第26話 帰還を許さぬ命令
第26話 帰還を許さぬ命令
帝政歴三三五年、十二月五日。
帝国北部、ガーランド山系。
午前四時三十八分。
山岳地帯には、夜明け前の冷たい霧が立ち込めていた。
標高の高い尾根では前夜の雪が薄く積もり、谷底を通る軍用道路には凍りついた泥が残っている。周囲の針葉樹は風に揺れ、枝に積もった雪を時折地面へ落としていた。
帝国陸軍第四山岳警備大隊。
その後方集結地では、撤収支援に向けた準備が進められていた。
車両整備班は装甲車の足回りを確認し、通信兵は無線機の状態を点検している。衛生兵たちは救護資材を整理し、輸送担当者は燃料と食料の残量を記録していた。
その一角で、ディートリヒ・ファルケ曹長は金属製のカップを手に、湯気の立つ黒い珈琲を飲んでいた。
「……また雪か」
隣に立つヴォルター・クライン軍曹が、手袋をはめながら答えた。
「十二月のガーランドだ。降らない方がおかしい」
「分かってるよ。だが、せめて撤収が終わるまで待ってくれてもいいだろうが」
「山に文句を言っても仕方ない」
「文句ぐらい言わせろ。こっちは三日連続でまともに寝てねえんだ」
ファルケは肩をすくめた。
ヴォルターは苦笑した。
彼らが担当しているのは、ガーランド山系東部に残された前進監視所からの撤収支援だった。
その監視所は、数か月前まで帝国軍の重要な観測拠点として使用されていた。
しかし、周辺道路への妨害や所属不明の武装勢力による散発的な発砲が続き、補給と安全確保が困難になっていた。
帝国軍は全面戦争への発展を避けるため、前進拠点を段階的に縮小していた。
それでも、撤収が常に安全に進むとは限らない。
ファルケは地図を広げた。
「……今回の監視所、残ってるのは何人だ?」
「二十六名。うち二名が負傷している」
「搬送可能か?」
「衛生班の報告では、車両搬送が必要だが容体は安定している」
ファルケは頷いた。
「なら、全員連れて帰るぞ」
「当然だ」
ヴォルターは答えた。
その時、通信兵が駆け寄ってきた。
「曹長! 大隊本部から緊急連絡です!」
ファルケは顔を上げた。
「何だ?」
「東部監視所との通信が途絶しました!」
周囲の空気が変わった。
ファルケはカップを置いた。
「最後の交信は?」
「午前三時五十二分です。撤収準備を継続中との報告を最後に、応答がありません」
「通信障害の可能性は?」
「あります。ただし、周辺の別の監視所では通信が維持されています」
ファルケはヴォルターと顔を見合わせた。
「……嫌な予感がするな」
ヴォルターは静かに頷いた。
「大隊長へ報告しよう」
午前五時十六分。
第四山岳警備大隊、指揮所。
大隊長のエルンスト・ハーゲン中佐は、地図の前に立っていた。
参謀たちが周囲に集まり、通信途絶の状況を確認している。
「監視所との連絡は?」
「依然として回復していません」
「周辺で銃声は?」
「西側観測班から、午前四時過ぎに複数の発砲音を聞いたとの報告があります。ただし、発砲地点は特定できていません」
ハーゲンは眉を寄せた。
「……撤収予定時刻まで、あと二時間か」
彼は地図へ目を向けた。
東部監視所へ通じる道路は一本しかない。
周囲には古い林道が存在するものの、積雪と凍結によって車両の通行は難しい。
「ファルケ曹長」
「はっ」
「救援部隊を編成する。君には先遣班の指揮を任せたい」
「了解しました」
ファルケは敬礼した。
ハーゲンは続けた。
「ただし、無理に監視所へ接近するな。状況を確認し、必要であれば後続部隊を待て」
「承知しました」
「任務は監視所の状況確認と人員の救出だ。交戦そのものが目的ではない」
ファルケは頷いた。
「分かっています」
ハーゲンは彼を見つめた。
「……頼むぞ」
「必ず連れて帰ります」
ファルケは短く答えた。
午前六時二十七分。
ガーランド山系東部。
先遣班は、雪の残る山岳道路を進んでいた。
装甲車二両と軽輸送車一両。
車両の周囲では、兵士たちが慎重に周辺を確認している。
ファルケは先頭車両の車内で地図を見つめていた。
ヴォルターが無線機を操作している。
「東部監視所、こちら救援先遣班。応答願う」
雑音だけが返ってきた。
「……駄目だな」
ヴォルターは無線機を置いた。
ファルケは窓の外を見た。
道路の両側には、雪を被った針葉樹が並んでいる。
