第37話 十四歳の誕生日、父と息子の亀裂
第37話 十四歳の誕生日、父と息子の亀裂
帝政歴三四一年、十一月二十五日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前六時三十二分。
冬の冷たい空気が、窓硝子の向こうに広がっていた。
庭園の芝生には薄い霜が降り、屋敷の屋根からは朝日を受けた水滴がゆっくりと落ちている。暖炉の煙突から立ち上る白い煙が、風の弱い空へ細く伸びていた。
レイブン・S・クロウは、十四歳の誕生日を迎えた。
少年は寝台から起き上がると、枕元に置かれていた小さな包みに気づいた。
黒い包装紙に銀色の紐が結ばれ、上には一枚のカードが添えられている。
『十四歳の誕生日、おめでとう。ルナより』
レイブンは思わず笑った。
「……ルナ、いつの間に」
包みを開くと、中には手作りの栞が入っていた。
厚手の紙に黒い鴉が描かれ、その下には少し不揃いな文字で『お兄ちゃん、いつもありがとう』と書かれている。
レイブンは栞を指先で持ち上げ、窓から差し込む朝日にかざした。
黒い鴉の翼は左右で少し形が違っていたが、丁寧に描こうとした跡が残っている。
「……ありがとう、ルナ」
少年は小さく呟き、栞を机の上へ置いた。
階段を下りると、食堂から焼きたてのパンの香りが漂ってきた。
「お兄ちゃん!」
ルナが椅子から飛び降り、駆け寄ってきた。
「お誕生日おめでとう!」
「ありがとう」
レイブンは妹の頭を撫でた。
「栞、見つけたよ」
「ほんと!?」
「うん。すごく嬉しかった」
ルナの白い猫耳が嬉しそうに立った。
「えへへ……」
セレナが微笑みながら二人へ声を掛けた。
「おはよう、レイブン。十四歳のお誕生日、おめでとう」
「ありがとう、母さん」
セレナは息子を抱き締めた。
「大きくなったわね」
「……もう十四歳だから」
レイブンは少し照れくさそうに答えた。
その時、食堂の扉が開いた。
「おはよう」
ヴァルター・A・クロウが入ってきた。
左手には書類鞄を持ち、帝国陸軍の教官制服を身につけている。
「おはよう、父さん」
レイブンが挨拶すると、ヴァルターは静かに微笑んだ。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
「十四歳か。早いものだな」
ヴァルターは息子の肩へ左手を置いた。
「今日は学校が終わったら、まっすぐ帰ってこい。夕食は家族で祝おう」
「うん!」
レイブンは嬉しそうに頷いた。
この時、誰も想像していなかった。
この穏やかな朝が、クロウ家にとって忘れられない一日の始まりになることを。
午前八時十四分。
帝国中央学院、中等教育部。
教室では、朝の授業が始まる前から生徒たちが賑やかに話していた。
レイブンが席へ着くと、隣の男子生徒が声を掛けてきた。
「クロウ、今日誕生日なんだって?」
「ああ」
「十四歳か。おめでとう」
「ありがとう」
別の生徒が笑いながら話に加わった。
「そういえば、また首席だったんだろ?」
「……まあね」
レイブンは少し照れくさそうに答えた。
「毎回よくやるよな。算術なんて、俺にはさっぱりだ」
「分からないところがあれば、一緒に考えるよ」
「本当か? 助かる」
レイブンは微笑んだ。
この頃には、彼が学年首席を維持することは、教師や生徒たちの間で珍しい話ではなくなっていた。
妹ルナもまた、別の学年で優秀な成績を収めている。
兄妹がそれぞれの教室で上位に名を連ねることは、学院の日常風景の一つになりつつあった。
午前十一時三十八分。
帝国中央学院、図書室。
レイブンは昼休みを利用して、一冊の本を読んでいた。
題名は『帝国近代史と国境紛争の変遷』。
帝国と連邦共和国の関係について、歴史的な経緯をまとめた一般向けの書籍だった。
数年前から、帝国北部の国境地帯では緊張が続いている。
新聞には、国境警備の強化や外交交渉の停滞についての記事が増えていた。
レイブンは頁をめくりながら、ある一節で手を止めた。
『国家間の対立は、軍事力のみならず、資源、産業、外交、歴史認識など複数の要因によって形成される。』
少年はその文章を読み返した。
そして、小さく呟いた。
「……戦争って、どうして起こるんだろう」
父は軍人だった。
かつて戦場へ赴き、右腕を失って帰ってきた。
今は教官として、多くの兵士たちへ判断と責任の大切さを教えている。
