第36話 雨の演習場と少年の決断
第36話 雨の演習場と少年の決断
帝政歴三四〇年、七月六日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前五時四十七分。
窓を叩く雨音で、レイブン・S・クロウは目を覚ました。
厚い雲に覆われた空はまだ薄暗く、庭園の木々は強い風に枝を揺らしている。屋根から流れ落ちる雨水が石畳を叩き、時折、遠くで雷鳴が響いていた。
十三歳の少年は寝台から起き上がると、窓辺へ歩み寄った。
「……今日は、ずいぶん降ってるな」
黒い猫耳を前へ向け、しばらく外を眺める。
今日は休日だった。
父ヴァルターの仕事を手伝う予定があり、前夜には学校の課題もすべて終わらせている。
しかし、この雨では屋外の作業が中止になるかもしれない。
レイブンは少し残念に思いながら、机の上に置いていた手帳を開いた。
『七月六日。教育学校、野外訓練準備。資材確認、教材運搬。』
その下には、前日に自分で書き加えた一文がある。
『無理をしない。危険だと思ったら報告する。』
六月の演習場で、木箱が倒れかけた時のことを忘れないために書いたものだった。
あの時、父に止められなければ、自分も怪我をしていたかもしれない。
レイブンは手帳を閉じ、服を着替えた。
階段を下りると、食堂ではすでにヴァルターが朝食を取っていた。
軍服の上着は椅子の背へ掛けられ、左手で珈琲のカップを持っている。
「おはよう、父さん」
「おはよう、レイブン。今日は早いな」
「雨が気になって」
ヴァルターは窓の外へ目を向けた。
「ああ。昨夜から降り続いている」
「今日の演習準備、できる?」
「一部は変更になるだろう」
ヴァルターは答えた。
「屋外での訓練は、天候によって予定を変えることもある」
「……そっか」
レイブンは少し肩を落とした。
その様子を見て、ヴァルターは小さく笑った。
「そんな顔をするな。仕事がなくなるわけではない」
「え?」
「今日は、雨天時の訓練準備を手伝ってもらう」
レイブンの耳が立った。
「雨の日の訓練?」
「ああ。天候が悪い時に、何を確認し、どう準備するかを見てもらう」
レイブンは嬉しそうに頷いた。
「分かった!」
そこへ、セレナが温かいスープを運んできた。
「おはよう、二人とも」
「おはよう、母さん」
セレナは窓の外を見た。
「今日は本当にひどい雨ね」
「そうだな」
ヴァルターは頷いた。
「無理な屋外作業はさせない。危険があれば、すぐに中止する」
セレナは息子を見た。
「レイブン、雨で身体が冷えたら、我慢しないでね」
「うん」
「それから、帰ったらちゃんと着替えること」
「分かってる」
セレナは微笑んだ。
「なら、いいわ」
その時、廊下から小さな足音が聞こえた。
「……お兄ちゃん?」
ルナ・V・クロウが食堂へ顔を覗かせた。
九歳の少女は、まだ寝間着のままだった。
「もう行くの?」
「朝ご飯を食べてからだよ」
レイブンが答えた。
ルナは窓の外を見た。
「……雨、すごいね」
「うん」
「危なくない?」
レイブンは少し驚いた。
妹は真剣な顔をしている。
「大丈夫。父さんと一緒だから」
ヴァルターが頷いた。
「ああ。危険な場所へは入らせない」
ルナは少し安心したように息を吐いた。
「……なら、いい」
セレナは娘の頭を撫でた。
「ルナも朝ご飯を食べましょう」
「はーい」
午前七時三十八分。
帝国陸軍中央教育学校、正門。
雨はさらに強くなっていた。
レイブンは防水性のある外套を着込み、父と共に正門を通過した。
警備兵が許可証を確認する。
「おはようございます、クロウ教官」
「おはよう。演習場の状況は?」
「第三演習区画の一部で排水不良が報告されています。現在、施設管理班が確認中です」
「了解した」
ヴァルターは頷いた。
レイブンは父を見上げた。
「排水不良って?」
「雨水がうまく流れず、地面に溜まっている状態だ」
「……それって危ないの?」
「場所による。足を取られたり、車両が動けなくなったりすることもある」
レイブンは頷いた。
「なるほど」
二人は第一講義棟へ向かった。
廊下では、雨具を着た兵士たちが慌ただしく行き交っている。
その中に、ヘルマン・フォーゲル曹長の姿があった。
「クロウ教官!」
