第24話 《ガーランドの悪魔》と生還の教え
第24話 《ガーランドの悪魔》と生還の教え
帝政歴三三五年、十一月二十五日。
帝国中央部の朝は、薄い霜に覆われていた。
庭園を囲む落葉樹はすっかり葉を落とし、石畳の隙間に残った枯葉が北風に吹かれて転がっている。屋敷の屋根からは暖炉の煙が細く立ち上り、まだ明けきらない空へ溶け込んでいた。
レイブン・S・クロウは、その朝、八歳になった。
窓際に置かれた小さな机には、昨夜まで読んでいた地理書と、黒い表紙の日記帳が並んでいる。その横には、祖父アルベルトから贈られた黒鴉の徽章が置かれていた。
少年は寝台から起き上がると、まず窓の外を見た。
故郷の屋敷で迎えた七歳の誕生日から、ちょうど一年。
その間に、あまりにも多くのことが変わっていた。
父は異界から帰還したものの、右腕を失っていた。北部の情勢は悪化し、一家は住み慣れた屋敷を離れ、帝国中央部の別邸へ避難した。
夏が過ぎ、秋が訪れ、冬の足音が近づいても、故郷へ戻る許可は下りなかった。
それでも、レイブンには変わらないものがあった。
家族がいること。
父と母がいること。
そして、隣の部屋で眠っている妹がいることだった。
「……八歳か」
少年は小さく呟いた。
すると、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
「おにいちゃーん!」
扉が開き、白い猫耳を揺らしたルナが顔を出した。
まだ寝間着のままだった。
「ルナ?」
「おたんじょうび!」
妹は両手を広げ、嬉しそうに駆け寄ってきた。
レイブンは慌てて寝台から降り、妹を受け止めた。
「ありがとう、ルナ」
「はっさい!」
「うん。八歳になったよ」
ルナは兄の顔を見上げた。
「おっきくなった?」
「どうだろう。少しは大きくなったかな」
「おっきい!」
妹は満足そうに頷いた。
その様子がおかしくて、レイブンは笑った。
廊下からセレナの声が聞こえる。
「ルナ、先にお兄ちゃんのところへ行ってしまったのね」
白い猫耳を持つ母親は、扉の前で微笑んでいた。
「おはよう、レイブン。お誕生日おめでとう」
「ありがとう、母さん」
「朝食の準備ができていますよ。お父さんも待っています」
レイブンは頷き、ルナの手を取った。
廊下を歩きながら、少年は母に尋ねた。
「父さん、今日はお仕事?」
セレナは一瞬だけ歩調を緩めた。
「ええ。でも、今日は少し特別な日になりそうです」
「特別?」
「食事の時に、お父さんからお話があるそうよ」
レイブンは不思議そうに首を傾げた。
食堂へ入ると、ヴァルター・A・クロウが窓際に立っていた。
以前より少し痩せた身体に、濃灰色の上着を着ている。右袖は肩の下で留められ、左手には書類の入った封筒が握られていた。
息子の姿を見つけると、ヴァルターは表情を和らげた。
「おはよう、レイブン」
「おはよう、父さん」
「八歳の誕生日、おめでとう」
「ありがとう!」
ヴァルターは左手を伸ばし、息子の頭を撫でた。
黒い猫耳が指先に触れ、レイブンはくすぐったそうに笑った。
「もう八歳か。早いものだな」
「父さん、去年も同じこと言ってた」
「そうだったか?」
「うん」
セレナが笑った。
「毎年おっしゃっていますよ」
ヴァルターは困ったように笑い、家族と一緒に食卓へ着いた。
焼きたてのパンと卵料理、温かなスープが並べられている。ルナは兄の誕生日が嬉しいらしく、何度も「はっさい」と繰り返していた。
食事が半ばを過ぎた頃、ヴァルターは封筒を手元へ引き寄せた。
「レイブン、少し話がある」
少年は顔を上げた。
「何?」
「父さんの軍務についてだ」
セレナは静かに紅茶のカップを置いた。
ヴァルターは息子と娘を見渡してから、ゆっくりと言った。
「正式な手続きが終わった。父さんは、帝国軍の現役部隊を離れることになった」
レイブンは目を瞬かせた。
「……もう軍人さんじゃなくなるの?」
