第28話 雪に埋もれた警告
第28話 雪に埋もれた警告
帝政歴三三五年、十二月十一日。
帝国北部、ガーランド山系東部。
午前四時二十七分。
吹雪は、夜半を過ぎても収まらなかった。
山岳道路に沿って設けられた第四山岳警備大隊の臨時集結地では、発電機が低い唸りを上げ、雪の重みに耐える天幕の支柱が時折軋んでいた。屋外に設置された温度計は氷点下十四度を示し、兵士たちは交代で除雪作業を続けている。
ディートリヒ・ファルケ曹長は、宿営棟の扉を肩で押し開けた。
「くそったれ。昨日よりひでえな」
冷気が室内へ流れ込み、暖房器具のそばにいた兵士たちが一斉に顔を上げた。
「曹長、扉を閉めてください!」
「分かってる。俺だって寒いんだ」
ファルケは扉を閉め、軍帽に積もった雪を払い落とした。
室内ではヴォルター・クライン軍曹が、机の上に広げた道路状況図へ赤鉛筆で印を付けていた。
「お帰り。どうだった?」
「北側の林道は通行不能だ。除雪車を入れても、あの吹き溜まりじゃ午前中は無理だろうな」
「南側は?」
「路面が凍ってる。装輪車両は特に慎重に動かした方がいい」
ヴォルターは地図へ書き込んだ。
「大隊本部へ報告する」
「ああ。それと、昨夜の巡察班は?」
「第三班がまだ戻っていない」
ファルケの動きが止まった。
「……予定時刻は?」
「午前三時四十分」
ファルケは壁時計を見た。
すでに四十七分が過ぎている。
「通信は?」
「二十分前に一度入った。吹雪で進めず、旧林業小屋に退避するという報告だった」
「位置は確認できたのか?」
「概略位置だけだ。通信が途切れがちでな」
ファルケは手袋を外し、机の上の地図を覗き込んだ。
旧林業小屋は、集結地から北東へ数キロ離れた場所にあった。冬季には使用されない施設で、周囲には伐採された木材が積まれている。
「人数は?」
「六名」
「負傷者は?」
「最後の交信では、なし」
ファルケは頷いた。
「なら、今すぐ飛び出す理由はねえ。だが、連絡が取れなくなったら困る。通信班に再確認させろ」
「了解」
ヴォルターが無線機へ手を伸ばした時、扉が叩かれた。
「失礼します!」
若い通信兵が入ってきた。
顔は寒さで赤くなり、肩には雪が積もっている。
「第三巡察班から連絡が入りました!」
ファルケは顔を上げた。
「状況は?」
「全員無事です。ただし、旧林業小屋の周辺で不審な痕跡を発見したとのことです」
「不審な痕跡?」
「小屋の裏手に、新しい車両の轍があったそうです」
ファルケは眉を寄せた。
「……この吹雪の中で?」
「はい」
ヴォルターが地図へ目を落とした。
「林業関係者かもしれないな」
「それならいいが」
ファルケは静かに答えた。
「問題は、あの小屋へ通じる道が冬季閉鎖されていることだ」
通信兵は続けた。
「巡察班は、轍の先を確認していません。吹雪のため、現地で待機しています」
「それでいい」
ファルケは即答した。
「全員に伝えろ。小屋の周辺で無理な捜索はするな。暖を取り、身体を休ませておけ。天候が回復したら帰還させる」
「了解しました!」
通信兵は敬礼し、部屋を出ていった。
ヴォルターは腕を組んだ。
「……また妙なものが出てきたな」
「ああ」
ファルケは地図を見つめた。
数日前に発見された足跡。
所属不明の武装集団による散発的な発砲。
そして、冬季閉鎖された林道に残された車両の轍。
どれも、それだけでは決定的な証拠にならない。
しかし、同じ地域で続いていることが気になった。
「……偶然ならいいんだがな」
ファルケは呟いた。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前六時三十八分。
窓の外には、昨夜から降り続いていた雪が薄く積もっていた。
レイブン・S・クロウは寝台から起き上がり、窓へ近づいた。
黒い猫耳がぴくりと動く。
「……雪だ」
少年は窓ガラスへ手を当てた。
庭園の木々は白く染まり、石畳の小道にも雪が積もっている。
遠くでは庭師たちが除雪作業を始めていた。
レイブンは寝間着の上から上着を羽織り、廊下へ出た。
階段を下りると、食堂から温かなパンの匂いが漂ってきた。
