第30話 沈黙の国境線
第30話 沈黙の国境線
帝政歴三三五年、十二月十七日。
帝国北部、ガーランド山系東部。
午前四時五十八分。
夜明け前の山岳地帯に、低く唸る風が吹き抜けていた。
第四山岳警備大隊の臨時集結地では、発電機の排気が白く立ち上り、夜勤を終えた兵士たちが交代のために宿営棟へ戻っていた。道路の両側には除雪によって積み上げられた雪が残り、凍結した地面を歩く軍靴の音が、まだ暗い敷地に響いている。
ディートリヒ・ファルケ曹長は、指揮所の机に置かれた報告書を読み返していた。
旧林業小屋で回収された金属片と布片。
雪原に残された複数の足跡。
冬季閉鎖された林道を通過した車両。
そして、撤収中の帝国軍部隊へ向けられた散発的な発砲。
それぞれの出来事が同じ人物たちによるものかどうかは、まだ確認できていない。
だが、少なくともガーランド山系の東部で、何者かが継続的に活動している可能性は高まっていた。
「……何度読んでも、分からんものは分からんな」
ファルケが呟くと、隣で書類を整理していたヴォルター・クライン軍曹が顔を上げた。
「珍しいな。お前がそんなに真面目に報告書を読むなんて」
「失礼な奴だ。俺だって字くらい読める」
「読めることと、読むことは別だろ」
「お前、最近俺に対して遠慮がなくなったな」
ヴォルターは笑った。
「昔からだ」
ファルケは鼻を鳴らし、書類を机へ戻した。
「……で、分析結果は?」
「今朝、北部方面軍から届く予定だ」
「ようやくか」
「ああ。ただし、期待しすぎるなよ」
「分かってる」
ファルケは窓の外を見た。
東の空は、まだ暗かった。
山岳地帯では、敵の姿が見えない時間ほど神経を使う。
発砲を受けた時には、少なくとも何かが起きていると分かる。
しかし、静かな夜には、何も起きていないのか、それとも何かが起きる前なのか、判断できない。
ファルケはそれを、長い軍歴の中で何度も経験していた。
午前六時二十二分。
帝国北部方面軍、ガーランド地区司令部。
技術分析部門から送られた報告書が、作戦担当将校たちの前に置かれていた。
カール・シュタイン大尉は、回収物の写真を机へ並べた。
「旧林業小屋で回収した金属片について、分析結果が出ました」
地区司令部の作戦主任、オットー・ヴェルナー大佐が頷いた。
「説明してくれ」
「金属片は、車両の外装または補助装備に使用される固定部品の一部と考えられます。表面の刻印は製造番号の一部と思われますが、製造元の特定には至っていません」
「軍用車両か?」
「断定できません。民間車両にも類似の部品が使用されています」
シュタインは次の写真を示した。
「布片については、耐水性の高い厚手の繊維が使用されていました。車両用の覆い、装備袋、防寒資材など、複数の用途が考えられます」
ヴェルナーは腕を組んだ。
「共和国軍の装備と一致するものは?」
「現時点では確認できていません」
会議室が静かになった。
別の将校が口を開いた。
「では、共和国軍とは無関係ということか?」
シュタインは首を振った。
「無関係とも断定できません。現在の証拠からは、所属を特定できないということです」
ヴェルナーは頷いた。
「……慎重に扱う必要があるな」
彼は地図へ目を向けた。
帝国と連邦共和国の国境線は、ガーランド山系の東側を複雑に走っている。
山岳地帯には古い交易路や林道が点在し、季節によって通行可能な経路も変わる。
国境警備の部隊にとって、すべての場所を常時監視することは不可能だった。
「現在の外交状況を考えれば、誤認による交戦は避けたい」
ヴェルナーは静かに言った。
「だが、部隊の安全も確保しなければならん」
シュタインは頷いた。
「そのためにも、証拠の記録と情報の照合を継続すべきです」
「そうだな」
ヴェルナーは作戦担当将校へ向き直った。
「第四山岳警備大隊へ通達する。警戒は継続。ただし、所属不明の人物や車両を発見しても、確認できない段階で敵軍と断定するな」
「了解しました」
命令が記録され、通信担当者へ渡された。
