第34話 首席の少年と父の試験
第34話 首席の少年と父の試験
帝政歴三四〇年、五月十八日。
帝国中央部、帝国陸軍中央教育学校。
午前七時四十三分。
演習場の朝は、まだ肌寒かった。
前夜の雨で濡れた舗装路には薄い水溜まりが残り、資材倉庫の屋根からは時折、溜まった雨水が滴り落ちている。整備区画では輸送車両の始業点検が行われ、作業服姿の兵士たちが工具や記録板を手に行き交っていた。
その中に、一人だけ軍服を着ていない少年がいた。
レイブン・S・クロウ、十三歳。
黒い猫耳と左右で色の異なる瞳を持つ少年は、軍用の作業台車の前に立ち、手元の確認表を眺めていた。
「標識板、十二枚。折り畳み式の訓練用担架、二台。空の模擬弾薬箱、六個……」
指で一行ずつ追いながら、声に出して数量を確認する。
その隣では、ヘルマン・フォーゲル曹長が腕を組んでいた。
「どうだ、レイブン君」
「全部あります。でも、担架の一台だけ、固定する金具が少し曲がっています」
「どれだ?」
「こちらです」
レイブンが示した箇所をフォーゲルが確認すると、折り畳み式担架の留め具が正常な位置まで戻らなくなっていた。
「なるほど。これでは展開した時に固定できないかもしれんな」
「修理しますか?」
「いや、これは整備担当に回そう。代わりのものを用意する」
フォーゲルは確認表に不具合を書き込んだ。
「よく見つけた」
「ありがとうございます」
「しかし、君も随分慣れてきたな。最初は教材を数えるだけで一苦労だったのに」
レイブンは少し笑った。
「去年より、できることが増えましたから」
「その分、気をつけることも増えるぞ」
「はい」
フォーゲルは頷き、台車の取っ手を握った。
「では、第三演習区画まで運ぼう。君は横について、積んだものが動かないか見ていてくれ」
「分かりました」
レイブンは台車の側面へ回った。
この一年、父ヴァルターの手伝いを続けてきたことで、少年は運搬作業の見方を少しずつ変えていた。
以前なら、重いものを持てることが成長の証だと思っていた。
しかし今では、何をどこへ運ぶのか、運んだ後に何を確認するのかということにも目が向くようになっていた。
午前八時二十九分。
第三演習区画。
演習場では、すでにヴァルター・A・クロウが訓練生たちと打ち合わせを行っていた。
右腕を失ってから六年。
片腕の元少佐として知られる彼は、現在も予備役教官として後進の教育に携わっている。
今日の演習は、山岳地帯における負傷者救護と部隊の連携を扱うものだった。
ただし、訓練生の一部は初級指揮課程に所属しており、野外での実習経験が十分とはいえない。
ヴァルターは、訓練生たちへ視線を向けた。
「今回の評価対象は、速さだけではない。情報共有、負傷者への配慮、指揮の継続、そして安全管理だ」
訓練生の一人が手を挙げた。
「教官、制限時間を超過した場合は減点でしょうか」
「状況による。無意味に時間を浪費すれば評価は下がる。しかし、負傷者を乱暴に扱って時間だけを縮めても、良い評価にはならん」
ヴァルターは訓練生たちを見渡した。
「結果だけでなく、そこへ至る判断を見せてもらう」
その時、資材を運んできたフォーゲルが声を掛けた。
「クロウ教官、機材が到着しました」
「ご苦労」
ヴァルターは息子の姿に気づいた。
「レイブン、今日は早かったな」
「おはよう、父さん」
「おはよう。作業は順調か?」
「うん。担架の一台に不具合があったから、交換してもらった」
ヴァルターはフォーゲルへ視線を向けた。
「確認ありがとうございます」
「いえ、発見したのはレイブン君です」
ヴァルターは息子を見た。
「そうか。よく確認したな」
レイブンの耳が嬉しそうに立った。
「ありがとう」
その様子を見ていた訓練生の一人が、小声で隣の仲間へ話しかけた。
「……あれがクロウ教官の息子か?」
「ああ。休日になると手伝いに来るらしい」
