第33話 受け継がれる背中
第33話 受け継がれる背中
帝政歴三四〇年、三月九日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前六時二十八分。
春の訪れを告げる柔らかな風が、まだ冷たさの残る庭園を吹き抜けていた。
レイブン・S・クロウは、寝室の窓を開けて大きく背伸びをした。十三歳になった彼の背丈は、この一年で目に見えて伸びている。以前は少し大きかった上着も、今では肩幅が合うようになり、黒い猫耳の位置も母セレナの目線へ少しずつ近づいていた。
机の上には、昨日返却された学校の成績表が置かれている。
総合成績、第一位。
算術、帝国史、地理、自然科学、国語。
いずれも優秀な評価が並び、担当教師の所見には、学習態度と課題への取り組みを高く評価する言葉が記されていた。
ただし、レイブンが最も気にしていたのは、成績表そのものではなかった。
「……よし」
少年は時計を確認すると、机の引き出しから小さな手帳を取り出した。
そこには、今日の予定が書かれている。
『午前:父さんの手伝い。午後:母さんの買い物。夕方:ルナと勉強。』
レイブンは手帳を閉じ、鞄へしまった。
今日は休日。
そして、父ヴァルターの仕事を手伝う日でもあった。
以前は教室の机を並べたり、教材の頁を確認したりする程度だったが、最近は屋外での作業も少しずつ任されるようになっていた。
もちろん、何でも自由にできるわけではない。
父からは、今も厳しい条件を付けられている。
学業を優先すること。
許可された場所から出ないこと。
軍の機密文書や危険な装備には触れないこと。
そして、無理な重量物を運ばないこと。
レイブンは、それらを守ることが父の信頼につながると理解していた。
階段を下りると、食堂から賑やかな声が聞こえてきた。
「おにいちゃん、遅い!」
ルナ・V・クロウが椅子から身を乗り出した。
九歳になった妹は、兄と同じ学校の初等課程に通っている。白い猫耳と髪を持つ少女は、以前よりも落ち着いた雰囲気を身につけていたものの、兄に対する親しみやすい態度は相変わらずだった。
「まだ六時半だよ」
レイブンが笑うと、ルナは頬を膨らませた。
「今日はお父さんと早く出るんでしょ?」
「うん」
「だったら、早くご飯食べないと」
セレナが二人の会話を聞きながら微笑んだ。
「ルナ、あなたもまだ食べ終わっていないでしょう?」
「……あ」
ルナは自分の皿を見下ろした。
レイブンは思わず笑った。
その時、食堂の扉が開いた。
「おはよう」
ヴァルター・A・クロウが入ってきた。
帝国陸軍の教官制服を身につけ、左手には薄い書類鞄を持っている。失われた右腕の袖は、いつものように肩口で整えられていた。
「おはよう、父さん」
「おはよう、お父さん!」
ヴァルターは二人へ微笑み、椅子へ腰を下ろした。
「レイブン、今日は野外教材の準備を手伝ってもらう」
少年の耳が立った。
「野外?」
「ああ。演習場で使用する訓練機材の点検と運搬だ」
「分かった!」
「ただし、重いものを無理に持つな。危険物や実弾には触れさせない。運搬するものは担当者が指定する」
「うん」
ヴァルターは続けた。
「作業は午前中で終える。午後は母さんの買い物を手伝う約束だったな」
「覚えてるよ」
セレナが頷いた。
「ええ。今日は少し荷物が多くなりそうだから、助かるわ」
ルナが手を挙げた。
「私も行く!」
「もちろんよ」
セレナは微笑んだ。
「ただし、二人とも無理に荷物を持たないこと」
「はーい!」
兄妹は声を揃えた。
午前八時十六分。
帝国陸軍中央教育学校、野外演習場。
朝の演習場には、整備車両のエンジン音と兵士たちの声が響いていた。
広い敷地には、訓練用の障害物、模擬建造物、車両訓練区画、資材保管施設などが配置されている。
その一角では、翌週の教育課程に向けた準備が進められていた。
レイブンは父と共に、施設管理担当のヘルマン・フォーゲル曹長のもとへ向かった。
「おはようございます、フォーゲル曹長!」
「おお、レイブン君。今日も元気だな」
フォーゲルは笑いながら敬礼の代わりに軽く手を挙げた。
「もう十三歳だったな。随分背が伸びたじゃないか」
「ありがとうございます」
「去年までは教材の数を確認していたのに、今では運搬も手伝えるようになったか」
ヴァルターが口を開いた。
「ただし、無理な重量物は持たせません」
「もちろんです、教官」
フォーゲルは頷いた。
「今日は軽量の訓練機材を中心に頼みます」