「現役の指揮官として部隊を率いることはなくなる。これからは退役後の予備役資格を持ちながら、軍の教育機関で教官を務める予定だ」
「教官……」
少年はその言葉を繰り返した。
以前、父から聞いたことがある。
若い軍人たちに、経験や知識を教える仕事。
「じゃあ、父さんはもう戦場へ行かないの?」
ヴァルターは即答しなかった。
「少なくとも、今の任務では前線に立たない。だが、将来何が起きるかまで約束することはできない」
レイブンは少し考えた。
「……でも、お家に帰ってくるんだよね?」
「ああ。教育施設へ通うことになるが、できる限り家族との時間を取るつもりだ」
その返事を聞いて、少年は安心したように笑った。
「よかった」
ヴァルターも微笑んだ。
だが、セレナだけは知っていた。
夫がその仕事を引き受けるまでに、どれほど長い時間を必要としたのかを。
それは、数週間前のことだった。
帝政歴三三五年、十一月六日。
帝国中央部、陸軍教育総監部。
ヴァルターは軍服の上着を整え、長い廊下を歩いていた。
磨かれた床には窓から差し込む光が反射し、壁には歴代の軍人たちの肖像画が並んでいる。
彼が案内された会議室には、教育総監部の将校が三人待っていた。
その中央に座っていたのは、アウグスト・ラインハルト少将だった。
「久しぶりだな、クロウ少佐」
ラインハルトは立ち上がった。
「ご無沙汰しております、閣下」
「堅苦しい挨拶はいい。身体の具合はどうだ?」
「以前よりは安定しております。右腕の再構築については、引き続き医療研究施設で評価中です」
「そうか」
ラインハルトは頷き、ヴァルターへ着席を促した。
会議机には、教育課程の改訂案が置かれていた。
新任士官の基礎指揮教育。
野外勤務。
負傷者の救護。
部隊の撤収と再編。
さらに、異界環境における未知の脅威への対応。
「君に頼みたいのは、この教育課程の一部を担当することだ」
ラインハルトは書類を指差した。
「特に、実戦経験を踏まえた生存判断についてだ」
ヴァルターは書類を読み進めた。
そこには、実戦経験者による講義、演習評価、若手将校への指導と記されていた。
「……閣下」
「何だ?」
「お断りすることは可能でしょうか」
会議室に短い沈黙が落ちた。
ラインハルトは驚いたように眉を上げた。
「理由を聞こう」
ヴァルターは書類から目を離した。
「私は、若い兵士たちを戦場へ送り出す仕事に就きたくありません」
同席していた将校の一人が顔を上げた。
ラインハルトは黙っていた。
ヴァルターは続けた。
「私の部隊には、帰還できなかった者がいます。彼らの中には、まだ二十歳にもなっていない者もいました」
彼は右袖へ視線を落とした。
「私は生き残りました。しかし、あの者たちを連れて帰ることはできなかった」
声は落ち着いていた。
だが、言葉の端には抑えきれない感情が滲んでいた。
「自分と同じ死地に、これから軍人になる若者たちを送りたくないのです」
ラインハルトは静かに息を吐いた。
「クロウ少佐。軍の教育機関は、戦場へ送り出すためだけに存在するわけではない」
「理解しております」
「ならば、なぜ拒む?」
ヴァルターは少し間を置いた。
「教えた結果、彼らが自信を持って前線へ向かい、そこで命を落としたとしたら……私は、そのことを受け入れられるか分かりません」
彼にしては珍しく、否定的な言葉だった。
かつてのヴァルターは、どれほど厳しい任務でも冷静に向き合う将校として知られていた。
任務の危険性を理解しながら、必要な準備を整え、部下を率いてきた。
しかし、異界からの帰還は彼を変えていた。
命令を遂行することと、部下を生きて帰すこと。
その二つが両立しなかった瞬間を、彼は忘れられなかった。
ラインハルトは長い沈黙の後、口を開いた。
「では、君が教えなければ、その若者たちはどうなる?」
ヴァルターは顔を上げた。
「……どういう意味でしょうか」