「十三歳だって?」
「そう聞いた」
ヴァルターは二人へ視線を向けた。
「そこ。私語をする余裕があるなら、装備の確認を済ませろ」
「はっ!」
訓練生たちは慌てて持ち場へ戻った。
レイブンは思わず口元を押さえた。
父は息子へ目を向けた。
「何がおかしい?」
「……父さん、家にいる時と声が違う」
「仕事中だからな」
「ちょっと怖い」
「それは困ったな」
ヴァルターは真面目な顔のまま答えたが、その目には笑みが浮かんでいた。
午前九時五十六分。
第三演習区画、南側監督所。
訓練が始まると、レイブンは見学を許された場所で父の仕事を眺めていた。
訓練生たちは模擬負傷者を担架へ乗せ、指定された経路を移動している。
その途中で、ある班の指揮官が立ち止まった。
「待て、担架の後部が下がっている!」
隊員たちは動きを止め、負傷者役の姿勢を確認した。
後方の隊員が握り直し、他の隊員と歩調を合わせる。
ヴァルターは少し離れた場所から、その様子を観察していた。
レイブンは父の横顔を見た。
口を挟まず、訓練生たちが自分で問題を解決するのを待っている。
やがて班が移動を再開すると、ヴァルターは記録板へ何かを書き込んだ。
「父さん」
「何だ?」
「今の人たち、最初は失敗したけど、自分で直したね」
「ああ」
「父さんは教えなくてよかったの?」
ヴァルターは少し考えた。
「危険が差し迫っていれば止める。だが、自分たちで気づき、安全に修正できるなら、経験させることにも意味がある」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
「もっとも、見守る側も簡単ではないがな」
「どうして?」
「いつ口を出すべきか、判断しなければならないからだ」
レイブンは訓練生たちへ目を向けた。
教えるという仕事は、知っていることを説明するだけではない。
相手が自分で考える時間を与えることも必要なのだと、少年は少しずつ理解し始めていた。
午前十一時十七分。
演習場、資材集積区画。
午前の訓練が終了すると、兵士たちは使用した機材の回収を始めた。
レイブンも、許可された軽量資材の整理を手伝っていた。
そこへ、兵站担当の輸送車両が到着した。
荷台には新品の木箱が積まれ、その側面には弾薬管理用の表示が施されている。
兵站担当の兵士が伝票を確認し、フォーゲルへ声を掛けた。
「曹長、訓練用資材の追加分です。実弾の搬入分は、この後、別の保管区画へ移します」
「了解した。受領記録はこちらで確認する」
レイブンは木箱を見つめた。
以前よりも腕力がついたとはいえ、中身の詰まった軍用木箱を一人で持ち上げるのは簡単ではない。
それでも、運搬作業そのものには興味があった。
「フォーゲル曹長」
「何だい?」
「僕も、ああいう木箱を運べるようになりたいです」
フォーゲルは少年を見た。
「力仕事が好きなのか?」
「嫌いじゃないです。それに、父さんは右腕がないから、僕が運べるものは運びたいんです」
フォーゲルは少し表情を和らげた。
「そうか」
しかし、すぐに首を振った。
「気持ちは立派だが、実弾の箱は兵站担当者に任せよう。君に任せるものは、こちらで安全を確認して決める」
「はい」
「その代わり、今日は空の木箱を運んでもらおうか。新品で、訓練用の表示板を入れる予定のものだ」
レイブンは顔を上げた。
「いいんですか?」
「ああ。まずは自分に扱えるものからだ」
フォーゲルは空箱を一つ、台車の上へ置いた。
レイブンは箱の状態を確認し、指定された保管棚まで運んだ。
戻ってきたところで、ヴァルターが声を掛けた。
「レイブン」
「父さん」
「さっきの話は聞こえていた」
少年は少し緊張した。
「……怒ってる?」
「いや」
ヴァルターは首を振った。
「だが、一つ言っておく」
「うん」
「私の右腕がないことを、お前が埋め合わせる必要はない」
レイブンは父を見た。
