↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
PR
37/261

第37話 十四歳の誕生日、父と息子の亀裂

第37話 十四歳の誕生日、父と息子の亀裂


 帝政歴三四一年、十一月二十五日。

帝国中央部、クロウ家別邸。

午前六時三十二分。

冬の冷たい空気が、窓硝子の向こうに広がっていた。

庭園の芝生には薄い霜が降り、屋敷の屋根からは朝日を受けた水滴がゆっくりと落ちている。暖炉の煙突から立ち上る白い煙が、風の弱い空へ細く伸びていた。

レイブン・S・クロウは、十四歳の誕生日を迎えた。

少年は寝台から起き上がると、枕元に置かれていた小さな包みに気づいた。

黒い包装紙に銀色の紐が結ばれ、上には一枚のカードが添えられている。

『十四歳の誕生日、おめでとう。ルナより』

レイブンは思わず笑った。

「……ルナ、いつの間に」

包みを開くと、中には手作りの栞が入っていた。

厚手の紙に黒い鴉が描かれ、その下には少し不揃いな文字で『お兄ちゃん、いつもありがとう』と書かれている。

レイブンは栞を指先で持ち上げ、窓から差し込む朝日にかざした。

黒い鴉の翼は左右で少し形が違っていたが、丁寧に描こうとした跡が残っている。

「……ありがとう、ルナ」

少年は小さく呟き、栞を机の上へ置いた。

階段を下りると、食堂から焼きたてのパンの香りが漂ってきた。

「お兄ちゃん!」

ルナが椅子から飛び降り、駆け寄ってきた。

「お誕生日おめでとう!」

「ありがとう」

レイブンは妹の頭を撫でた。

「栞、見つけたよ」

「ほんと!?」

「うん。すごく嬉しかった」

ルナの白い猫耳が嬉しそうに立った。

「えへへ……」

セレナが微笑みながら二人へ声を掛けた。

「おはよう、レイブン。十四歳のお誕生日、おめでとう」

「ありがとう、母さん」

セレナは息子を抱き締めた。

「大きくなったわね」

「……もう十四歳だから」

レイブンは少し照れくさそうに答えた。

その時、食堂の扉が開いた。

「おはよう」

ヴァルター・A・クロウが入ってきた。

左手には書類鞄を持ち、帝国陸軍の教官制服を身につけている。

「おはよう、父さん」

レイブンが挨拶すると、ヴァルターは静かに微笑んだ。

「誕生日、おめでとう」

「ありがとう」

「十四歳か。早いものだな」

ヴァルターは息子の肩へ左手を置いた。

「今日は学校が終わったら、まっすぐ帰ってこい。夕食は家族で祝おう」

「うん!」

レイブンは嬉しそうに頷いた。

この時、誰も想像していなかった。

この穏やかな朝が、クロウ家にとって忘れられない一日の始まりになることを。

午前八時十四分。

帝国中央学院、中等教育部。

教室では、朝の授業が始まる前から生徒たちが賑やかに話していた。

レイブンが席へ着くと、隣の男子生徒が声を掛けてきた。

「クロウ、今日誕生日なんだって?」

「ああ」

「十四歳か。おめでとう」

「ありがとう」

別の生徒が笑いながら話に加わった。

「そういえば、また首席だったんだろ?」

「……まあね」

レイブンは少し照れくさそうに答えた。

「毎回よくやるよな。算術なんて、俺にはさっぱりだ」

「分からないところがあれば、一緒に考えるよ」

「本当か? 助かる」

レイブンは微笑んだ。

この頃には、彼が学年首席を維持することは、教師や生徒たちの間で珍しい話ではなくなっていた。

妹ルナもまた、別の学年で優秀な成績を収めている。

兄妹がそれぞれの教室で上位に名を連ねることは、学院の日常風景の一つになりつつあった。

午前十一時三十八分。

帝国中央学院、図書室。

レイブンは昼休みを利用して、一冊の本を読んでいた。

題名は『帝国近代史と国境紛争の変遷』。

帝国と連邦共和国の関係について、歴史的な経緯をまとめた一般向けの書籍だった。