「おはようございます」
レイブンが声を掛けると、セレナが振り返った。
「おはよう、レイブン。今日は早いのね」
「雪が降ってたから」
セレナは微笑んだ。
「そうね。昨日より少し積もったみたい」
「ルナは?」
「まだ寝ているわ」
レイブンは椅子へ座った。
その時、新聞を読んでいたヴァルターが顔を上げた。
「おはよう、レイブン」
「おはよう、父さん」
少年は父の手元を見た。
「何を読んでるの?」
「北部の天候と、交通の状況だ」
ヴァルターは新聞を畳んだ。
「ガーランド山系では、かなり雪が降っているらしい」
「……父さんが昔いたところ?」
「ああ」
レイブンは少し考えた。
「そこにも、父さんの友達がいるんだよね」
「いるよ」
「寒くないかな」
ヴァルターは微笑んだ。
「寒いだろうな。だが、冬の山で勤務するための装備と準備はある」
「……それでも寒い?」
「もちろんだ」
ヴァルターは笑った。
「軍服を着たからといって、寒さがなくなるわけじゃない」
レイブンも笑った。
その時、廊下から小さな足音が聞こえた。
「……おにいちゃあん」
眠そうな声と共に、ルナが現れた。
白い猫耳が寝癖で少し傾いている。
「おはよう、ルナ」
レイブンが声を掛けると、妹は彼の隣へ歩み寄った。
「……ゆき?」
「うん。外に積もってるよ」
ルナは窓を見た。
そして、目を輝かせた。
「……あそぶ!」
セレナが笑った。
「朝ご飯を食べてからね」
「……はあい」
ルナは椅子へ座った。
ヴァルターは二人の子供たちを見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
帝国陸軍中央教育学校。
午前八時五十二分。
講義棟の一室では、ヴァルターが教育課程主任のアウグスト・ラインハルト少将と向かい合っていた。
机の上には、北部方面軍から送られてきた最新の状況報告が置かれている。
「ガーランド山系の状況は、依然として不安定だ」
ラインハルトは書類を指差した。
「前進監視所の撤収は進んでいるが、周辺の安全確認が難航している」
ヴァルターは頷いた。
「報告を読みました」
「君は、あの地域に詳しいな」
「以前、長く勤務していました」
ラインハルトは地図を広げた。
「この旧林業小屋を知っているか?」
ヴァルターは地図へ目を落とした。
小屋の位置を確認すると、少し眉を寄せた。
「……知っています」
「どのような場所だ?」
「古い伐採路の終点にある施設です。冬季はほとんど使われません。周辺には小さな沢があり、積雪が多い年は道が完全に埋まります」
ラインハルトは頷いた。
「そこに、車両の轍があったそうだ」
「……この時期に?」
「ああ」
ヴァルターは少し考えた。
「林業関係者の可能性もあります。ただし、道路が冬季閉鎖されているなら、通行の理由を確認する必要があります」
「共和国側の活動だと思うか?」
ヴァルターは首を振った。
「現時点では分かりません」
ラインハルトは静かに頷いた。
「そう答えると思った」
ヴァルターは地図を見つめた。
「閣下、一つ確認してもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「現地の部隊は、足跡や轍の追跡を命じられているのですか?」
「いや。現在は監視と報告が中心だ」
「それなら、無理に接近する必要はありません」
ヴァルターは答えた。
「この時期のガーランドでは、敵よりも先に天候が部隊を止めることがあります」
ラインハルトは少し笑った。
「経験者の言葉だな」
「何度も痛い目を見ましたから」
ヴァルターも苦笑した。
少将は書類を閉じた。
「君には、この報告を次回の教育資料として整理してもらいたい。ただし、現地部隊の機密情報は除外すること」
「承知しました」
「目的は、未知の状況に対する判断の教育だ。相手を敵と決めつけることではない」
ヴァルターは頷いた。
「その点を重視します」
午前十時四十一分。
ガーランド山系東部、旧林業小屋。
吹雪は弱まりつつあった。
第三巡察班の六名は、小屋の内部で暖を取りながら待機していた。