「曹長、状況は?」
フォーゲルは記録板を差し出した。
「第三演習区画の南側で、排水溝が落ち葉と土砂で詰まっています。施設管理班が対応中ですが、午前の屋外訓練は一部変更が必要です」
ヴァルターは記録板を確認した。
「訓練生の安全を優先しましょう。屋内で実施できる課目へ切り替えます」
「了解しました」
フォーゲルはレイブンへ目を向けた。
「レイブン君、今日は少し忙しくなりそうだ」
「はい!」
「だが、雨の中を走り回る必要はないぞ」
「分かってます」
フォーゲルは笑った。
「よし」
午前八時二十一分。
第一講義棟、第三教室。
ヴァルターは、訓練生たちを前に立っていた。
教室には三十二名の訓練生が集まり、黒板には大きく文字が書かれている。
『悪天候下における判断と安全管理』
レイブンは教室の後方、許可された見学席に座っていた。
机の上には、父から渡された一般教材と、自分の手帳が置かれている。
ヴァルターは訓練生たちを見渡した。
「本日の野外訓練は、天候と施設状況を考慮して一部変更する」
訓練生の一人が手を挙げた。
「教官、予定していた課目は中止でしょうか」
「一部は延期する。ただし、訓練そのものを中止するわけではない」
ヴァルターは黒板へ向き直った。
「悪天候の中で無理に予定を遂行することが、必ずしも優秀な指揮ではない」
教室は静まり返っていた。
「諸君が将来、部隊を指揮する立場になった時、予定どおりに進まない状況はいくらでも起こる。重要なのは、その時に何を守り、何を変更するかを判断することだ」
レイブンは父の言葉を聞きながら、手帳へ書き込んだ。
『予定を変えることも、仕事のうち。』
ヴァルターは訓練生へ問いかけた。
「では、仮に演習場の一部が冠水し、車両の通行が難しくなった場合、最初に何を確認する?」
一人の訓練生が答えた。
「通行可能な経路です!」
「それも必要だ。他には?」
「車両と人員の現在位置です!」
「よろしい」
ヴァルターは頷いた。
「そして、現場にいる者の安全だ。状況を把握しないまま移動を命じれば、被害を拡大させることもある」
レイブンは、父が以前から繰り返し教えていることを思い出していた。
確認する。
考える。
必要なら助けを求める。
それらは、教室でも演習場でも変わらない。
午前九時四十七分。
第一講義棟、教官室。
講義の休憩時間になると、レイブンは父の指示で一般教材の整理を始めた。
机の上には、午後の講義で使用する資料が積まれている。
レイブンは一冊ずつ頁を確認し、順番に並べていった。
その時、廊下から急ぎ足の音が聞こえた。
「クロウ教官!」
フォーゲル曹長が教官室へ入ってきた。
「どうしました?」
ヴァルターが尋ねた。
「第三演習区画の排水作業中に、施設管理班の一名が足を滑らせて負傷しました」
ヴァルターの表情が変わった。
「負傷の程度は?」
「意識はありますが、足首を痛めたようです。現在、現場の班長が救護を要請しています」
「救護班は?」
「すでに向かっています」
ヴァルターは頷いた。
「分かりました。私は現場の状況を確認します」
そして、レイブンへ目を向けた。
「レイブン」
「はい」
「お前はここで待っていなさい」
少年は少し驚いた。
「……僕も行っちゃ駄目?」
「駄目だ」
ヴァルターの声は厳しかった。
「負傷者が出た現場だ。今は関係者以外を近づけられない」
レイブンは口を閉じた。
父は少し表情を和らげた。
「心配する気持ちは分かる。だが、今はここで待つことがお前の役目だ」
「……分かった」
ヴァルターは頷き、フォーゲルと共に教官室を出ていった。
レイブンは扉を見つめた。
六月の演習場で、倒れかけた木箱へ駆け寄ろうとした時のことが頭をよぎった。
あの時も、父に止められた。
少年は静かに息を吐いた。
「……待つのも、仕事か」
そして、机の上に残された教材の整理を再開した。
午前十時三十二分。
第三演習区画、南側排水施設。
雨は弱まる気配を見せていなかった。
施設管理班の兵士たちは、負傷した同僚を救護班へ引き渡し、作業を中断していた。
ヴァルターは現場責任者から状況を聞いていた。
「負傷者の状態は?」
「足首の捻挫が疑われます。救護班が医務室へ搬送しました」
「分かりました」