数年前から、帝国北部の国境地帯では緊張が続いている。

新聞には、国境警備の強化や外交交渉の停滞についての記事が増えていた。

レイブンは頁をめくりながら、ある一節で手を止めた。

『国家間の対立は、軍事力のみならず、資源、産業、外交、歴史認識など複数の要因によって形成される。』

少年はその文章を読み返した。

そして、小さく呟いた。

「……戦争って、どうして起こるんだろう」

父は軍人だった。

かつて戦場へ赴き、右腕を失って帰ってきた。

今は教官として、多くの兵士たちへ判断と責任の大切さを教えている。

レイブンは、父を尊敬していた。

だからこそ、最近になって一つの疑問が大きくなっていた。

父は、なぜ軍人になったのだろう。

そして、自分が同じ道を歩みたいと言ったら、どう答えるのだろう。

午後四時二十七分。

クロウ家別邸。

学校から帰宅したレイブンは、自室で制服を脱ぎ、普段着へ着替えた。

机の上には、図書室から借りてきた本が置かれている。

少年はその表紙を見つめながら、少し考え込んでいた。

数日前から、父へ話したいことがあった。

それは、単なる憧れではない。

これまで休日に父の仕事を手伝い、教育学校の様子を見てきた中で、少しずつ芽生えた思いだった。

自分も、将来は軍人になりたい。

父のように、誰かを守れる人間になりたい。

ただし、まだ十四歳だ。

今すぐ軍へ入れるわけではないことも、学業を続けなければならないことも理解している。

それでも、父に自分の考えを聞いてほしかった。

レイブンは深く息を吸い、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。

そこには、将来の進路について自分なりに調べた内容が書かれていた。

帝国陸軍の教育課程。

志願制度。

必要な学力と身体能力。

いずれも一般に公開されている情報をまとめたものだった。

「……よし」

レイブンは紙を折り畳み、机の上へ置いた。

夕食の後、父に話してみよう。

そう決めた。

午後六時三十二分。

クロウ家別邸、食堂。

食卓には、セレナが用意した料理が並んでいた。

焼き上げた肉料理、温かな野菜の煮込み、香草を使ったスープ、そして誕生日用の菓子。

ルナは兄の隣へ座り、嬉しそうに笑っている。

「お兄ちゃん、十四歳!」

「朝から何回目だよ」

レイブンが笑うと、ルナは胸を張った。

「何回でも言うもん!」

セレナが微笑んだ。

「今日は特別な日だからね」

ヴァルターはグラスを持ち上げた。

「では、レイブンの十四歳の誕生日を祝って」

家族はグラスを合わせた。

「誕生日、おめでとう!」

食堂に明るい声が響いた。

レイブンは嬉しそうに笑った。

食事が進むにつれ、学校の話やルナの勉強の話、最近の出来事などが話題に上った。

ヴァルターも普段より穏やかな表情で、息子たちの話を聞いていた。

やがて、セレナが誕生日の菓子を切り分け始めた頃だった。

レイブンは、父へ目を向けた。

「……父さん」

「何だ?」

「少し、話したいことがあるんだ」

ヴァルターは頷いた。

「言ってみろ」

レイブンは一瞬、母と妹を見た。

セレナは穏やかに微笑み、ルナは興味深そうに兄を見つめている。

少年は意を決して口を開いた。

「僕、将来は軍人になりたい」

食堂の空気が、わずかに変わった。

ヴァルターの表情から笑みが消えた。

「……軍人?」

「うん」

レイブンは頷いた。

「父さんみたいに、誰かを守れる人になりたいんだ」

ヴァルターは黙っていた。

レイブンは続けた。

「もちろん、今すぐじゃないよ。学校はちゃんと卒業するし、必要な勉強も続ける。でも、将来の進路として考えたい」

セレナは息子を見つめていた。

ルナは、兄と父を交互に見ている。