「経験の浅い教官から、教範に書かれた通りの判断だけを学ぶことになるかもしれん。撤退を恥だと思い、負傷者を置いて進むことを当然だと考える指揮官になるかもしれん」
ラインハルトは机の上の書類を閉じた。
「君は、そのような将校を増やしたいのか?」
「いいえ」
「ならば、君が教えればいい」
ヴァルターは黙った。
ラインハルトは続けた。
「敵を倒す方法だけではない。部下を失わずに任務を終える方法を。退くべき時に退く判断を。命令が現実に合わなくなった時、どう責任を取るかを」
ヴァルターは左手を握り締めた。
「……私は、全員を救えたわけではありません」
「だからこそだ」
ラインハルトの声が低くなった。
「失敗したことのない人間には、教えられないことがある」
窓の外では、風が枯葉を舞い上げていた。
ヴァルターは、異界で失った部下たちの顔を思い出していた。
若い通信兵。
冗談ばかり言っていた機関銃手。
帰還したら結婚すると話していた衛生兵。
誰もが、自分の人生を持っていた。
彼らは軍人である前に、一人の人間だった。
「……条件があります」
ヴァルターは、ようやく口を開いた。
ラインハルトは頷いた。
「聞こう」
「私が担当する教育では、生還を最優先の評価項目に含めていただきたい」
「具体的には?」
「撤退判断、負傷者の保護、部隊の再集合、補給の限界、指揮官の責任です。任務を達成したとしても、不必要な損耗を出した場合は成功と評価しないでいただきたい」
ヴァルターは真っ直ぐに少将を見た。
「若者たちを死なせたくありません。そのために、生き残り方を教えるのであれば……引き受けます」
ラインハルトは、しばらく彼を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「その条件を、教育課程へ反映させよう」
ヴァルターは深く息を吐いた。
「……承知しました」
それは、積極的な決断とは言い難かった。
むしろ、渋々受け入れたと言った方が正しかった。
それでも彼は、自分が戦場で失ったものを、次の世代へ伝える道を選んだ。
帝政歴三三五年、十一月二十五日。
午前十時十四分。
クロウ家別邸の書斎では、レイブンが父の机を覗き込んでいた。
「父さん、これが教官のお仕事?」
机には、新しい教育課程の資料が広げられていた。
「ああ。来月から担当する講義の準備だ」
「何を教えるの?」
ヴァルターは少し考えた。
「生きて帰るために、何を考えなければならないかだ」
レイブンは首を傾げた。
「……戦い方じゃないの?」
「戦い方も必要だ。だが、それだけでは足りない」
ヴァルターは紙の上に簡単な図を描いた。
小さな四角が三つ。
それぞれを線で結ぶ。
「例えば、三人で山道を歩いているとする。途中で一人が怪我をしたら、どうする?」
「助ける」
「そうだな。だが、助けようとして残りの二人まで怪我をしたら?」
レイブンは黙った。
「……困る」
「ああ。だから、周りが安全かどうか確かめる。助けを呼ぶ。怪我をした人を無理に動かしてはいけない場合もある」
少年は図を見つめた。
「……急いで助けるだけじゃ駄目なんだ」
「そうだ。助けたいという気持ちは大切だが、それを実現するには考える必要がある」
レイブンは頷いた。
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
「ただし、お前はまだ八歳だ。危険なことがあったら、大人を呼ぶんだぞ」
「うん。分かってる」
少年は少し笑った。
「父さんが教官になったら、みんなに同じことを教えるの?」
「ああ。もっと難しいことも教えるが、根本は同じだ」
レイブンは父を見上げた。
「……父さん、いい先生になれると思う」
ヴァルターは意外そうに目を瞬かせた。
「どうしてだ?」
「だって、父さんは僕が分かるまで教えてくれるから」
その言葉に、ヴァルターはしばらく返事ができなかった。
