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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第39話 父が見せた戦場

第39話 父が見せた戦場


 帝政歴三四一年、十一月二十九日。

帝国中央部、クロウ家別邸。

午後九時十七分。

書斎の暖炉には、赤い火が静かに揺れていた。

ヴァルター・A・クロウは机に向かい、翌日に予定されている市街地総合演習の資料を確認していた。卓上には演習区画の見取り図、訓練計画書、安全管理要領、そして一般見学者向けの案内書が並んでいる。

帝国陸軍中央教育学校が実施する今回の演習は、市街地における住民保護、負傷者救護、部隊間連携を総合的に評価するものだった。

市当局との協定に基づき、旧市街外縁の再開発予定区画を一時的に使用する。模擬建物や訓練用障害物が設置され、歩兵、衛生、工兵、通信、輸送の各部門が参加する予定だった。

実弾は使用しない。

火薬を用いた危険な爆破も実施しない。

模擬射撃には専用の訓練機材と安全確認済みの模擬弾薬を用い、一般見学者は防護柵の外側に設けられた観覧区画から見学する。

しかし、実戦を想定した訓練である以上、兵士たちが直面する課題は決して単純ではなかった。

ヴァルターは資料の最後の頁を閉じた。

その時、扉が二度叩かれた。

「あなた、入ってもいい?」

セレナの声だった。

「ああ」

扉が開き、妻が温かな紅茶を持って入ってきた。

彼女は机の上の資料へ目を向けた。

「明日の演習?」

「そうだ」

ヴァルターは頷いた。

「準備はほぼ終わった」

セレナは紅茶を置き、向かいの椅子へ座った。

「……レイブンのこと?」

ヴァルターは答えなかった。

妻には、すぐに分かったらしい。

「まだ、話してくれないのね」

「ああ」

誕生日の夜から四日が過ぎていた。

レイブンは母や妹とは普段どおりに会話をするようになっていたが、父に対しては沈黙を続けていた。

ヴァルターが食堂へ入れば少年は口数を減らし、父が声を掛けても返事をしない。

かつて休日になると自分から教育学校へ行きたがっていた息子は、今ではその話題さえ避けていた。

「……セレナ」

「何?」

ヴァルターは少し迷った後、口を開いた。

「明日、実戦を想定した模擬戦をこの町で行うんだが、その時にレイブンを連れて見学に来てほしい」

セレナは夫を見た。

「……どうして?」

「息子が言う軍人と、俺が言う軍人の違いを見せてあげたい」

ヴァルターは演習計画書へ視線を落とした。

「レイブンが軍人に憧れる気持ちは分かる。俺も若い頃はそうだった。だが、あいつが教育学校で見てきたのは、訓練の一部にすぎない」

セレナは黙って聞いていた。

「兵士が銃を持って前へ進む姿だけではない。負傷者を運ぶ者もいる。逃げ遅れた住民を守る者もいる。仲間が倒れても、任務を続けなければならない者もいる」

ヴァルターは左手を握った。

「それを、実際に見てほしい」

セレナは少し考えた。

「……あなた」

「ああ」

「謝罪の前に、言うこととやることを見せるのね?」

ヴァルターは妻を見た。

「……そうだ」

セレナは頷いた。

「分かったわ」

そして、静かに付け加えた。

「ただし、勘違いしないでね」

「何だ?」

「演習を見せたからといって、あなたがレイブンを叩いたことが正しくなるわけではないのよ」

ヴァルターは目を伏せた。

「……分かっている」

「レイブンが何を感じるかも、あの子自身が決めることよ」

「ああ」

セレナは夫を見つめた。

「それでも、あなたが本当に伝えたいことがあるなら、私も見届けるわ」

ヴァルターは静かに頷いた。

「……ありがとう」

午後九時四十六分。

クロウ家別邸、レイブンの自室。

レイブンは机に向かい、翌週の授業で提出する歴史の課題をまとめていた。

扉が叩かれる。

「レイブン、入ってもいい?」

「うん、母さん」

セレナが部屋へ入ってきた。

「明日、少し出掛けない?」

レイブンは顔を上げた。

「どこへ?」

「市街地で軍の公開演習があるの。ルナも一緒に見学へ行こうと思って」

少年の耳が動いた。

「……軍の演習?」

「ええ。見学できる場所が設けられているそうよ」

レイブンは少し考えた。

「……父さんもいるの?」

「いるわ」

その答えを聞いた瞬間、少年の表情が硬くなった。

「……そう」

セレナは息子の隣へ座った。

「無理に行かなくてもいいのよ」

レイブンは机の上の課題へ視線を落とした。

父の姿を見たくない。

そう思う気持ちは、まだ残っていた。

しかし、軍の演習には興味があった。

父が何を教え、兵士たちがどのように訓練するのか。

それは、今でも知りたいことだった。

「……行く」

レイブンは小さく答えた。

セレナは頷いた。

「分かったわ」

「でも、父さんとは……」

「話さなくてもいいわ」

母は穏やかに答えた。

「明日は、まず見学しましょう」

レイブンは静かに頷いた。

帝政歴三四一年、十一月三十日。

帝国中央部、旧市街外縁・第七再開発区画。

午前八時二十六分。

冬の空はよく晴れていた。

再開発を待つ煉瓦造りの建物が立ち並ぶ一角には、軍の演習用車両と仮設施設が設置されていた。区画の外周には安全柵が張られ、見学者用の入口では憲兵と案内係が来場者を誘導している。

