第31話 父の背中を追いかけて
第31話 父の背中を追いかけて
帝政歴三三九年、四月十七日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前六時四十二分。
春の柔らかな日差しが、クロウ家の庭園を照らしていた。
冬の間は雪に覆われていた石畳の小道にも緑が戻り、庭師たちが手入れを続ける花壇には、色とりどりの花が咲き始めている。
レイブン・S・クロウは、食堂の窓際で学校の教科書を鞄へ詰めていた。
十二歳になった彼は、四年前と比べて背丈が伸び、顔立ちにも少年らしい精悍さが現れ始めていた。黒髪の間から伸びる猫耳は相変わらず感情に素直で、何かに集中すると自然に前を向く。左右で異なる金色と黒色の瞳には、幼い頃から変わらない好奇心が宿っていた。
食卓では、八歳のルナ・V・クロウがパンに果実のジャムを塗っている。
兄とは対照的な白い髪と猫耳を持つ少女は、最近になって自分で髪を整えることを覚えたものの、今朝も後頭部の一房だけが跳ねていた。
「お兄ちゃん、今日は帰ってくるの遅い?」
ルナが尋ねた。
「いつもと同じくらいだと思うけど、どうして?」
「昨日、約束したでしょ。庭で一緒に遊ぶって」
「ああ、そうだった」
レイブンは鞄の留め具を閉じた。
「大丈夫。帰ったら遊ぼう」
「ほんと?」
「うん」
ルナが満足そうに頷いたところで、食堂の扉が開いた。
「おはよう、二人とも」
ヴァルター・A・クロウが入ってきた。
軍服の上着はきちんと整えられ、失われた右腕の袖は肩口から折り畳まれている。以前よりも左手だけで身支度を整える動作に慣れたものの、細かな留め具や書類の扱いでは、今も時折不自由を感じることがあった。
「おはよう、父さん」
「おはよう、とうさん!」
ヴァルターは二人に微笑み、椅子へ腰を下ろした。
セレナが温かい珈琲を差し出す。
「おはようございます、あなた。今日は学校で講義でしたね」
「ああ。午前は指揮判断、午後は野外演習の評価だ」
「帰りは遅くなりそう?」
「少しな。来週の教育計画も確認しなければならない」
レイブンは父の言葉に耳を傾けていた。
帝政歴三三五年の冬、ヴァルターが陸軍中央教育学校で教官を務め始めてから、すでに三年以上が過ぎている。
その間、レイブンは何度も父の勤務先を訪れていた。
最初は学校帰りに迎えを待つだけだったが、次第に教官室の前で授業の終わりを待つようになり、許可された場所から訓練生たちの演習を眺めることも増えていた。
ヴァルターが黒板の前に立つ姿。
訓練生の質問に答える姿。
提出された報告書を一枚ずつ確認する姿。
そして、誰かが失敗した時、怒鳴りつけるのではなく、その理由を尋ねる姿。
レイブンにとって、それらはどれも興味深かった。
しかし、最近になって、ただ見ているだけでは物足りなくなっていた。
「……父さん」
「何だ?」
「今日も学校の帰りに、教育学校へ行っていい?」
ヴァルターはパンを皿へ置いた。
「迎えの時間までなら構わん。ただし、訓練区域には勝手に入るなよ」
「分かってる」
レイブンは頷いた。
そして、少しだけ言い淀んだ。
「それと……」
「まだ何かあるのか?」
「ううん。帰ってから話す」
ヴァルターは不思議そうに息子を見たが、それ以上は尋ねなかった。
セレナだけが、何かを察したように小さく微笑んでいた。
同日、午後三時二十六分。
帝国陸軍中央教育学校、第一講義棟。
レイブンは校門で身分確認を受け、許可証を受け取ってから構内へ入った。
軍の教育施設とはいえ、一般の学校とは雰囲気がまるで違う。
整然と並ぶ建物。
演習場へ向かう訓練生たち。
廊下を行き交う軍服姿の将校。
遠くから聞こえる号令と、訓練車両のエンジン音。
レイブンは、そうした光景を何度見ても飽きなかった。
「おや、クロウ家の坊ちゃんじゃないか」
声を掛けてきたのは、教育学校の事務を担当するヘルマン・フォーゲル曹長だった。
四十代半ばの人間種の男性で、口髭と丸い眼鏡が特徴的な古参下士官である。