やがて、静かに笑った。
「……そうか。それなら、頑張らないとな」
その頃、帝国北部では、別の時間が流れていた。
同日、午前十一時三十七分。
ヴァイスベルク北東部、ガーランド山系西側。
国境警備区域のさらに北に位置する山岳地帯では、帝国軍の小規模部隊が後退を続けていた。
共和国との全面戦争は、まだ始まっていない。
しかし、数か月にわたって続いた国境付近の不審な武装活動と散発的な襲撃によって、帝国軍の一部前進監視拠点は維持が困難になっていた。
正規軍同士の大規模交戦ではなかった。
所属不明の武装勢力による発砲、補給路への妨害、夜間の接近。
それらが積み重なり、山間部の孤立した監視所では、警戒と撤収を繰り返す日々が続いていた。
帝国軍は政治的な緊張を拡大させないため、国境を越える追撃を禁じる一方、危険性の高い前進拠点から部隊を引き下げていた。
その日も、第四山岳警備大隊の一部が、ガーランド山系の前進観測所から撤収していた。
山道には、雪解け水と雨でできた深い轍が残っていた。
先頭を進む装甲車の履帯が泥を押し潰し、低いエンジン音を響かせている。
その後ろを、負傷者を乗せた輸送車両と補給トラックが続いていた。
最後尾では、数名の歩兵が周囲を警戒しながら歩いている。
「急ぐな! 車間を詰めすぎるな!」
部隊長の声が無線から聞こえた。
古参兵のディートリヒ・ファルケ曹長は、濡れた手袋を握り直した。
四十代半ば。
短く刈り込んだ灰色混じりの髪と、深い皺の刻まれた顔。
長年の軍務で鍛えられた身体には、古傷がいくつも残っていた。
彼は帝国軍の山岳部隊で数々の任務を経験してきた。
その隣には、ヴォルター・クライン軍曹がいた。
ヴァルター・A・クロウとは別人である。
ヴォルターはファルケより数歳若く、かつて同じ部隊で任務に就いていた戦友だった。
「……また後退か」
ファルケが呟いた。
ヴォルターは周囲を見ながら答えた。
「命令だ。前進観測所は維持する価値がないと判断された」
「分かってるよ」
ファルケは肩をすくめた。
「分かってるが、気分のいいもんじゃねえ」
彼らの背後では、数時間前まで帝国軍の兵士が詰めていた監視所が、霧の向こうへ消えかけていた。
建物は放棄され、重要な装備と記録は搬出済みだった。
残されたのは、空になった宿舎と、雨に濡れた土嚢だけだった。
ファルケは振り返った。
「三日前には東の尾根を引いた。昨日は林道の監視所。今日はここだ」
「補給路が危険になっている。無理に居座れば、孤立する」
「だから分かってるって」
ファルケは苦笑した。
その時だった。
遠くの斜面から、乾いた銃声が響いた。
パァン、という音が一つ。
少し遅れて、谷の反対側から反響が返ってきた。
兵士たちは一斉に身を低くした。
「銃声! 北東方向!」
誰かが叫んだ。
ファルケは近くの岩陰へ身体を寄せた。
続いて二発、間隔を置いて発砲音が聞こえた。
しかし、弾丸が近くへ着弾した様子はない。
「こちら後衛、銃声を確認。着弾なし。発砲地点は不明!」
ヴォルターが無線で報告した。
ファルケは斜面を見上げた。
霧と木々が視界を遮り、発砲した人物の姿は見えない。
「……ったく。どこの馬鹿だ」
彼は低く吐き捨てた。
先頭車両から返答が入った。
『後衛、こちら指揮車。車列は安全な位置まで移動を継続する。発砲元を確認できない限り、無用な交戦は避けろ』
「了解」
ファルケは銃を構えたまま、周囲を確認した。
後方の若い兵士が、緊張した表情で彼を見ていた。
「曹長、追ってきてるんですか?」
「分からん」
「でも、今の銃声は……」
「銃声だけで相手の考えが分かるなら、俺たちはとっくに休暇を取ってる」
ファルケは短く答えた。
「見えないものを勝手に決めつけるな。今は車列から離れるな」
若い兵士は頷いた。
銃声は、それ以上続かなかった。
だが、緊張は解けなかった。
装甲車がゆっくりと進み、後衛の兵士たちも距離を保って移動を再開した。
