程の照会がありました」
「どのような?」
「市街地での住民避難と、部隊間通信の連携についてです。国境警備部隊でも教育内容を見直しているようで」
ヴァルターはグラスを置いた。
「正式な照会か?」
「はい。教務部を通じて届いています」
「なら、所定の手順で回答しよう。演習記録のうち共有可能なものを整理しておいてくれ」
「了解しました」
エーリヒは少し声を落とした。
「……北部の情勢、気になりますか?」
ヴァルターは即答しなかった。
「軍人としては、当然な」
「ご家庭では?」
その問いに、ヴァルターは中尉を見た。
エーリヒは慌てて姿勢を正した。
「失礼しました」
「いや」
ヴァルターは首を振った。
「……家でも、話題になった」
そして、少しだけ笑った。
「息子に、戦争になるのかと聞かれたよ」
「レイブン君が?」
「ああ」
「何とお答えになったのですか?」
「分からない、と」
エーリヒは意外そうな顔をした。
「教官が、そうお答えになったのですか」
「知らんことは知らんと言うしかない」
ヴァルターは静かに答えた。
「父親だからといって、何でも答えられるわけではないからな」
エーリヒはしばらく考え、頷いた。
「……そうですね」
午後三時二十二分。
帝国中央学院、正門前。
授業を終えたレイブンは、門の脇で妹を待っていた。
しばらくして、ルナが友人たちと一緒に現れた。
「お兄ちゃん!」
「お疲れ、ルナ」
少女は駆け寄り、鞄から小さな木製の船を取り出した。
「見て! 今日、完成したの!」
レイブンは模型を受け取った。
細長い船体の後部には、二枚の小さな舵が取りつけられている。
「よくできてるね」
「ほんと?」
「うん。でも、これだと水に浮かべた時、後ろが少し重いかもしれない」
ルナは模型を覗き込んだ。
「……そうかな」
「船室をもう少し前に寄せると、釣り合いが良くなるかも」
「なるほど……」
ルナは真剣な顔で考え始めた。
その様子に、レイブンは笑った。
「家で試してみようか」
「うん!」
二人は並んで歩き始めた。
街路には冬支度をした店が並び、広場では職人たちが季節の市の準備を進めている。
通りを曲がったところで、レイブンは一軒の書店の前に立ち止まった。
店先には、新刊の新聞と雑誌が並んでいた。
その中に、北部国境の地図を載せた週刊誌がある。
レイブンは表紙を見つめた。
「……お兄ちゃん?」
ルナが袖を引いた。
「どうしたの?」
「……何でもない」
レイブンは歩き出した。
しかし、しばらくしてから妹へ尋ねた。
「ルナはさ、もし父さんが遠くへ仕事に行くことになったら、どう思う?」
ルナは目を丸くした。
「遠くって?」
「……北の方とか」
少女は少し考えた。
「嫌だな」
「そうだよね」
「でも、お仕事なら仕方ないこともあるんでしょう?」
「……うん」
ルナは兄の手を握った。
「だったら、帰ってきた時に何を話すか考えて待ってる」
レイブンは妹を見た。
「……ルナらしいね」
「そう?」
「うん」
少女は嬉しそうに笑った。
午後四時五十六分。
クロウ家別邸、居間。
セレナは、帰宅した兄妹を迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま、母さん」
「お母さん、船が完成したよ!」
ルナは靴を脱ぐのももどかしそうに、模型を掲げた。
セレナは笑った。
「まあ、立派ね」
「でも、お兄ちゃんが後ろが重いかもって」
「それなら、試してみたらどうかしら」
「うん!」
ルナは模型を抱え、工作道具を取りに自室へ向かった。
レイブンは外套を脱ぎながら、母へ声を掛けた。
「……母さん」
「何?」
「父さん、今日は遅い?」
「いつもどおりの予定よ。どうしたの?」
「……朝の話、続きを聞きたいんだ」
セレナは息子を見た。
「北部のこと?」
「うん」
レイブンは頷いた。
「僕、まだ知らないことが多いから」
セレナは微笑んだ。
「それなら、夕食の後に聞いてみましょう」
レイブンは少し安心したように頷いた。
「……うん」
午後六時三十四分。
クロウ家別邸、食堂。
ヴァルターが帰宅すると、家族は夕食の席へ集まった。