「こんにちは、フォーゲル曹長」
「今日もお父上を迎えに?」
「はい」
「クロウ教官なら、今は第三教室だ。廊下の待機席で待っているといい」
「ありがとうございます」
レイブンは丁寧に頭を下げた。
フォーゲルは少年の背中を見送りながら、近くの事務官へ笑いかけた。
「礼儀正しい子だろう?」
「ええ。最近は教官の講義資料まで読もうとするそうですね」
「まったく、父親譲りの勉強熱心さだ」
レイブンは第三教室の前へ向かった。
扉は閉まっていたが、内部からヴァルターの声が聞こえてくる。
「……では、諸君に尋ねよう。指揮官が負傷し、通信も途絶えた場合、最初に何を確認する?」
訓練生の一人が答えた。
「指揮権の継承です!」
「その通り。だが、それだけでは足りない」
ヴァルターの声が続いた。
「部隊の現状を把握しなければ、指揮権を引き継いでも適切な命令は出せない。負傷者、残存人員、物資、現在位置、通信手段。必要な情報を整理しろ」
レイブンは廊下の椅子へ腰を下ろした。
膝の上には、学校の宿題を入れた鞄がある。
彼は教科書を開いたが、耳は自然と教室の方へ向いていた。
しばらくして、講義が終わった。
扉が開き、訓練生たちが廊下へ出てくる。
その中の一人がレイブンに気づいた。
「おや、レイブン君」
「こんにちは、ベルクマン中尉」
エーリヒ・ベルクマンは、以前よりも落ち着いた雰囲気を身につけていた。
彼は教育学校で追加の指揮課程を受講しており、ヴァルターの講義にも時折参加していた。
「また勉強かい?」
「宿題です」
「偉いな。俺なんて君くらいの頃は、宿題から逃げる方法ばかり考えていた」
隣にいた将校が笑った。
「今でも変わらないだろう、ベルクマン」
「おい、余計なことを言うな」
レイブンもつられて笑った。
その時、教室からヴァルターが出てきた。
「レイブン」
「父さん!」
「待たせたな」
「ううん。宿題をしてたから」
ヴァルターは息子の鞄を見た。
「そうか。もう終わったのか?」
「算術は終わった。歴史が少し残ってる」
「なら、帰ったら続きをやろう」
「うん」
ヴァルターはベルクマン中尉へ目を向けた。
「中尉、先ほどの報告書は明日の午前中までに提出してくれ」
「了解しました、教官」
エーリヒは敬礼し、同僚と共に歩き去った。
レイブンはその後ろ姿を見つめていた。
「父さん」
「何だ?」
「みんな、父さんの話をちゃんと聞いてるね」
「講義だからな」
「でも、質問もいっぱいしてる」
「分からないことを尋ねるのは大切だ」
ヴァルターは教官室へ向かいながら答えた。
「教える側も、質問されて初めて気づくことがある」
レイブンは頷いた。
そして、父の右側へ視線を向けた。
折り畳まれた軍服の袖が、歩くたびにわずかに揺れている。
以前は、それを見るたびに胸が苦しくなった。
今でも父が腕を失った事実を忘れたわけではない。
しかし、片腕になっても仕事を続け、若い軍人たちに教えている姿を見ているうちに、レイブンの中には別の感情が生まれていた。
自分にも、何かできることがあるのではないか。
そんな思いだった。
同日、午後六時四十三分。
クロウ家別邸、食堂。
夕食の席で、レイブンは何度も父の顔を見ていた。
ヴァルターはそれに気づいていたが、あえて何も言わずにいた。
やがて、セレナが食後のお茶を運んできたところで、レイブンが口を開いた。
「父さん、母さん。お願いがあるんだけど」
ヴァルターはカップを置いた。
「改まってどうした?」
セレナも椅子へ腰を下ろした。
「なあに、レイブン?」
少年は背筋を伸ばした。
「僕、父さんの仕事を手伝いたい」
ヴァルターの眉が動いた。
「……何?」
「教育学校で、父さんの手伝いをしたいんだ」
「レイブン」
父の声が少し低くなった。
「軍の仕事は、子供が簡単に手伝えるものではない」
「分かってる。だから、危ないことはしない」
「そういう問題ではない」
ヴァルターは首を振った。
「お前には学校がある。今は自分の勉強を優先しなさい」
