第29話 凍てつく山道の証言
第29話 凍てつく山道の証言
帝政歴三三五年、十二月十四日。
帝国北部、ガーランド山系東部。
午前五時三十一分。
夜明け前の山岳地帯に、除雪車のエンジン音が響いていた。
前夜の降雪は比較的少なかったものの、谷から吹き上げる風が道路へ雪を運び、昨日まで通行できていた場所にも新しい吹き溜まりを作っている。道路脇の樹木には氷柱が垂れ下がり、山の斜面を覆う針葉樹林は、まだ深い闇の中に沈んでいた。
帝国陸軍第四山岳警備大隊の臨時集結地では、調査班の出発準備が進められていた。
旧林業小屋周辺で確認された車両の轍と不明な金属片について、北部方面軍司令部が正式な調査を命じたのである。
ただし、任務はあくまで証拠の確認と周辺状況の記録だった。
国境付近で緊張が続く現在、相手の正体を確かめるために無用な衝突を起こすことは、帝国軍としても避けなければならない。
ディートリヒ・ファルケ曹長は、指揮所の机に広げられた地図を眺めていた。
「……調査班の責任者は?」
隣にいたヴォルター・クライン軍曹が書類を確認した。
「北部方面軍憲兵調査隊から派遣された、カール・シュタイン大尉だ」
「憲兵か」
「それに工兵の技術調査員が二名、通信担当が一名。現地案内として、うちの兵士も同行する」
ファルケは頷いた。
「専門家が来るなら、俺たちが余計なことをする必要はねえな」
「そのつもりでいてくれよ」
ヴォルターは苦笑した。
「お前、気になるものがあると自分で見に行こうとするだろ」
「誰の話だ?」
「お前の話だ」
ファルケは顔をしかめた。
「……年寄り扱いするなよ」
「曹長、もう十分古参兵だろ」
「まだ現役だ」
二人が軽口を交わしていると、指揮所の扉が開いた。
濃灰色の軍服を着た将校が入ってきた。
四十歳前後。
短く刈り込まれた茶髪に、鋭い灰色の目。
左胸には憲兵部隊の徽章が付いていた。
「カール・シュタイン大尉だ」
将校は敬礼した。
「本日の調査を担当する。現地の状況について説明を受けたい」
ファルケとヴォルターは答礼した。
「第四山岳警備大隊、ディートリヒ・ファルケ曹長です」
「同じく、ヴォルター・クライン軍曹です」
シュタインは頷いた。
「よろしく頼む」
彼は地図へ目を落とした。
「旧林業小屋までの道路状況は?」
ファルケが答えた。
「主道路は除雪済みですが、途中から徒歩移動になります。積雪が深く、車両は小屋の手前までしか入れません」
「周辺で武装集団の活動は?」
「ここ数日は発砲の報告はありません。ただし、所属不明の足跡や車両の痕跡が確認されています」
シュタインは頷いた。
「了解した。現場では、証拠の保全を優先する」
ファルケは少し考えた。
「大尉、一つよろしいでしょうか」
「何だ?」
「現場で不審なものを発見した場合、我々はどう対応すれば?」
「触れずに位置を記録し、調査員へ報告してくれ。危険物の可能性もある」
「了解しました」
シュタインは地図を閉じた。
「では、出発準備を進めよう」
午前七時四十六分。
ガーランド山系、旧林業小屋へ続く林道。
調査班を乗せた車両は、除雪された山岳道路をゆっくり進んでいた。
先頭には装甲車。
後方には調査員を乗せた輸送車が続く。
道路の両側には雪の壁ができており、車両が通過するたびに細かな雪が舞い上がった。
ファルケは先頭車両の車内から周囲を見渡した。
ヴォルターが無線機を操作している。
「調査班、こちら先導車。まもなく車両通行可能地点の終端に到着する」
『了解。停止後、徒歩で移動する』
ファルケは窓の外へ目を向けた。
雪に覆われた木々の間から、古い林道の入口が見えてきた。
「……懐かしい道だな」
ヴォルターが振り返った。
「ここへ来たことがあるのか?」
「ああ。昔、クロウ少佐と一緒に通った」
「またガーランドの話か」
「ここがガーランドなんだから仕方ねえだろ」
ファルケは笑った。
「……あの頃は、まだ道がもう少しましだった」
ヴォルターは窓の外を見た。