広場には、軍人の家族や市民、地方行政の関係者たちが集まっていた。

セレナはレイブンとルナを連れ、受付へ向かった。

「おはようございます」

案内係が微笑んだ。

「見学者の方ですね。こちらで受付をお願いします」

セレナは必要事項を記入した。

係員は三人へ案内書を渡した。

「演習中は観覧区域から出ないようお願いします。大きな音が発生する場面がありますので、こちらの聴覚保護具もお使いください」

「ありがとうございます」

レイブンは案内書を開いた。

そこには、今日の演習内容が簡潔に記されていた。

『市街地における複合事態対処訓練』

『想定:武装勢力による市街地侵入、住民避難、負傷者発生、交通路障害』

『参加:歩兵部隊、工兵部隊、衛生部隊、通信部隊、輸送部隊』

レイブンは文字を追いながら、小さく呟いた。

「……普通の模擬戦じゃないんだ」

セレナが答えた。

「そうみたいね」

ルナは周囲を見渡した。

「お兄ちゃん、あれ何?」

少女が指差した先には、軍用救急車と大型の輸送車両が並んでいた。

「あれは救護用の車両だと思う」

「怪我した人を運ぶの?」

「うん」

レイブンは頷いた。

その時、遠くから低いエンジン音が響いた。

装輪装甲車が演習区画へ入り、誘導員の指示に従って停止する。

車両の周囲では、兵士たちが機材を確認していた。

レイブンはその光景を見つめた。

普段、教育学校で見ている訓練とは規模が違う。

歩兵だけではない。

車両、通信、衛生、工兵。

それぞれの役割を持つ人々が、同じ演習のために動いていた。

午前九時三十二分。

第七再開発区画、中央観覧所。

見学者たちは、二階建ての仮設観覧施設へ案内された。

レイブンは母と妹の間に座り、演習区画を見下ろした。

正面には、模擬市街地が広がっている。

古い倉庫、道路、交差点、仮設の障害物。

いくつかの建物には、演習用の識別標識が掲げられていた。

場内放送が流れた。

『これより、帝国陸軍中央教育学校による市街地総合演習を開始します』

見学者たちが静かになった。

『本演習では、住民保護、部隊間連携、負傷者救護、状況判断を総合的に評価します。模擬射撃および演習用の音響・発煙効果を使用しますが、実弾は使用しません』

レイブンは前のめりになった。

遠くの交差点に、歩兵たちの姿が見える。

その先頭に立つ人物を見つけた瞬間、少年の耳が立った。

「……父さん」

ヴァルターだった。

教官用の装備を身につけ、訓練生たちの動きを確認している。

右袖は固定され、左手には訓練用に改造された自身の愛銃が握られていた。

実弾を発射できないよう安全措置が施され、専用の模擬弾薬と判定装置を使用する訓練仕様だった。

セレナも夫の姿を見つけた。

「……いたわね」

レイブンは答えなかった。

ただ、父を見つめていた。

午前九時四十分。

第七再開発区画、第一交差点。

演習が始まった。

装甲車のエンジン音が響き、歩兵たちが模擬市街地へ進入する。

建物の陰から、敵役の訓練生たちが姿を現した。

模擬射撃の作動音が断続的に響き、建物の壁面に設置された判定装置が点滅する。

観覧所から見ていたレイブンは、思わず身を乗り出した。

「……すごい」

兵士たちは互いに声を掛け合い、指揮官の指示に従って移動している。

しかし、演習はすぐに変化した。

場内放送が状況を説明する。

『想定変更。第一交差点付近に民間人が取り残されています』

交差点の奥に、住民役の協力者たちが現れた。

その中には、子供を抱いた女性役の人物もいる。

歩兵たちの動きが変わった。

それまで前進していた班が停止し、指揮官が周囲へ指示を出す。

通信担当が後方へ連絡し、別の班が住民役の誘導を始めた。

ルナが小さく呟いた。

「……戦ってるのに、助けに行くんだ」

レイブンは頷いた。

「……うん」

だが、次の瞬間だった。

演習用の音響装置が大きな衝撃音を発した。