レイブンは唇を結んだ。
「でも、休日だけなら……」
「駄目だ」
返事は早かった。
ルナは兄と父を交互に見つめている。
しかし、セレナの反応は違った。
「あら、いいじゃない」
ヴァルターが妻を振り返った。
「セレナ?」
「レイブンが自分からお手伝いしたいと言っているんでしょう? 素敵なことだと思うわ」
「だが、あそこは軍の施設だぞ」
「もちろん、危険な場所へ入れるのは反対よ。でも、書類を運んだり、お部屋を片づけたりするくらいなら、できることもあるんじゃないかしら」
「軍の書類には、扱いを制限されているものもある」
「それなら、触っていいものと駄目なものを教えればいいでしょう?」
ヴァルターは言葉に詰まった。
レイブンは母を見た。
「母さん……!」
セレナは微笑んだ。
「私は賛成よ。ただし、お父さんが許可してくれたらね」
ヴァルターは深く息を吐いた。
「……セレナ、簡単に言わないでくれ」
「あら、私は簡単だなんて言っていないわ」
妻は穏やかに答えた。
「でも、この子が何をしたいのか、もう少し聞いてあげてもいいと思うの」
ヴァルターはレイブンへ視線を戻した。
「……なぜ、手伝いたい?」
レイブンは少し考えた。
「父さん、いつもたくさん仕事をしてるから」
「それは私の仕事だ」
「うん。でも、学校の帰りに見てると、書類をいっぱい持ってたり、机の上に資料が積まれてたりするでしょ」
ヴァルターは黙っていた。
「父さんは左手だけで何でもやろうとするけど、時々、大変そうに見えるんだ」
その言葉に、ヴァルターの表情がわずかに変わった。
レイブンは続けた。
「僕、父さんの代わりに軍人になりたいって言ってるんじゃないよ。ただ、できることがあるなら手伝いたいんだ」
セレナは静かに息子を見つめていた。
「それに……」
レイブンは少し照れくさそうに笑った。
「父さんが、どうやってみんなに教えてるのか、もっと近くで見てみたい」
ヴァルターはしばらく答えなかった。
そして、静かに首を振った。
「……気持ちは嬉しい。だが、今は許可できない」
レイブンの猫耳が少し下がった。
「……そっか」
「お前の本分は学業だ。それを忘れるな」
「……分かった」
レイブンは小さく頷いた。
その夜、ヴァルターは寝室で軍服の上着を脱ぎながら、妻へ尋ねた。
「……本気で賛成なのか?」
セレナは夫の軍服を受け取り、衣装掛けへ掛けた。
「ええ」
「まだ十二歳だぞ」
「知っているわ。私が産んだ子ですもの」
ヴァルターは苦笑した。
「そういう意味ではなくてだな……」
「あなた」
セレナは夫の前へ立った。
「レイブンは、あなたが片腕だから手伝いたいと言っているだけじゃないと思うの」
ヴァルターは黙った。
「あなたのお仕事を尊敬しているのよ。だから、そばで学びたいんだと思う」
「……軍の仕事は、尊敬だけで務まるものではない」
「ええ。だからこそ、あなたが教えてあげればいいじゃない」
セレナは微笑んだ。
「ただし、危険なことをさせないのは当然よ」
ヴァルターは寝台へ腰を下ろした。
「……あいつは、昔から一度決めたらなかなか諦めない」
「誰に似たのかしらね」
「……私を見るな」
セレナは楽しそうに笑った。
帝政歴三三九年、四月十八日。
午後六時二十一分。
クロウ家別邸、居間。
「父さん、昨日の話なんだけど」
ヴァルターは新聞から顔を上げた。
「……またか」
「休日だけでいいんだ」
「昨日も言っただろう。駄目だ」
「じゃあ、見学だけでも?」
「見学は今までどおり許可している」
「その時に、机を拭くくらいなら?」
「……レイブン」
「はい」
「話をすり替えるな」
レイブンは口を閉じた。
セレナは隣でお茶を飲みながら、笑いを堪えていた。
翌十九日。
「父さん、書類を運ぶのは?」
「軍の書類は勝手に触るな」
「じゃあ、何も書いてない紙なら?」
「……何がしたいんだ、お前は」
「手伝いたい」
「それは分かっている」
二十日。
「父さん、休日だけでいいから」