ヴァルターはゆっくりとグラスを置いた。

「……その話は、いつから考えていた?」

「少し前から」

「私の仕事を手伝うようになってからか?」

「うん。でも、それだけじゃない」

レイブンは答えた。

「学校でも歴史や政治を勉強してるし、軍隊のことも本で調べた。父さんの仕事を見て、簡単なことじゃないって分かったつもりだよ」

ヴァルターは息子を見た。

「……分かったつもり、か」

その言葉には、わずかな硬さがあった。

レイブンは少し戸惑った。

「……父さん?」

ヴァルターは静かに口を開いた。

「レイブン。軍人になるというのは、お前が思っているほど単純なことではない」

「分かってるよ」

「いや。まだ分かっていない」

レイブンは眉を寄せた。

「……どうして、そう決めつけるの?」

ヴァルターは答えた。

「私は実際に軍務に就き、多くのものを見てきた。だから言っている」

「でも、僕だって何も考えずに言ってるわけじゃない」

レイブンの声が少し強くなった。

「ちゃんと調べたし、勉強もしてる」

「本で読んだことと、現実に経験することは違う」

「それは分かる。でも、経験しないと何も分からないなら、最初から誰も軍人になれないじゃないか」

ヴァルターは一瞬、言葉を止めた。

セレナが静かに声を掛けた。

「あなた、レイブンは将来の希望を話しているだけよ」

「分かっている」

ヴァルターは答えた。

しかし、その声は硬かった。

「だからこそ、軽々しく考えてほしくないんだ」

レイブンは父を見つめた。

「……軽々しくなんか考えてない」

食卓に沈黙が落ちた。

午後七時十四分。

クロウ家別邸、食堂。

誕生日の菓子は、まだ半分以上残っていた。

レイブンは椅子に座ったまま、父と向き合っていた。

最初は、自分の考えを伝えるだけのつもりだった。

しかし、話は次第に食い違い始めていた。

「父さんは、僕が軍人になるのが嫌なの?」

レイブンが尋ねた。

ヴァルターは少し考えた。

「……少なくとも、今のお前には勧められない」

「どうして?」

「まだ十四歳だからだ」

「十四歳だから、将来のことを考えちゃいけないの?」

「そうは言っていない」

「じゃあ、どうして?」

ヴァルターは息を吐いた。

「レイブン。軍隊は、お前が休日に手伝っている教育学校だけではない」

「分かってる」

「兵士は、命令によって危険な場所へ赴くこともある。仲間を失うこともある。自分自身が傷つくこともある」

ヴァルターは、失われた右腕の方へ視線を落とした。

「……私のようにな」

レイブンは、その袖を見つめた。

そして、静かに答えた。

「……知ってる」

「なら、なぜ同じ道を望む?」

「父さんが、そういう仕事をしてきたからだよ」

ヴァルターの眉が動いた。

「何?」

「危ないこともあるし、怪我をするかもしれない。でも、誰かを守るために働いている人たちがいる。僕は、その人たちを尊敬してる」

レイブンは続けた。

「父さんのことも、ずっと尊敬してる」

ヴァルターは黙った。

レイブンは少し声を落とした。

「だから、僕もそうなりたいんだ」

その言葉を聞いて、セレナは目を伏せた。

息子の気持ちは、よく分かっていた。

幼い頃から父の背中を追いかけ、休日には仕事を手伝い、少しずつ責任を学んできた。

それが、将来の夢へつながることは自然なことだった。

しかし、ヴァルターにとっては違った。

彼の脳裏には、六年前の光景が蘇っていた。

帝政歴三三四年。

異界門の向こう側で起きた戦闘。

混乱する部隊。

負傷した仲間。

そして、自分の右腕を失った瞬間。

あの時の痛みと恐怖は、今も完全には消えていない。

自分が経験したものを、息子にも経験させるかもしれない。

その可能性を考えただけで、胸の奥が冷たくなった。

