第38話 届かない謝罪
第38話 届かない謝罪
帝政歴三四一年、十一月二十六日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前五時四十三分。
ヴァルター・A・クロウは、一睡もできなかった。
書斎の窓から見える庭園は、夜明け前の薄闇に沈んでいる。暖炉の火はとうに弱まり、机の上には冷えきった珈琲が置かれていた。
左手で持っていた万年筆を置き、ヴァルターは深く息を吐いた。
目の前には、一枚の便箋がある。
『レイブンへ』
書けたのは、その一行だけだった。
昨夜から何度も謝罪の言葉を考え、そのたびに紙を取り替えている。書き損じた便箋は机の端に重なり、屑籠にも数枚が落ちていた。
自分がしたことは、はっきりしている。
息子が将来の希望を話した。
自分はそれを受け止められなかった。
意見がぶつかり、感情を抑えられなくなった。
そして、息子の頬を叩いた。
どれほど理由を探しても、その事実は変わらない。
「……十四歳の誕生日だったんだぞ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
誕生日の食卓で、息子は何度も笑っていた。
ルナから贈られた栞を見せ、学校で友人たちに祝ってもらったことを話し、母が用意した料理を嬉しそうに食べていた。
その笑顔を壊したのは、自分だった。
ヴァルターは左手を見つめた。
昨日、あの手でレイブンを叩いた。
右腕を失ってから、左手は日常生活のほとんどを支えてきた。書類を扱い、食事を取り、教壇で教材を示し、幼い息子や娘の頭を撫でてきた。
家族を抱き寄せるためにも使ってきた手だった。
その手を、怒りに任せて振るった。
レイブンが頬を押さえて見上げてきた時の顔が、瞼の裏から離れなかった。
『……父さん?』
あの声には、怒りよりも先に驚きがあった。
なぜ叩かれたのか、理解できないという顔だった。
ヴァルターは便箋へ視線を戻した。
謝らなければならない。
しかし、何を言えばいいのか分からなかった。
謝罪を受け取るかどうかは、息子が決めることだ。
それだけは、昨夜セレナに言われて理解していた。
午前六時二十二分。
クロウ家別邸、二階廊下。
ヴァルターは書斎を出て、レイブンの部屋の前まで歩いてきた。
扉の下から、細い光が漏れている。
もう起きているらしい。
左手を上げ、扉を叩こうとした。
しかし、その手は途中で止まった。
今、声を掛けるべきなのか。
昨日の今日で、息子はまだ自分の顔も見たくないかもしれない。
それでも、何も言わずにいることが正しいとは思えなかった。
ヴァルターは小さく息を吸った。
「……レイブン」
返事はなかった。
「起きているか?」
部屋の中から、微かに衣擦れの音が聞こえた。
しかし、声は返ってこない。
「昨日のことを……」
そこまで言って、ヴァルターは言葉を止めた。
扉の向こうで、何かが机に置かれる音がした。
それきりだった。
ヴァルターはしばらく待った。
「……朝食の時間になったら、下りてきなさい」
返事はない。
彼は左手を下ろし、ゆっくりと廊下を離れた。
階段へ向かう途中、セレナと出会った。
妻は夫の顔を見るなり、眉を寄せた。
「……あなた、眠っていないでしょう」
「少しは休んだ」
「嘘ね」
ヴァルターは否定しなかった。
セレナはレイブンの部屋へ目を向けた。
「声を掛けたの?」
「ああ」
「返事は?」
「……なかった」
セレナは静かに頷いた。
「そう」
ヴァルターは妻を見た。
「……どうすればいいと思う」
「まず、あの子が安心して朝を過ごせるようにしましょう」
「私は、顔を合わせない方がいいのか?」
「そこまで決めつけなくてもいいわ。でも、話を強要しないで」
セレナは夫の左手へ視線を落とした。
「謝ることと、許してもらおうとすることは違うのよ」
ヴァルターは唇を結んだ。
「……分かっている」
「本当に分かっているなら、急がないで」
妻の声は穏やかだったが、譲る気配はなかった。
午前七時十一分。
クロウ家別邸、食堂。
朝食の席には、普段どおり四人分の食器が並んでいた。
焼きたてのパン、温かなスープ、卵料理、果物。
セレナはいつもと変わらない朝食を用意していた。
ただ、食卓の空気だけが違っていた。