レイブンは周囲を見渡した。
近くには、新品の木箱がいくつも積まれている。
箱の側面には、物資管理用の番号と内容物を示す表示が記されていた。
その中には、訓練用の模擬弾薬や装備品を収めた箱もあった。
「……父さん、あれも運ぶの?」
レイブンが尋ねると、ヴァルターは首を振った。
「すべてではない。中には重量物や、管理上の制限があるものもある」
フォーゲルが説明を加えた。
「実弾を収めた箱は、資格を持つ兵站担当者が扱う。レイブン君には、訓練用の安全な資材だけをお願いするよ」
「分かりました」
レイブンは頷いた。
その時、兵站担当の兵士二名が、弾薬庫側から木箱を載せた運搬台車を押してきた。
木箱には、軍用弾薬の管理表示が付けられている。
レイブンはその様子を興味深そうに眺めた。
「……あの箱、重そうですね」
フォーゲルが頷いた。
「ああ。新品の弾薬箱は、中身が詰まっているとかなり重い。見た目だけで判断して持ち上げると、腰を痛めることもある」
ヴァルターは息子へ目を向けた。
「覚えておけ。力があることと、安全に運べることは別だ」
「うん」
レイブンは頷いた。
兵士たちは運搬台車を指定された保管区画へ移動させ、管理担当者へ引き渡していた。
その作業は、レイブンが思っていたよりも慎重だった。
番号を確認し、数量を照合し、受領記録へ記入する。
単に箱を運ぶだけでは終わらない。
「……父さん」
「何だ?」
「運ぶ前と後で、ちゃんと数を確認するんだね」
「そうだ。特に弾薬のような物資は、管理を誤れば重大な問題になる」
ヴァルターは答えた。
「だから、誰が何を受け取り、どこへ保管したかを記録する」
レイブンは小さく頷いた。
フォーゲルは、別の台車を指差した。
「では、レイブン君。君にはこちらを頼もう」
そこには、訓練用の標識板と軽量の模擬機材が積まれていた。
「この箱を、教官と一緒に第三演習区画まで運んでくれるかな」
「はい!」
レイブンは箱の取っ手を握った。
持ち上げようとしたところで、ヴァルターが声を掛けた。
「待て」
レイブンは手を止めた。
「どうしたの?」
「まず、重さを確かめろ。無理に持ち上げるな」
「分かった」
レイブンは箱を少しだけ動かし、重さを確認した。
「……これなら大丈夫そう」
「なら、足元に気をつけて運ぼう」
ヴァルターは左手で別の軽い資材を持ち、息子と共に歩き始めた。
午前九時三十四分。
第三演習区画。
レイブンは、運搬した標識板を指定された場所へ並べていた。
フォーゲル曹長が配置図を確認している。
「……よし。次は、こちらの模擬障害物を並べよう」
レイブンは頷いた。
「分かりました」
作業を進めていると、演習区画の向こうから訓練生たちが歩いてきた。
その中には、エーリヒ・ベルクマン中尉の姿もあった。
「おや、レイブン君」
「こんにちは、ベルクマン中尉!」
エーリヒは少年の姿を見て笑った。
「今日は屋外で手伝いかい?」
「はい!」
「去年よりも仕事が増えたみたいだね」
「少しだけ」
レイブンは照れくさそうに答えた。
エーリヒはヴァルターへ目を向けた。
「教官、来週の演習ではこの区画を使用するのですか?」
「ああ。基本的な移動判断と、負傷者の搬送を想定した訓練を行う」
「了解しました」
エーリヒは配置図を確認した。
「標識板の位置は、この図面でよろしいでしょうか」
ヴァルターは頷いた。
「そうだ。ただし、実際の地形に合わせて多少調整する」
レイブンは二人の会話を聞きながら、標識板を一枚ずつ並べていた。
その時、一枚の標識板が傾いていることに気づいた。
「……父さん」
「何だ?」
「これ、地面が少し柔らかいから、倒れそう」
ヴァルターは歩み寄った。
標識板の脚部を確認すると、確かに地面が湿っており、安定していなかった。
「……そうだな」
ヴァルターはフォーゲルへ声を掛けた。
「曹長、この標識板は設置場所を変更した方がよさそうです」
「了解しました」
フォーゲルは配置図を確認し、別の位置を指定した。
レイブンは標識板を移動させた。
「これなら大丈夫かな」
ヴァルターは頷いた。
「ああ。よく気づいた」
レイブンは嬉しそうに笑った。
午前十時五十二分。
演習場、資材保管施設。
作業を終えたレイブンは、フォーゲル曹長と共に運搬台車を片づけていた。
その時、兵站担当の兵士が新しい木箱を運んできた。
「フォーゲル曹長、追加の訓練資材です」
「ご苦労」
フォーゲルは受領書を確認した。
レイブンは木箱を見た。
「……また箱が来た」