レイブンは、父を尊敬していた。
だからこそ、最近になって一つの疑問が大きくなっていた。
父は、なぜ軍人になったのだろう。
そして、自分が同じ道を歩みたいと言ったら、どう答えるのだろう。
午後四時二十七分。
クロウ家別邸。
学校から帰宅したレイブンは、自室で制服を脱ぎ、普段着へ着替えた。
机の上には、図書室から借りてきた本が置かれている。
少年はその表紙を見つめながら、少し考え込んでいた。
数日前から、父へ話したいことがあった。
それは、単なる憧れではない。
これまで休日に父の仕事を手伝い、教育学校の様子を見てきた中で、少しずつ芽生えた思いだった。
自分も、将来は軍人になりたい。
父のように、誰かを守れる人間になりたい。
ただし、まだ十四歳だ。
今すぐ軍へ入れるわけではないことも、学業を続けなければならないことも理解している。
それでも、父に自分の考えを聞いてほしかった。
レイブンは深く息を吸い、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
そこには、将来の進路について自分なりに調べた内容が書かれていた。
帝国陸軍の教育課程。
志願制度。
必要な学力と身体能力。
いずれも一般に公開されている情報をまとめたものだった。
「……よし」
レイブンは紙を折り畳み、机の上へ置いた。
夕食の後、父に話してみよう。
そう決めた。
午後六時三十二分。
クロウ家別邸、食堂。
食卓には、セレナが用意した料理が並んでいた。
焼き上げた肉料理、温かな野菜の煮込み、香草を使ったスープ、そして誕生日用の菓子。
ルナは兄の隣へ座り、嬉しそうに笑っている。
「お兄ちゃん、十四歳!」
「朝から何回目だよ」
レイブンが笑うと、ルナは胸を張った。
「何回でも言うもん!」
セレナが微笑んだ。
「今日は特別な日だからね」
ヴァルターはグラスを持ち上げた。
「では、レイブンの十四歳の誕生日を祝って」
家族はグラスを合わせた。
「誕生日、おめでとう!」
食堂に明るい声が響いた。
レイブンは嬉しそうに笑った。
食事が進むにつれ、学校の話やルナの勉強の話、最近の出来事などが話題に上った。
ヴァルターも普段より穏やかな表情で、息子たちの話を聞いていた。
やがて、セレナが誕生日の菓子を切り分け始めた頃だった。
レイブンは、父へ目を向けた。
「……父さん」
「何だ?」
「少し、話したいことがあるんだ」
ヴァルターは頷いた。
「言ってみろ」
レイブンは一瞬、母と妹を見た。
セレナは穏やかに微笑み、ルナは興味深そうに兄を見つめている。
少年は意を決して口を開いた。
「僕、将来は軍人になりたい」
食堂の空気が、わずかに変わった。
ヴァルターの表情から笑みが消えた。
「……軍人?」
「うん」
レイブンは頷いた。
「父さんみたいに、誰かを守れる人になりたいんだ」
ヴァルターは黙っていた。
レイブンは続けた。
「もちろん、今すぐじゃないよ。学校はちゃんと卒業するし、必要な勉強も続ける。でも、将来の進路として考えたい」
セレナは息子を見つめていた。
ルナは、兄と父を交互に見ている。
ヴァルターはゆっくりとグラスを置いた。
「……その話は、いつから考えていた?」
「少し前から」
「私の仕事を手伝うようになってからか?」
「うん。でも、それだけじゃない」
レイブンは答えた。
「学校でも歴史や政治を勉強してるし、軍隊のことも本で調べた。父さんの仕事を見て、簡単なことじゃないって分かったつもりだよ」
ヴァルターは息子を見た。
「……分かったつもり、か」
その言葉には、わずかな硬さがあった。
レイブンは少し戸惑った。
「……父さん?」
ヴァルターは静かに口を開いた。
「レイブン。軍人になるというのは、お前が思っているほど単純なことではない」
「分かってるよ」
「いや。まだ分かっていない」
レイブンは眉を寄せた。
「……どうして、そう決めつけるの?」
ヴァルターは答えた。
「私は実際に軍務に就き、多くのものを見てきた。だから言っている」
「でも、僕だって何も考えずに言ってるわけじゃない」
レイブンの声が少し強くなった。
「ちゃんと調べたし、勉強もしてる」
「本で読んだことと、現実に経験することは違う」
「それは分かる。でも、経験しないと何も分からないなら、最初から誰も軍人になれないじゃないか」
ヴァルターは一瞬、言葉を止めた。