ヴァルターは椅子に座り、階段の方から聞こえる足音へ耳を澄ませていた。
やがて、レイブンが食堂へ入ってきた。
十四歳になったばかりの少年は、学院の制服を着ていた。黒い猫耳は少し伏せられ、左右で色の異なる瞳には、寝不足を思わせる影がある。
頬の赤みはほとんど消えていた。
だが、表情は硬かった。
「……おはよう、レイブン」
ヴァルターが声を掛けた。
少年は答えなかった。
父の方を見ることもなく、食卓の自分の席へ向かう。
「お兄ちゃん、おはよう」
ルナが声を掛けると、レイブンは小さく頷いた。
「……おはよう、ルナ」
セレナにも挨拶をした。
「おはよう、母さん」
「おはよう。よく眠れた?」
「……少し」
「そう。食べられる分だけでいいから、朝ご飯を食べましょう」
「うん」
レイブンは椅子へ腰を下ろした。
父の隣ではなく、向かい側の席だった。
ヴァルターは息子の顔を見た。
「……レイブン」
少年はパンを手に取った。
「昨日は……」
「母さん、ジャム取って」
レイブンは父の声に重ねるように言った。
セレナは一瞬、動きを止めた。
そして、静かにジャムの瓶を渡した。
「はい」
「ありがとう」
ヴァルターは口を閉じた。
レイブンは父の方を見ない。
スープを飲み、パンを食べ、ルナに話しかけられれば短く答える。
しかし、ヴァルターが何を言っても、まるで聞こえていないかのように振る舞った。
「今日の学院は、通常授業か?」
返事はない。
「帰りは何時頃になる?」
少年は鞄の留め具を確かめていた。
ヴァルターはそれ以上、尋ねられなかった。
ルナが不安そうに兄を見た。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「お父さんが聞いてるよ」
レイブンの手が止まった。
しかし、顔は上げなかった。
「……聞こえてる」
「じゃあ……」
「ルナ」
セレナが娘の名を呼んだ。
ルナは母を見た。
セレナは小さく首を振った。
少女は唇を結び、俯いた。
ヴァルターはその様子を見ていた。
娘にまで気を遣わせている。
その事実が、さらに胸を重くした。
午前七時三十八分。
クロウ家別邸、玄関。
レイブンは靴を履き、鞄を肩へ掛けた。
セレナが外套を差し出す。
「今日は冷えるから、これを着ていきなさい」
「ありがとう、母さん」
レイブンは外套を受け取った。
ルナも鞄を持って玄関へやってきた。
「お兄ちゃん、一緒に行こう」
「うん」
ヴァルターは廊下の奥から二人を見ていた。
普段なら、ここで息子の頭を撫で、気をつけて行ってこいと声を掛ける。
しかし、今日はその距離がひどく遠く感じられた。
「……レイブン」
少年は靴紐を結び終えた。
「……気をつけて行ってこい」
レイブンは返事をしなかった。
玄関の扉を開き、外へ出る。
ルナは父と兄を交互に見た。
「……行ってきます」
「ああ。気をつけて」
ヴァルターが答えると、ルナは小さく頷き、兄の後を追った。
扉が閉まった。
ヴァルターは、しばらくその場から動かなかった。
セレナが隣へ立った。
「……あなた」
「分かっている」
ヴァルターは静かに答えた。
「無視されるのも、当然だ」
セレナは夫を見た。
「当然かどうかを、今ここで決める必要はないわ」
「……そうだな」
「でも、あの子は昨日、あなたに叩かれたの。今日はまだ、その翌朝よ」
ヴァルターは目を伏せた。
「……ああ」
午前八時二十六分。
帝国中央学院、通学路。
レイブンとルナは、並んで石畳の歩道を歩いていた。
冬の冷たい風が街路樹の枝を揺らし、通勤する人々の足音が通りに響いている。
しばらく、二人は黙って歩いていた。
やがて、ルナが兄の袖を引いた。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「お父さんと、まだ怒ってるの?」
レイブンは前を向いたまま答えた。
「……うん」
「……そっか」
ルナは俯いた。
少し歩いてから、また口を開いた。
「お父さん、昨日から元気ないよ」
レイブンの耳がわずかに動いた。
しかし、答えなかった。
「お母さんも、心配してる」
「……知ってる」
レイブンは小さく答えた。
ルナは兄の顔を覗き込んだ。
「……仲直り、できない?」
