第25話 悪魔が教壇に立つ日
第25話 悪魔が教壇に立つ日
帝政歴三三五年、十二月三日。
帝国中央部、クロウ家別邸。
午前五時四十二分。
冬の朝は、まだ暗かった。
屋敷の窓には薄い霜が降り、庭園を囲む木々は北風に枝を揺らしている。夜明け前の静寂を破るのは、遠くを走る鉄道の音と、時折聞こえる暖房設備の低い振動だけだった。
ヴァルター・A・クロウは、寝室の鏡の前に立っていた。
濃灰色の軍服。
磨かれた革靴。
左胸に並ぶ略綬。
そして、右肩の下で丁寧に留められた袖。
鏡に映る姿は、かつての自分とは違っていた。
右腕を失う以前、彼は軍服の袖を通すことに何の不自由も感じなかった。だが今は、上着の位置を整えるだけでも時間がかかる。
左手で襟元を直そうとした時、背後から声が聞こえた。
「……少し曲がっていますよ」
セレナだった。
彼女は夫の隣へ歩み寄ると、軍服の襟を整えた。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
ヴァルターは鏡を見つめた。
「……久しぶりだな」
「軍服を着るのが、ですか?」
「ああ。それもあるが……人前で軍務について話すのは、もっと久しぶりだ」
セレナは夫の顔を見た。
「緊張しています?」
「少しな」
「あなたでも?」
ヴァルターは苦笑した。
「私だって人間だよ」
セレナは微笑んだ。
「そうですね」
彼女は夫の左手を握った。
「今日は、戦場へ行くわけではありません」
「分かっている」
「それでも、無理はしないでくださいね」
ヴァルターは頷いた。
「約束する」
彼は机の上に置かれた革製の書類鞄へ目を向けた。
その中には、初回講義の資料が入っている。
講義題目は、彼自身が選んだものだった。
『部隊の生存と指揮官の責任』。
かつて《ガーランドの悪魔》と呼ばれた男は、その日、初めて教官として若い軍人たちの前に立とうとしていた。
午前六時二十八分。
食堂には、温かなパンの香りが広がっていた。
レイブンは普段より早く起き、父の隣へ座っていた。
八歳になったばかりの少年は、父の軍服を興味深そうに眺めている。
「父さん、今日は先生になる日?」
「ああ。初めての講義だ」
「何人くらいいるの?」
「三十人ほどだと聞いている」
「そんなに?」
レイブンは目を丸くした。
ヴァルターは笑った。
「軍の教育施設だからな。これから部隊を指揮する者たちが集まっている」
「みんな、大人?」
「もちろんだ」
「……父さんより大きい人もいる?」
「いるだろうな」
レイブンは少し考えた。
「じゃあ、父さんも緊張するね」
ヴァルターは思わず笑った。
「そうだな」
向かいの席では、ルナが眠そうに目を擦っていた。
白い猫耳が小さく揺れる。
「……とうさん?」
「何だ、ルナ」
「……おしごと?」
「ああ。今日は仕事だ」
ルナは父の軍服を見つめた。
「……いっちゃう?」
「夕方には帰ってくるよ」
ヴァルターは左手を伸ばし、娘の頭を撫でた。
「母さんとお兄ちゃんの言うことを聞いて、いい子にしているんだぞ」
「……うん」
ルナは小さく頷いた。
レイブンが顔を上げた。
「父さん」
「何だ?」
「……生きて帰る方法、ちゃんと教えてあげてね」
ヴァルターは息子を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「ああ。そのために行くんだ」
午前八時十一分。
帝国陸軍中央教育学校。
校門には、帝国軍の紋章が掲げられていた。
広い敷地には講義棟、宿舎、運動場、野外訓練区域が整備され、早朝から多くの軍人が行き交っている。
整列する訓練生たちの掛け声。
車両整備場から聞こえる工具の音。
遠くの訓練区域から響く教官の号令。
ヴァルターは校門を通り、受付で身分を確認した。
「ヴァルター・A・クロウ、教育総監部の招聘教官として着任した」
受付担当の軍曹は書類を確認した。
「お待ちしておりました、クロウ少佐」
軍曹は敬礼した。
「本日は第一講義棟、第三教室です。教育課程主任のラインハルト少将からも、到着次第報告するよう指示を受けています」
「了解した」
ヴァルターは答礼した。
廊下を進むと、壁には過去の演習写真や教育課程の記録が並んでいた。