「駄目だ」
二十一日。
「父さん、僕、学校の宿題を全部終わらせたよ」
「それは立派だ」
「じゃあ、手伝いは?」
「別の話だ」
二十二日。
「父さん」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないよ!」
「顔を見れば分かる」
セレナはとうとう声を上げて笑ってしまった。
ルナまで兄の真似をして、父の前へ立つようになった。
「とうさん!」
「何だ、ルナ」
「おにいちゃん、おてつだい!」
「……お前までか」
「おてつだい!」
ヴァルターは額へ左手を当てた。
家庭内で自分の味方がいないことに、ようやく気づき始めていた。
帝政歴三三九年、四月二十四日。
午前十時十五分。
クロウ家別邸、書斎。
休日の朝、ヴァルターは自宅へ持ち帰った一般教育用の資料を整理していた。
軍の機密文書は含まれておらず、訓練生へ配布する予定の公開可能な教材と、教官自身が作成した講義原稿が中心だった。
机には書類が積み上がり、左手だけで紙束を押さえながら分類する作業は、思った以上に時間がかかっていた。
ヴァルターは一枚の資料を引き抜こうとした。
その拍子に、隣の紙束が崩れた。
「……しまった」
床へ数枚の紙が散らばった。
ヴァルターは椅子から立ち上がり、拾おうと身を屈めた。
その時、扉が叩かれた。
「父さん、入っていい?」
「……ああ」
レイブンが顔を覗かせた。
「何してるの?」
「資料の整理だ」
少年は床へ目を向けた。
「あ、落ちてる」
「大丈夫だ。自分で拾える」
ヴァルターが答えるより早く、レイブンはしゃがみ込んでいた。
紙の端を揃え、机の上へ置く。
「はい」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
レイブンは机に積まれた資料を見た。
「これ、全部父さんが作ったの?」
「一部はな」
「すごい量だね」
「教育課程が増えているからな」
レイブンは少し考えた。
「……父さん」
ヴァルターは嫌な予感がした。
「何だ」
「休日だけでいいから、手伝わせて」
「……またその話か」
「うん」
レイブンは真剣な顔で頷いた。
「僕、ちゃんと考えたんだ」
ヴァルターは息子を見た。
「何を?」
「学校の勉強を休んでまで手伝うのは駄目だと思う。でも、休日に宿題を終わらせてからなら、時間がある」
「……それで?」
「軍の秘密の書類には触らない。危ない場所にも入らない。父さんが駄目って言ったことはしない」
レイブンは指を折りながら続けた。
「紙を揃えたり、教室を片づけたり、教材を並べたりするだけでもいい」
ヴァルターは黙って聞いていた。
「それに、分からないことがあったら勝手にやらずに聞く」
少年は父をまっすぐ見つめた。
「……だから、お願い」
ヴァルターは椅子へ腰を下ろした。
書斎の時計が静かに時を刻んでいる。
そこへ、開いた扉からセレナが顔を覗かせた。
「あら、二人ともここにいたのね」
「母さん!」
レイブンが振り返った。
「またお願いしてたの?」
「うん」
セレナは夫を見た。
「あなた、どうするの?」
「……どうするも何も」
ヴァルターは困ったように答えた。
「軍の施設で子供に仕事をさせるわけには……」
「それなら、教育学校の責任者に相談してみたら?」
「ラインハルト閣下に?」
「ええ。許可されなければ、家でできることだけにすればいいでしょう」
ヴァルターは口を閉じた。
確かに、学校の正式な許可を得ずに息子を業務へ関わらせることはできない。
だが、許可された範囲で教材の整理や教室の片づけを体験させることなら、教育的な意味もあるかもしれなかった。
それでも、簡単に認める気にはなれなかった。
「……レイブン」
「はい!」
「お前は、なぜそこまで私の仕事を手伝いたい?」
少年は少し考えた。
そして、以前よりも落ち着いた声で答えた。
「父さんが、毎日頑張ってるから」
ヴァルターは息子を見た。