「でも……」
「手伝ってくれるのは嬉しい。実際、助かっていることも多い」
ヴァルターは左手を息子の肩へ置いた。
「だが、お前は私の代わりになるために生まれてきたわけじゃない」
レイブンはしばらく黙っていた。
「……僕は、父さんが大変そうだから」
「分かっている」
ヴァルターは微笑んだ。
「だからこそ、無理をしてほしくないんだ」
少年は父の折り畳まれた右袖を見た。
六年前、父が腕を失った時、自分はまだ七歳だった。
何が起きたのかを十分に理解できず、ただ父が帰ってきてくれたことに安心したのを覚えている。
今なら、少しだけ分かる。
父は帰ってきた。
しかし、何も失わずに帰ってきたわけではなかった。
「……分かった」
レイブンは静かに答えた。
「でも、父さんが困ってたら、手伝ってもいいよね?」
ヴァルターは小さく笑った。
「ああ。もちろんだ」
少年の耳が立った。
「じゃあ、これからも手伝う」
「ただし、休日だけだ」
「分かってるよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
午後一時四十二分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
レイブンが帰宅すると、居間ではルナが学校の課題に取り組んでいた。
白い猫耳を前へ向け、算術の問題集を睨んでいる。
「ただいま」
「お兄ちゃん!」
ルナは顔を上げた。
「お帰り!」
「何してるの?」
「算術」
レイブンは机を覗き込んだ。
「難しい?」
「……ちょっと」
ルナは頬を膨らませた。
「先生は簡単だって言ってたけど、全然簡単じゃない」
レイブンは笑った。
「どこが分からないの?」
「ここ」
ルナは問題集を指差した。
そこには、複数の数を組み合わせる文章問題が並んでいた。
レイブンは問題を読み、少し考えた。
「……答えを教えるより、一緒に考えようか」
「うん」
少年は椅子を引き、妹の隣へ座った。
「まず、問題に書いてあることを整理しよう」
ルナは鉛筆を持ち直した。
「うん」
「最初に何個あって、途中でいくつ増えた?」
ルナは問題文を読み返した。
「……これと、これ?」
「そう」
レイブンは頷いた。
「じゃあ、最後に何を聞かれてる?」
ルナは少し考えた。
「……残ってる数?」
「そうだね」
少女は計算を始めた。
途中で一度間違えたものの、自分で気づいて書き直す。
やがて答えが出た。
「……できた!」
ルナは嬉しそうに顔を上げた。
レイブンは笑った。
「やったね」
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「どういたしまして」
その時、セレナが居間へ入ってきた。
「あら、二人でお勉強?」
「うん!」
ルナが答えた。
「お兄ちゃんが教えてくれたの」
セレナは微笑んだ。
「そう。よかったわね」
レイブンは少し照れくさそうにした。
「父さんの真似をしただけだよ」
セレナは息子を見つめた。
「……そうなの?」
「うん。すぐに答えを教えるより、一緒に考えた方がいいかなって」
セレナは穏やかに頷いた。
「いい先生ね」
ルナが勢いよく頷いた。
「うん! お兄ちゃん、先生みたい!」
レイブンは笑った。
「まだ十三歳だよ」
「でも、先生みたいだった!」
セレナは二人を見つめながら、静かに微笑んだ。
午後三時二十七分。
クロウ家別邸、書斎。
ヴァルターは学校から持ち帰った一般教育用の資料を確認していた。
そこへ、セレナが温かい紅茶を運んできた。
「お疲れさま、あなた」
「ありがとう」
ヴァルターはカップを受け取った。
セレナは夫の向かいへ座った。
「今日のレイブンはどうだった?」
「よく働いていた」
「そう」
「以前よりも、周囲を見るようになったな。自分の作業だけでなく、他の者が何をしているかにも気づく」
