第35話 十三歳、初めての責任
第35話 十三歳、初めての責任
帝政歴三四〇年、六月十五日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前六時三十一分。
夜明け前まで降り続いていた雨は上がり、庭園の石畳にはまだ小さな水溜まりが残っていた。開け放たれた食堂の窓から湿った土の匂いが流れ込み、遠くでは庭師が枝葉についた雨粒を払い落としている。
レイブン・S・クロウは、朝食の席で一通の封筒を眺めていた。
差出人は、彼が通う帝国中央学院初等・中等教育部の担任教師だった。
昨日、学期末の成績通知とともに渡されたもので、保護者に確認してもらうよう指示されている。
「……父さん、これ」
レイブンが封筒を差し出すと、ヴァルター・A・クロウは珈琲のカップを置いた。
「学校からか?」
「うん。成績のことだと思う」
ヴァルターは左手で封筒を受け取り、中身を取り出した。
セレナが隣から覗き込む。
「何て書いてあるの?」
ヴァルターは文面を読み進めた。
やがて、わずかに眉を上げた。
「……なるほど」
レイブンは緊張した。
「何か悪いこと?」
「いや」
ヴァルターは息子を見た。
「今回も総合首席だそうだ」
レイブンの黒い猫耳が立った。
「本当?」
「ああ。算術、歴史、地理、自然科学、語学。どの科目も高い評価を受けている」
セレナが微笑んだ。
「よかったわね、レイブン」
「うん!」
しかし、ヴァルターは続けて別の箇所を読み上げた。
「『学習面では非常に優秀である一方、周囲から相談を受ける機会が増えているため、今後は他者との協調や役割分担をさらに学ぶことが望ましい』……か」
レイブンは首を傾げた。
「それって、どういう意味?」
ヴァルターは手紙を机へ置いた。
「勉強ができることと、人をまとめられることは同じではない、という意味だろう」
「……人をまとめる?」
「ああ。誰かに教えたり、一緒に作業したりする時には、自分だけが正しくても上手くいかないことがある」
レイブンは少し考えた。
「……難しそう」
「そうだな」
ヴァルターは静かに笑った。
「だが、覚えておいて損はない」
向かいの席では、ルナ・V・クロウが自分の成績表を広げていた。
九歳の少女は、兄に負けじと勉強に励んでいる。
「お兄ちゃん、また一番?」
「うん」
「むう……」
ルナは頬を膨らませた。
セレナが微笑んだ。
「ルナも十分頑張っているわ。今回も学年で二番目だったでしょう?」
「でも、お兄ちゃんは一番だもん」
レイブンは妹を見た。
「ルナ、学年が違うんだから比べなくてもいいよ」
「それでも、いつか勝つ!」
ヴァルターは思わず笑った。
「その意気はいい。だが、無理はするなよ」
「はーい!」
ルナは元気よく答えた。
午前八時二十七分。
帝国陸軍中央教育学校、資材管理区画。
休日の教育学校では、翌週の野外訓練に向けた準備が進められていた。
レイブンは父とともに、施設管理担当のヘルマン・フォーゲル曹長のもとへ向かった。
「おはようございます、フォーゲル曹長!」
「おはよう、レイブン君」
フォーゲルは少年の姿を見て笑った。
「今日は少し仕事が多いぞ」
「大丈夫です!」
「頼もしい返事だ」
ヴァルターが口を開いた。
「曹長、今日の作業内容を確認させてください」
「はい。第三演習区画で使用する訓練用資材の搬入と、備品の数量確認です」
フォーゲルは記録板を差し出した。
「それと、訓練用の木箱をいくつか移動させる必要があります」
レイブンの耳が立った。
「木箱ですか?」
「ああ。ただし、中身のないものと、軽量の模擬資材を収めたものだけだ。実弾の入った箱は兵站担当者が扱う」
「分かりました」
ヴァルターは息子を見た。
「重いと思ったら、必ず手を止めろ」
「うん」
「それから、今日は一つ新しいことをしてもらう」
レイブンは顔を上げた。
「新しいこと?」