その中には、若い将校たちが地図を囲んで議論している写真もあった。
ヴァルターは一枚の写真の前で足を止めた。
写真の中の若者たちは、誰もが真剣な表情をしている。
彼らの中には、すでに前線で勤務している者もいるだろう。
あるいは、帰還できなかった者もいるかもしれない。
ヴァルターは静かに息を吐き、再び歩き始めた。
午前八時三十七分。
教育課程主任室。
アウグスト・ラインハルト少将は、机の上の書類を整理していた。
ヴァルターが入室すると、少将は顔を上げた。
「来たか、クロウ少佐」
「本日付で着任いたしました」
「よく来てくれた」
ラインハルトは椅子を勧めた。
「身体の具合はどうだ?」
「問題ありません。医師からも、講義を担当する範囲での勤務は許可されています」
「そうか」
ラインハルトは頷いた。
そして、机の上に置かれた教育課程表を示した。
「君の提案した評価基準は、正式に採用した」
ヴァルターは書類へ目を向けた。
そこには、部隊の生存、負傷者の保護、撤退判断、補給状況の把握、指揮官の責任が明記されていた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、まだ早い」
ラインハルトは少し笑った。
「これから実際に教えるのは君だ」
ヴァルターも微笑んだ。
「承知しております」
ラインハルトは真剣な表情になった。
「クロウ少佐。君には、若い将校たちへ伝えてほしいことがある」
「何でしょうか」
「戦場で生き残ることは、決して臆病ではないということだ」
ヴァルターは頷いた。
「そのつもりです」
少将は静かに言った。
「頼んだぞ」
午前九時二分。
第一講義棟、第三教室。
教室には、三十二名の若手将校が集まっていた。
階級は少尉から中尉まで。
歩兵、工兵、通信、兵站、衛生など、所属する兵科はさまざまだった。
前方の黒板には、講義題目が書かれている。
『部隊の生存と指揮官の責任』。
教室の後方では、数名の訓練生が小声で話していた。
「今日の教官、実戦経験者らしいな」
「ああ。異界帰還者だと聞いた」
「右腕を失ったって?」
「そうらしい」
別の訓練生が会話に加わった。
「名前、クロウ少佐だろ?」
「知っているのか?」
「……噂だけだ」
彼は声を落とした。
「昔、ガーランド山系で部隊を救った将校がいたって話を聞いたことがある」
「それが?」
「二つ名があったらしい」
「何だ?」
訓練生は少し間を置いた。
「……《ガーランドの悪魔》」
その瞬間、教室の扉が開いた。
訓練生たちは一斉に姿勢を正した。
ヴァルターが入室した。
濃灰色の軍服。
左胸の略綬。
右肩の下で留められた袖。
彼は教壇へ向かい、書類鞄を机の上に置いた。
そして、教室を見渡した。
「着席」
訓練生たちは椅子へ座った。
ヴァルターは黒板の前に立った。
「本日から、この課程の一部を担当するヴァルター・A・クロウだ」
彼は少し間を置いた。
「最初に言っておく」
教室が静まり返った。
「私は、諸君に英雄になる方法を教えるつもりはない」
訓練生たちは顔を上げた。
「敵を倒す方法も、戦闘を有利に進める方法も、必要な範囲では扱う。しかし、それだけを学んで満足する者には、この講義は向いていない」
ヴァルターは黒板へ向き直った。
左手でチョークを持ち、大きく文字を書いた。
『生還』
そして、訓練生たちへ向き直った。
「諸君が指揮官となった時、最も重い責任の一つは、部下を生きて帰すことだ」
若い少尉が手を挙げた。
「質問をよろしいでしょうか」
「許可する」
「任務の達成より、部隊の生存を優先するという意味でしょうか」
ヴァルターは少し考えた。
「常にそうだとは言わない。任務によっては、危険を承知で行動しなければならない場合もある」
少尉は頷いた。
「だが、指揮官が自らの判断を放棄してよい理由にはならない」
ヴァルターは続けた。
「任務を達成したとしても、避けられたはずの損耗を出したなら、その判断は検証されるべきだ」
別の訓練生が手を挙げた。
「撤退を選択した場合、任務失敗と評価されることはありませんか?」
「ある」
ヴァルターは即答した。
「撤退によって任務を達成できなくなることもある。しかし、部隊が壊滅すれば、次の任務を遂行することもできない」