「……レイブン」

ヴァルターは低い声で言った。

「私は、お前に同じ思いをしてほしくない」

レイブンは父を見た。

「……でも、それは父さんの考えだよ」

ヴァルターの表情が強張った。

「何だと?」

「僕の将来は、僕が考えたい」

レイブンは真剣だった。

「父さんが心配してくれるのは分かる。でも、僕の話も聞いてほしい」

「聞いている」

「聞いてないよ!」

レイブンの声が、思わず大きくなった。

ルナがびくりと肩を震わせた。

セレナが口を開いた。

「レイブン、少し声を落として」

「……ごめん」

少年は一度、息を整えた。

しかし、ヴァルターの表情は厳しいままだった。

「父親として、お前の将来を心配するのは当然だ」

「分かってる」

「なら、なぜそこまで軍人にこだわる?」

「……父さんが、僕の話を認めてくれないから」

ヴァルターは息子を見つめた。

「認めるかどうかの問題ではない」

「じゃあ、何の問題なの?」

「お前がまだ、軍務の現実を知らないということだ」

レイブンは唇を噛んだ。

そして、言ってしまった。

「……父さんだって、最初から全部知ってたわけじゃないだろ」

ヴァルターの目が鋭くなった。

「……何?」

「父さんも、若い頃に軍人になろうって決めたんだろ? その時は、今みたいに何でも知ってたわけじゃないはずだ」

レイブンは続けた。

「なのに、どうして僕には考えることさえ許してくれないんだよ!」

ヴァルターは椅子から立ち上がった。

「レイブン!」

低く鋭い声が食堂に響いた。

ルナは母の腕へしがみついた。

セレナはすぐに立ち上がった。

「あなた、落ち着いて」

しかし、ヴァルターは息子を見つめたままだった。

「お前は、私が何を経験してきたのか知らない」

「知ろうとしてるよ!」

レイブンも立ち上がった。

「だから、ずっと父さんの仕事を見てきたんだ!」

「それだけで分かったつもりになるな!」

「分かったつもりじゃない! もっと知りたいんだ!」

父と息子の声が重なった。

食卓の上で、グラスが小さく揺れた。

セレナが二人の間へ入ろうとした。

「二人とも、もうやめましょう。今日はレイブンの誕生日でしょう?」

だが、レイブンは父から目を逸らさなかった。

「……父さんは、僕が何を言っても子供だからって決めつけるんだ」

「子供だからこそ、守らなければならんことがある!」

「守るって言いながら、僕の気持ちは全部無視するの?」

ヴァルターの顔が強張った。

レイブンは、目に涙を浮かべながら続けた。

「……父さんは、僕を信じてくれないんだね」

その一言が、ヴァルターの胸を刺した。

「……レイブン」

「ずっと頑張ってきたのに」

少年の声が震えた。

「学校でも一番になった。父さんの仕事も手伝った。言われたことも守ってきた」

レイブンは拳を握り締めた。

「なのに、僕が本当にやりたいことを話したら、全部駄目だって……」

ヴァルターは息を呑んだ。

しかし、感情を抑えきれなかった。

「いい加減にしろ!」

その瞬間だった。

ヴァルターの左手が動いた。

乾いた音が、食堂に響いた。

レイブンの頬が横へ向いた。

時間が止まったようだった。

ヴァルター自身が、何をしたのか理解するまでに数秒かかった。

左手は、まだ宙に浮いていた。

レイブンは動かなかった。

頬に熱が広がり、耳の奥で音が鳴っている。

父に叱られたことは、これまで何度もあった。

しかし、叩かれたことは一度もなかった。

少年はゆっくりと父を見上げた。

金色と黒色の瞳に、涙が溜まっていた。

「……父さん?」

その声は、驚くほど小さかった。

ヴァルターは言葉を失った。

「……レイブン、私は……」

しかし、続く言葉が出てこなかった。

レイブンは一歩後ずさった。