「資材の確認を、最初から最後まで自分でやってみろ」
少年は少し驚いた。
「僕が?」
「ああ。ただし、私とフォーゲル曹長が監督する」
ヴァルターは記録板を指差した。
「必要なものが揃っているか確認し、不足や不具合があれば報告する。勝手に判断して動かさず、分からないことがあれば尋ねること」
レイブンは記録板を受け取った。
「……分かった」
ヴァルターは頷いた。
「では、頼む」
午前九時十一分。
資材管理区画、第二倉庫前。
レイブンは、記録板を片手に木箱の数を確認していた。
空の木箱が八個。
訓練用標識板が十六枚。
折り畳み式の模擬障害物が四組。
軽量の訓練用担架が二台。
少年は一つずつ確認し、記録板へ印を付けていった。
作業は順調に進んでいた。
しかし、最後の項目で手が止まった。
「……あれ?」
レイブンはもう一度、木箱を数え直した。
記録板には、訓練用標識板が十六枚と書かれている。
だが、目の前にあるのは十五枚だった。
少年は周囲を見渡した。
近くには、別の作業をしている兵士たちがいる。
そのうち一人が、レイブンの様子に気づいた。
「どうした、坊主?」
レイブンは顔を上げた。
「標識板が一枚足りないんです」
兵士は記録板を覗き込んだ。
「……ああ、それなら向こうの倉庫にあるかもしれんな」
「そうなんですか?」
「昨日、別の訓練で使っていたからな」
兵士は倉庫の方を指差した。
「探してみたらどうだ?」
レイブンは一瞬、そちらへ歩きかけた。
しかし、すぐに立ち止まった。
父の言葉が頭をよぎった。
『勝手に判断して動かさず、分からないことがあれば尋ねること。』
レイブンは兵士へ向き直った。
「ありがとうございます。でも、先に父さんとフォーゲル曹長に確認します」
兵士は少し驚いた。
そして、笑った。
「……そうか。真面目だな」
レイブンは記録板を持ち、フォーゲルのもとへ向かった。
「曹長、報告があります」
「何だい?」
「標識板が一枚足りません。昨日、別の訓練で使ったものが向こうの倉庫にあるかもしれないそうです」
フォーゲルは記録板を確認した。
「なるほど」
「確認してもいいですか?」
「よし。私が一緒に行こう」
レイブンは頷いた。
午前九時三十七分。
第二倉庫内部。
フォーゲルとレイブンは、保管棚を順番に確認していた。
倉庫内には、訓練用の標識板や模擬機材が整理されている。
フォーゲルは棚の番号を確認した。
「……昨日の訓練で使った資材は、こちらだな」
レイブンは棚を見た。
そこには、標識板が一枚置かれていた。
「あった!」
少年は嬉しそうに声を上げた。
しかし、フォーゲルはすぐに持ち出そうとはしなかった。
「待ちなさい」
レイブンは手を止めた。
「どうしました?」
「まず、管理番号を確認する」
フォーゲルは標識板の側面を見た。
そこには、資材管理用の番号が記されている。
「……うむ。今回の演習で使用するものだ」
レイブンは頷いた。
「じゃあ、これで十六枚ですね」
「そうだ」
フォーゲルは記録板へ確認済みの印を付けた。
「よく報告してくれた」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
フォーゲルは少年を見た。
「しかし、君が勝手に取りに行かなかったのは正しい判断だった」
「父さんに、分からないことは聞けって言われていたので」
「それでいい」
フォーゲルは頷いた。
「軍隊では、物資を勝手に動かすと、後で別の部隊が困ることもある」
レイブンは真剣な顔で聞いていた。
「……なるほど」
午前十時二十二分。
第三演習区画。
レイブンは、確認を終えた資材の搬入を手伝っていた。
兵士たちは台車を使い、訓練用の木箱や標識板を指定された場所へ運んでいる。
レイブンも軽量の木箱を一つ持ち、父の指示に従って移動していた。
その時、近くで作業していた若い兵士が、積み上げた箱の一つを動かそうとした。