ルナは学校で作った船の話をし、セレナは昼間に届いた祖父アルベルトからの手紙について話した。
手紙には、年末に家族で本邸を訪れてほしいこと、レイブンの十四歳の誕生日を改めて祝いたいことが記されていた。
「お祖父様、元気そうだった?」
レイブンが尋ねた。
「ええ。相変わらず忙しくしていらっしゃるみたい」
セレナは微笑んだ。
「あなたたちに会えるのを楽しみにしているそうよ」
ルナが身を乗り出した。
「お祖母様も?」
「もちろん」
「やった!」
ヴァルターは娘の様子を見て笑った。
「ルナは、また祖母に船の話をするつもりか?」
「うん! 今度は本物の川船も見たいってお願いする!」
「それは、祖母より港湾管理局へ頼んだ方が早いかもしれんな」
「ええっ、そうなの?」
食卓に笑い声が広がった。
レイブンも笑った。
その笑顔を見て、ヴァルターは少しだけ肩の力を抜いた。
午後七時四十八分。
クロウ家別邸、書斎。
夕食を終えたレイブンは、父の書斎を訪れていた。
ヴァルターは机の上を片づけ、息子が座れるよう椅子を用意した。
「……それで、朝の続きを聞きたいんだったな」
「うん」
レイブンは頷いた。
「帝国と連邦共和国のこと」
ヴァルターは本棚から一般向けの地図帳を取り出した。
机へ広げると、帝国の領域と北部国境、その向こうに広がる連邦共和国の地域が描かれていた。
「まず、何が知りたい?」
レイブンは地図を見つめた。
「……どうして、お互いに警戒してるの?」
ヴァルターは少し考えた。
「理由は一つではない。国境の位置、資源、交易路、過去の条約、互いの軍事力。長い時間をかけて積み重なった問題がある」
「どっちかが悪いから、っていう単純な話じゃないんだ」
「少なくとも、新聞の一記事で判断できるほど単純ではない」
ヴァルターは地図の一角を指した。
「ここには、帝国と連邦の双方にとって重要な輸送路がある。軍事だけではなく、商業にも使われている」
レイブンは身を乗り出した。
「鉄道?」
「ああ。道路もある。国境を越えて物資が動く以上、そこを管理する人々も必要になる」
「軍隊だけの問題じゃないんだね」
「そうだ。国境が緊張すれば、最初に困るのは交易を続けている商人や、その地域で暮らす人々かもしれん」
レイブンは地図を見つめた。
そこには都市の名前がいくつも記されていた。
小さな印刷文字でしかないが、その一つ一つに人々の生活がある。
学校があり、店があり、家族がいる。
「……父さん」
「何だ?」
「もし戦争になったら、そういう人たちはどうなるの?」
ヴァルターは息子を見た。
「……避難しなければならない者も出るだろう。家や仕事を失う者もいるかもしれない」
レイブンは黙った。
ヴァルターは続けた。
「だからこそ、戦争にならないよう努力することが大切なんだ」
「軍人も?」
「もちろんだ」
ヴァルターは頷いた。
「軍人だからといって、戦争を望んでいるわけではない」
レイブンは父の言葉を聞いていた。
「軍隊は戦うための訓練をする。だが、その力が必要にならないことを願う者も多い」
ヴァルターは少し間を置いた。
「私も、その一人だ」
レイブンは顔を上げた。
「……父さんも?」
「ああ」
ヴァルターは静かに答えた。
「私は、できることならお前たちが戦争を知らずに大人になってほしいと思っている」
レイブンは、しばらく父を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……うん」
午後八時二十七分。
クロウ家別邸、書斎。
地図帳を閉じた後も、レイブンは椅子から立ち上がらなかった。
ヴァルターは息子の様子を見て、静かに尋ねた。
「……まだ何か聞きたいことがあるか?」
レイブンは少し迷った。
「……父さん」
「ああ」
「僕、軍人になりたいって気持ちは、まだ変わってない」
ヴァルターは頷いた。
「知っている」
「でも、前みたいに、父さんと同じことができるようになりたいってだけじゃなくなった」
ヴァルターは息子を見つめた。
「……どう変わった?」
レイブンは地図帳へ目を向けた。
「昨日の演習を見て、今日の話も聞いて……軍人が何を守らなきゃいけないのか、もっと知りたくなった」
