第23話 帰還者の傷跡
第23話 帰還者の傷跡
帝政歴三三五年、六月十三日。
午前六時二十一分。
帝国中央部、クロウ家別邸。
朝方まで降り続いていた雨が止み、屋敷を取り囲む森には薄い霧が漂っていた。庭園の芝生は濡れ、石畳の目地には水が残っている。
ヴァルター・A・クロウ少佐は、寝室の窓辺に立っていた。
左手でカーテンを開き、曇った空を眺める。
右袖は肩の下で丁寧に留められていた。
彼は右腕を失ってから、以前よりも身体の均衡を意識するようになった。歩く時、椅子から立ち上がる時、階段を下りる時。何気ない動作の一つひとつに、以前とは異なる注意が必要だった。
今朝も、失われた右腕に鈍い痛みを感じていた。
実際には存在しないはずの指先が、強く握り締められているような感覚。
その不快な痛みは、時折、眠りを妨げることもあった。
「……また痛みますか?」
背後からセレナの声が聞こえた。
ヴァルターは振り返った。
妻は寝衣の上に薄い上着を羽織り、心配そうに彼を見つめていた。
「少しな。昨夜よりは落ち着いている」
「医師から処方された薬は?」
「必要な時に使っている。今朝は、もう少し様子を見るつもりだ」
セレナは夫のそばへ歩み寄った。
「痛みを我慢することが、強さではありませんよ」
ヴァルターは苦笑した。
「分かっている」
「本当に?」
「……努力はしている」
その返答に、セレナは小さく笑った。
ヴァルターも微笑んだ。
窓の外では、雨上がりの風が木々の葉を揺らしている。
「来週の検査で、何か分かるといいですね」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「ただ、結果がどうであっても、今できることを続けるしかない」
セレナは夫の左手を握った。
「それなら、私も一緒に考えます」
ヴァルターは妻を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
午前七時十二分。
クロウ家別邸、食堂。
朝食の席では、レイブンがパンを小さくちぎりながら、父の顔を見つめていた。
ルナは隣で、温かいスープを飲んでいる。
「……父さん」
「何だ?」
「……今日は、何するの?」
ヴァルターは少し考えた。
「午前中は書類の整理だな。午後は、少し庭を歩こうと思っている」
「僕も行っていい?」
「ああ。もちろんだ」
レイブンは嬉しそうに笑った。
ルナも顔を上げた。
「……ルナも!」
ヴァルターは笑った。
「ルナも一緒だ」
セレナは微笑んだ。
「ただし、雨上がりですから、滑らないように気をつけてくださいね」
「うん!」
レイブンは頷いた。
ヴァルターは息子の表情を見つめた。
避難生活が始まってから、レイブンは以前よりも父のそばにいる時間が増えていた。
慣れない屋敷での生活。
故郷から離れた不安。
そして、国境情勢への漠然とした恐怖。
少年なりに、さまざまなことを感じているのだろう。
ヴァルターは、できる限り家族と過ごす時間を大切にしようと思っていた。
午前八時三十八分。
帝国北部、ヴァイスベルク山岳地帯第三監視所。
カール・ヴェーゲナー軍曹は、夜間勤務の報告書を確認していた。
前日の雨によって山岳道路の一部が通行困難になっていたが、工兵隊による復旧作業は進んでいた。
監視所への補給も、代替経路を利用して維持されている。
オットー・ライナー上等兵が、双眼鏡を下ろした。
「軍曹、共和国側道路で車両二両を確認しました」
「移動方向は?」
「北東です。こちらへ接近する様子はありません」
「分かった。記録に残しておけ」
ライナーは頷いた。
しばらくして、彼は小さく呟いた。
「……静かですね」
ヴェーゲナーは双眼鏡を構えた。
「静かな方がいい」
「……そうですね」
ライナーは頷いた。
国境の向こうでは、共和国軍の兵士たちが監視任務を続けている。
互いに警戒していることは確かだった。
しかし、今日も銃声は聞こえなかった。
ヴェーゲナーは静かに息を吐いた。
戦争が始まっていないという事実が、どれほど貴重なものなのか。
彼は、数日前の発砲事件を思い出しながら、そのことを改めて感じていた。
午前九時五十四分。
連邦共和国北西軍管区、国境警備第三中隊。
アレクセイ・ミハイロヴィチ・オルロフ大尉は、部下からの報告を受けていた。
六月八日の発砲事件について、調査は依然として続いていた。
負傷したパーヴェル・ベロフ伍長は軍病院で治療を受けており、回復へ向かっている。
しかし、武装集団の所属や目的は明らかになっていなかった。
イリヤ・ソコロフ中尉が報告した。
「大尉、現場周辺の住民から追加の証言が得られました」
「内容は?」
「事件前日の夜、山道で複数の人影を見たそうです。ただし、軍服を着ていたかどうかは分からなかったとのことです」
オルロフは頷いた。
「……そうか」
ソコロフは続けた。
「住民は、武装していた可能性があるとも話しています」
「可能性、か」
オルロフは少し考えた。
「証言は記録しておけ。ただし、断定はするな」
「了解しました」
オルロフは地図へ視線を向けた。
国境線の周辺には、古い林道や山道が複雑に入り組んでいる。
その一部は、地元住民が長年利用してきた道だった。
軍の地図だけでは、すべての通行経路を把握することは難しい。
「……地元警察との連携を続けろ」
「はい」
ソコロフは頷いた。
オルロフは机の上の家族写真を見つめた。