セレナが静かに声を掛けた。
「あなた、レイブンは将来の希望を話しているだけよ」
「分かっている」
ヴァルターは答えた。
しかし、その声は硬かった。
「だからこそ、軽々しく考えてほしくないんだ」
レイブンは父を見つめた。
「……軽々しくなんか考えてない」
食卓に沈黙が落ちた。
午後七時十四分。
クロウ家別邸、食堂。
誕生日の菓子は、まだ半分以上残っていた。
レイブンは椅子に座ったまま、父と向き合っていた。
最初は、自分の考えを伝えるだけのつもりだった。
しかし、話は次第に食い違い始めていた。
「父さんは、僕が軍人になるのが嫌なの?」
レイブンが尋ねた。
ヴァルターは少し考えた。
「……少なくとも、今のお前には勧められない」
「どうして?」
「まだ十四歳だからだ」
「十四歳だから、将来のことを考えちゃいけないの?」
「そうは言っていない」
「じゃあ、どうして?」
ヴァルターは息を吐いた。
「レイブン。軍隊は、お前が休日に手伝っている教育学校だけではない」
「分かってる」
「兵士は、命令によって危険な場所へ赴くこともある。仲間を失うこともある。自分自身が傷つくこともある」
ヴァルターは、失われた右腕の方へ視線を落とした。
「……私のようにな」
レイブンは、その袖を見つめた。
そして、静かに答えた。
「……知ってる」
「なら、なぜ同じ道を望む?」
「父さんが、そういう仕事をしてきたからだよ」
ヴァルターの眉が動いた。
「何?」
「危ないこともあるし、怪我をするかもしれない。でも、誰かを守るために働いている人たちがいる。僕は、その人たちを尊敬してる」
レイブンは続けた。
「父さんのことも、ずっと尊敬してる」
ヴァルターは黙った。
レイブンは少し声を落とした。
「だから、僕もそうなりたいんだ」
その言葉を聞いて、セレナは目を伏せた。
息子の気持ちは、よく分かっていた。
幼い頃から父の背中を追いかけ、休日には仕事を手伝い、少しずつ責任を学んできた。
それが、将来の夢へつながることは自然なことだった。
しかし、ヴァルターにとっては違った。
彼の脳裏には、六年前の光景が蘇っていた。
帝政歴三三四年。
異界門の向こう側で起きた戦闘。
混乱する部隊。
負傷した仲間。
そして、自分の右腕を失った瞬間。
あの時の痛みと恐怖は、今も完全には消えていない。
自分が経験したものを、息子にも経験させるかもしれない。
その可能性を考えただけで、胸の奥が冷たくなった。
「……レイブン」
ヴァルターは低い声で言った。
「私は、お前に同じ思いをしてほしくない」
レイブンは父を見た。
「……でも、それは父さんの考えだよ」
ヴァルターの表情が強張った。
「何だと?」
「僕の将来は、僕が考えたい」
レイブンは真剣だった。
「父さんが心配してくれるのは分かる。でも、僕の話も聞いてほしい」
「聞いている」
「聞いてないよ!」
レイブンの声が、思わず大きくなった。
ルナがびくりと肩を震わせた。
セレナが口を開いた。
「レイブン、少し声を落として」
「……ごめん」
少年は一度、息を整えた。
しかし、ヴァルターの表情は厳しいままだった。
「父親として、お前の将来を心配するのは当然だ」
「分かってる」
「なら、なぜそこまで軍人にこだわる?」
「……父さんが、僕の話を認めてくれないから」
ヴァルターは息子を見つめた。
「認めるかどうかの問題ではない」
「じゃあ、何の問題なの?」
「お前がまだ、軍務の現実を知らないということだ」
レイブンは唇を噛んだ。
そして、言ってしまった。
「……父さんだって、最初から全部知ってたわけじゃないだろ」
ヴァルターの目が鋭くなった。
「……何?」
「父さんも、若い頃に軍人になろうって決めたんだろ? その時は、今みたいに何でも知ってたわけじゃないはずだ」
レイブンは続けた。
「なのに、どうして僕には考えることさえ許してくれないんだよ!」
ヴァルターは椅子から立ち上がった。
「レイブン!」
低く鋭い声が食堂に響いた。
ルナは母の腕へしがみついた。
セレナはすぐに立ち上がった。
「あなた、落ち着いて」
しかし、ヴァルターは息子を見つめたままだった。
「お前は、私が何を経験してきたのか知らない」
「知ろうとしてるよ!」
レイブンも立ち上がった。
「だから、ずっと父さんの仕事を見てきたんだ!」
「それだけで分かったつもりになるな!」