「父さんは、僕が小さい頃からずっと、いろんなことを教えてくれた。学校の勉強も、日記の書き方も、間違えた時にどうすればいいかも」
レイブンは続けた。
「だから、今度は僕が父さんの役に立ちたい」
セレナは何も言わずに聞いていた。
「それに、父さんが軍人さんたちに教えてるところを見るのが好きなんだ」
「……そうか」
「父さんみたいに、誰かを助けられる人になりたい」
ヴァルターは、しばらく言葉を失った。
目の前にいる少年は、かつて自分が抱き上げていた小さな子供ではなくなりつつあった。
もちろん、まだ十二歳だ。
軍の責任も、戦場の現実も、すべて理解できているわけではない。
それでも、自分の意思で何かを学ぼうとしている。
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……分かった」
レイブンの猫耳が立った。
「えっ?」
「そこまで言うなら、条件付きで認めよう」
「本当!?」
ヴァルターは左手を上げた。
「ただし! 休日の間だけだ、それ以外は学業を優先しろ。わかったな?」
その声は、講義室で訓練生へ指示を出す時のように厳しかった。
レイブンは背筋を伸ばした。
「はい! 分かりました!」
「まだ話は終わっていない」
「はい!」
「教育学校での手伝いは、ラインハルト閣下の許可が出た場合に限る。許可されなければ、自宅での教材整理だけだ」
「うん!」
「軍の機密文書には触れない。訓練区域へ勝手に入らない。武器や車両、その他の装備にも、許可なく触れない」
「分かった!」
「そして、学校の成績が落ちたり、体調を崩したりした場合は、手伝いを中止する」
「はい!」
ヴァルターは息子の顔を見つめた。
「……本当に分かっているな?」
レイブンは力強く頷いた。
「もちろん!」
その瞬間、セレナが嬉しそうに手を合わせた。
「よかったわね、レイブン」
「うん! ありがとう、母さん!」
レイブンは母へ抱きついた。
セレナは笑いながら息子を抱き締めた。
ヴァルターはその光景を眺め、苦笑した。
「……まったく。誰に似たんだか」
セレナは夫を見た。
「あなたよ」
「即答するな」
「だって、本当でしょう?」
レイブンは二人のやり取りを見て笑った。
その時、廊下から小さな足音が聞こえた。
「おにいちゃん!」
ルナが書斎へ飛び込んできた。
「おてつだい、できるの?」
「うん! 父さんが許してくれた!」
「やったあ!」
ルナは両手を上げた。
そして、ヴァルターを見た。
「とうさん! ルナも!」
ヴァルターの表情が固まった。
「……何?」
「ルナも、おてつだい!」
セレナが口元を押さえた。
レイブンは笑い始めた。
ヴァルターは天井を見上げた。
「……勘弁してくれ」
ルナは不思議そうに首を傾げた。
「だめ?」
ヴァルターは娘の白い猫耳を見つめた。
そして、深く息を吐いた。
「……お前はまず、自分の部屋を片づけるところからだ」
「はあい!」
ルナは元気よく答えた。
しかし、その直後に兄へ小声で尋ねた。
「おにいちゃん、へやのおかたづけ、てつだって?」
「……それは自分でやらないと」
「ええーっ」
書斎に笑い声が広がった。
帝政歴三三九年、四月二十六日。
午前九時十三分。
帝国陸軍中央教育学校、学校長執務室。
アウグスト・ラインハルト少将は、ヴァルターの説明を聞き終えると、しばらく黙っていた。
そして、机の向こうから問いかけた。
「……つまり、君の息子が休日に教材整理を手伝いたいと?」
「はい」
「十二歳だったな」
「はい。今年の十一月で十三歳になります」
ラインハルトは椅子へ深く腰を下ろした。
「なるほど」
ヴァルターは続けた。
「もちろん、機密文書や軍用装備には触れさせません。許可された教室と事務区域のみで、私の監督下に置きます」
「学業への影響は?」
「本人にも、学業優先を厳命しています」
ラインハルトは少し笑った。
「……君がそこまで条件を付けるとはな」
「私としては、まだ早いと思っております」
「それでも相談に来た」
ヴァルターは少し困った顔をした。