視界は良くない。
車両は慎重に進んでいた。
その時、前方の道路で小さな土煙が上がった。
続いて、乾いた発砲音が響いた。
「接触!」
兵士の声が無線に入った。
先頭車両が停止した。
ファルケはすぐに周囲を確認した。
弾丸が道路脇の岩へ当たり、細かな破片が飛び散っている。
「発砲方向は!?」
『右前方の斜面! 位置不明!』
ファルケは車内の無線機を取った。
「こちら先遣班長。車列は停止、周囲の安全を確認しろ! 不用意に前進するな!」
ヴォルターが叫んだ。
「後方車両、負傷者は!?」
『現時点で負傷者なし!』
ファルケは息を吐いた。
発砲は断続的だった。
銃声は山間部に反響し、正確な位置を判断するのは難しい。
ファルケは双眼鏡を構えた。
霧の向こうに、何かが動いたように見えた。
しかし、すぐに木々の陰へ消えた。
「……見えねえな」
ヴォルターが答えた。
「追うか?」
「馬鹿言うな。俺たちの任務は監視所の連中を連れて帰ることだ」
ファルケは無線機を握った。
「大隊本部、こちら救援先遣班。監視所手前の山道で発砲を受けた。負傷者なし。発砲元は未確認。現在位置を維持し、状況を確認中」
しばらくして返答があった。
『了解。無理な前進は避けろ。後続支援部隊を向かわせる』
「了解」
ファルケは周囲を見渡した。
銃声は、徐々に遠ざかっていった。
だが、先遣班はすぐには動かなかった。
発砲した者たちの目的も、人数も、分かっていない。
そして、監視所の状況も不明だった。
午前八時四十四分。
帝国陸軍中央教育学校。
第三教室では、ヴァルター・A・クロウが講義の準備を進めていた。
黒板には、前日の課題に関する図が描かれている。
山岳地帯。
撤収予定の監視所。
通信障害。
そして、負傷者の存在。
ヴァルターは訓練生たちへ向き直った。
「本日の課題は、通信途絶した前進監視所への対応だ」
訓練生たちは資料を開いた。
「諸君は、後方部隊の指揮官だ。前方監視所との連絡が途絶し、周辺で発砲音が確認された。どうする?」
一人の少尉が手を挙げた。
「救援部隊を派遣します」
「その前に確認すべきことは?」
少尉は少し考えた。
「通信障害の原因、監視所の最後の位置情報、周辺の安全状況です」
「そうだ」
ヴァルターは頷いた。
「では、救援部隊が発砲を受けた場合は?」
別の訓練生が答えた。
「周囲の状況を確認し、必要に応じて防御行動を取ります」
「そして?」
「任務継続が可能か判断します」
ヴァルターは黒板へ向き直った。
左手でチョークを持ち、文字を書いた。
『救援任務の目的を見失うな』
訓練生たちは、その言葉をノートへ書き込んだ。
「救援部隊が戦闘に夢中になり、救助対象を忘れてしまえば、任務は失敗する」
ヴァルターは静かに続けた。
「敵を追うことと、仲間を救うことは、必ずしも同じではない」
教室には、筆記具の音が響いていた。
その時、扉が叩かれた。
教務担当の将校が入室した。
「クロウ教官、少しよろしいでしょうか」
「何だ?」
将校は小声で伝えた。
「北部方面軍から、教育資料に関連する緊急報告が届いています」
ヴァルターは眉を寄せた。
「……北部?」
「はい。ガーランド山系です」
その地名を聞いた瞬間、ヴァルターの表情がわずかに変わった。
午前九時十七分。
教育学校、教官控室。
ヴァルターは報告書を読んでいた。
第四山岳警備大隊。
東部監視所との通信途絶。
救援先遣班への発砲。
そして、現在も続く状況確認。
彼は書類を閉じた。
「……ファルケ」
小さく名前を呟いた。
報告書には、救援先遣班の指揮官としてディートリヒ・ファルケ曹長の名が記されていた。
ヴァルターは椅子へ深く腰を下ろした。
かつてガーランド山系で共に任務に就いた戦友。
右脚を負傷しながらも生還した古参兵。
その男が、今も同じ山で任務を続けている。
ヴァルターは左手で額を押さえた。
記憶の中で、かつての銃声が蘇った。
雪の残る山道。
負傷した兵士。
そして、撤収を決断した日のこと。
彼は静かに息を吐いた。
その時、控室の扉が開いた。
ラインハルト少将だった。
「クロウ少佐」
「閣下」
「報告は読んだか?」
「はい」
ラインハルトは頷いた。
「君の知る部隊か」
「……以前、共に任務に就いた者がいます」
「そうか」
少将は椅子へ座った。
「気になるだろうな」