ヴァルターは周囲を見渡した。
排水溝の周辺には泥が溜まり、足場が不安定になっている。
近くには、作業用の工具と資材が置かれていた。
「……この状態で作業を続けるのは危険ですね」
現場責任者が頷いた。
「はい。現在、作業を停止しています」
「それがいいでしょう」
ヴァルターは静かに答えた。
「排水不良への対応は必要ですが、負傷者を増やしては意味がありません」
フォーゲルが記録板を確認した。
「教官、午後の演習も屋内へ切り替えますか?」
「ああ。少なくとも、この区画は使用しない」
ヴァルターは頷いた。
「施設管理班の安全確認が終わるまで、立ち入りを制限しましょう」
フォーゲルはすぐに連絡を取った。
ヴァルターは雨に濡れた演習場を見つめた。
戦場でなくとも、人は怪我をする。
訓練であっても、判断を誤れば命に関わる。
それは、彼が長い軍歴の中で何度も見てきた現実だった。
午前十一時二十六分。
第一講義棟、教官室。
ヴァルターが戻ると、レイブンは机の上に教材を整然と並べていた。
「……父さん」
少年が顔を上げた。
「お帰り」
「ただいま」
ヴァルターは濡れた外套を脱ぎ、椅子へ掛けた。
「待っていてくれたか」
「うん」
「教材は?」
「全部確認した。頁が抜けてるものはなかったよ」
ヴァルターは頷いた。
「ありがとう」
レイブンは少し迷った。
そして、静かに尋ねた。
「……怪我した人は、大丈夫?」
ヴァルターは息子を見た。
「意識はある。医務室へ運ばれた」
「……よかった」
レイブンは安心したように息を吐いた。
ヴァルターは椅子へ腰を下ろした。
「レイブン」
「何?」
「今日は、よく待っていてくれた」
少年は少し驚いた。
「……待ってただけだよ」
「それでいい」
ヴァルターは静かに答えた。
「自分が行くべきではない場所へ行かないことも、大切な判断だ」
レイブンは少し考えた。
「……六月の時とは違う?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「お前は、あの時の経験を覚えていたんだろう?」
「うん」
少年は小さく頷いた。
「……また、父さんに心配かけたくなかったから」
ヴァルターは少し黙った。
そして、息子の頭へ左手を置いた。
「ありがとう」
レイブンは照れくさそうに笑った。
午後零時四十八分。
中央教育学校、教官休憩室。
昼食の時間になると、レイブンは父と共に温かいスープを食べていた。
外では相変わらず雨が降っている。
その時、エーリヒ・ベルクマン中尉が休憩室へ入ってきた。
「失礼します」
「ベルクマン中尉」
ヴァルターが顔を上げた。
「午後の講義について、確認したいことがあります」
「何だ?」
「野外訓練の変更に伴い、机上演習へ切り替えると聞きました」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「悪天候下の部隊運用を想定した課題を行う」
エーリヒは少し考えた。
「……今回のような状況も、教材にできそうですね」
「そうだな」
ヴァルターは答えた。
「ただし、負傷者が出た事実を軽く扱うつもりはない」
「もちろんです」
エーリヒは頷いた。
レイブンは二人の会話を聞いていた。
そして、ふと口を開いた。
「……父さん」
「何だ?」
「今日のこと、訓練生の人たちにも教えるの?」
ヴァルターは息子を見た。
「ああ。必要な範囲でな」
「……怪我した人がいたから?」
「それもある」
ヴァルターは静かに続けた。
「同じことを繰り返さないためだ」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
エーリヒは少年を見て、少し笑った。
「レイブン君も、随分考えるようになったね」
「そうですか?」
「ああ。以前は、何でもすぐにやってみたいと言っていたのに」
レイブンは少し照れくさそうにした。
「……今でも、やってみたいことはいっぱいあります」
エーリヒは笑った。
「それはいいことだ」
ヴァルターも微笑んだ。
「ただし、順番を守ることだな」
「分かってるよ、父さん」
レイブンは笑った。
午後二時三十七分。
クロウ家別邸。
雨はようやく弱まり始めていた。