「分かったつもりじゃない! もっと知りたいんだ!」
父と息子の声が重なった。
食卓の上で、グラスが小さく揺れた。
セレナが二人の間へ入ろうとした。
「二人とも、もうやめましょう。今日はレイブンの誕生日でしょう?」
だが、レイブンは父から目を逸らさなかった。
「……父さんは、僕が何を言っても子供だからって決めつけるんだ」
「子供だからこそ、守らなければならんことがある!」
「守るって言いながら、僕の気持ちは全部無視するの?」
ヴァルターの顔が強張った。
レイブンは、目に涙を浮かべながら続けた。
「……父さんは、僕を信じてくれないんだね」
その一言が、ヴァルターの胸を刺した。
「……レイブン」
「ずっと頑張ってきたのに」
少年の声が震えた。
「学校でも一番になった。父さんの仕事も手伝った。言われたことも守ってきた」
レイブンは拳を握り締めた。
「なのに、僕が本当にやりたいことを話したら、全部駄目だって……」
ヴァルターは息を呑んだ。
しかし、感情を抑えきれなかった。
「いい加減にしろ!」
その瞬間だった。
ヴァルターの左手が動いた。
乾いた音が、食堂に響いた。
レイブンの頬が横へ向いた。
時間が止まったようだった。
ヴァルター自身が、何をしたのか理解するまでに数秒かかった。
左手は、まだ宙に浮いていた。
レイブンは動かなかった。
頬に熱が広がり、耳の奥で音が鳴っている。
父に叱られたことは、これまで何度もあった。
しかし、叩かれたことは一度もなかった。
少年はゆっくりと父を見上げた。
金色と黒色の瞳に、涙が溜まっていた。
「……父さん?」
その声は、驚くほど小さかった。
ヴァルターは言葉を失った。
「……レイブン、私は……」
しかし、続く言葉が出てこなかった。
レイブンは一歩後ずさった。
その表情には、怒りよりも深い困惑が浮かんでいた。
「……どうして?」
ヴァルターは息を呑んだ。
少年の頬には、赤い跡が残っていた。
セレナがすぐに駆け寄った。
「レイブン!」
母が息子の肩を抱く。
ルナは椅子に座ったまま、震える声で呟いた。
「……お父さん?」
ヴァルターは、ようやく左手を下ろした。
その手が、かすかに震えていた。
「……違う。私は……」
だが、何を否定しようとしているのか、自分でも分からなかった。
レイブンは母の腕からそっと離れた。
「……もう、いい」
少年は俯いた。
「……父さんなんか、嫌いだ」
ヴァルターの表情が凍りついた。
レイブンは食堂を飛び出した。
「レイブン!」
セレナが呼びかけたが、少年は振り返らなかった。
階段を駆け上がる足音が響き、やがて二階で扉が閉まる音がした。
食堂には、重い沈黙だけが残された。
午後七時三十六分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは寝台の上で膝を抱えていた。
頬にはまだ熱が残り、涙が止まらなかった。
どうして、こんなことになったのだろう。
今日は十四歳の誕生日だった。
朝は、あんなに嬉しかった。
ルナが栞をくれて、母が抱き締めてくれて、父も笑って祝ってくれた。
だから、自分の将来について話そうと思った。
父に聞いてほしかった。
認めてもらえなくても、せめて考えを聞いてほしかった。
それなのに。
「……なんで……」
レイブンは顔を膝へ埋めた。
「……なんで、叩くんだよ……」
涙が寝間着の袖を濡らした。
その時、扉が静かに叩かれた。
「……レイブン?」
母の声だった。
少年は返事をしなかった。
「入ってもいい?」
少しの沈黙の後、レイブンは小さく頷いた。
「……うん」
扉が開き、セレナが入ってきた。
母は息子の姿を見ると、すぐに寝台のそばへ腰を下ろした。
「……レイブン」
少年は顔を上げなかった。
セレナは何も言わず、そっと息子を抱き寄せた。
その瞬間、レイブンの身体が震えた。
「……母さん……」
「うん」
「……僕、悪いこと言った?」
セレナは息子を強く抱き締めた。
「意見がぶつかって、言い方がきつくなったところはあったと思うわ」
レイブンは涙を流しながら尋ねた。
「……だから、叩かれたの?」
「いいえ」
セレナははっきりと答えた。
「それと、叩いていいかどうかは別のことよ。あなたが何を言ったとしても、お父さんが手を上げていい理由にはならないわ」
レイブンは母の胸へ顔を埋めた。
「……怖かった……」
「うん」