フォーゲルは笑った。
「軍隊では、物資が届かないと何も始まらないからね」
「そんなに大事なんですか?」
「ああ。食料、燃料、医薬品、訓練機材。どれも必要だ」
ヴァルターが口を開いた。
「戦場でも同じだ。兵士がどれほど優秀でも、必要な物資が届かなければ行動できない」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
フォーゲルは少年を見た。
「レイブン君、今日の作業はここまでだ」
「もう終わりですか?」
「ああ。十分助かったよ」
レイブンは少し残念そうにした。
ヴァルターが笑った。
「約束どおり、午前中までだ」
「……分かった」
「午後は母さんの買い物を手伝うんだろう?」
「うん!」
レイブンは頷いた。
フォーゲルは少年の肩を軽く叩いた。
「また次の休日に頼むよ」
「はい!」
レイブンは元気よく答えた。
午後一時二十六分。
帝国中央部、市街商業地区。
レイブンは母セレナと妹ルナと共に、買い物へ出かけていた。
石畳の通りには、食料品店や衣料品店、雑貨店が並んでいる。
市場には春の野菜や果物が並び、店先では商人たちが客へ声を掛けていた。
「今日は、食料品と日用品を買うわね」
セレナが買い物帳を開いた。
「レイブン、荷物をお願いできる?」
「もちろん!」
少年は頷いた。
ルナも手を挙げた。
「私も持つ!」
「ありがとう。でも、重いものはお兄ちゃんとお母さんに任せてね」
「はーい」
三人は最初に青果店へ向かった。
店主の女性が笑顔で迎えた。
「いらっしゃいませ、クロウ夫人」
「こんにちは。今日はじゃがいもと人参をお願いします」
「かしこまりました」
店主は野菜を袋へ詰めた。
レイブンはその袋を受け取った。
「僕が持つよ」
「ありがとう」
セレナは微笑んだ。
続いて、肉屋とパン屋へ向かった。
買い物が進むにつれ、レイブンの両手にはいくつかの袋が増えていった。
ルナは小さな袋を一つ持ち、兄の隣を歩いている。
「お兄ちゃん、重くない?」
「大丈夫だよ」
レイブンは笑った。
しかし、セレナは息子の歩き方を見ていた。
「レイブン、少し休みましょう」
「え? まだ大丈夫だよ」
「大丈夫でも、休むの」
セレナは穏やかに答えた。
「無理をしてまで頑張る必要はないわ」
レイブンは少し考えた。
「……分かった」
三人は広場のベンチへ腰を下ろした。
ルナは小さな袋を膝へ置き、嬉しそうに笑った。
「私もお手伝いできた!」
「ええ。ありがとう、ルナ」
セレナは娘の頭を撫でた。
レイブンは自分の手を見つめた。
午前中は訓練機材を運び、午後は買い物袋を持っている。
以前よりも体力がついたとはいえ、長時間の作業は少し疲れる。
セレナは息子へ水筒を差し出した。
「飲みなさい」
「ありがとう、母さん」
レイブンは水を飲んだ。
セレナは静かに尋ねた。
「今日のお父さんのお手伝いは、どうだった?」
「楽しかったよ」
「何をしたの?」
「訓練用の標識板を運んだり、演習場に並べたりした。それから、弾薬の木箱を運ぶ兵士さんたちも見た」
セレナは頷いた。
「そう」
「父さんは、力があることと安全に運べることは違うって言ってた」
セレナは微笑んだ。
「いいことを教わったわね」
レイブンは少し考えた。
「……母さんも、同じこと言ってるね」
「そうかしら?」
「うん。重くなくても休みなさいって」
セレナは笑った。
「だって、あなたに怪我をしてほしくないもの」
レイブンは頷いた。
「……分かった」
ルナが兄の袖を引いた。
「お兄ちゃん」
「何?」
「私も大きくなったら、もっと重いの持てる?」
「持てるようになると思うよ」
「ほんと?」
「うん。でも、無理はしないでね」
ルナは嬉しそうに頷いた。
午後四時十八分。
クロウ家別邸、書斎。
買い物から帰宅したレイブンは、父の隣で学校の成績表を広げていた。
ヴァルターは一枚ずつ目を通している。
「……総合第一位か」
「うん」
「よく頑張ったな」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう」
ヴァルターは成績表を机へ置いた。
「だが、順位だけにこだわる必要はないぞ」
「どうして?」
「勉強は、誰かに勝つためだけにするものではない」
レイブンは頷いた。
「……分かってる」
「ならいい」
ヴァルターは微笑んだ。
「それに、ルナも頑張っているらしいな」
レイブンは笑った。
「うん。ルナもすごいんだ」
その時、書斎の扉が開いた。