彼は黒板へ二つ目の言葉を書いた。
『判断』
「指揮官は、勝てるかどうかだけでなく、何を失う可能性があるかを考えなければならない」
教室には、筆記具の音だけが響いていた。
ヴァルターは訓練生たちを見渡した。
「では、最初の課題だ」
彼は一枚の地図を掲示した。
山岳地帯。
狭い道路。
複数の観測所。
そして、後方の補給拠点。
「諸君は、この地域で小隊を指揮している。前方の観測所から撤収命令が出た。しかし、道路の一部が崩落し、補給車両は到着していない」
訓練生たちは地図を見つめた。
「負傷者が二名。通信は不安定。周辺には所属不明の武装集団が存在する可能性がある」
ヴァルターは静かに言った。
「諸君なら、何を最初に確認する?」
教室の空気が変わった。
訓練生たちは互いに顔を見合わせ、考え始めた。
それは、戦闘の勝敗を競う課題ではなかった。
部隊を生きて帰すための判断を問うものだった。
午前十一時三十八分。
帝国北部、ガーランド山系。
第四山岳警備大隊の一部は、前進監視所からの撤収支援を続けていた。
山岳道路には、前夜の雪と雨によって泥が溜まっている。
装甲車のエンジン音が谷間に響き、兵士たちは周囲を警戒しながら移動していた。
ディートリヒ・ファルケ曹長は、車列の後方で双眼鏡を下ろした。
「……今日も天気が悪いな」
隣にいたヴォルター・クライン軍曹が苦笑した。
「ガーランドで天気が良かったことなんて、ほとんどないだろ」
「違いねえ」
ファルケは笑った。
その時、前方から無線が入った。
『後衛、こちら指揮車。前方の道路に障害物を確認。車列を一時停止する』
「了解」
ファルケは周囲を見渡した。
道路の先には、崩れた土砂と倒木が見えていた。
工兵隊が確認を始めている。
その間、兵士たちは車列の周囲で警戒を続けた。
若い兵士がファルケへ声を掛けた。
「曹長、また撤収が遅れるんですか?」
「そうだな」
「……敵が来たら?」
ファルケは少し考えた。
「その時は、その時だ」
若い兵士は不安そうな顔をした。
ファルケは続けた。
「だが、今から勝手に怖がっても、道路は直らん」
「……はい」
「それより、水を飲んでおけ。朝からほとんど飲んでないだろ」
兵士は驚いた。
「……どうして分かるんですか?」
「お前が水筒を触ってるところを見てねえからだ」
ファルケは苦笑した。
「喉が渇いてなくても、少しずつ飲め。寒い時でも身体は水を使う」
若い兵士は頷いた。
「了解しました」
ヴォルターが笑った。
「……お前、クロウ少佐に似てきたな」
ファルケは顔をしかめた。
「冗談じゃねえ。あいつほど説教は長くねえぞ」
「そうか?」
「そうだ」
ファルケは腕を組んだ。
「……そういや、今日から教官だったか」
ヴォルターは頷いた。
「らしいな」
ファルケは遠くの山を見つめた。
「……若い連中、苦労するだろうな」
「お前も昔、苦労しただろ」
「だから言ってるんだよ」
二人は小さく笑った。
その時、工兵隊から道路の安全確認が完了したとの報告が入った。
車列は再び動き始めた。
午後一時十七分。
帝国陸軍中央教育学校。
午後の講義では、訓練生たちが小グループに分かれ、先ほどの課題について議論していた。
あるグループでは、撤収経路の確保を優先する案が出ていた。
別のグループでは、負傷者の搬送と通信の回復を重視していた。
ヴァルターは各グループを回り、訓練生たちの考えを聞いていた。
「少尉、なぜこの経路を選んだ?」
「最短距離で後方拠点へ到達できるためです」
「道路が崩落していた場合は?」
「……別経路を使用します」
「その別経路は、車両が通れるのか?」
少尉は地図を見直した。
「……確認できていません」
「では、何を調べる必要がある?」
「道路幅、路面状況、車両の通行可能性です」
ヴァルターは頷いた。
「そうだ。地図に道が描かれていても、実際に通れるとは限らない」
別の訓練生が質問した。
「教官、負傷者がいる場合、撤収速度が低下します。その場合はどう判断すべきでしょうか」
ヴァルターは答えた。
「まず、負傷者の状態と搬送可能性を確認する。衛生兵の判断も必要だ」
そして、少し間を置いた。