レイブンが帰宅すると、玄関ではセレナとルナが待っていた。
「お帰りなさい」
「ただいま、母さん」
ルナが駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん!」
「ただいま、ルナ」
「雨、大丈夫だった?」
「うん」
レイブンは笑った。
「今日はほとんど屋内だったから」
セレナは息子の外套を受け取った。
「それならよかったわ」
ヴァルターが口を開いた。
「演習場で負傷者が出たため、予定を変更した」
セレナの表情が少し変わった。
「……大丈夫だったの?」
「ああ。救護班が対応した。レイブンは教官室で待機させた」
セレナは息子を見た。
「ちゃんと待っていたのね」
「うん」
レイブンは頷いた。
「父さんが、ここで待つのが僕の役目だって」
セレナは静かに微笑んだ。
「そう。よく守ったわね」
ルナが兄の袖を引いた。
「お兄ちゃん、今日は何も運ばなかったの?」
「教材を少し整理したよ」
「……それだけ?」
レイブンは笑った。
「それだけじゃないよ」
「え?」
「今日は、待つことも大事なんだって分かった」
ルナは首を傾げた。
「……待つの?」
「うん」
レイブンは妹の頭を撫でた。
「何でもすぐに動けばいいわけじゃないんだ」
ルナは少し考えた。
「……難しいね」
「僕もそう思う」
二人は顔を見合わせて笑った。
午後五時十二分。
クロウ家別邸、居間。
雨が上がり、庭園には夕日が差し込み始めていた。
レイブンは、ルナと一緒に学校の課題を進めていた。
ルナは算術の問題集を開き、真剣な顔で鉛筆を動かしている。
「……できた!」
少女が声を上げた。
レイブンは問題集を覗き込んだ。
「うん。合ってる」
「やった!」
ルナは嬉しそうに笑った。
レイブンは頷いた。
「じゃあ、次の問題もやってみよう」
「ええーっ」
ルナは頬を膨らませた。
「もう少し休みたい」
レイブンは少し考えた。
「……じゃあ、十分休憩しようか」
「ほんと?」
「うん」
ルナは嬉しそうに椅子から立ち上がった。
その様子を見ていたセレナが微笑んだ。
「レイブン、今日は少し優しい先生ね」
「……いつも優しいつもりだよ」
レイブンは苦笑した。
セレナは笑った。
「そうね」
午後八時四十四分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは机に向かい、日記帳を開いていた。
窓の外には、雨上がりの夜空が広がっている。
少年は万年筆を握り、今日の出来事を書き始めた。
『今日は、父さんの仕事を手伝った。
雨が強かったので、野外訓練の予定が変わった。
父さんは、予定どおりに進めることだけが大切じゃないって言っていた。
途中で、演習場の人が怪我をした。
僕は父さんに、教官室で待っていなさいと言われた。
最初は、僕も何かできるんじゃないかと思った。
でも、六月に木箱が倒れそうになった時のことを思い出して、待つことにした。
父さんは、それでよかったって言ってくれた。
誰かを助けたい時でも、何をするべきか考えることが大切なんだと思った。
帰ってから、ルナと勉強した。
ルナは算術の問題を自分で解けるようになった。
嬉しそうだった。
僕も、もっと勉強して、いろんなことを知りたい。
いつか、誰かの役に立てる人になりたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
机の上には、祖父アルベルトから贈られた黒鴉の徽章が置かれている。
少年はそれを手に取り、しばらく眺めていた。
今日、自分がしたことは、ほとんどが待つことだった。
けれど、その時間にも意味があった。
父が何を考え、どう判断しているのか。
誰かが怪我をした時、周囲の人々がどう動くのか。
そして、自分が何をすべきではないのか。
レイブンは、それらを少しずつ学んでいた。
帝政歴三四〇年、七月六日。
レイブン・S・クロウ、十三歳。
少年はこの日、雨の演習場で、行動することだけが勇気ではないと知った。
時には立ち止まり、待ち、周囲を信じることも必要だった。
父ヴァルターは、息子がその意味を理解し始めていることを感じていた。
そしてレイブン自身も、少しずつ、自分の判断で行動できるようになっていた。