ファルケは歩きながら、肩越しに山を振り返った。
「……昔なら、あの辺りに誰を置くかで揉めたもんだ」
ヴォルターが答えた。
「昔って、いつの話だ?」
「ガーランドの件さ」
その言葉に、ヴォルターの表情が変わった。
「……ああ」
ファルケは小さく笑った。
「覚えてるか? あの山道で、うちの部隊が丸一日足止めを食らった時のこと」
「忘れるわけがない」
「弾薬は足りねえ、通信は切れる、天気は最悪。おまけに指揮官は撤収経路を見失いかけてた」
ヴォルターは苦笑した。
「随分と昔の話をするな」
「歳を取ると、昔話が増えるんだよ」
ファルケは前方の車列へ目を向けた。
そして、ぽつりと呟いた。
「《ガーランドの悪魔》は何してるのかな、なぁ。ヴォルター」
ヴォルターはすぐには答えなかった。
その二つ名を聞いたのは、久しぶりだった。
《ガーランドの悪魔》。
かつてガーランド山系の撤収戦で、孤立しかけた部隊を生還させた帝国軍将校につけられた呼び名だった。
敵にとって悪魔だったのか。
味方にとって、死地から現れた悪魔だったのか。
その由来は、語る兵士によって少しずつ違っていた。
しかし、共通していたことが一つある。
その将校は、部下を置き去りにすることを嫌った。
そして、勝てない戦闘を続けるより、生きて帰る道を探した。
「……ヴァルター・クロウ少佐か」
ヴォルターが言った。
ファルケは頷いた。
「そうだ」
「異界で右腕を失ったって聞いた」
「ああ」
「最近、現役を退いたそうだ」
ファルケは少し驚いたように顔を上げた。
「……退役?」
「正確には、予備役資格を残して教育任務へ移るらしい。今度は教官だとよ」
ファルケはしばらく黙っていた。
そして、低く笑った。
「……あいつが教官か」
「意外か?」
「いや」
ファルケは首を振った。
「むしろ、似合ってる」
彼は遠くの山を見た。
「ただな、ヴォルター。あいつが教えるなら、若い連中は大変だぞ」
「どうしてだ?」
「格好いい突撃の話なんぞ、ほとんどしてくれねえからさ」
ファルケは笑った。
「飯を食ったか、足は動くか、仲間は全員いるか。あいつが気にするのは、いつもそういうことだった」
ヴォルターも笑った。
「……確かにな」
ファルケはしばらく歩いてから、声を落とした。
「俺は、あいつに借りがある」
「知ってる」
「ガーランドで脚をやられた時、置いていけと言ったんだ」
ヴォルターは黙っていた。
「そしたら、あいつは怒りやがった。俺の顔を見て、『置いていくかどうかを、お前一人で決めるな』ってな」
ファルケは右膝を軽く叩いた。
古傷が、寒さで痛んでいた。
「おかげで今も歩いてる」
ヴォルターは静かに頷いた。
その時、後方から若い兵士の声が聞こえた。
「曹長、その《ガーランドの悪魔》って、そんなに凄い人だったんですか?」
ファルケは振り返った。
「凄いかどうかは知らん」
「え?」
「ただ、俺はあいつのおかげで帰れた」
古参兵は前方へ向き直った。
「それで十分だ」
車列は、霧の薄くなった山道をゆっくりと下っていった。
同日、午後二時二十六分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
レイブンの誕生日を祝うため、屋敷には祖父アルベルト・A・クロウと祖母ヘレーネが訪れていた。
食堂には小さな菓子と温かな飲み物が並び、ルナは祖母の膝の上で嬉しそうに笑っていた。
「レイブン、八歳の誕生日おめでとう」
アルベルトは孫へ声を掛けた。
「ありがとうございます、お祖父様」
「随分と背が伸びたな」
レイブンは少し照れたように笑った。
ヘレーネは孫の頭を撫でた。
「日記は続けているの?」
「はい。毎日ではないけど、書いています」
「それでいいのよ。自分の言葉で残すことが大切なのだから」
レイブンは頷いた。
アルベルトはヴァルターへ視線を向けた。