レイブンは足を止めた。
ルナも立ち止まる。
少年は妹を見た。
「……ルナ」
「うん」
「僕だって、こんなの嫌だよ」
声が少し震えた。
「昨日まで、普通に話してたんだ。父さんと一緒にご飯食べて、仕事の話して……誕生日だって、祝ってもらった」
ルナは黙って聞いていた。
「でも、今は……父さんの顔を見ると、昨日のことを思い出す」
レイブンは俯いた。
「……まだ、話したくない」
ルナの白い猫耳が伏せられた。
「……分かった」
少女は兄の手を握った。
「じゃあ、今日は私とお話ししよう」
レイブンは少し驚いた。
そして、かすかに笑った。
「……うん」
二人は再び歩き始めた。
午前九時四十一分。
帝国陸軍中央教育学校、教官室。
ヴァルターは机の前に座っていた。
書類を一枚めくり、次の頁へ目を移す。
しかし、文章が頭に入ってこなかった。
同じ行を何度も読み返している。
「……クロウ教官」
声を掛けたのは、エーリヒ・ベルクマン中尉だった。
「……ああ、ベルクマン中尉」
「先ほどから、同じ書類をご覧になっていますが」
ヴァルターは手元を見た。
確かに、確認済みの頁を何度もめくっていた。
「……すまん」
エーリヒは少し眉を寄せた。
「体調が優れないのですか?」
「……少し、家庭のことでな」
「ご家庭のことですか」
ヴァルターは頷いた。
「今日は、講義の担当を交代してもらえないだろうか」
エーリヒは驚いた。
ヴァルターが自分から講義の交代を申し出ることは、滅多になかった。
「……承知しました。ラインハルト校長へ報告し、調整します」
「助かる」
エーリヒは少し迷った。
「……教官」
「何だ?」
「無理はなさらないでください」
ヴァルターは苦笑した。
「……ありがとう」
午前十時十八分。
帝国陸軍中央教育学校、校長室。
アウグスト・ラインハルト少将は、ヴァルターから事情を聞いていた。
もちろん、家庭内の詳しい内容まで尋ねるつもりはなかった。
ただ、長年勤務してきた教官が明らかに疲弊していることは、一目で分かった。
「……クロウ少佐」
「はい」
「今日は帰宅しなさい」
ヴァルターは顔を上げた。
「しかし、講義が……」
「ベルクマン中尉と他の教官で対応できる」
ラインハルトは静かに答えた。
「君は今、教壇に立てる状態ではない」
ヴァルターは黙った。
「家庭の問題か?」
「……はい」
「詳しく話す必要はない」
ラインハルトは椅子へ背を預けた。
「だが、君が部下に教えていることを思い出せ」
ヴァルターは顔を上げた。
「……何でしょうか」
「判断力を失っている時は、無理に指揮を執るな」
その言葉に、ヴァルターは目を伏せた。
「……そのとおりです」
「今日は休め。必要なら、明日以降の勤務も調整する」
「ありがとうございます」
ヴァルターは立ち上がり、敬礼した。
校長室を出る時、ラインハルトがもう一度声を掛けた。
「クロウ少佐」
「はい」
「君は、他人に助けを求めることを恥だとは教えていないはずだ」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……はい」
午前十一時三十六分。
帝国中央部、市街商業地区。
ヴァルターは、制服から私服へ着替えて街へ出ていた。
家へ帰ろうとも考えた。
しかし、玄関を開けたところで、昨夜の食堂を思い出してしまう。
レイブンの頬を叩いた瞬間。
息子が後ずさった姿。
そして、今朝の無言の朝食。
ヴァルターは歩道をゆっくりと歩いた。
商業地区は、昼前の買い物客で賑わっていた。
パン屋の店先では焼きたてのパンが並び、花屋では冬の花束が飾られている。
通りの向こうから、父親と少年が歩いてきた。
少年は父親の手を引き、何かを楽しそうに話している。
父親は笑いながら答えていた。
ヴァルターは思わず足を止めた。
かつてのレイブンも、ああして自分の手を引いていた。
まだ幼かった頃、息子は何かを見つけるたびに走り寄り、何度も同じ質問を繰り返していた。
『父さん、あれは何?』
『父さん、どうして?』
『父さん、僕もできる?』
あの頃は、答えられることが嬉しかった。
息子が自分を頼ってくれることが、何より誇らしかった。
それなのに、昨日は。
『僕の将来は、僕が考えたい』
そう言った息子を、受け止められなかった。