「今は、雪でどこが道かも分からんな」
「だからこそ、無理に進むなってことだ」
車両は林道の入口で停止した。
兵士たちは装備を確認し、調査班と共に徒歩で移動を始めた。
午前九時二十八分。
旧林業小屋。
建物は雪に半ば埋もれていた。
木製の壁は長年の風雪で傷み、屋根の端には大きな氷柱が垂れ下がっている。
調査班は小屋の周辺を確認し、先日の巡察班が撮影した場所へ向かった。
シュタイン大尉は、工兵調査員へ声を掛けた。
「写真と位置を照合してくれ」
「了解しました」
調査員たちは測定器具を取り出し、積雪の状態を確認した。
ファルケは少し離れた場所で周囲を警戒していた。
ヴォルターが近づいてきた。
「……何か見つかったか?」
「まだだ」
ファルケは答えた。
「雪が増えてるからな。前の写真と同じ場所でも、見え方が違う」
しばらくすると、調査員の一人が声を上げた。
「大尉、確認しました!」
シュタインが歩み寄った。
「何だ?」
「先日撮影された金属片と思われます」
雪の中から、細長い金属片が姿を現していた。
調査員は周辺を確認し、安全性を評価した上で、慎重に回収した。
金属片は手のひらほどの大きさだった。
表面には擦り傷があり、一部が曲がっている。
そして、片側には小さな刻印が残っていた。
シュタインは拡大鏡で刻印を確認した。
「……数字か?」
調査員が答えた。
「一部は判読できます。ただし、全体は摩耗しています」
シュタインは頷いた。
「現場で無理に判断する必要はない。封印して持ち帰ろう」
調査員は金属片を証拠袋へ収めた。
その時、別の兵士が声を上げた。
「大尉! こちらにも痕跡があります!」
調査班が振り返った。
小屋の裏手から少し離れた場所に、雪の下から黒く変色した布の一部が覗いていた。
シュタインは慎重に近づいた。
「……布か?」
調査員が確認した。
「はい。厚手の繊維製品と思われます」
ファルケは少し眉を寄せた。
「……軍用装備か?」
シュタインは首を振った。
「まだ分からん」
彼は調査員へ指示した。
「位置を記録し、写真を撮影してから回収する」
調査員たちは作業を始めた。
布片は、雪と泥に汚れていた。
しかし、端の部分には縫製された補強が残っている。
ヴォルターが小声で呟いた。
「……何かの装備袋かもしれないな」
ファルケは頷いた。
「かもしれん」
シュタインは二人を見た。
「現時点では、車両の部品と布片が同じ人物や車両に由来するかどうかも分からない」
ファルケは答えた。
「承知しています」
シュタインは周囲を見渡した。
「調査を続ける。ただし、天候が悪化する前に撤収する」
午前十一時五十四分。
帝国中央部、陸軍中央教育学校。
ヴァルター・A・クロウは、講義室で訓練生たちの報告書を確認していた。
机の上には、前日の演習で提出された書類が積まれている。
エーリヒ・ベルクマン少尉は、教壇の前に立っていた。
「クロウ教官、報告書の記載について質問があります」
「何だ?」
「演習中に発見した不明な足跡について、我々は『敵偵察部隊のものと推定』と記載しました。しかし、教官から修正指示がありました」
ヴァルターは頷いた。
「ああ」
「その理由を、もう一度教えていただけますか」
ヴァルターは報告書を開いた。
「君たちは、足跡を見つけた。それは事実だ」
「はい」
「だが、誰が残したかは確認できていない」
「……はい」
「ならば、まずは『所属不明の足跡を確認』と書くべきだ」
エーリヒは頷いた。
「推測を書く場合は、根拠を明記するということですね」
「そうだ」
ヴァルターは続けた。
「敵だと思い込めば、無関係な民間人を敵と誤認する危険もある」
エーリヒは少し考えた。
「……父も、似たようなことを言っていました」
ヴァルターは顔を上げた。
「ベルクマン軍曹が?」
「はい。昔、ガーランドで勤務していた頃の話です」
エーリヒは少し笑った。
「父は、教官が何度も『確認しろ』と言っていたと話していました」