「教官の件、正式に決まったそうだな」
「ああ。来月から教育施設へ出向く予定だ」
「そうか」
アルベルトは静かに頷いた。
「お前が決めたことなら、それでいい」
ヴァルターは父を見た。
「……反対しないのか?」
「何に反対する?」
「軍を退き、教官になることにだ」
アルベルトは少し笑った。
「お前は既に、自分の責任で選べる年齢だ」
そして、真剣な表情になった。
「それに、クロウ家の人間だからといって、必ず前線で戦わなければならないわけではない」
ヴァルターは黙っていた。
「我が家の家訓を忘れたか?」
「……名誉より責任を」
「そうだ」
アルベルトは頷いた。
「お前が今、果たすべき責任は何だ?」
ヴァルターは少し考えた。
そして、庭で遊ぶレイブンとルナへ目を向けた。
「……家族を守ること。そして、若い兵士たちに、私の経験を伝えることだ」
アルベルトは微笑んだ。
「それなら、胸を張ればいい」
ヴァルターは静かに頷いた。
その夜。
帝国中央部、クロウ家別邸。
誕生日の祝いが終わり、屋敷には穏やかな静けさが戻っていた。
ルナは遊び疲れて眠り、セレナは娘の寝顔を見守っている。
レイブンは父の書斎を訪れていた。
「父さん、入っていい?」
「ああ」
ヴァルターは机から顔を上げた。
少年は、黒鴉の徽章を手に持っていた。
「……父さん」
「何だ?」
「今日、お祖父様に聞いたんだ」
「何を?」
「クロウ家の人は、名誉より責任を大事にするんだって」
ヴァルターは頷いた。
「ああ」
「……父さんが教官になるのも、責任なの?」
ヴァルターはしばらく考えた。
「そうだな」
そして、息子を隣の椅子へ座らせた。
「レイブン。父さんは、最初、この仕事を引き受けたくなかった」
少年は驚いた。
「……どうして?」
「若い兵士たちを、戦場へ送り出したくなかったからだ」
「……でも、教官になるんでしょ?」
「ああ」
ヴァルターは左手を机の上へ置いた。
「考えたんだ。もし父さんが教えなければ、あの若者たちは何を知らないまま戦場へ行くのだろう、と」
レイブンは黙って聞いていた。
「戦い方を知っていても、退くべき時が分からなければ命を失う。勇気があっても、仲間の状態を見られなければ、助けられる人を失うことがある」
ヴァルターは息子を見た。
「だから、父さんは教えることにした。どうすれば生き残れるのかを」
レイブンは少し考えた。
「……みんなが帰れるように?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「全員を必ず帰せるとは言えない。それでも、一人でも多く帰れるようにするためだ」
レイブンは父の左手を握った。
「……父さん」
「何だ?」
「僕も、誰かが困ってたら助けたい」
ヴァルターは微笑んだ。
「それは良いことだ」
そして、少しだけ声を低くした。
「ただし、覚えておいてほしい。人を助けるために、自分まで危険へ飛び込む必要はない。助けを呼ぶことも、立派な行動なんだ」
レイブンは頷いた。
「……分かった」
ヴァルターは息子の頭を撫でた。
「八歳の誕生日に、少し難しい話をしてしまったな」
「ううん」
レイブンは笑った。
「父さんのお話、好きだよ」
その言葉に、ヴァルターは静かに微笑んだ。
同日、午後十時四十一分。
帝国北部、ガーランド山系後方集結地。
撤収を終えた第四山岳警備大隊の兵士たちは、仮設宿営地で休息を取っていた。
小さな暖房器具の周囲に、数名の兵士が集まっている。
ファルケ曹長は濡れた手袋を乾かしながら、金属製のカップに入った温かい飲み物を口へ運んだ。
ヴォルター軍曹が隣へ腰を下ろした。
「……今日も全員帰れたな」
ファルケは頷いた。
「ああ」
「明日は、別の監視所からの撤収を支援するそうだ」
「そうか」
ファルケはカップを置いた。
少し離れた場所では、若い兵士たちが眠っていた。
泥に汚れた軍靴。
壁に立て掛けられた小銃。