セレナは微笑んだ。
「家でもそうよ」
「ほう?」
「さっき、ルナの勉強を見ていたの」
ヴァルターは顔を上げた。
「レイブンが?」
「ええ。すぐに答えを教えず、一緒に考えていたわ」
ヴァルターは少し驚いた。
そして、静かに笑った。
「……そうか」
セレナは夫の表情を見た。
「嬉しそうね」
「……まあな」
ヴァルターは紅茶を一口飲んだ。
「教えたことを、自分なりに使っているのなら嬉しい」
セレナは頷いた。
「それに、ルナもお兄ちゃんをよく見ているわ」
「ああ」
「最近は学校でも、兄妹の成績が話題になっているそうよ」
ヴァルターは眉を上げた。
「そうなのか?」
「ええ。レイブンは首席、ルナも学年の上位を維持しているから」
ヴァルターは少し考えた。
「……それは立派だが、二人に余計な重圧が掛からなければいい」
セレナは微笑んだ。
「私もそう思うわ」
午後五時四十六分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
夕食前、レイブンとルナは庭園で軽い運動をしていた。
レイブンは庭の小道を走り、ルナがその後を追いかけている。
「お兄ちゃん、待って!」
「ほら、こっち!」
レイブンは速度を落とし、妹が追いつくのを待った。
ルナは息を切らしながら走ってきた。
「……はあ、はあ……お兄ちゃん、速い!」
「ルナも前より速くなったよ」
「ほんと?」
「うん」
ルナは嬉しそうに笑った。
その時、ヴァルターが庭園へ出てきた。
「二人とも、そろそろ夕食だ」
「はーい!」
兄妹は声を揃えた。
レイブンは父の隣へ歩み寄った。
「父さん」
「何だ?」
「今日、ルナに算術を教えたんだ」
「母さんから聞いた」
「そうなの?」
「ああ」
ヴァルターは微笑んだ。
「よくやったな」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「父さんの真似をしただけだよ」
「それでも、自分で考えて教えたんだろう?」
「うん」
「なら、それはお前自身の力だ」
レイブンは父を見た。
そして、嬉しそうに頷いた。
その夜、レイブンは自室で日記帳を開いた。
しかし、今日はすぐには書き始めなかった。
机の上には、学校の成績表と、祖父アルベルトから贈られた黒鴉の徽章が置かれている。
少年は成績表を眺め、それから徽章へ目を向けた。
首席という評価は嬉しかった。
父の仕事を手伝えることも嬉しかった。
妹に勉強を教えられたことも、誇らしかった。
けれど、それらはすべて、自分一人の力で得たものではない。
父が教えてくれたこと。
母が支えてくれたこと。
学校の教師たちが教えてくれたこと。
そして、周囲の人々が助けてくれたこと。
レイブンは、それを少しずつ理解し始めていた。
万年筆を手に取り、日記帳へ書き込む。
『今日は、父さんの仕事を手伝った。
訓練用の機材を運んだり、備品を確認したりした。
父さんは、僕が父さんの右腕の代わりになる必要はないって言っていた。
でも、僕は父さんの役に立ちたい。
だから、無理をせず、自分にできることを増やしていこうと思う。
帰ってから、ルナに算術を教えた。
最初は難しそうだったけど、最後は自分で答えを出せた。
父さんがいつもしていることを、少しだけ分かった気がする。
僕も、誰かに何かを教えられる人になりたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、静かに日記帳を閉じた。
窓の外には、春の夜空が広がっていた。
帝政歴三四〇年、五月十八日。
レイブン・S・クロウ、十三歳。
父の背中を追いかけていた少年は、いつの間にか、その背中から学んだことを妹へ伝えるようになっていた。
それは、まだ小さな変化だった。
しかし、クロウ家の中では、確かに新しい成長が始まっていた。