午前七時十四分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
食堂の窓からは、冬の柔らかな朝日が差し込んでいた。
レイブン・S・クロウは、朝食のパンを食べながら、父の手元にある新聞を眺めていた。
「父さん」
「何だ?」
「また北の山のこと?」
ヴァルター・A・クロウは新聞から顔を上げた。
「ああ。今日は、北部の道路と鉄道の状況が載っている」
「雪が多いから?」
「そうだ。山の中では、雪が降ると物を運ぶのが難しくなる」
レイブンは少し考えた。
「じゃあ、食べ物も届かなくなるの?」
「場合によってはな。だから、冬が来る前に必要な物資を蓄えておくんだ」
「どれくらい?」
「場所や人数によって違う。食料だけでなく、燃料や医薬品も必要だ」
レイブンは頷いた。
「……雪って、遊ぶ時は楽しいけど、大変なこともあるんだね」
ヴァルターは微笑んだ。
「そうだな」
向かいの席では、ルナが温かいミルクを飲んでいた。
白い猫耳が小さく揺れる。
「……ゆき、すき」
レイブンは笑った。
「僕も好きだよ」
ルナは嬉しそうに頷いた。
セレナが二人を見つめた。
「でも、今日は外で遊ぶなら暖かくしてね」
「はーい!」
レイブンとルナは声を揃えた。
ヴァルターはその様子を見て、静かに微笑んだ。
午前九時二十六分。
帝国陸軍中央教育学校。
第三教室では、ヴァルターが講義の準備を進めていた。
黒板には、山岳地帯の簡略地図が描かれている。
訓練生三十二名は、それぞれの席で資料を開いていた。
「本日の課題は、国境付近で所属不明の人物や車両を確認した場合の判断だ」
ヴァルターは教室を見渡した。
「諸君は、国境警備部隊の指揮官だ。冬季閉鎖された林道に車両の轍が残されている。しかし、車両の所属は不明だ」
彼は黒板へ文字を書いた。
『確認されている事実』
「まず、分かっていることを挙げてみろ」
一人の少尉が手を挙げた。
「車両が通過した可能性があります」
「そうだ」
「ただし、いつ通過したかは不明です」
「その通り」
別の訓練生が答えた。
「車両の所属、目的、乗員数も不明です」
ヴァルターは頷いた。
「では、この段階で共和国軍の活動と断定できるか?」
訓練生たちは首を振った。
「できません」
「そうだ」
ヴァルターは黒板へ二つ目の言葉を書いた。
『推測と断定を混同しない』
「国境付近では、誤った判断が大きな問題を引き起こすことがある」
彼は静かに続けた。
「一人の指揮官が、根拠のない思い込みで行動すれば、無関係な民間人を危険に晒すかもしれない。あるいは、国家間の緊張を高めることにもつながる」
教室は静まり返っていた。
「だからこそ、正確な情報と慎重な判断が必要になる」
エーリヒ・ベルクマン少尉が手を挙げた。
「教官、もし相手から発砲された場合は?」
ヴァルターは頷いた。
「自分たちの安全を確保する必要がある。ただし、発砲されたという事実と、相手の所属は別の問題だ」
「……なるほど」
「武装集団、犯罪組織、越境した民間人、正規軍。可能性はいくつもある。確認できないものを、都合よく一つに決めるな」
エーリヒは深く頷いた。
「了解しました」
ヴァルターは黒板へ向き直った。
「そして、忘れてはならないことがある」
彼は三つ目の言葉を書いた。
『任務と責任』
「国境警備の任務は、戦闘を起こすことではない。国境と人々の安全を守ることだ」
訓練生たちは、その言葉をノートへ書き込んだ。
午前十一時三十八分。
ガーランド山系東部、第四山岳警備大隊指揮所。
ハーゲン中佐は、北部方面軍から届いた分析結果を確認していた。
ファルケ曹長とヴォルター軍曹が、その前に立っている。
「……金属片も布片も、所属の特定には至らなかった」
ハーゲンは書類を机へ置いた。
「ただし、車両が通過した可能性は残る」
ファルケは頷いた。
「了解しました」
「今後は、周辺の監視を継続する。ただし、無理な追跡は避ける」
「承知しました」
ヴォルターが質問した。
「監視所の撤収計画に変更はありますか?」
「現時点ではない。残る前進監視所についても、予定どおり段階的に縮小する」