乾燥させるために吊るされた雨具。
その光景を見つめながら、ファルケは静かに呟いた。
「……あいつなら、何て言うかな」
「クロウ少佐か?」
「ああ」
ヴォルターは少し考えた。
「たぶん、最初に人数を数えるだろうな」
ファルケは笑った。
「違いねえ」
そして、若い兵士たちへ視線を向けた。
「……こいつらを、ちゃんと帰してやらねえとな」
ヴォルターは頷いた。
「ああ」
外では、北風が仮設宿営地の幕を揺らしていた。
国境の緊張は、まだ解けていない。
帝国軍の一部部隊は、危険な前進拠点から後退を続けていた。
それは敗戦による全面的な撤退ではなく、孤立と不必要な損耗を避けるための限定的な再配置だった。
しかし、現場の兵士たちにとって、危険が現実のものであることに変わりはなかった。
彼らは今日も、生きて帰るために歩き続けていた。
同じ頃、クロウ家別邸。
レイブンは自室の机に向かい、日記帳を開いていた。
八歳になって最初の日記だった。
『今日は、僕の八歳の誕生日だった。
ルナが朝からお祝いしてくれた。
母さんも、お祖父様も、お祖母様も、みんなお祝いしてくれた。
父さんは、軍を退いて教官になることが決まった。
最初は引き受けたくなかったらしい。
若い兵士さんたちを、危ない場所へ送りたくなかったからだって。
でも、みんなが生きて帰れるように、教えることにしたんだって。
僕は、父さんがいい先生になれると思う。
父さんは、僕にもいつも大事なことを教えてくれるから。
僕も、もっと勉強したい。
それから、早く元のお家に帰りたい。
来年の誕生日は、故郷で迎えられたらいいな。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
机の上には、祖父から贈られた黒鴉の徽章が置かれている。
少年はそれを手に取り、しばらく見つめていた。
父が戦場で何を経験したのか。
なぜ、若い兵士たちを死地へ送りたくないと考えたのか。
そのすべてを、八歳のレイブンが理解することはまだできなかった。
それでも、父が教えようとしていることには、大切な意味があるのだと感じていた。
窓の外では、冬の風が木々を揺らしている。
遠く離れたガーランド山系では、兵士たちが次の撤収任務に備えて眠っていた。
そして、かつて《ガーランドの悪魔》と呼ばれた男は、今、家族のいる屋敷で静かな夜を迎えていた。
その二つ名が、再び戦場で語られていることを、ヴァルターはまだ知らない。
彼が知っているのは、失った部下たちの顔と、帰還できた者たちの声だった。
その記憶を胸に、彼は新たな任務へ向かおうとしていた。
銃を持って前線に立つのではなく、若い兵士たちの前に立ち、生き残るための知識を伝える。
それが、ヴァルター・A・クロウの選んだ道だった。
帝政歴三三五年、十一月二十五日。
レイブン・S・クロウ、八歳。
父ヴァルター・A・クロウ、現役部隊から退役し、軍教育機関の教官へ転任。
そして、帝国北部では、依然として国境の緊張が続いていた。
戦争は、まだ始まっていない。
だが、戦場を知る者たちは、その足音が遠くから近づいていることを感じていた。
彼らが守ろうとしているものは、地図に描かれた領土だけではなかった。
家族。
故郷。
そして、帰る場所。
それらを失わないために、今日も誰かが判断を下していた。
八歳になった少年は、まだ知らない。
やがて自分自身が、父と同じように多くの命を預かる立場になることを。
そして、《ガーランドの悪魔》という名の裏に刻まれた記憶が、いつの日か自分の歩む道にも深く関わってくることを。
夜は静かに更けていった。
帝国中央部の別邸では、家族の灯りが一つずつ消えていく。
その一方で、北部の山岳地帯では、監視所の灯りが夜通し輝き続けていた。
平穏な日々を願う人々と、その平穏を守ろうとする兵士たち。
それぞれの時間は、同じ帝国の空の下で流れていた。