「お父さん!」
ルナが駆け込んできた。
手には、自分の成績表を持っている。
「私も見て!」
ヴァルターは笑った。
「もちろんだ」
ルナは机の上へ成績表を広げた。
総合成績、第二位。
兄と同じ学校で、学年は異なるものの、ルナも非常に優秀な成績を収めていた。
ヴァルターは頷いた。
「……よく頑張ったな、ルナ」
ルナは嬉しそうに笑った。
「えへへ」
レイブンは妹の成績表を覗き込んだ。
「すごいじゃないか」
「お兄ちゃんには負けないもん」
ルナは胸を張った。
レイブンは笑った。
「僕たち、学年が違うけどね」
「それでも!」
ヴァルターは二人を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……二人とも、よく努力している」
セレナが書斎へ入ってきた。
「あなた、どうだった?」
「二人とも優秀だ」
ヴァルターは答えた。
「レイブンは首席、ルナも学年第二位だ」
セレナは嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、素晴らしいわ」
ルナは母へ駆け寄った。
「お母さん!」
セレナは娘を抱き締めた。
「頑張ったわね」
レイブンはその様子を見て笑った。
ヴァルターは息子へ目を向けた。
「レイブン」
「何?」
「今日の手伝いも、よくやっていた」
「本当?」
「ああ。無理に重いものを持とうとせず、指示を守っていた」
レイブンの猫耳が嬉しそうに立った。
「ありがとう、父さん」
ヴァルターは頷いた。
「だが、これからも学業を優先すること。約束は変わらん」
「もちろん!」
レイブンは元気よく答えた。
午後八時三十九分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは机に向かい、日記帳を開いていた。
今日の出来事を書き始める。
『今日は、父さんの仕事を手伝った。
十三歳になってから、屋外での仕事も少しずつ増えてきた。
今日は訓練用の標識板を運んだり、演習場に並べたりした。
弾薬の木箱を運ぶ兵士さんたちも見た。
父さんは、力があることと安全に運べることは違うって言っていた。
午後は母さんとルナと買い物に行った。
荷物を持ったけど、途中で少し疲れた。
母さんは、無理をしないことも大切だって言っていた。
父さんも母さんも、似たようなことを言うんだなと思った。
それから、学校の成績表を見せた。
僕は首席だった。
ルナも学年第二位だった。
父さんも母さんも褒めてくれた。
でも、父さんは順位だけが大切じゃないって言っていた。
僕もそう思う。
これからも勉強を頑張って、父さんの仕事も手伝いたい。
いつか、誰かの役に立てるようになりたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
机の上には、祖父アルベルトから贈られた黒鴉の徽章が置かれている。
少年はそれを手に取り、しばらく眺めていた。
窓の外には、春の夜空が広がっていた。
その頃、居間ではヴァルターとセレナが、今日の出来事について話していた。
「……レイブン、随分成長したわね」
セレナが言った。
ヴァルターは頷いた。
「ああ」
「去年までは、教材を並べるだけだったのに」
「今では、屋外の作業も少しずつ任せられるようになった」
ヴァルターは静かに答えた。
「だが、まだ十三歳だ。無理をさせるつもりはない」
「ええ。それでいいと思うわ」
セレナは微笑んだ。
「でも、あの子があなたを尊敬しているのは、本当ね」
ヴァルターは少し考えた。
「……そうだな」
「ルナも、お兄ちゃんを追いかけているわ」
セレナは笑った。
「二人とも、負けず嫌いだから」
ヴァルターは苦笑した。
「……誰に似たんだか」
セレナは即答した。
「あなたよ」
ヴァルターは思わず笑った。
帝政歴三四〇年、三月九日。
レイブン・S・クロウ、十三歳。
ルナ・V・クロウ、九歳。
兄妹は、それぞれの学校生活と家庭での役割を通じて成長していた。
レイブンは父の仕事を手伝いながら、体力だけでなく責任感を学び始めていた。
ルナも兄を追いかけるように学業へ励み、優秀な成績を収めていた。
そして、ヴァルターとセレナは、二人の成長を見守りながら、それぞれの道を支えていた。
帝国の北部では、今も国境の緊張が続いている。
だが、クロウ家の庭園には、穏やかな春の風が吹いていた。
その平穏がいつまで続くのか、まだ誰にも分からなかった。