ヴァルターは視線を落とし、再び歩き始めた。
正午十二時十四分。
帝国中央部、旧市街。
大通りから一本外れた路地に、古い煉瓦造りの建物があった。
一階には、濃い緑色の扉を持つ小さなバーがある。
看板には、銀色の文字で店名が記されていた。
『BAR SILVER OAK』
《シルバー・オーク》。
ヴァルターは、その店を以前から知っていた。
若い頃、同僚に連れられて何度か訪れたことがある。
当時は先代の店主がカウンターに立っていたが、今は娘が店を継いでいると聞いていた。
昼間から営業しているのは、夜勤明けの労働者や近隣の商店主が立ち寄るためだった。
ヴァルターは扉の前で足を止めた。
酒を飲みたいわけではなかった。
ただ、誰かに話を聞いてほしかった。
家族ではない誰かに。
軍の同僚でもない誰かに。
彼は左手で扉を開いた。
小さな鈴が鳴った。
店内には、磨かれた木製のカウンターと、古い酒瓶が並ぶ棚があった。昼間のため客は少なく、窓から差し込む冬の日差しが床板に淡い模様を描いている。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた女性の声が聞こえた。
カウンターの向こうに立っていたのは、三十代後半ほどの女性だった。
栗色の髪を後ろでまとめ、白いシャツに黒いベストを着ている。柔らかな目元とは対照的に、客を観察する視線には鋭さがあった。
「……おや」
女性はヴァルターの顔を見て、少し驚いた。
「もしかして、クロウさん?」
ヴァルターは顔を上げた。
「……私を知っているのか?」
「ええ。父の店だった頃、何度かいらっしゃいましたよね」
女性は微笑んだ。
「私はマルタ・エーデルシュタイン。今は、この店のマスターをしています」
「……ああ」
ヴァルターは記憶を辿った。
「先代の娘さんか」
「はい。お久しぶりです」
マルタはカウンターの椅子を示した。
「どうぞ。お好きな席へ」
ヴァルターは奥の席へ腰を下ろした。
「……何か、温かいものを頼めるだろうか」
「珈琲でよろしいですか?」
「ああ」
マルタは頷いた。
「少々お待ちください」
ヴァルターはカウンターへ左肘を置き、静かに息を吐いた。
マルタは珈琲を淹れながら、客の様子を横目で見ていた。
軍人らしい姿勢。
右腕のない身体。
そして、ひどく疲れた顔。
しかし、彼女はすぐには何も尋ねなかった。
やがて、湯気の立つカップが差し出された。
「どうぞ」
「ありがとう」
ヴァルターは一口飲んだ。
温かな苦味が喉を通る。
マルタはカウンターを拭きながら、穏やかに声を掛けた。
「……今日は、お休みですか?」
「……ああ」
「お仕事、お忙しいんでしょう?」
「普段はな」
ヴァルターはカップを置いた。
「今日は、少し事情があって休ませてもらった」
マルタは頷いた。
「そうでしたか」
少しの沈黙が流れた。
ヴァルターは、何度か口を開きかけた。
しかし、言葉が出てこない。
マルタは急かさなかった。
やがて、ヴァルターが低い声で尋ねた。
「……マスター」
「はい」
「一つ、相談してもいいだろうか」
マルタは手を止めた。
「もちろんです」
ヴァルターはしばらく俯いていた。
そして、ようやく口を開いた。
「……昨日、息子を叩いてしまった」
マルタの表情が、わずかに変わった。
しかし、声を荒らげることはなかった。
「……そうでしたか」
「十四歳になったばかりの息子だ」
ヴァルターは左手を握り締めた。
「誕生日だった。家族で祝っていた」
マルタは黙って聞いていた。
「息子が、将来は軍人になりたいと言ったんだ」
「……軍人に」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「私は反対した。危険な仕事だと知っているからな」
マルタは、彼の右腕があった場所へ一瞬だけ視線を向けた。
そして、すぐに目を戻した。
「……それで、口論になったのですか?」
「ああ」
ヴァルターは答えた。
「最初は、互いに意見を言い合っていただけだった」
彼はカップを見つめた。
「息子は、自分なりに考えていると言った。学校で勉強し、資料を調べ、私の仕事を見てきたと」
「はい」
「だが、私は……あいつが何も分かっていないように思えてしまった」