班長のマルクス・ヴェーバー軍曹は、窓の外を確認した。
積雪は膝の高さに達し、周囲の木々は白く覆われている。
若い兵士が声を掛けた。
「軍曹、もう帰れますか?」
「本部の許可が出てからだ」
「……了解しました」
ヴェーバーは無線機を確認した。
通信状態は改善している。
彼は本部へ連絡を入れた。
「こちら第三巡察班。天候が回復しつつあります。帰還許可を要請します」
しばらくして返答があった。
『第三巡察班、こちら大隊本部。帰還を許可する。ただし、道路状況を確認しながら移動せよ』
「了解」
ヴェーバーは部下たちへ振り返った。
「撤収準備だ。忘れ物をするな」
兵士たちは装備を確認し始めた。
その時、一人の兵士が小屋の裏手へ目を向けた。
「……軍曹」
「何だ?」
「昨日の轍なんですが……」
ヴェーバーは振り返った。
「どうした?」
「雪でほとんど埋まっています。でも、その近くに何か落ちています」
ヴェーバーは窓から外を確認した。
確かに、雪の中から小さな金属片のようなものが覗いていた。
彼は少し考えた。
「触るな。位置だけ記録しろ」
「了解」
兵士は写真を撮影し、位置を記録した。
ヴェーバーは無線機を取った。
「大隊本部、こちら第三巡察班。旧林業小屋の裏手で不明な金属片を確認。接触せず、位置と写真を記録しました」
『了解。現地を離れ、帰還を優先せよ』
「了解」
ヴェーバーは無線機を置いた。
そして、部下たちへ声を掛けた。
「行くぞ」
六名の兵士たちは小屋を後にした。
雪に覆われた林道を、慎重に歩き始める。
彼らの背後では、旧林業小屋が再び静寂に包まれていた。
その裏手に残された金属片は、雪の中で鈍く光っていた。
午後一時二十六分。
第四山岳警備大隊、指揮所。
ファルケ曹長は、第三巡察班から送られてきた写真を確認していた。
ヴォルター軍曹が隣へ立った。
「……何だと思う?」
「分からん」
ファルケは答えた。
「車両の部品かもしれんし、ただの金属くずかもしれん」
ヴォルターは写真を拡大した。
雪の中から覗いているのは、細長い金属片だった。
表面には傷があり、一部が曲がっている。
「……刻印みたいなものがあるな」
「ああ」
ファルケは頷いた。
「だが、この写真じゃ読めねえ」
ヴォルターは地図へ目を落とした。
「回収班を出すか?」
「大隊長の判断だな」
ファルケは書類をまとめた。
「それに、今すぐ行く必要があるかも分からん」
ヴォルターは頷いた。
「……そうだな」
ファルケは窓の外を見た。
雪は弱まり、遠くの山肌が少しずつ見え始めていた。
「……妙なものばかり増えていくな」
彼は呟いた。
午後三時四十八分。
帝国陸軍中央教育学校。
ヴァルターは、訓練生たちへ新しい課題を提示していた。
黒板には、山岳地帯の地図が描かれている。
「本日の課題は、所属不明の人物や車両の痕跡を発見した場合の対応だ」
訓練生たちは資料を開いた。
「諸君は、山岳地帯で巡察任務を行っている。冬季閉鎖された林道に車両の轍を発見した。しかし、車両そのものは確認できていない」
ヴァルターは続けた。
「この時点で、何が分かる?」
一人の少尉が手を挙げた。
「車両が通過した可能性があります」
「そうだ。では、何が分からない?」
「車両の所属、目的、乗員の人数です」
「その通り」
ヴァルターは黒板へ文字を書いた。
『事実と推測を分ける』
「諸君が報告書を書く時、最も気をつけなければならないことの一つだ」
別の訓練生が質問した。
「教官、もし敵部隊の可能性が高いと判断した場合は?」
「その根拠を示す必要がある」
ヴァルターは答えた。
「ただし、可能性が高いことと、確定したことは違う」
訓練生たちは頷いた。
「誤った報告は、不要な警戒や誤認を生むことがある。最悪の場合、無関係な者を危険に晒す」
彼は少し間を置いた。
「だからこそ、見たものを正確に伝えろ」
教室には、筆記具の音が響いていた。
午後五時三十二分。
クロウ家別邸。
レイブンとルナは、庭園の一角で雪遊びをしていた。
セレナと使用人が近くで見守っている。
レイブンは小さな雪玉を作り、ルナへ見せた。
「ほら、ルナ」
「……まるい!」