「指揮官が、すべてを一人で判断できると思うな。専門知識を持つ部下の意見を聞くことも、指揮の一部だ」
訓練生は頷いた。
ヴァルターは黒板へ戻った。
「諸君、今日の課題に唯一の正解はない」
教室が静まり返った。
「状況が変われば、適切な判断も変わる。だからこそ、常に情報を集め、部下の状態を確認し、自分の判断を見直す必要がある」
彼は訓練生たちを見渡した。
「そして、忘れるな」
少しだけ声が低くなった。
「諸君の命令を受ける兵士たちは、駒ではない」
教室の空気が引き締まった。
「一人ひとりに、名前がある。家族がいる。帰る場所がある」
ヴァルターは左手を机の上へ置いた。
「そのことを忘れた指揮官に、部下を預かる資格はない」
訓練生たちは、黙って彼の言葉を聞いていた。
午後三時四十六分。
講義終了後。
訓練生たちが教室を出ていく中、一人の若い少尉がヴァルターのもとへ歩み寄った。
「クロウ教官」
「何だ?」
「一つ、質問してもよろしいでしょうか」
「構わん」
少尉は少し緊張した様子だった。
「……教官は、以前ガーランド山系で任務に就いていたと聞きました」
ヴァルターの表情がわずかに変わった。
「ああ」
「その時、《ガーランドの悪魔》と呼ばれていたというのは、本当ですか?」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「……誰から聞いた?」
「父からです。父は、以前ガーランド山系の部隊に所属していました」
「名前は?」
「ヨハン・ベルクマンです」
ヴァルターは目を細めた。
「……ベルクマン軍曹か」
「ご存じなのですか?」
「ああ。昔、同じ作戦に参加した」
少尉は少し驚いた。
「父は、教官に命を救われたと話していました」
ヴァルターは黙っていた。
「父は、あの時のことを今でも覚えています。撤退命令が出た時、教官が最後まで負傷者の搬送を確認していたと……」
ヴァルターは静かに首を振った。
「私は、特別なことをしたわけではない」
少尉は顔を上げた。
「ですが……」
「指揮官として、必要なことをしただけだ」
ヴァルターは少し間を置いた。
「それに、あの日は全員を救えたわけではない」
少尉は黙った。
ヴァルターは続けた。
「《ガーランドの悪魔》という名が、どのように広まったのかは知らない。だが、私はその名を誇りに思っているわけではない」
彼は若い少尉を見た。
「君が覚えるべきなのは、二つ名ではなく、そこにいた兵士たちのことだ」
少尉は姿勢を正した。
「……了解しました」
ヴァルターは微笑んだ。
「父上に、よろしく伝えてくれ」
「はい!」
少尉は敬礼し、教室を後にした。
ヴァルターは一人になった教室を見渡した。
黒板には、まだ『生還』という文字が残っていた。
彼はしばらくその文字を見つめていた。
午後五時二十八分。
クロウ家別邸。
ヴァルターが帰宅すると、玄関から小さな足音が聞こえた。
「父さん!」
レイブンだった。
その後ろから、ルナも駆け寄ってきた。
「とうさーん!」
ヴァルターは思わず笑った。
「ただいま」
レイブンは父を見上げた。
「どうだった? 先生のお仕事!」
「……思っていたより、難しかったよ」
「父さんでも?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「人に教えるというのは、簡単なことではないな」
レイブンは少し考えた。
「……でも、楽しかった?」
ヴァルターは少し驚いた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ああ。少しな」
セレナが玄関へ姿を見せた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「お疲れ様でした」
ヴァルターは妻を見つめた。
「……ありがとう」
セレナは微笑んだ。
「夕食の準備ができていますよ」
ヴァルターは頷いた。
レイブンは父の左手を握った。
「父さん、明日も先生?」
「ああ」
「じゃあ、また帰ってきたらお話してね」
「もちろんだ」
ルナも父の袖を掴んだ。
「……ルナも!」
ヴァルターは笑った。
「分かった。二人に話そう」
家族は一緒に食堂へ向かった。
午後九時四十二分。