ヴァルターは苦笑した。
「……口うるさかっただろうな」
「父は、そう言っていました」
二人は小さく笑った。
ヴァルターは報告書を閉じた。
「少尉。君の父上は、よく周囲を見ていた兵士だった」
「ありがとうございます」
「だからこそ、今も生きている」
エーリヒは姿勢を正した。
「……はい」
ヴァルターは静かに頷いた。
午後一時三十六分。
ガーランド山系、旧林業小屋。
調査班は、予定していた現地確認を終えつつあった。
回収された金属片と布片は、それぞれ証拠袋に封印されている。
周辺の写真と測定記録も整理された。
シュタイン大尉は腕時計を確認した。
「撤収する」
調査員たちは頷いた。
ファルケは周囲を見渡した。
「全員、装備を確認しろ。忘れ物をするな」
兵士たちはそれぞれの装備を点検した。
その時、若い兵士が小屋の方を振り返った。
「……曹長」
「何だ?」
「ここで何があったんでしょうか」
ファルケは少し考えた。
「分からん」
「……何も分からないまま帰るんですか?」
「分からないことを調べるために来たんだ」
ファルケは答えた。
「今日分かったのは、ここに金属片と布片があったということだ。それ以上は、専門家が調べる」
兵士は頷いた。
「……了解しました」
ファルケは少し笑った。
「焦るな。分からんものを分かったことにする方が危ねえ」
兵士は姿勢を正した。
調査班は小屋を後にした。
雪の中に残された足跡は、彼らが歩いた証だった。
しかし、その下には、まだ多くの分からないことが残されていた。
午後四時二十二分。
帝国北部、第四山岳警備大隊指揮所。
調査班は無事に帰還した。
シュタイン大尉は、ハーゲン中佐へ現地調査の概要を報告していた。
「金属片と布片を回収しました。現時点では、所属や用途を特定できていません」
ハーゲンは頷いた。
「分析にはどれくらいかかる?」
「北部方面軍の技術分析部門へ送付します。結果が出るまで、数日からそれ以上かかる可能性があります」
「分かった」
シュタインは続けた。
「現場には車両の通行痕跡があったと考えられますが、積雪の影響で詳細な判定は困難です」
ハーゲンは地図へ目を向けた。
「……共和国側の活動という証拠は?」
「現時点ではありません」
シュタインは明確に答えた。
「その可能性を排除することもできませんが、断定する根拠は確認されていません」
ハーゲンは静かに頷いた。
「了解した」
報告が終わると、シュタインは敬礼して退出した。
指揮所には、ハーゲンとファルケ、ヴォルターが残った。
ハーゲンは椅子へ深く腰を下ろした。
「……妙な状況だな」
ファルケは答えた。
「はい」
「発砲、足跡、車両の轍。そして今回の回収物」
ハーゲンは書類を見つめた。
「関連があるのかどうかすら分からん」
ヴォルターが口を開いた。
「少なくとも、監視を続ける必要はあります」
「ああ」
ハーゲンは頷いた。
「ただし、部隊を疲弊させるわけにはいかん。交代と休息を徹底する」
ファルケは敬礼した。
「了解しました」
ハーゲンは二人を見た。
「……君たちも休め。特にファルケ曹長」
「自分はまだ大丈夫です」
「その台詞は聞き飽きた」
ファルケは少し困った顔をした。
ヴォルターが横で笑いを堪えている。
ハーゲンは続けた。
「疲れた指揮官は判断を誤る。明日の勤務に備えろ」
「……了解しました」
ファルケは渋々答えた。
午後六時十三分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
ヴァルターが帰宅すると、玄関からレイブンが駆け寄ってきた。
「父さん!」
「ただいま」
少年は父を見上げた。
「今日もお仕事?」
「ああ。訓練生たちの報告書を確認していた」
「報告書?」
「何を見て、何を考えて、どう行動したかを書いたものだ」
レイブンは少し考えた。
「……日記みたいなもの?」
ヴァルターは微笑んだ。
「少し似ているな」
「じゃあ、僕の日記も報告書?」