その表情には、怒りよりも深い困惑が浮かんでいた。

「……どうして?」

ヴァルターは息を呑んだ。

少年の頬には、赤い跡が残っていた。

セレナがすぐに駆け寄った。

「レイブン!」

母が息子の肩を抱く。

ルナは椅子に座ったまま、震える声で呟いた。

「……お父さん?」

ヴァルターは、ようやく左手を下ろした。

その手が、かすかに震えていた。

「……違う。私は……」

だが、何を否定しようとしているのか、自分でも分からなかった。

レイブンは母の腕からそっと離れた。

「……もう、いい」

少年は俯いた。

「……父さんなんか、嫌いだ」

ヴァルターの表情が凍りついた。

レイブンは食堂を飛び出した。

「レイブン!」

セレナが呼びかけたが、少年は振り返らなかった。

階段を駆け上がる足音が響き、やがて二階で扉が閉まる音がした。

食堂には、重い沈黙だけが残された。

午後七時三十六分。

クロウ家別邸、レイブンの自室。

レイブンは寝台の上で膝を抱えていた。

頬にはまだ熱が残り、涙が止まらなかった。

どうして、こんなことになったのだろう。

今日は十四歳の誕生日だった。

朝は、あんなに嬉しかった。

ルナが栞をくれて、母が抱き締めてくれて、父も笑って祝ってくれた。

だから、自分の将来について話そうと思った。

父に聞いてほしかった。

認めてもらえなくても、せめて考えを聞いてほしかった。

それなのに。

「……なんで……」

レイブンは顔を膝へ埋めた。

「……なんで、叩くんだよ……」

涙が寝間着の袖を濡らした。

その時、扉が静かに叩かれた。

「……レイブン?」

母の声だった。

少年は返事をしなかった。

「入ってもいい?」

少しの沈黙の後、レイブンは小さく頷いた。

「……うん」

扉が開き、セレナが入ってきた。

母は息子の姿を見ると、すぐに寝台のそばへ腰を下ろした。

「……レイブン」

少年は顔を上げなかった。

セレナは何も言わず、そっと息子を抱き寄せた。

その瞬間、レイブンの身体が震えた。

「……母さん……」

「うん」

「……僕、悪いこと言った?」

セレナは息子を強く抱き締めた。

「意見がぶつかって、言い方がきつくなったところはあったと思うわ」

レイブンは涙を流しながら尋ねた。

「……だから、叩かれたの?」

「いいえ」

セレナははっきりと答えた。

「それと、叩いていいかどうかは別のことよ。あなたが何を言ったとしても、お父さんが手を上げていい理由にはならないわ」

レイブンは母の胸へ顔を埋めた。

「……怖かった……」

「うん」

「……父さんが、あんな顔するの……初めてだった……」

セレナは息子の背中を撫でた。

「怖かったわね」

レイブンは何度も頷いた。

「……僕、父さんのこと……ずっと尊敬してたのに……」

セレナは静かに目を閉じた。

その言葉が、胸に深く刺さった。

「……うん」

「……もう、どうしたらいいか分かんない……」

セレナは息子の髪を撫でた。

「今は、無理に答えを出さなくていいの」

レイブンは顔を上げた。

「……いいの?」

「ええ」

セレナは穏やかに答えた。

「怒ってもいいし、悲しんでもいい。お父さんと今すぐ話さなくてもいいわ」

少年の目から、また涙がこぼれた。

「……母さん……」

「私は、あなたの味方よ」

セレナは息子を抱き締めた。

「そして、あなたが安心して眠れるように、ここにいるわ」

レイブンは、ようやく声を上げて泣いた。

十四歳になったばかりの少年は、母の腕の中で、幼い頃のように泣き続けた。

午後八時十二分。

クロウ家別邸、書斎。

ヴァルターは、一人で椅子に座っていた。

机の上には、レイブンのために用意していた誕生日の贈り物が置かれている。

黒革の表紙を持つ、新しい手帳だった。

その内側には、父から息子へ宛てた短い言葉が記されている。