しかし、足元の地面がまだ濡れていたため、靴が滑った。
「うわっ!」
兵士は慌てて体勢を立て直した。
木箱が傾き、隣の箱へぶつかった。
大きな音が響いた。
レイブンは反射的にそちらへ駆け寄ろうとした。
しかし、ヴァルターの声が飛んだ。
「レイブン、止まれ!」
少年はその場で足を止めた。
ヴァルターは素早く状況を確認した。
「全員、作業を中断しろ!」
兵士たちが動きを止めた。
フォーゲルが駆け寄り、倒れかけた箱の状態を確認する。
幸い、箱は隣の箱に支えられており、完全には落下していなかった。
兵士にも怪我はなかった。
ヴァルターはレイブンへ目を向けた。
「……大丈夫か?」
「うん」
少年は頷いた。
「でも、あの人が……」
「分かっている」
ヴァルターは静かに答えた。
「助けようとした気持ちは分かる。だが、危険な場所へ不用意に近づけば、お前まで怪我をする」
レイブンは少し俯いた。
「……ごめんなさい」
ヴァルターは首を振った。
「謝る必要はない。ただ、覚えておけ」
彼は息子の肩へ左手を置いた。
「誰かを助けたいと思った時ほど、まず自分が安全に行動できるかを考えろ」
レイブンは顔を上げた。
「……分かった」
ヴァルターは頷いた。
「それでいい」
フォーゲルは兵士たちへ指示を出し、箱を安全な状態へ戻した。
作業は一度中断され、地面の状態と積載方法が確認された。
レイブンは、その様子を黙って見つめていた。
午前十一時四十六分。
中央教育学校、教官休憩室。
昼食を終えたレイブンは、父の隣で温かいお茶を飲んでいた。
午前中の出来事が、まだ頭から離れなかった。
「……父さん」
「何だ?」
「さっき、僕が走っていったら、危なかった?」
ヴァルターは頷いた。
「ああ。箱が落ちてくる可能性があった」
「……そっか」
レイブンは少し黙った。
「でも、あの兵士さんが転びそうだったから」
「助けようとしたんだな」
「うん」
ヴァルターは息子を見た。
「その気持ちは大切だ」
レイブンは顔を上げた。
「……本当?」
「ああ。ただし、気持ちだけで動いてはいけない」
ヴァルターは静かに続けた。
「助ける側が怪我をすれば、助けなければならない人が増えることもある」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
「だから、状況を確認し、必要なら周囲の人へ助けを求める」
ヴァルターは少し笑った。
「お前一人で、何もかも解決する必要はない」
レイブンは少し考えた。
「……じゃあ、次は先に大人の人を呼ぶ」
「そうだな」
ヴァルターは頷いた。
「それが適切な場合も多い」
レイブンは静かに息を吐いた。
そして、少しだけ笑った。
「……分かった」
午後一時二十三分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
レイブンが帰宅すると、ルナが居間で待っていた。
「お兄ちゃん!」
「ただいま」
「今日はどうだった?」
レイブンは少し考えた。
「……いろいろあった」
「いろいろ?」
「うん。資材を確認したり、木箱を運んだりした」
ルナは目を輝かせた。
「すごい!」
「でも、途中で危ないこともあったんだ」
レイブンは、午前中の出来事を妹へ説明した。
ルナは真剣な顔で聞いていた。
「……お兄ちゃん、怪我しなかった?」
「うん。父さんが止めてくれたから」
ルナは安心したように息を吐いた。
「よかった……」
レイブンは妹の頭を撫でた。
「心配してくれてありがとう」
ルナは少し照れくさそうにした。
「……だって、お兄ちゃんだもん」
その時、セレナが居間へ入ってきた。
「お帰りなさい、レイブン」
「ただいま、母さん」
セレナは息子の表情を見た。
「……何かあったの?」
レイブンは少し迷った。
しかし、すぐに頷いた。