ヴァルターは目を閉じた。
「戦場で何が起きるか。人がどれほど簡単に傷つくか。仲間を失うことが、どれほど苦しいか」
マルタは静かに頷いた。
「……ご自身の経験があるからこそ、心配だったのですね」
「そうだ」
ヴァルターは答えた。
「だが、それだけではなかったのかもしれん」
「と、いいますと?」
「……怖かったんだ」
その言葉を口にした瞬間、ヴァルターは自分でも驚いた。
彼はしばらく黙っていた。
「息子が、私と同じ道を歩くことが」
マルタは黙って聞いていた。
「私のように身体の一部を失うかもしれない。仲間を失うかもしれない。ある日、帰ってこなくなるかもしれない」
ヴァルターは左手を見つめた。
「……そんなことを考えたら、冷静でいられなかった」
マルタはゆっくりと頷いた。
「……それで、手を上げてしまった」
「ああ」
ヴァルターの声が掠れた。
「……叩いた瞬間、息子が私を見た」
彼は唇を噛んだ。
「何が起きたのか分からない、という顔だった」
マルタは何も言わなかった。
「……あいつは、私を尊敬していると言ってくれたんだ」
ヴァルターは顔を伏せた。
「父さんのようになりたい、と」
左手が震えた。
「その息子を、私は叩いた」
長い沈黙が流れた。
やがて、マルタが静かに口を開いた。
「……クロウさん」
「……ああ」
「一つ、厳しいことを申し上げてもよろしいですか?」
ヴァルターは顔を上げた。
「……頼む」
マルタは彼をまっすぐに見た。
「息子さんが軍人になりたいと言ったことと、あなたが息子さんを叩いたことは、別の問題です」
ヴァルターは頷いた。
「……ああ」
「息子さんの将来を心配することは、親として自然なことだと思います」
マルタは続けた。
「でも、心配しているからといって、手を上げていいわけではありません」
「……分かっている」
「本当にそう思っていらっしゃるなら、まず息子さんにそのことを伝える必要があります」
ヴァルターは目を伏せた。
「……謝りたい」
「はい」
「だが、今朝は何を言っても無視された」
マルタは少し考えた。
「……息子さんは、昨日の今日で気持ちを整理できていないのでしょう」
「そうだろうな」
「それなら、今すぐ返事を求めないことです」
ヴァルターは顔を上げた。
「……返事を求めない?」
「ええ」
マルタは穏やかに答えた。
「謝るのは、あなたの責任です。でも、許すかどうかは息子さんが決めることです」
ヴァルターは黙っていた。
「そして、息子さんが今は話したくないと思っているなら、その気持ちも尊重してあげてください」
ヴァルターはゆっくりと頷いた。
「……妻にも、同じことを言われた」
マルタは微笑んだ。
「奥様は、よく分かっていらっしゃるのですね」
「……ああ」
ヴァルターは苦笑した。
「私より、ずっとな」
マルタは新しい珈琲を少しだけ注いだ。
「もう一つ、聞いてもよろしいですか?」
「何だ?」
「息子さんが軍人になりたいと言った時、あなたはその理由を最後まで聞きましたか?」
ヴァルターは答えようとした。
しかし、言葉が止まった。
レイブンは確かに、理由を話していた。
父を尊敬していること。
誰かを守れる人間になりたいこと。
学校で勉強し、将来の進路を考えていること。
だが、自分はそれを聞きながら、どうすれば諦めさせられるかばかり考えていた。
「……いや」
ヴァルターは静かに答えた。
「聞いていたつもりだった」
マルタは頷いた。
「そうでしたか」
「……私は、息子の言葉を聞いていなかった」
ヴァルターは顔を伏せた。
マルタはしばらく黙っていた。
そして、穏やかに言った。
「クロウさん。息子さんは、あなたと同じ人間ではありません」
ヴァルターは顔を上げた。
「……ああ」
「あなたが経験したことを、息子さんが必ず経験するとは限りません」
マルタは続けた。
「もちろん、危険な道であることは変わらないでしょう。でも、息子さんには息子さんの考えがあります」
ヴァルターは黙って聞いていた。
「その考えが未熟だったとしても、最初から否定するのではなく、一緒に考えることはできるはずです」
ヴァルターは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうだな」