『十四歳のレイブンへ。

自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の道を歩め。

父より。』

ヴァルターは、その文章を見つめていた。

そして、ゆっくりと目を閉じた。

「……何を、やっているんだ……私は……」

左手が震えていた。

あの手で、息子を叩いた。

今まで一度も、そんなことをしたことはなかった。

どれほど叱っても、どれほど意見が食い違っても、手を上げることだけはしないと決めていた。

それなのに。

今日、自分はその約束を破った。

しかも、息子の誕生日に。

ヴァルターは左手を見つめた。

軍人として、多くの訓練を受けてきた。

戦場での判断を教え、部下の命を預かる責任を説いてきた。

感情に流されず、状況を見極めろと何度も教えてきた。

その自分が、息子の言葉に感情を抑えきれず、手を上げた。

「……最低だ……」

ヴァルターは小さく呟いた。

机の上の手帳へ視線を落とす。

『自分の道を歩め。』

そう書いておきながら、自分は息子が将来の道を語ることすら受け止められなかった。

レイブンの言葉が、頭の中で繰り返される。

『父さんは、僕を信じてくれないんだね。』

『父さんなんか、嫌いだ。』

ヴァルターは顔を覆った。

失われた右腕が、いつも以上に重く感じられた。

戦場で右腕を失った時、自分は生きて帰ることだけを考えていた。

家族に会いたかった。

セレナに、レイブンに、ルナに、もう一度会いたかった。

そして、帰ってきた。

家族を守るために。

だが今日、自分は守るべき息子を傷つけた。

「……レイブン……」

名前を呼んでも、返事はなかった。

ヴァルターは、しばらく動けなかった。

午後八時三十八分。

クロウ家別邸、二階廊下。

セレナは、レイブンの部屋から静かに出てきた。

少年は泣き疲れ、ようやく眠り始めていた。

頬の赤みは少し薄くなっていたが、涙の跡が残っている。

セレナは扉を閉めると、廊下の先に立っていたルナに気づいた。

「……お母さん」

ルナは小さな声で尋ねた。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

セレナは娘の前へしゃがんだ。

「今は眠っているわ」

「……泣いてた?」

「ええ」

ルナの目に涙が浮かんだ。

「……私、お兄ちゃんが泣いてるの、嫌だ……」

セレナは娘を抱き締めた。

「そうね」

「……お父さん、どうして叩いたの?」

セレナはすぐには答えなかった。

そして、静かに言った。

「お父さんは、怒りを抑えられなかったの」

ルナは母を見た。

「……それって、悪いこと?」

「ええ。してはいけないことよ」

セレナははっきりと答えた。

「お父さんにも、ちゃんと分かってもらわなければならないわ」

ルナは小さく頷いた。

セレナは娘の頭を撫でた。

「ルナも怖かったでしょう?」

「……うん」

「今日は、もう休みましょう」

ルナは母の手を握った。

「……お兄ちゃん、明日には笑ってくれるかな」

セレナは少し胸が痛んだ。

それでも、穏やかに答えた。

「すぐには難しいかもしれないわ。でも、私たちがそばにいることはできる」

ルナは静かに頷いた。

午後九時十一分。

クロウ家別邸、書斎。

ヴァルターは、まだ机の前に座っていた。

扉が静かに開いた。

「……あなた」

セレナだった。

ヴァルターは顔を上げた。

「……レイブンは?」

「今は眠っているわ」

ヴァルターは目を伏せた。

「……そうか」

セレナは夫の向かいへ座った。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

やがて、ヴァルターが口を開いた。

「……私は、息子を叩いた」