地面の一角から白い煙が立ち上がり、判定装置が赤く点滅する。

『想定。先行班に負傷者発生』

レイブンは息を呑んだ。

兵士の一人が地面へ倒れ込む。

もちろん、訓練用の演技だった。

しかし、周囲の兵士たちの反応は真剣だった。

「負傷者だ! 衛生班を呼べ!」

指揮官役の訓練生が叫んだ。

別の兵士が通信機へ向かい、救護を要請する。

衛生担当の兵士たちが到着し、負傷者役の状態を確認する。

その間にも、別の場所では住民役の避難が続いていた。

レイブンは、目を離せなかった。

戦うだけではない。

守らなければならない人がいる。

助けなければならない仲間がいる。

そして、その全員を同時に守ることは、決して簡単ではない。

午前十時七分。

第七再開発区画、第二街区。

演習はさらに複雑になっていた。

道路の一部が使用不能になったという想定が加わり、輸送車両の経路が変更された。

工兵部隊が現場へ到着し、安全確認を行う。

衛生部隊は模擬負傷者の搬送を続け、通信担当は各部隊の位置と状況を共有していた。

レイブンは、案内書を握り締めていた。

それまで彼が思い描いていた軍人は、強く、勇敢で、仲間を守る存在だった。

もちろん、それは間違いではない。

しかし、目の前にいる兵士たちは、それだけではなかった。

誰かを助けようとするたびに、別の場所で問題が起こる。

一つの判断が、他の部隊にも影響する。

指揮官が迷えば、部下たちは動けなくなる。

負傷者が増えれば、救護の負担も増える。

レイブンは、六月の演習場で父に言われた言葉を思い出した。

『助ける側が怪我をすれば、助けなければならない人が増えることもある。』

あの時は、木箱が倒れそうになっただけだった。

しかし、今、目の前では同じ考え方が、はるかに大きな規模で求められている。

少年は唇を結んだ。

午前十時二十一分。

第七再開発区画、第三街区。

ヴァルターは、訓練生たちの動きを確認していた。

彼自身も演習の一部に参加し、状況判断と指揮の継続を実演する役割を担っている。

周囲では、模擬射撃の音と通信の声が重なっていた。

その時、演習統制所から新たな状況が伝えられた。

『想定変更。第三街区の建物内部に、避難できていない住民がいます』

ヴァルターは訓練生たちへ目を向けた。

「状況を確認しろ。住民の安全を最優先に考えろ」

「了解!」

訓練生たちは動き始めた。

しかし、その途中で、別の班から連絡が入った。

『負傷者役二名、追加発生!』

若い指揮官役の訓練生が一瞬、言葉を詰まらせた。

ヴァルターはその様子を見た。

「どうした?」

「……教官、負傷者の救護と住民の避難、どちらを優先すべきでしょうか」

ヴァルターは答えを与えなかった。

「今、現場で何が起きている?」

訓練生は息を整えた。

「住民役は建物内部に残っています。負傷者役は衛生班が対応中ですが、搬送車両が不足しています」

「では、他の部隊は?」

訓練生は通信担当へ確認した。

そして、少しずつ状況を整理し始めた。

ヴァルターは頷いた。

「よし。考え続けろ。必要な情報を集め、周囲と連携しろ」

レイブンは、その姿を観覧所から見つめていた。

父は、ただ強い兵士ではなかった。

誰かが迷った時、答えを押しつけず、考えるための道筋を示していた。

自分が勉強を教わった時と同じだった。

けれど、目の前で扱われているのは、算術の問題ではない。

人の命だった。

午前十時四十四分。

中央観覧所。

演習の終盤、場内放送が新たな状況を告げた。

『想定。第三街区の住民避難は完了。ただし、救護活動中に追加の負傷者が発生しました』

レイブンは息を呑んだ。

負傷者役の兵士が担架へ乗せられ、衛生班が搬送を始める。

その傍らでは、別の兵士が疲労した様子で膝をついていた。

演習だと分かっている。

誰も本当に撃たれていない。

倒れた兵士たちは、訓練が終われば立ち上がる。