「……父さんが、あんな顔するの……初めてだった……」
セレナは息子の背中を撫でた。
「怖かったわね」
レイブンは何度も頷いた。
「……僕、父さんのこと……ずっと尊敬してたのに……」
セレナは静かに目を閉じた。
その言葉が、胸に深く刺さった。
「……うん」
「……もう、どうしたらいいか分かんない……」
セレナは息子の髪を撫でた。
「今は、無理に答えを出さなくていいの」
レイブンは顔を上げた。
「……いいの?」
「ええ」
セレナは穏やかに答えた。
「怒ってもいいし、悲しんでもいい。お父さんと今すぐ話さなくてもいいわ」
少年の目から、また涙がこぼれた。
「……母さん……」
「私は、あなたの味方よ」
セレナは息子を抱き締めた。
「そして、あなたが安心して眠れるように、ここにいるわ」
レイブンは、ようやく声を上げて泣いた。
十四歳になったばかりの少年は、母の腕の中で、幼い頃のように泣き続けた。
午後八時十二分。
クロウ家別邸、書斎。
ヴァルターは、一人で椅子に座っていた。
机の上には、レイブンのために用意していた誕生日の贈り物が置かれている。
黒革の表紙を持つ、新しい手帳だった。
その内側には、父から息子へ宛てた短い言葉が記されている。
『十四歳のレイブンへ。
自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の道を歩め。
父より。』
ヴァルターは、その文章を見つめていた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……何を、やっているんだ……私は……」
左手が震えていた。
あの手で、息子を叩いた。
今まで一度も、そんなことをしたことはなかった。
どれほど叱っても、どれほど意見が食い違っても、手を上げることだけはしないと決めていた。
それなのに。
今日、自分はその約束を破った。
しかも、息子の誕生日に。
ヴァルターは左手を見つめた。
軍人として、多くの訓練を受けてきた。
戦場での判断を教え、部下の命を預かる責任を説いてきた。
感情に流されず、状況を見極めろと何度も教えてきた。
その自分が、息子の言葉に感情を抑えきれず、手を上げた。
「……最低だ……」
ヴァルターは小さく呟いた。
机の上の手帳へ視線を落とす。
『自分の道を歩め。』
そう書いておきながら、自分は息子が将来の道を語ることすら受け止められなかった。
レイブンの言葉が、頭の中で繰り返される。
『父さんは、僕を信じてくれないんだね。』
『父さんなんか、嫌いだ。』
ヴァルターは顔を覆った。
失われた右腕が、いつも以上に重く感じられた。
戦場で右腕を失った時、自分は生きて帰ることだけを考えていた。
家族に会いたかった。
セレナに、レイブンに、ルナに、もう一度会いたかった。
そして、帰ってきた。
家族を守るために。
だが今日、自分は守るべき息子を傷つけた。
「……レイブン……」
名前を呼んでも、返事はなかった。
ヴァルターは、しばらく動けなかった。
午後八時三十八分。
クロウ家別邸、二階廊下。
セレナは、レイブンの部屋から静かに出てきた。
少年は泣き疲れ、ようやく眠り始めていた。
頬の赤みは少し薄くなっていたが、涙の跡が残っている。
セレナは扉を閉めると、廊下の先に立っていたルナに気づいた。
「……お母さん」
ルナは小さな声で尋ねた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
セレナは娘の前へしゃがんだ。
「今は眠っているわ」
「……泣いてた?」
「ええ」
ルナの目に涙が浮かんだ。
「……私、お兄ちゃんが泣いてるの、嫌だ……」
セレナは娘を抱き締めた。
「そうね」
「……お父さん、どうして叩いたの?」
セレナはすぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「お父さんは、怒りを抑えられなかったの」
ルナは母を見た。
「……それって、悪いこと?」
「ええ。してはいけないことよ」
セレナははっきりと答えた。
「お父さんにも、ちゃんと分かってもらわなければならないわ」
ルナは小さく頷いた。
セレナは娘の頭を撫でた。
「ルナも怖かったでしょう?」
「……うん」
「今日は、もう休みましょう」
ルナは母の手を握った。
「……お兄ちゃん、明日には笑ってくれるかな」