少年は続けた。
「兵士だけじゃなくて、町の人たちとか、家族とか。そういう人たちのことも」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……良い考えだ」
レイブンは少し驚いた。
「……本当?」
「ああ」
ヴァルターは答えた。
「少なくとも、以前より広いところを見ようとしている」
レイブンは照れくさそうに笑った。
その時、ヴァルターは机の引き出しへ目を向けた。
そこには、誕生日の夜に渡せなかった贈り物が入っている。
黒革の手帳。
そして、謝罪の言葉を書いた封筒。
ヴァルターは少し考え、引き出しを開いた。
「……レイブン」
「何?」
「渡したいものがある」
少年は首を傾げた。
ヴァルターは黒革の手帳を取り出した。
「本当は、十四歳の誕生日に渡すつもりだった」
レイブンは目を見開いた。
「……僕に?」
「ああ」
ヴァルターは手帳を差し出した。
「遅くなってしまったが、受け取ってくれるか?」
レイブンは両手で受け取った。
表紙には、小さな黒い鴉の紋章が刻まれている。
革は柔らかく、手に馴染む。
少年はそっと開いた。
最初の頁には、父の筆跡で短い言葉が記されていた。
『十四歳のレイブンへ。
自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の道を歩め。
父より。』
レイブンは、その文章を何度も読み返した。
そして、顔を上げた。
「……父さん」
「何だ?」
「これ……」
声が少し震えた。
「……すごく嬉しい」
ヴァルターは穏やかに微笑んだ。
「そうか」
レイブンは手帳を胸へ抱いた。
「ありがとう」
ヴァルターは頷いた。
「……大切に使ってくれ」
「うん」
少年は少し迷ってから、もう一度父を見た。
「……父さん」
「ああ」
「今度、また一緒に勉強してもいい?」
ヴァルターは静かに答えた。
「もちろんだ」
レイブンは微笑んだ。
それは、誕生日の前に見せていた笑顔とまったく同じではなかった。
しかし、父と話すことを恐れるだけだった数日前とは、確かに違っていた。
午後九時十一分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは机の上へ新しい手帳を置いた。
隣には、これまで使ってきた日記帳と、ルナが作ってくれた黒い鴉の栞がある。
少年は手帳を開き、最初の白い頁へ万年筆を走らせた。
『帝政歴三四一年、十二月六日。
父さんから、誕生日の贈り物をもらった。
今日は、帝国と連邦共和国の話を聞いた。
軍人のことだけじゃなくて、国境の町や、そこで暮らす人たちのことも考えた。
知らないことが、まだたくさんある。
だから、これからもっと勉強したい。』
レイブンはそこで筆を止めた。
少し考えてから、最後に一文を書き加えた。
『父さんと、また一緒に話せて嬉しかった。』
少年は万年筆を置き、手帳を閉じた。
窓の外では、朝から降っていた雪が再び舞い始めていた。
今度は、庭園の石畳に薄く積もり始めている。
レイブンは窓辺へ近づいた。
静かな冬の夜だった。
その時、廊下から小さな足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃん!」
ルナの声だった。
「雪、積もってきたよ!」
レイブンは笑った。
「見えてるよ」
「明日の朝、庭で遊べるかな?」
「積もってたらね」
「約束!」
「うん、約束」
妹の足音が遠ざかっていく。
レイブンはもう一度、窓の外を見た。
庭園の木々が、白く染まり始めていた。
遠くの街では、夜間列車の汽笛が低く響いている。
その音は、帝国北部へ延びる鉄道路線の方角から聞こえてきた。
レイブンはしばらく耳を澄ませていたが、やがて窓を閉じた。
机の上には、父から贈られた黒革の手帳が置かれている。
少年はそれをもう一度手に取り、最初の頁を開いた。
『自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の道を歩め。』
その文字を見つめながら、レイブンは静かに微笑んだ。
そして、栞を挟み、灯りを消した。