しかし、もしこれが本当の戦場だったら。

もし、倒れているのが父だったら。

もし、担架で運ばれているのが自分だったら。

レイブンの胸が、急に苦しくなった。

十四歳の誕生日の夜、父が言った言葉を思い出す。

『軍隊は、お前が休日に手伝っている教育学校だけではない。』

『兵士は、命令によって危険な場所へ赴くこともある。仲間を失うこともある。自分自身が傷つくこともある。』

あの時は、分かっているつもりだった。

父の右腕がないことも知っていた。

危険な仕事だということも理解していた。

だが、今、目の前で起きていることは、彼が本で読んだ文章よりもずっと重かった。

兵士たちは、強いから戦っているのではない。

怖くないから前へ進んでいるのでもない。

誰かを守るために、恐怖や迷いを抱えながら判断し、行動している。

そして、その判断が必ず成功するとは限らない。

レイブンは、父の姿を見つめた。

右腕を失った父。

それでも教官として働き、兵士たちへ命の重さを教え続けている父。

自分が軍人になりたいと言った時、父は何を思ったのだろう。

少年は、ようやく考えた。

父は、自分が軍人になることを嫌がっていただけではなかった。

自分が、父と同じように傷つくことを恐れていた。

帰ってこられなくなることを、何より怖がっていた。

「……父さん……」

レイブンの声が震えた。

目の奥が熱くなった。

涙が一粒、頬を伝った。

少年は慌てて拭った。

しかし、次の涙がこぼれた。

「……あれ……」

止まらなかった。

胸の奥に溜まっていたものが、一度に溢れ出したようだった。

父が自分を心配していたこと。

その心配が、どれほど深いものだったのか。

そして、自分が父の恐怖を理解しないまま、言葉をぶつけ続けていたこと。

レイブンは両手で顔を覆った。

「……ごめん……父さん……」

小さな声だった。

隣に座っていたセレナが、息子の肩へ手を置いた。

「……レイブン」

少年は顔を上げられなかった。

「……母さん……」

「うん」

「……僕、分かってなかった……」

セレナは黙って聞いていた。

「父さんが、どうしてあんなに怒ったのか……」

涙が指の間からこぼれた。

「……僕、父さんみたいになりたいって……そればっかりで……」

セレナは息子を抱き寄せた。

「……そうね」

しばらく、少年は母の肩へ顔を埋めて泣いていた。

ルナも隣から兄の手を握った。

「……お兄ちゃん」

レイブンは妹の手を握り返した。

セレナは、息子が少し落ち着くのを待った。

そして、静かに口を開いた。

「レイブン」

「……うん」

「ヴァルターが、あれほど何度も言っていた意味、分かった?」

レイブンは涙を拭いながら頷いた。

「……うん」

「そう」

セレナは息子の目を見た。

「そのことを理解できたら、お父さんに、自分の言い方で悪かったと思うところを謝って、これからどうしたいのかを伝えなさい。分かった?」

レイブンは唇を噛んだ。

「……分かった」

セレナは続けた。

「でもね、レイブン。あなたが昨日、叩かれたことまで、自分のせいにしてはいけないわ」

少年は顔を上げた。

「……母さん?」

「お父さんがあなたを心配していたことと、あなたを叩いてしまったことは、別の話なの」

セレナは静かに言った。

「あなたが謝るとしても、それは自分の言葉や態度についてよ。お父さんにも、自分がしたことについて謝る責任があるわ」

レイブンは、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと頷いた。

「……うん」

午前十時五十三分。

第七再開発区画、第三街区。

ヴァルターは、観覧所の方へ一瞬だけ目を向けた。

遠くに、セレナとルナの姿が見えた。

その間に座るレイブンが、顔を覆って泣いている。

ヴァルターの胸が締めつけられた。

演習を見せれば、息子は何かを理解するかもしれない。