マルタは微笑んだ。
「ただし、今すぐ将来の話を再開する必要はありません」
「……なぜだ?」
「今、息子さんが一番傷ついているのは、進路を反対されたことだけではないからです」
ヴァルターは黙った。
「信じていたお父さんに、叩かれたことです」
その言葉が、胸の奥へ深く沈んだ。
ヴァルターは左手を握り締めた。
「……ああ」
マルタは静かに続けた。
「まずは、安心して同じ家で過ごせるようになることが大切だと思います」
ヴァルターは目を閉じた。
「……分かった」
午後一時四十六分。
BAR SILVER OAK。
店内には、昼下がりの静かな時間が流れていた。
ヴァルターは二杯目の珈琲を飲み終え、カップを置いた。
「……長い話を聞かせてしまったな」
マルタは首を振った。
「いいえ。お話ししていただけてよかったです」
ヴァルターは財布を取り出した。
「いくらだ?」
「珈琲二杯分です」
マルタは金額を告げた。
ヴァルターは代金を支払い、椅子から立ち上がった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
マルタは微笑んだ。
「クロウさん」
「何だ?」
「今日、すぐに仲直りできなくても、焦らないでください」
ヴァルターは頷いた。
「……ああ」
「それから、ご自身の感情が抑えられなくなりそうな時は、距離を置いてください。息子さんを傷つけないためにも」
「……そうする」
ヴァルターは静かに答えた。
マルタは扉の方へ目を向けた。
「また、いつでもいらしてください」
「……ありがとう」
ヴァルターは店を出た。
午後二時十九分。
帝国中央部、旧市街。
冬の風が、通りを吹き抜けていた。
ヴァルターは外套の襟を立て、ゆっくりと歩いていた。
マルタの言葉が、頭の中で繰り返されている。
『謝るのは、あなたの責任です。でも、許すかどうかは息子さんが決めることです。』
そのとおりだった。
自分は、謝れば息子が許してくれると思っていたのかもしれない。
謝罪を受け入れてもらえれば、昨日のことを終わらせられると。
だが、それは自分の都合だった。
レイブンは、まだ十四歳になったばかりだ。
昨日まで、父を信じていた。
その父に叩かれた。
傷ついた気持ちが、一晩で消えるはずがない。
ヴァルターは足を止めた。
通りの向こうでは、学校帰りの子供たちが笑いながら歩いている。
彼はしばらくその光景を眺めていた。
「……レイブン」
息子の名を呟いた。
そして、再び歩き始めた。
午後四時三十八分。
クロウ家別邸。
ヴァルターが帰宅すると、玄関にはレイブンとルナの靴が並んでいた。
二人とも、すでに学院から帰っているらしい。
居間からは、ルナの声が聞こえていた。
「お兄ちゃん、ここ教えて!」
「……ここは、先にこっちを計算するんだよ」
レイブンの声だった。
ヴァルターは足を止めた。
昨日から初めて聞く、普段に近い息子の声だった。
思わず居間へ向かいかけた。
しかし、途中で立ち止まった。
今、自分が入れば、息子はまた黙ってしまうかもしれない。
ヴァルターは静かに外套を脱ぎ、書斎へ向かった。
午後五時十二分。
クロウ家別邸、居間。
レイブンはルナの勉強を見ていた。
机の上には、算術の問題集と筆記用具が並んでいる。
「……できた!」
ルナが声を上げた。
レイブンは頷いた。
「うん。合ってる」
「やった!」
ルナは嬉しそうに笑った。
その時、セレナが居間へ入ってきた。
「二人とも、お勉強は順調?」
「うん!」
ルナが答えた。
レイブンも小さく頷いた。
「……もう少しで終わる」
セレナは微笑んだ。
「そう。終わったら、お茶にしましょう」
ルナは嬉しそうに頷いた。
そして、少し迷ってから口を開いた。
「……お母さん」
「何?」
「お父さん、帰ってきた?」
「ええ。書斎にいるわ」
ルナは兄を見た。
レイブンは問題集へ視線を落としていた。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「お父さんに、今日のこと話さない?」
レイブンの手が止まった。
しばらく沈黙が流れた。
そして、少年は小さく答えた。
「……今は、いい」
ルナは俯いた。
「……そっか」