「……息子が、毎日のように頼んでくるものですから」
ラインハルトは声を上げて笑った。
「ははは! それは大変だったな」
「笑い事ではありません、閣下」
「いや、すまん」
少将は咳払いをした。
「だが、君の息子が自分から学ぼうとしているのは、悪いことではない」
ヴァルターは頷いた。
「はい」
「正式な軍務や労務として扱うことはできん。しかし、保護者同伴の教育見学と、その範囲での簡単な体験活動なら検討できる」
ラインハルトは書類を取り出した。
「施設管理担当と警備責任者の確認を取ろう。安全上の条件を満たせば、休日に限って許可する」
ヴァルターは姿勢を正した。
「ありがとうございます」
「ただし、クロウ少佐」
「はい」
「息子に軍人の仕事を見せるなら、立派な部分だけを見せるな」
ヴァルターは少将を見た。
「……と、おっしゃいますと?」
「軍人の仕事には、地味で退屈なものも多い。書類の整理、物資の確認、設備の点検、清掃、教育の準備。そうした仕事があって初めて、部隊は動ける」
ラインハルトは静かに続けた。
「それを教えてやりなさい」
ヴァルターは深く頷いた。
「承知しました」
帝政歴三三九年、五月一日。
午前八時四十六分。
帝国陸軍中央教育学校、第一講義棟。
レイブンは、父の隣を歩いていた。
今日は学校が休みだった。
普段の制服ではなく、動きやすい長袖の服と丈夫な靴を身につけている。胸元には、施設側から交付された来訪者用の許可証が下げられていた。
ヴァルターは息子を見下ろした。
「レイブン、約束を覚えているか?」
「うん。休日だけ。学校の勉強が最優先。勝手に軍の書類や装備に触らない。危ない場所へ行かない」
「よし」
「それと、分からないことがあったら父さんに聞く」
「その通りだ」
ヴァルターは頷いた。
「では、最初の仕事だ」
レイブンは目を輝かせた。
「何をするの?」
ヴァルターは教室の扉を開けた。
室内には、長机と椅子が整然と並んでいる。
教壇の横には、翌週の講義で使用する教材が置かれていた。
「まずは、机と椅子の配置を確認する」
「……机と椅子?」
「ああ」
ヴァルターは平然と答えた。
「講義を受ける者が、全員きちんと座れるようにな」
レイブンは少し拍子抜けした。
「……それが最初のお仕事?」
「そうだ」
ヴァルターは微笑んだ。
「何か不満か?」
「ううん!」
レイブンは首を振った。
「やる!」
少年は早速、机の列を確認し始めた。
少し曲がっている椅子を直し、机の間隔を揃える。
ヴァルターはその様子を見守っていた。
しばらくすると、レイブンが声を上げた。
「父さん!」
「何だ?」
「こっちの机、脚が少しぐらぐらする」
ヴァルターは歩み寄った。
左手で机を軽く押すと、確かに一方の脚が不安定だった。
「……よく気づいたな」
「直した方がいい?」
「ああ。ただし、修理は施設管理担当の仕事だ。私たちは報告しよう」
レイブンは頷いた。
「分かった」
ヴァルターは教室の備品点検表を取り出した。
「では、ここへ記録する」
レイブンは父が書き込む様子を見つめた。
「……小さなことでも、ちゃんと書くんだね」
「そうだ」
ヴァルターは答えた。
「小さな不具合を放置すると、後で誰かが怪我をすることもある」
レイブンは机を見た。
「……なるほど」
その後、二人は一般配布用の教材を並べ、教室の黒板を拭き、使用する筆記具の数を確認した。
レイブンは、父が思っていた以上に真面目に取り組んでいた。
分からないことがあれば尋ね、許可されていないものには触れず、作業を終えるたびに報告してくる。
午前十時二十七分。
講義棟の廊下。
フォーゲル曹長が、教材の入った箱を運んでいた。
その姿を見つけたレイブンが声を掛けた。
「フォーゲル曹長!」
「おや、レイブン君」
フォーゲルは少年の許可証を見た。
「今日は正式にお手伝いかい?」
「はい!」
「それは頼もしい」
レイブンは箱を見た。
「それ、重いですか?」
「少しな」
「僕、運びましょうか?」