「うん。今日、作業中に箱が倒れそうになったんだ」
セレナは静かに話を聞いた。
そして、レイブンが怪我をしていないことを確認すると、そっと息子を抱き締めた。
「……無事でよかったわ」
レイブンは少し驚いた。
「母さん……」
「お父さんが止めてくれてよかった」
セレナは息子の背中を撫でた。
「誰かを助けようとするのは立派なことよ。でも、あなた自身も大切にしてね」
レイブンは静かに頷いた。
「……うん」
午後四時三十二分。
クロウ家別邸、書斎。
ヴァルターは、学校から持ち帰った一般教育用の資料を整理していた。
そこへ、セレナが入ってきた。
「あなた」
「何だ?」
「レイブンから聞いたわ。今日、作業中に危ないことがあったそうね」
ヴァルターは頷いた。
「ああ。幸い、誰も怪我をしなかった」
セレナは少し安心したように息を吐いた。
「そう……」
「レイブンも、すぐに止まった。指示を守れたのはよかった」
セレナは夫を見た。
「でも、あの子は誰かが困っていると、すぐに助けようとするでしょう?」
「ああ」
ヴァルターは静かに答えた。
「それは、あいつの長所でもある」
「ええ」
「だが、同時に危うさでもある」
ヴァルターは窓の外を見た。
庭園では、レイブンがルナと一緒に花壇の手入れをしていた。
妹が重そうなじょうろを持とうとすると、兄は自然に手を貸している。
ヴァルターは静かに続けた。
「……あいつは、誰かの役に立ちたいと思っている」
セレナは頷いた。
「そうね」
「だからこそ、何をすべきかだけでなく、何をしてはいけないかも教えなければならん」
セレナは夫の左手へ、そっと自分の手を重ねた。
「あなたなら、きっと教えられるわ」
ヴァルターは少し笑った。
「……そうだといいが」
午後八時五十七分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは机に向かい、日記帳を開いていた。
今日の出来事を書こうとして、少し手を止めた。
頭の中には、倒れかけた木箱と、父の声が残っている。
『レイブン、止まれ!』
あの時、自分は何も考えずに走り出そうとしていた。
兵士を助けたいと思った。
それだけだった。
しかし、父は自分を止めた。
レイブンは万年筆を握り直した。
『今日は、父さんの仕事を手伝った。
資材の数を確認したら、標識板が一枚足りなかった。
フォーゲル曹長に報告して、一緒に探したら見つかった。
勝手に動かさず、ちゃんと確認することが大切だと分かった。
それから、木箱が倒れそうになった時、兵士さんを助けようとして走り出しかけた。
父さんが止めてくれた。
誰かを助けたい時ほど、まず安全を確認することが大切だって教えてくれた。
僕は、まだ分からないことがたくさんある。
でも、少しずつ覚えていきたい。
誰かを助けられるようになるために、まず自分が正しく判断できるようになりたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
机の上には、学校の成績表が置かれている。
総合首席。
その文字を見つめながら、少年は静かに考えた。
学校で一番になれても、知らないことはまだ多い。
父の仕事を手伝えるようになっても、できないことはまだ多い。
そして、誰かを助けたいと思っても、正しい方法を知らなければ危険になることがある。
レイブンは窓の外を見た。
夜空には、薄い雲が流れていた。
帝政歴三四〇年、六月十五日。
レイブン・S・クロウ、十三歳。
少年はこの日、初めて自分の判断に伴う責任を強く意識した。
それは、軍人としての責任ではない。
一人の人間として、周囲を見て、考え、行動する責任だった。
父ヴァルターは、息子がその意味を少しずつ理解し始めていることを感じていた。
そして、レイブン自身もまた、ただ父の背中を追いかけるだけではなく、自分の足で歩くための準備を始めていた。