セレナは少し胸が痛んだ。
それでも、穏やかに答えた。
「すぐには難しいかもしれないわ。でも、私たちがそばにいることはできる」
ルナは静かに頷いた。
午後九時十一分。
クロウ家別邸、書斎。
ヴァルターは、まだ机の前に座っていた。
扉が静かに開いた。
「……あなた」
セレナだった。
ヴァルターは顔を上げた。
「……レイブンは?」
「今は眠っているわ」
ヴァルターは目を伏せた。
「……そうか」
セレナは夫の向かいへ座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて、ヴァルターが口を開いた。
「……私は、息子を叩いた」
セレナは頷いた。
「ええ」
「……初めてだった」
「そうね」
ヴァルターは左手を見つめた。
「……自分でも、なぜあんなことをしたのか分からない」
セレナは静かに答えた。
「分からないままにしてはいけないわ」
ヴァルターは顔を上げた。
セレナの表情は、普段よりも厳しかった。
「あなたがレイブンを心配していることは分かる。軍人として、父親として、あの子に危険な道を歩んでほしくない気持ちも分かるわ」
ヴァルターは黙って聞いていた。
「でも、今日あなたがしたことは、心配しているからで済ませていいことではないの」
ヴァルターはゆっくりと頷いた。
「……分かっている」
「レイブンは、あなたを信じていたのよ」
セレナの声が少し震えた。
「だから、自分の夢を話したの」
ヴァルターは目を閉じた。
「……ああ」
「その子を、あなたは叩いた」
沈黙が落ちた。
ヴァルターは、しばらく何も言えなかった。
やがて、絞り出すように答えた。
「……私は、父親失格だ」
セレナは首を振った。
「そう言って自分を責めるだけでは、何も変わらないわ」
ヴァルターは顔を上げた。
「……では、どうすればいい?」
「まず、自分がしたことを認めること。そして、レイブンに謝ること」
セレナは静かに続けた。
「ただし、あの子がすぐに許してくれると思わないで」
ヴァルターは頷いた。
「……ああ」
「明日、レイブンが話したくないと言ったら、その気持ちも尊重して」
「分かった」
セレナは机の上の手帳へ目を向けた。
「……それ、誕生日の贈り物?」
ヴァルターは頷いた。
「ああ」
セレナは手帳を開き、内側の文章を読んだ。
そして、静かに閉じた。
「……あなた」
「何だ?」
「この言葉を、本当にレイブンへ伝えたいのなら」
セレナは夫を見つめた。
「まず、あの子の言葉を聞いてあげて」
ヴァルターは、ゆっくりと頷いた。
「……そうする」
午後十時二十六分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは、浅い眠りから目を覚ました。
部屋は暗く、机の上の小さな灯りだけが点いている。
頬には、まだわずかな痛みが残っていた。
少年は寝台から起き上がり、枕元の栞を手に取った。
ルナが作ってくれた、黒い鴉の栞。
朝は、あんなに嬉しかった。
十四歳になったことが誇らしかった。
父に将来の夢を話せることが楽しみだった。
それなのに。
「……父さん……」
レイブンは小さく呟いた。
涙が一粒、栞の上へ落ちた。
少年は慌てて袖で拭った。
そして、栞を胸へ抱き締めた。
父のことが嫌いになったのか。
自分でも、分からなかった。
怒っていた。
悲しかった。
怖かった。
それでも、父がこれまで教えてくれたことや、一緒に過ごした時間が消えるわけではなかった。
だからこそ、余計に苦しかった。
レイブンは寝台へ横になり、毛布を引き寄せた。
「……明日、どうしよう……」
答えは出なかった。
少年は目を閉じた。
帝政歴三四一年、十一月二十五日。
レイブン・S・クロウ、十四歳。
その誕生日は、クロウ家にとって忘れられない一日となった。
父と息子は、初めて本気で意見をぶつけ合った。
そして、ヴァルターは感情を抑えきれず、息子へ手を上げてしまった。
それは、父として越えてはならない一線だった。
レイブンの心には、初めて父への恐怖と不信が生まれた。
一方、ヴァルターは自分の行為を深く悔い、どう向き合うべきかを考え続けていた。
失われた信頼は、謝罪の一言だけで元に戻るものではない。
しかし、父と息子の物語は、ここで終わるわけではなかった。
翌朝。
二人は、もう一度向き合わなければならない。