ハーゲンは地図を指差した。
「ただし、撤収経路の安全確認を徹底する。天候が悪化した場合は、無理に予定を守ろうとするな」
ファルケは頷いた。
「了解しました」
ハーゲンは二人を見た。
「……君たちの部隊は、ここ数日よく働いてくれた」
ファルケは少し驚いた。
「ありがとうございます」
「だが、疲労が蓄積している。交代要員を手配した」
ヴォルターが顔を上げた。
「交代ですか?」
「ああ。数日以内に、別の中隊が一部任務を引き継ぐ」
ファルケは少し考えた。
「……我々は後方へ?」
「そうだ。少なくとも、しばらくは休養と整備に専念してもらう」
ファルケは頷いた。
「承知しました」
ハーゲンは静かに言った。
「部隊を長く使うには、休ませることも必要だ」
ファルケは少し笑った。
「……クロウ少佐みたいなことをおっしゃいますね」
ハーゲンは眉を上げた。
「何?」
「いえ、失礼しました」
ヴォルターは横で笑いを堪えていた。
ハーゲンは小さく息を吐いた。
「……君たちは本当に、あの男の影響が強いな」
ファルケは答えた。
「命を拾いましたから」
ハーゲンは黙った。
そして、静かに頷いた。
「……そうか」
午後二時四十一分。
帝国中央部、陸軍中央教育学校。
講義終了後、ヴァルターは教官控室で書類を整理していた。
その時、ラインハルト少将が入室した。
「クロウ少佐」
「閣下」
「少し話がある」
ヴァルターは立ち上がった。
「何でしょうか」
ラインハルトは椅子を勧めた。
「北部方面軍の状況についてだ」
ヴァルターは静かに頷いた。
「……はい」
「ガーランド山系での調査は、現時点では決定的な証拠を得られていない」
「承知しています」
「ただし、周辺の緊張は続いている」
ラインハルトは書類を机へ置いた。
「君の経験を、教育課程だけでなく、北部方面軍の資料作成にも活用したいという要望が出ている」
ヴァルターは少し驚いた。
「……私の経験を、ですか」
「ああ。現地の地形、冬季の行動、撤収判断、部隊の疲労管理。君が知っていることは多い」
ヴァルターは少し考えた。
「現地へ戻るということでしょうか」
「いや。現時点では、資料作成と助言が中心だ」
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……それなら、お引き受けできます」
ラインハルトは頷いた。
「助かる」
ヴァルターは少し間を置いた。
「ただし、一つお願いがあります」
「何だ?」
「現地の部隊が必要としている情報を、優先させてください」
ラインハルトは彼を見た。
「どういう意味だ?」
「形式的な報告書を増やすだけでは、現場の負担になります。実際に役立つ資料を作りたいのです」
少将は少し笑った。
「君らしいな」
ヴァルターは静かに答えた。
「……現場の苦労を知っていますから」
ラインハルトは頷いた。
「分かった。その方針で進めよう」
午後五時五十四分。
帝国北部、ガーランド山系。
ファルケ曹長は、宿営棟の前で雪を払い落としていた。
ヴォルター軍曹が隣へ歩み寄った。
「……交代要員、明後日には到着するらしい」
「そうか」
「ようやく休めるな」
ファルケは少し考えた。
「……そうだな」
ヴォルターは彼を見た。
「何だ? 嬉しくないのか?」
「嬉しいさ」
ファルケは答えた。
「だが、まだ山に残ってる連中がいる」
「それはそうだ」
ヴォルターは頷いた。
「でも、俺たちが休まなきゃ、次に何かあった時に動けない」
ファルケは少し笑った。
「……お前までクロウ少佐みたいなことを言うな」
「お前がいつも言ってることだろ」
二人は笑った。
その時、遠くの山肌で小さな光が瞬いた。
ファルケは顔を上げた。
「……ん?」
ヴォルターも振り返った。
「どうした?」
「今、東側の尾根で光が見えた」
ヴォルターは双眼鏡を取り出した。
しかし、すでに光は消えていた。
「……何も見えないな」
ファルケはしばらく山を見つめた。
「……気のせいかもしれん」
「報告するか?」
「ああ。位置と時刻だけ記録しておこう」
ヴォルターは頷いた。