「自分の出来事を記録するという意味では、そうかもしれない」
レイブンは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ちゃんと書かなきゃ」
ヴァルターは頷いた。
「ただし、無理に立派なことを書く必要はないぞ」
「どうして?」
「自分が見たこと、感じたことを正直に書けばいい」
レイブンは少し考えた。
「……分かった」
その時、ルナが廊下から顔を出した。
「とうさーん!」
ヴァルターは笑った。
「ただいま、ルナ」
ルナは父の左手を握った。
「……きょうね、ゆきだるま、まだいた!」
「そうか。溶けなかったんだな」
「うん!」
ルナは嬉しそうに頷いた。
セレナが居間から姿を見せた。
「お帰りなさい、あなた」
「ただいま」
「夕食の準備ができていますよ」
ヴァルターは頷いた。
「ありがとう」
家族は食堂へ向かった。
午後八時五十七分。
帝国北部、ガーランド山系。
第四山岳警備大隊の宿営地では、夜間警戒の交代が進められていた。
ファルケ曹長は、ハーゲン中佐の命令に従い、宿営棟で休息を取っていた。
ヴォルター軍曹が隣の椅子へ腰を下ろした。
「……珍しいな」
「何が?」
「お前が大人しく休んでる」
ファルケは顔をしかめた。
「命令だからな」
ヴォルターは笑った。
「クロウ少佐なら喜ぶだろうな」
「……あいつは、休めって言う時だけ妙にしつこかったからな」
ファルケは苦笑した。
そして、しばらく黙っていた。
窓の外では、雪が静かに降っている。
「……ヴォルター」
「何だ?」
「もし、またあの山で何か起きたら……」
ファルケは言いかけて、言葉を止めた。
ヴォルターは彼を見た。
「……どうした?」
ファルケは首を振った。
「いや。何でもねえ」
彼はカップを手に取った。
「ただ、今度こそ全員連れて帰りたいと思っただけだ」
ヴォルターは静かに頷いた。
「ああ」
二人はしばらく、何も言わずに座っていた。
午後十時二十一分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは日記帳を開いていた。
机の上には、祖父から贈られた黒鴉の徽章が置かれている。
『今日は、父さんと報告書の話をした。
父さんは、見たことや考えたことを正直に書くのが大切だって言っていた。
僕の日記も、少し似ているらしい。
だから、これからもちゃんと書こうと思う。
ルナの雪だるまは、まだ溶けていなかった。
ルナはとても嬉しそうだった。
父さんも、今日も帰ってきてくれた。
明日も、みんな元気だといいな。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
窓の外には、冬の星空が広がっていた。
少年は黒鴉の徽章を手に取り、しばらく見つめた。
その頃、帝国北部のガーランド山系では、回収された金属片と布片が北部方面軍の技術分析部門へ送られていた。
それらが何を意味するのか、まだ誰にも分からなかった。
しかし、調査は確実に進んでいた。
所属不明の武装集団。
雪原に残された足跡。
冬季閉鎖された林道の轍。
そして、回収された二つの証拠品。
帝国軍は、少しずつ情報を集めていた。
だが、北部方面軍司令部がまだ知らないことが一つあった。
その夜、ガーランド山系のさらに東側では、雪に覆われた古い道路を、一台の車両が静かに走っていた。
灯火を落とした車体は、針葉樹林の中へ消えていく。
車両の内部には、複数の人影があった。
そのうちの一人が、低い声で言った。
「……帝国軍が調査を始めたらしい」
向かいに座る男が答えた。
「予定より早いな」
「どうする?」
男は少し考えた。
そして、静かに言った。
「……上へ報告する」
車両は雪の中を進み続けた。
その行き先を、帝国軍はまだ知らなかった。
帝政歴三三五年、十二月十四日。
ガーランド山系では、冬の静寂の裏側で、誰かが動き始めていた。