セレナは娘の肩へ手を置いた。
「ルナ、無理に話させなくていいのよ」
「……うん」
レイブンは黙っていた。
やがて、問題集を閉じた。
「……僕、部屋に戻る」
セレナは頷いた。
「分かったわ」
レイブンは立ち上がり、居間を出ていった。
ルナは兄の背中を見送った。
「……お母さん」
「何?」
「私、どうしたらいいのかな」
セレナは娘を抱き寄せた。
「あなたは、いつもどおりお兄ちゃんのそばにいてあげて」
「……それだけ?」
「ええ。それだけでも、十分よ」
ルナは静かに頷いた。
午後六時四十七分。
クロウ家別邸、食堂。
夕食の席には、再び四人が揃っていた。
しかし、昨日までのような賑やかさはなかった。
レイブンは母と妹には話しかける。
学校のことも、勉強のことも、必要なことは答える。
だが、父へは一度も視線を向けなかった。
ヴァルターも、無理に話しかけなかった。
食事の途中、セレナが静かに口を開いた。
「レイブン、明日は学校で何か予定があるの?」
「……歴史の小テスト」
「そう。準備はできている?」
「うん」
ルナが笑った。
「お兄ちゃん、また満点取るんでしょ?」
レイブンは少しだけ笑った。
「……どうだろうね」
ヴァルターはその笑顔を見た。
そして、すぐに視線を落とした。
自分に向けられた笑顔ではなかった。
それが、今の現実だった。
食事が終わると、レイブンは食器を片づけた。
「……ごちそうさま」
セレナが頷いた。
「はい」
レイブンは父の方を見ず、食堂を出ていった。
ヴァルターは、その背中を見送ることしかできなかった。
午後八時二十一分。
クロウ家別邸、書斎。
ヴァルターは机の前に座っていた。
そこには、昨夜から書きかけていた便箋がある。
『レイブンへ』
彼は万年筆を手に取った。
そして、ゆっくりと書き始めた。
『昨日、私はお前を叩いた。
あれは、私がしてはいけないことだった。
お前が軍人になりたいと言ったことも、自分の考えを話したことも、叩かれる理由にはならない。
私は、自分の恐怖と怒りを抑えられず、お前を傷つけた。
言い訳はしない。
本当に、すまなかった。』
ヴァルターは手を止めた。
続けて、何かを書こうとした。
しかし、書かなかった。
許してほしい。
もう一度、以前のように話してほしい。
そう書きたかった。
だが、それは今、息子へ求めることではない。
ヴァルターは便箋を静かに折り畳んだ。
封筒へ入れ、表に息子の名前を書いた。
そして、机の引き出しへしまった。
まだ渡すべき時ではないと思った。
少なくとも、今夜は。
午後九時三十四分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは机に向かい、学校の課題を終えていた。
歴史の小テストに向けた復習も済ませている。
しかし、日記帳は開かれていなかった。
昨日の頁も、途中で止まったままだった。
少年は机の上に置かれた栞を手に取った。
ルナが作ってくれた黒い鴉。
それを眺めながら、静かに息を吐いた。
父が今朝、自分へ話しかけていたことは分かっている。
謝ろうとしていたことも、何となく分かっていた。
だが、返事をする気にはなれなかった。
顔を見れば、昨日のことを思い出す。
声を聞けば、叩かれた瞬間が頭に浮かぶ。
父が嫌いになったのか。
それとも、ただ怖いだけなのか。
自分でも分からなかった。
レイブンは栞を机へ置き、寝台へ腰を下ろした。
「……父さん」
小さく呟いた。
しかし、その先の言葉は出てこなかった。
少年は毛布を引き寄せ、横になった。
帝政歴三四一年、十一月二十六日。
父と息子が初めて本気で衝突してから、一日が過ぎた。
ヴァルターは、自分が犯した過ちを認め、謝罪の言葉を用意した。
しかし、その言葉はまだ息子へ届いていない。
レイブンは、父を無視し続けていた。
それは反抗のためだけではなく、傷ついた自分の心を守るためでもあった。
セレナとルナは、二人が再び向き合える日を願っていた。
だが、今はまだ、その時ではなかった。
クロウ家の屋敷には、以前と同じように灯りがともっている。
食卓には四人分の食器が並び、朝になれば家族はそれぞれの一日を始める。
けれど、父と息子の間に生まれた距離は、まだ埋まっていなかった。