ファルケは再び山へ目を向けた。
白く染まった尾根の向こうには、夕暮れの影が広がっていた。
午後七時二十八分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
夕食を終えたレイブンは、居間で父の隣に座っていた。
ルナはセレナの膝の上で眠そうにしている。
ヴァルターは、机の上に広げた地図帳をレイブンへ見せていた。
「ここが、帝国の北部だ」
レイブンは地図を覗き込んだ。
「……ガーランドは?」
「この辺りだ」
ヴァルターは左手で山岳地帯を指差した。
「山が多いんだね」
「ああ。冬になると雪も多い」
レイブンは少し考えた。
「父さん、昔ここにいたんだよね」
「そうだ」
「怖かった?」
ヴァルターは少し黙った。
そして、静かに答えた。
「……怖いと思ったことは、何度もある」
レイブンは父を見た。
「父さんでも?」
「ああ」
ヴァルターは微笑んだ。
「怖いと思うことは、悪いことじゃない」
「……そうなの?」
「怖いからこそ、気をつけようと思えることもある」
レイブンは頷いた。
「……なるほど」
ヴァルターは地図帳を閉じた。
「ただし、怖さに負けて何も考えられなくなってはいけない」
レイブンは少し考えた。
「……父さんは、どうしてたの?」
ヴァルターは静かに答えた。
「仲間と話した。状況を確認した。そして、できることを一つずつ考えた」
レイブンは頷いた。
「……僕も、そうする」
ヴァルターは微笑んだ。
「それでいい」
午後九時四十九分。
帝国北部、ガーランド山系東部。
夜間警戒に就いていた兵士が、監視所の窓から東側の尾根を見つめていた。
雪は止み、雲の切れ間から月が覗いている。
その時、遠くの山肌で小さな光が瞬いた。
一度。
そして、少し間を置いて、もう一度。
兵士は双眼鏡を構えた。
「……何だ?」
光は、すぐに消えた。
兵士は無線機を取った。
「こちら東部監視班。東側尾根で不明な光を確認。位置を報告する」
通信担当者が応答した。
『了解。時刻と方位を記録せよ』
兵士は頷いた。
「了解」
その頃、東側の山林では、雪に覆われた古い道路を一台の車両が走っていた。
車内には複数の人影がある。
運転席の男が、低い声で言った。
「……帝国軍の監視が増えている」
後部座席の男が答えた。
「分かっている」
「このまま続けるのか?」
男はしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……命令が変わるまではな」
車両は暗い林道を進んでいった。
その後方には、新しい轍が残されていた。
午後十時三十六分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは日記帳を開いていた。
『今日は、父さんと地図を見た。
帝国の北には、山がたくさんある。
父さんが昔いたガーランドという場所も、その中にあった。
父さんは、怖いと思ったことが何度もあるって言っていた。
僕は少し驚いた。
父さんは、怖いものがないと思っていたから。
でも、父さんは怖いと思うことは悪いことじゃないって言っていた。
怖い時こそ、仲間と話して、状況を確認して、できることを考えるんだって。
僕も、そうできるようになりたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
窓の外には、冬の星空が広がっていた。
少年は黒鴉の徽章を手に取り、しばらく見つめた。
その頃、帝国北部では、正体不明の光について新たな報告が届いていた。
雪原に残された足跡。
冬季閉鎖された林道の轍。
回収された金属片と布片。
そして、夜間に確認された不明な光。
帝国軍は、依然として相手の正体を特定できていなかった。
しかし、ガーランド山系の静けさは、少しずつ変わり始めていた。
戦争は、まだ始まっていない。
だが、国境付近では、互いの姿が見えないまま警戒を続ける者たちがいた。
帝政歴三三五年、十二月十七日。
沈黙の国境線には、誰も知らない緊張が積み重なっていた。