「うん。雪をぎゅっと固めると、こうなるんだ」
ルナも雪を手に取った。
しかし、手袋の上で雪が崩れてしまった。
「……できない」
レイブンは笑った。
「もう少し、こうやって丸めるんだよ」
彼は妹の手を取り、雪を丸めるのを手伝った。
ルナは嬉しそうに笑った。
「できた!」
「うん、上手だよ」
その時、玄関の方から声が聞こえた。
「ただいま」
ヴァルターが帰宅していた。
レイブンは顔を上げた。
「父さん!」
ルナも振り返った。
「とうさーん!」
ヴァルターは庭園へ歩み寄った。
「楽しそうだな」
「うん!」
レイブンは雪玉を見せた。
「ルナと雪だるまを作ってるんだ」
「そうか」
ヴァルターは微笑んだ。
「寒くないか?」
「大丈夫!」
レイブンは元気よく答えた。
ルナも頷いた。
「……だいじょうぶ!」
セレナが笑った。
「二人とも夢中になっているのよ」
ヴァルターは家族を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……いいことだ」
午後八時四十一分。
第四山岳警備大隊、指揮所。
ハーゲン中佐は、北部方面軍司令部から届いた新しい命令書を読んでいた。
ファルケ曹長とヴォルター軍曹が、その前に立っている。
「……旧林業小屋周辺の調査を継続する」
ハーゲンは命令書を机へ置いた。
「ただし、積雪と道路状況を考慮し、専門の調査班を派遣する。君たちの部隊は、必要に応じて後方支援を担当する」
「了解しました」
ファルケは答えた。
ハーゲンは続けた。
「それと、北部方面軍は、最近の不審な痕跡について情報を集約することになった」
ヴォルターが尋ねた。
「共和国軍との関連が確認されたのでしょうか?」
「いや。現時点では、何も断定できない」
ハーゲンは首を振った。
「だからこそ、慎重に扱う必要がある」
ファルケは頷いた。
「承知しました」
中佐は二人を見た。
「……今回の件、どう思う?」
ファルケは少し考えた。
「不審な痕跡が続いているのは確かです。ただ、それだけで相手の目的までは分かりません」
「そうだな」
ハーゲンは静かに答えた。
「分からないものを、分かったことにしてはならん」
ファルケは敬礼した。
「了解しました」
指揮所を出ると、外では雪が止んでいた。
ヴォルターは空を見上げた。
「……明日は晴れるかな」
「さあな」
ファルケは答えた。
「ガーランドの天気なんぞ、明日にならなきゃ分からん」
ヴォルターは笑った。
「それもそうだ」
二人は宿営地へ向かって歩き始めた。
午後十時十四分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
レイブンは日記帳を開いていた。
窓の外には、月明かりに照らされた雪が広がっている。
『今日は、ルナと雪だるまを作った。
ルナは最初、雪を丸めるのが難しそうだったけど、最後は上手にできた。
父さんが帰ってきた時、雪だるまを見せた。
父さんは笑ってくれた。
今日も、父さんが無事に帰ってきて嬉しかった。
北の山では、もっとたくさん雪が降っているらしい。
父さんの昔の仲間たちも、寒いところで頑張っているのかな。
みんな、ちゃんと帰ってこられるといいな。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
机の上には、黒鴉の徽章が置かれている。
少年はそれを手に取り、しばらく眺めていた。
「……父さんの友達も、元気だといいな」
小さく呟き、徽章を机へ戻した。
その夜、帝国北部のガーランド山系では、調査班の派遣準備が進められていた。
雪に埋もれた足跡。
冬季閉鎖された林道に残された轍。
そして、正体不明の金属片。
それらが何を意味するのか、まだ誰にも分からなかった。
だが、帝国軍は少しずつ、何かが起きていることを感じ始めていた。
戦争は、まだ始まっていない。
しかし、国境の静けさは、確実に変わりつつあった。
帝政歴三三五年、十二月十一日。
ガーランド山系の雪は、すべてを白く覆い隠していた。
そして、その下には、まだ誰も知らない痕跡が残されていた。