「……はい」
ヴァルターは正直に答えた。
ラインハルトはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「君が今すべきことは、何だ?」
ヴァルターは顔を上げた。
少将は続けた。
「前線へ戻ることか。それとも、若い将校たちへ経験を伝えることか」
ヴァルターは少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……教えることです」
ラインハルトは頷いた。
「そうだ」
ヴァルターは書類へ視線を落とした。
「……分かっています」
少将は立ち上がった。
「北部方面軍から続報が入り次第、知らせよう」
「ありがとうございます」
ヴァルターは敬礼した。
ラインハルトは控室を後にした。
ヴァルターは一人になった部屋で、しばらく報告書を見つめていた。
午前十一時五十二分。
ガーランド山系東部。
救援先遣班は、後続支援部隊と合流していた。
道路の安全確認が進み、監視所へ向かう準備が整いつつあった。
ファルケ曹長は無線機を握った。
「東部監視所、こちら救援先遣班。応答願う」
しばらく雑音が続いた。
その後、かすかな声が聞こえた。
『……こちら……東部監視所……』
ファルケは顔を上げた。
「聞こえるか!? こちらファルケだ!」
『……曹長……』
通信は不安定だった。
しかし、確かに声が聞こえた。
「状況を報告しろ!」
『……負傷者……三名……通信設備……損傷……』
ファルケは息を呑んだ。
「人員は!?」
『……二十六名……全員……生存……』
その言葉を聞いた瞬間、ファルケは深く息を吐いた。
「……よし」
ヴォルターが顔を上げた。
「全員生きてるのか?」
「ああ」
ファルケは頷いた。
「全員だ」
周囲の兵士たちの表情が少し和らいだ。
しかし、任務はまだ終わっていなかった。
監視所には負傷者がいる。
そして、周辺には所属不明の武装勢力が存在する可能性がある。
ファルケは無線機を握り直した。
「東部監視所、こちら救援先遣班。救援部隊が向かっている。無理に移動するな。負傷者の状態を維持しろ」
『……了解……』
通信が途切れた。
ファルケはヴォルターへ向き直った。
「行くぞ」
ヴォルターは頷いた。
「ああ」
午後一時二十九分。
東部監視所。
救援部隊は、慎重に監視所へ到着した。
建物の外壁には、複数の弾痕が残っていた。
通信設備の一部が損傷し、屋根の一角には破片が散乱している。
しかし、監視所そのものは維持されていた。
ファルケは建物へ入った。
「責任者は!?」
若い中尉が立ち上がった。
「こちらです!」
中尉の軍服は泥と埃に汚れていた。
左頬には小さな傷がある。
「状況を報告しろ」
「夜間に所属不明の武装集団から発砲を受けました。通信設備が損傷し、負傷者が三名出ています」
「敵の所属は?」
「不明です。暗闇と霧で、識別できませんでした」
ファルケは頷いた。
「分かった」
彼は周囲を見渡した。
兵士たちは疲れ切った表情をしていた。
しかし、全員が生きていた。
「……よく持ちこたえたな」
中尉は少し俯いた。
「……撤収命令が出ていたのに、間に合いませんでした」
ファルケは首を振った。
「今は反省会をする時じゃねえ」
そして、周囲の兵士たちへ声を掛けた。
「全員、帰る準備をしろ。負傷者は衛生班が確認する。装備は必要なものを優先して搬出する」
兵士たちは頷いた。
ファルケは中尉を見た。
「お前らを迎えに来たんだ」
中尉は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
ファルケは少し笑った。
「礼は、全員帰ってからにしろ」
午後三時四十八分。
帝国陸軍中央教育学校。
ヴァルターは、午後の講義を終えていた。
訓練生たちが教室を出ていく中、彼は黒板に残された文字を見つめていた。
『救援任務の目的を見失うな』
その時、教務担当の将校が入室した。
「クロウ教官、北部方面軍から続報です」
ヴァルターは振り返った。
「……どうなった?」
将校は書類を差し出した。
「東部監視所との通信が回復しました。救援部隊が到着し、撤収作業を開始しています」
ヴァルターは書類を受け取った。
「人員は?」