フォーゲルは笑った。
「ありがとう。でも、これは私が運ぶよ」
レイブンは少し残念そうにした。
すると、フォーゲルは箱の上から薄い教材の束を取り出した。
「こちらなら、クロウ教官の許可をもらってからお願いしようかな」
ヴァルターが頷いた。
「一般配布用の教材ですね?」
「ああ。次の講義で使うものだ」
「なら、構いません」
レイブンは嬉しそうに教材を受け取った。
「ありがとうございます!」
フォーゲルは笑った。
「こちらこそ助かるよ」
ヴァルターは息子へ声を掛けた。
「レイブン、重くないか?」
「大丈夫!」
「無理はするなよ」
「うん!」
少年は教材を抱え、父と共に教室へ戻った。
午前十一時五十三分。
中央教育学校、教官休憩室。
レイブンは父の隣で昼食を取っていた。
今日は食堂から運ばれてきた温かいスープとパンだった。
「どうだ、初めての手伝いは」
ヴァルターが尋ねた。
レイブンは少し考えた。
「……思ってたより、地味だった」
ヴァルターは笑った。
「そうだろうな」
「でも、面白かった」
「ほう?」
「机が壊れてるのも、教材が足りないのも、ちゃんと確認しないと分からないでしょ?」
「そうだ」
「父さんが前に言ってた、確認することが大切って、こういうことなんだね」
ヴァルターは静かに頷いた。
「ああ」
レイブンはパンを一口食べた。
「それに、父さんが毎日どんな準備をしてるのか、少し分かった気がする」
ヴァルターは息子を見つめた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……それなら、今日の経験には意味があったな」
レイブンは嬉しそうに頷いた。
その時、休憩室の扉が開いた。
「失礼します」
エーリヒ・ベルクマン中尉が顔を覗かせた。
「おや、レイブン君」
「こんにちは!」
エーリヒは少年の許可証を見た。
「本当に手伝いを始めたんだね」
「はい!」
「どうだった?」
「机を並べたり、教材を運んだりしました」
エーリヒは笑った。
「それは立派な仕事だ」
レイブンは少し照れくさそうにした。
「……ありがとうございます」
エーリヒはヴァルターへ目を向けた。
「教官、少しよろしいでしょうか」
「何だ?」
「次回の講義資料について、確認したいことがあります」
ヴァルターは頷いた。
「分かった。食事が終わってから教官室へ来てくれ」
「了解しました」
エーリヒは敬礼して退出した。
レイブンは父を見た。
「父さん」
「何だ?」
「ベルクマン中尉も、昔は父さんに教えてもらってたんだよね」
「ああ」
「今も?」
「学ぶことは、階級が上がっても終わらないからな」
レイブンは少し考えた。
「……じゃあ、父さんもまだ勉強してるの?」
ヴァルターは笑った。
「もちろんだ」
「えっ、父さんも?」
「当たり前だろう」
ヴァルターは息子の頭を左手で軽く撫でた。
「知らないことなんて、いくらでもある」
レイブンは目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑った。
「……そっか」
午後二時十六分。
クロウ家別邸。
手伝いを終えたレイブンは、父と共に帰宅した。
玄関ではセレナとルナが待っていた。
「お帰りなさい、二人とも」
「ただいま!」
レイブンは元気よく答えた。
ルナが駆け寄ってきた。
「おにいちゃん! どうだった?」
「楽しかったよ」
「なにしたの?」
「机を並べたり、教材を運んだりしたんだ」
ルナは少し考えた。
「……つくえ?」
「うん」
「おにいちゃん、ぐんじんさんになったの?」
レイブンは笑った。
「違うよ。お手伝いしただけ」
ルナは少し残念そうにした。
「……そっか」
セレナは微笑んだ。
「でも、立派にお手伝いできたのね」
「うん!」
ヴァルターが頷いた。
「約束も守っていた。よくやっていたよ」
レイブンの猫耳が嬉しそうに立った。
「本当?」
「ああ」
ヴァルターは微笑んだ。