そう考えていた。

だが、泣かせたかったわけではない。

父は視線を戻した。

目の前では、訓練生たちが最終課目に取り組んでいる。

彼らもまた、疲労しながら懸命に動いていた。

ヴァルターは、左手に持っていた訓練仕様の愛銃を見下ろした。

かつて実戦で使用していた銃を、今回の演習に合わせて安全な訓練仕様へ変更したものだった。

彼は、演習統制官へ声を掛けた。

「最終課目の実演を行う。安全確認を頼む」

「了解しました」

統制官は機材の状態を確認し、模擬射撃の実演区画が安全であることを確認した。

ヴァルターは、訓練生たちの前へ進み出た。

「諸君」

兵士たちが顔を上げた。

「最後に、一つ見せておく」

ヴァルターは左手で銃を保持し、訓練用の模擬弾薬が残っていない状態へ移した。

判定装置には、残弾なしを示す表示が点灯する。

周囲の訓練生たちが注目した。

ヴァルターは片腕のまま、専用の訓練用装填具を用いた特殊再装填の実演を始めた。

無駄のない姿勢の変化。

銃と装備を身体の動きに合わせて扱う、長年の訓練によって身につけた一連の所作。

装填具が動く乾いた音が響き、判定装置の表示が切り替わる。

すべての動きが終わると、ヴァルターは訓練用の標的へ銃口を向けた。

模擬射撃の作動音が響いた。

標的の判定灯が点灯する。

訓練生たちの間から、驚きの声が上がった。

「……片腕で、あれを?」

「すごい……」

「クロウ教官、あんな動きができるのか……」

ヴァルターは銃を安全な状態へ戻した。

そして、訓練生たちを見渡した。

「今の動きだけを真似する必要はない」

彼は静かに言った。

「私には右腕がない。だから、今の身体で扱える方法を身につけた」

訓練生たちは黙って聞いていた。

「大切なのは、誰かと同じ動きをすることではない。自分の身体、装備、任務、そして周囲の状況を理解することだ」

ヴァルターは続けた。

「そして、どれほど技術を磨いても、一人でできることには限界がある」

彼は救護班の方へ目を向けた。

「今日の演習で、諸君は何度も仲間の助けを必要としたはずだ」

訓練生の一人が頷いた。

「はい!」

「そのことを忘れるな」

ヴァルターは左手で銃を下ろした。

「兵士の強さは、銃の扱いだけで決まるものではない」

その言葉が、演習区画へ静かに響いた。

午前十一時七分。

中央観覧所。

レイブンは、涙を拭いながら父の姿を見つめていた。

ヴァルターが見せた特殊再装填は、少年にとって初めて見るものだった。

片腕を失ってなお、父は技術を磨き続けていた。

しかし、レイブンが胸を打たれたのは、その動きだけではなかった。

父は訓練生たちへ、強さだけを教えていなかった。

仲間を頼ること。

自分の限界を知ること。

守るべき人々を忘れないこと。

そして、危険を軽く考えないこと。

それらは、父が自分へ何度も教えてきたことだった。

「……父さん……」

レイブンは小さく呟いた。

セレナは息子の肩を抱いた。

「……見ていた?」

「……うん」

「どう思った?」

レイブンはしばらく考えた。

「……かっこよかった」

セレナは微笑んだ。

「そう」

「でも……それだけじゃなかった」

少年は涙を拭った。

「……父さん、ずっと僕に教えてくれてたんだね」

セレナは頷いた。

「ええ」

ルナが兄の手を握った。

「お兄ちゃん」

「何?」

「お父さん、すごかったね」

レイブンは静かに頷いた。

「……うん」

そして、もう一度、父の姿を見つめた。

午前十一時二十三分。

第七再開発区画、中央広場。

演習終了を告げる放送が流れた。

『以上をもちまして、帝国陸軍中央教育学校による市街地総合演習を終了します』

見学者たちから拍手が起こった。

訓練生たちは整列し、指揮官から講評を受けている。

ヴァルターも、教官として最後の確認を行っていた。

レイブンは観覧所からその姿を見つめていた。