セレナは頷いた。

「ええ」

「……初めてだった」

「そうね」

ヴァルターは左手を見つめた。

「……自分でも、なぜあんなことをしたのか分からない」

セレナは静かに答えた。

「分からないままにしてはいけないわ」

ヴァルターは顔を上げた。

セレナの表情は、普段よりも厳しかった。

「あなたがレイブンを心配していることは分かる。軍人として、父親として、あの子に危険な道を歩んでほしくない気持ちも分かるわ」

ヴァルターは黙って聞いていた。

「でも、今日あなたがしたことは、心配しているからで済ませていいことではないの」

ヴァルターはゆっくりと頷いた。

「……分かっている」

「レイブンは、あなたを信じていたのよ」

セレナの声が少し震えた。

「だから、自分の夢を話したの」

ヴァルターは目を閉じた。

「……ああ」

「その子を、あなたは叩いた」

沈黙が落ちた。

ヴァルターは、しばらく何も言えなかった。

やがて、絞り出すように答えた。

「……私は、父親失格だ」

セレナは首を振った。

「そう言って自分を責めるだけでは、何も変わらないわ」

ヴァルターは顔を上げた。

「……では、どうすればいい?」

「まず、自分がしたことを認めること。そして、レイブンに謝ること」

セレナは静かに続けた。

「ただし、あの子がすぐに許してくれると思わないで」

ヴァルターは頷いた。

「……ああ」

「明日、レイブンが話したくないと言ったら、その気持ちも尊重して」

「分かった」

セレナは机の上の手帳へ目を向けた。

「……それ、誕生日の贈り物?」

ヴァルターは頷いた。

「ああ」

セレナは手帳を開き、内側の文章を読んだ。

そして、静かに閉じた。

「……あなた」

「何だ?」

「この言葉を、本当にレイブンへ伝えたいのなら」

セレナは夫を見つめた。

「まず、あの子の言葉を聞いてあげて」

ヴァルターは、ゆっくりと頷いた。

「……そうする」

午後十時二十六分。

クロウ家別邸、レイブンの自室。

レイブンは、浅い眠りから目を覚ました。

部屋は暗く、机の上の小さな灯りだけが点いている。

頬には、まだわずかな痛みが残っていた。

少年は寝台から起き上がり、枕元の栞を手に取った。

ルナが作ってくれた、黒い鴉の栞。

朝は、あんなに嬉しかった。

十四歳になったことが誇らしかった。

父に将来の夢を話せることが楽しみだった。

それなのに。

「……父さん……」

レイブンは小さく呟いた。

涙が一粒、栞の上へ落ちた。

少年は慌てて袖で拭った。

そして、栞を胸へ抱き締めた。

父のことが嫌いになったのか。

自分でも、分からなかった。

怒っていた。

悲しかった。

怖かった。

それでも、父がこれまで教えてくれたことや、一緒に過ごした時間が消えるわけではなかった。

だからこそ、余計に苦しかった。

レイブンは寝台へ横になり、毛布を引き寄せた。

「……明日、どうしよう……」

答えは出なかった。

少年は目を閉じた。

帝政歴三四一年、十一月二十五日。

レイブン・S・クロウ、十四歳。

その誕生日は、クロウ家にとって忘れられない一日となった。

父と息子は、初めて本気で意見をぶつけ合った。

そして、ヴァルターは感情を抑えきれず、息子へ手を上げてしまった。

それは、父として越えてはならない一線だった。

レイブンの心には、初めて父への恐怖と不信が生まれた。

一方、ヴァルターは自分の行為を深く悔い、どう向き合うべきかを考え続けていた。

失われた信頼は、謝罪の一言だけで元に戻るものではない。

しかし、父と息子の物語は、ここで終わるわけではなかった。

翌朝。

二人は、もう一度向き合わなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。