「ただし、次の休日も手伝うなら、学校の宿題を終わらせてからだ」
「もちろん!」
レイブンは力強く答えた。
セレナは夫を見た。
「あなた、最初はあんなに反対していたのに」
「……今でも条件付きだ」
「ふふ、分かっているわ」
ルナが父の左手を握った。
「とうさん、ルナも!」
ヴァルターは娘を見下ろした。
「……部屋の片づけは終わったのか?」
ルナはぴたりと動きを止めた。
「……まだ」
「なら、まずはそこからだ」
「はあい……」
レイブンは笑いながら妹の頭を撫でた。
「ルナ、あとで一緒に片づけようか」
ルナは顔を上げた。
「ほんと?」
「うん」
「やったあ!」
セレナは二人を見つめ、穏やかに微笑んだ。
その日の夕方、レイブンは自室の机に向かっていた。
学校の宿題を終えると、いつもの日記帳を開く。
そして、今日の出来事を書き始めた。
『今日は、初めて父さんの仕事を手伝った。
ずっとお願いして、やっと許してもらえた。
父さんは、休日だけで、学校の勉強を優先することを約束させた。
僕はちゃんと守ろうと思う。
今日の仕事は、机を並べたり、教材を運んだりすることだった。
最初はもっと難しいことをするのかと思っていたけど、父さんは小さなことをちゃんと確認するのが大切だって教えてくれた。
壊れた机を見つけた時、父さんが褒めてくれた。
嬉しかった。
ベルクマン中尉とも話した。
父さんは、軍人になってからも勉強は続くって言っていた。
僕も、もっといろんなことを知りたい。
いつか父さんみたいに、誰かを助けられる人になりたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
窓の外では、春の夕日が庭園を照らしていた。
少年は机の上に置かれた黒鴉の徽章を手に取った。
祖父アルベルトから贈られたそれは、今も大切に保管されている。
レイブンは徽章を見つめ、静かに微笑んだ。
「……来週も頑張ろう」
その頃、居間ではヴァルターとセレナが、今日の出来事について話していた。
「……どうだったの?」
セレナが尋ねた。
ヴァルターは少し考えた。
「思っていたよりも、真面目だった」
「あら、最初からそう言っていたでしょう?」
「……ああ」
ヴァルターは苦笑した。
「ただ、まだ子供だ。軍の仕事を軽く考えさせるわけにはいかん」
「ええ。それは私も同じよ」
セレナは夫の隣へ座った。
「でも、あの子があなたを尊敬しているのは、本当でしょう?」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……そうだな」
セレナは微笑んだ。
「それなら、少しずつ教えてあげればいいと思うの」
ヴァルターは窓の外を見た。
庭園では、レイブンとルナが片づけを終えた後、短い時間だけ遊んでいた。
兄が妹の手を引き、転ばないように歩いている。
ヴァルターはその姿を見つめた。
「……あいつも、大きくなったな」
「ええ」
セレナは静かに答えた。
「もう十二歳ですもの」
ヴァルターは左手で珈琲のカップを持ち上げた。
そして、少しだけ笑った。
「……まったく。父親の仕事を手伝いたいだなんて、誰に似たんだか」
セレナは夫の肩へそっと寄り添った。
「だから、あなたよ」
ヴァルターは何も言わず、苦笑した。
帝政歴三三九年、五月一日。
レイブン・S・クロウ、十二歳。
彼はこの日、初めて父の仕事を手伝った。
それは戦場へ向かうことでも、武器を手にすることでもなかった。
教室の机を整え、教材を並べ、壊れた備品を報告する。
ただ、それだけの一日だった。
しかし、少年にとっては、自分が憧れる父の世界へ初めて一歩を踏み入れた、大切な日となった。
そしてヴァルターは、息子が自分の背中を追いかけ始めていることを、少しずつ実感していた。
その背中の先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、レイブンが自分の意思で、新しい一歩を踏み出したということだった。