父へ話したいことがあった。

謝りたいこともあった。

そして、もう一度聞いてほしいこともあった。

だが、まだ足が動かなかった。

父の顔を見れば、誕生日の夜を思い出す。

あの時の恐怖は、完全には消えていない。

それでも、今朝までとは違っていた。

父の言葉を、もう一度聞いてみたい。

そう思えるようになっていた。

セレナは息子の表情を見た。

「……レイブン」

「うん」

「今日は、無理に話さなくてもいいわ」

少年は母を見た。

「……いいの?」

「ええ」

セレナは微笑んだ。

「自分の気持ちが整理できてからでいいのよ」

レイブンは静かに頷いた。

「……ありがとう、母さん」

ルナが兄の手を引いた。

「お兄ちゃん、帰ろう?」

「……うん」

三人は観覧所を後にした。

午後零時四十六分。

第七再開発区画、演習統制所。

ヴァルターは、演習の終了報告を受けていた。

訓練生たちの評価、機材の確認、模擬負傷者の救護状況。

すべての報告が終わると、彼はようやく椅子へ腰を下ろした。

窓の外には、見学者たちが帰路につく姿が見える。

セレナとルナ。

そして、レイブン。

ヴァルターは、その後ろ姿を見つめた。

息子は一度だけ振り返った。

遠くから、父のいる建物を見た。

しかし、すぐに母と妹の方へ向き直り、歩き始めた。

ヴァルターは静かに息を吐いた。

「……レイブン」

今日の演習で、何かが伝わっただろうか。

息子が泣いていた理由を、彼はまだ知らない。

ただ、あの涙を見た時、自分が息子へ伝えたかったことが、少しだけ届いたのかもしれないと思った。

だが、それで終わりではない。

自分には、まだ謝らなければならないことがある。

ヴァルターは左手を見つめた。

そして、静かに握り締めた。

午後八時三十六分。

クロウ家別邸、レイブンの自室。

レイブンは机に向かい、日記帳を開いていた。

今日は、久しぶりに何を書けばいいのか迷っていた。

演習はすごかった。

父の特殊再装填も、目を奪われるほど見事だった。

しかし、胸に残っているのは、それだけではない。

少年は万年筆を握り、ゆっくりと書き始めた。

『今日は、母さんとルナと一緒に、軍の演習を見に行った。

父さんもいた。

最初は、父さんの顔を見るのが嫌だった。

でも、演習を見ているうちに、いろんなことを考えた。

兵士は、戦うだけじゃない。

誰かを助けたり、仲間を守ったり、難しいことを判断したりする。

そして、どれだけ頑張っても、怪我をすることがある。

父さんは、それを知っていた。

僕が軍人になりたいと言った時、父さんはきっと怖かったんだと思う。

僕が、父さんと同じように傷つくかもしれないから。

今日は、それが少し分かった。

でも、誕生日に叩かれたことは、まだ悲しい。

父さんのことが怖い気持ちも、まだ残っている。

それでも、僕は父さんの話をもう一度聞きたい。

そして、僕の話も聞いてほしい。

まだ、どうしたらいいか分からない。

でも、いつかちゃんと話したい。』

レイブンは万年筆を置いた。

机の上には、ルナが作ってくれた黒い鴉の栞が置かれている。

少年はそれを手に取り、静かに眺めた。

父のことを、もう一度信じられるだろうか。

まだ答えは出なかった。

けれど、今日の演習を見て、父の言葉の意味を少し理解できた。

それだけは確かだった。

帝政歴三四一年、十一月三十日。

レイブン・S・クロウ、十四歳。

父と息子の間に生まれた亀裂は、まだ埋まっていない。

しかし、この日、少年は父が抱えていた恐怖と責任の一端を知った。

そして、ヴァルターもまた、息子へ何を伝えるべきかを考え続けていた。

互いに話したいことは、まだ残されている。

だが、今はまだ、その言葉を交わす時ではなかった。

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