「二十六名全員が生存しています。負傷者は三名ですが、現在のところ生命に関わる状態ではないとのことです」
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……そうか」
将校は続けた。
「救援先遣班の指揮官は、ファルケ曹長です」
ヴァルターは小さく頷いた。
「……あいつらしいな」
将校は少し首を傾げた。
「ご存じなのですか?」
「ああ。昔の戦友だ」
ヴァルターは書類を閉じた。
そして、静かに微笑んだ。
「……よくやった、ファルケ」
午後五時五十六分。
クロウ家別邸。
ヴァルターが帰宅すると、玄関からレイブンが駆け寄ってきた。
「父さん!」
「ただいま」
「今日はどうだった?」
ヴァルターは少し考えた。
「……難しい一日だった」
レイブンは父を見上げた。
「何かあったの?」
「昔の仲間が、危険な任務に就いていたんだ」
少年は少し驚いた。
「……大丈夫だった?」
「ああ。今のところ、無事だと聞いている」
レイブンは安心したように息を吐いた。
「……よかった」
ヴァルターは頷いた。
「そうだな」
その時、ルナが廊下から顔を出した。
「……とうさん!」
ヴァルターは笑った。
「ただいま、ルナ」
ルナは父の左手を握った。
「……おかえり!」
ヴァルターは娘の頭を撫でた。
そして、息子へ顔を向けた。
「レイブン」
「何?」
「今日、父さんは改めて思ったよ」
「……何を?」
「生きて帰ることは、決して簡単なことではないということだ」
レイブンは黙って聞いていた。
「だからこそ、そのための準備と判断が必要なんだ」
少年は頷いた。
「……うん」
ヴァルターは微笑んだ。
「さあ、夕食にしよう」
家族は一緒に食堂へ向かった。
午後九時三十四分。
ガーランド山系、後方集結地。
撤収を終えた兵士たちは、暖房の効いた仮設宿営地で休息を取っていた。
東部監視所の二十六名は、全員が後方へ到着していた。
負傷者は衛生班によって処置され、必要な者は軍病院へ搬送される予定だった。
ファルケ曹長は、金属製のカップに入った温かい珈琲を飲んでいた。
ヴォルター軍曹が隣へ腰を下ろした。
「……終わったな」
ファルケは頷いた。
「ああ」
「全員帰れた」
「そうだな」
ファルケは静かに息を吐いた。
そして、少し笑った。
「……クロウ少佐なら、何て言うかな」
ヴォルターは考えた。
「たぶん、『人数を数えろ』だろうな」
ファルケは笑った。
「違いねえ」
彼はカップを置いた。
「……今日は、ちゃんと数えたぞ」
ヴォルターは頷いた。
「ああ。二十六人だ」
ファルケは静かに微笑んだ。
午後十時二十六分。
クロウ家別邸。
レイブンは自室で日記帳を開いていた。
『今日は、父さんの昔の仲間が危険な任務に就いていたらしい。
でも、無事に帰ってきたと聞いた。
父さんは、少し安心した顔をしていた。
僕も嬉しかった。
父さんは、生きて帰ることは簡単じゃないって言っていた。
だから、準備と判断が必要なんだって。
僕は、もっといろんなことを勉強したい。
いつか、誰かを助けられるようになりたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
窓の外には、冬の星空が広がっていた。
少年は小さく息を吐いた。
「……みんな、ちゃんと帰ってこられるといいな」
そう呟き、灯りを消した。
帝政歴三三五年、十二月五日。
帝国と連邦共和国の国境では、引き続き緊張が続いていた。
大規模な戦争は、まだ始まっていない。
しかし、山岳地帯では所属不明の武装集団による散発的な襲撃が続き、帝国軍の一部部隊は前進監視所からの撤収を進めていた。
その一方で、帝国中央部では、若い将校たちが新たな教育課程を学んでいた。
ヴァルター・A・クロウは、その教官の一人として、生き残るための判断を教えていた。
そして、ガーランド山系では、彼のかつての戦友たちが、その教えと同じ考え方で任務を続けていた。
戦場を知る者たちは、理解していた。
勝つことだけが、任務の成功ではない。
仲間を生きて帰すこともまた、指揮官の責任なのだと。
遠く離れた二つの場所で、同じ思いが受け継がれていた。
帝国中央部の教室。
そして、北部の山岳地帯。
かつて《ガーランドの悪魔》と呼ばれた男の言葉は、今も誰かの命を支えていた。