クロウ家別邸、書斎。
ヴァルターは机の上に、初日の講義記録を広げていた。
訓練生たちの質問。
議論の内容。
そして、次回講義へ向けた改善点。
彼は左手で万年筆を握り、静かに書き込んでいた。
その時、扉が叩かれた。
「……あなた?」
セレナだった。
「まだ起きていたのですね」
「ああ。少しだけ、今日の記録を整理していた」
セレナは夫の隣へ歩み寄った。
「どうでしたか?」
ヴァルターは少し考えた。
「……若い者たちは、よく考えていた」
「そうですか」
「だが、まだ経験が足りない。地図の上では正しく見える判断でも、実際の現場では難しいことがある」
セレナは頷いた。
「それを教えるのが、あなたのお仕事なのでしょう?」
「……そうだな」
ヴァルターは微笑んだ。
そして、机の上の資料へ視線を落とした。
「今日、ある訓練生から《ガーランドの悪魔》のことを聞かれた」
セレナは少し驚いた。
「……その名前、久しぶりですね」
「ああ」
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「私は、あの名が好きではない」
「知っています」
「……だが、あの時に助けた兵士の息子が、今日の講義にいた」
セレナは夫を見つめた。
「そうだったのですか」
「ああ」
ヴァルターは少し笑った。
「……時間が経つのは早いな」
セレナは夫の左手へ、自分の手を重ねた。
「あなたが生きて帰ってきたから、今日があるのですよ」
ヴァルターは黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……そうだな」
窓の外では、冬の風が木々を揺らしていた。
帝国北部では、依然として緊張が続いている。
前進監視所からの撤収。
補給路の確保。
所属不明の武装集団への警戒。
兵士たちは今日も、危険な任務に就いていた。
しかし、中央教育学校では、若い将校たちが新しい知識を学び始めていた。
その教壇に立つのは、かつて《ガーランドの悪魔》と呼ばれた男だった。
ヴァルター・A・クロウ。
右腕を失った帰還者。
そして、今は若い兵士たちに生き残り方を教える教官。
彼の新たな任務は、始まったばかりだった。
同日、午後十時二十一分。
レイブンは自室で日記帳を開いていた。
『今日は、父さんが初めて教官のお仕事をした。
三十二人の軍人さんに、生きて帰るための方法を教えたらしい。
父さんは、教えるのは難しいって言っていた。
でも、少し楽しかったとも言っていた。
僕は、それを聞いて嬉しかった。
父さんが毎日お家に帰ってきてくれるのも嬉しい。
ルナも、父さんが帰ってくると喜ぶ。
僕は、父さんみたいに、いろんなことを知っている人になりたい。
そして、困っている人を助けられるようになりたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
窓の外には、冬の星空が広がっていた。
少年は小さく息を吐いた。
「……父さん、明日も頑張ってね」
そう呟き、灯りを消した。
帝政歴三三五年、十二月三日。
帝国と連邦共和国の国境では、引き続き警戒が続いていた。
大規模な戦争は、まだ始まっていない。
しかし、山岳地帯では所属不明の武装集団による散発的な襲撃が続き、帝国軍の一部部隊は前進監視所からの撤収を進めていた。
その一方で、帝国中央部では、若い将校たちが新たな教育課程を受け始めていた。
ヴァルター・A・クロウは、その教官の一人となった。
彼は、戦場で多くのものを失った。
右腕。
仲間。
そして、かつて当たり前だと思っていた日常。
だが、失ったものがあるからこそ、伝えられることもあった。
戦いに勝つ方法だけではなく、生き残るための判断。
部下を守る責任。
そして、撤退を選ぶ勇気。
それらを、次の世代へ伝えること。
それが、彼の新しい任務だった。
かつて《ガーランドの悪魔》と呼ばれた男は、今、教壇に立っていた。
その姿を、八歳の息子は誇らしく思っていた。
遠く離れた北部の山岳地帯では、兵士たちが今日も任務を続けている。
そして、帝国中央部の別邸では、一人の少年が父の帰りを待っていた。
同じ帝国の空の下で、それぞれの時間が流れていた。