妻と娘が笑っている。
彼は静かに息を吐いた。
この国境の緊張が、いつまで続くのかは分からない。
だが、少なくとも自分の部下たちを、無用な危険へ晒すわけにはいかなかった。
午前十一時二十六分。
クロウ家別邸、書斎。
ヴァルターは、軍から届いた医療評価に関する書類を確認していた。
次回の検査では、残存神経の反応と魔力活動の関連を詳しく調べる予定だった。
しかし、再構築試験そのものは、まだ実施されない。
現時点では、安全性と実現可能性を評価する段階である。
ヴァルターは書類を閉じた。
そして、失われた右肩へ視線を落とした。
右腕を失った日のことを、彼は今でも鮮明に覚えていた。
帝政歴三三四年。
異界門の向こう。
見知らぬ大地。
そして、帰還を目指していた帝国軍の部隊。
あの日、彼らは山岳地帯の狭い谷を移動していた。
空には灰色の雲が広がり、周囲には見慣れない植物が生えていた。
地面は湿っており、岩肌には苔が付着していた。
部隊は慎重に前進していた。
ヴァルターは先頭に近い位置で、周囲の状況を確認していた。
その時だった。
前方の斜面から、突然、鋭い音が響いた。
続いて、岩の表面が砕け、細かな破片が飛び散った。
「伏せろ!」
誰かが叫んだ。
兵士たちは一斉に身を低くした。
次の瞬間、複数の発砲音が谷間に響いた。
乾いた銃声と、岩に当たる硬い音。
銃弾が地面へ着弾するたびに、土砂が小さく跳ね上がった。
ヴァルターは近くの岩陰へ身を寄せた。
「敵の位置は!?」
「右前方の斜面です! 複数!」
部下が叫んだ。
ヴァルターは岩の縁から短く周囲を確認した。
敵の姿は、木々と岩の間に隠れていた。
しかし、発砲時に生じる閃光と、土煙の上がる位置から、おおよその方向を把握することはできた。
「負傷者は!?」
「一名! 左脚を撃たれています!」
ヴァルターは振り返った。
少し後方で、若い兵士が地面へ倒れていた。
軍服の左脚には血が滲んでいる。
衛生兵が近づこうとしていたが、周囲にはまだ銃弾が飛んでいた。
「無理に出るな! 遮蔽物を使え!」
ヴァルターは叫んだ。
兵士たちは岩陰から周囲を確認し、負傷者へ近づく機会を探った。
銃声が一時的に弱まった瞬間、二人の兵士が負傷者のもとへ移動した。
彼らは負傷者の身体を支え、近くの岩陰へ引き寄せた。
衛生兵がすぐに状態を確認した。
「意識あり! 出血が多い!」
「止血を優先しろ!」
ヴァルターは指示した。
その直後、前方で大きな衝撃音が響いた。
岩肌の一部が砕け、土砂と破片が飛び散った。
爆風が谷間を駆け抜け、兵士たちは反射的に頭を低くした。
ヴァルターの耳には、一瞬、甲高い音が残った。
周囲の声が遠く感じられる。
彼は歯を食いしばり、身体を起こそうとした。
その時、右側から強い衝撃を受けた。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
身体が横へ押され、地面へ倒れる。
右肩から先に、激しい痛みが走った。
視界の端で、軍服の袖が不自然な形になっているのが見えた。
ヴァルターは右腕を動かそうとした。
しかし、動かなかった。
「……っ!」
息が詰まった。
右腕が、なかった。
彼はその事実を理解するまで、数秒を要した。
「少佐!」
部下の声が聞こえた。
「少佐、しっかりしてください!」
ヴァルターは左手で地面を押さえ、身体を起こそうとした。
しかし、激しい痛みと出血によって、視界が揺れた。
衛生兵が駆け寄ってきた。
「少佐、動かないでください!」
ヴァルターは荒い呼吸を繰り返した。
「……部隊は?」
「今は少佐の処置が先です!」
「……負傷者を……」
「搬送準備を進めています!」
衛生兵は損傷部位を確認し、出血を抑えるための処置を始めた。
周囲では、まだ銃声が続いていた。
ヴァルターは意識を保とうとした。
しかし、視界が次第に暗くなっていく。
最後に聞こえたのは、部下の声だった。
「少佐を後方へ! 急げ!」
そして、記憶は途切れた。
「……あなた?」
セレナの声が聞こえた。
ヴァルターは目を開けた。
書斎の扉の前に、妻が立っていた。
「……大丈夫ですか?」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……ああ」
セレナは夫の表情を見つめた。
「また、あの日のことを思い出していたのですね」
ヴァルターは頷いた。
「……少しな」
セレナは夫のそばへ歩み寄った。
「無理に話さなくてもいいですよ」
ヴァルターは妻を見つめた。
そして、静かに答えた。
「……ありがとう」
セレナは夫の左手を握った。
書斎には、しばらく静かな時間が流れていた。
午後一時四十八分。
帝国中央部、中央軍医療研究施設。
フリードリヒ・ハルトマン軍医中佐は、ヴァルターの過去の診療記録を確認していた。
右上肢の欠損。
残存神経の反応。
幻肢痛。
そして、異界帰還後に確認された魔力活動。
これらの情報を総合すると、通常の外傷患者とは異なる特徴が見られていた。
しかし、それが腕の再構築に直結するかどうかは、まだ分からない。
ハルトマンは研究医へ説明した。
「今回の検査では、まず身体の状態を正確に把握する」
「再構築の可能性については?」
「理論上の検討を続ける。ただし、安全性が確認できるまでは、実際の再構築試験を行わない」
研究医は頷いた。
「承知しました」
ハルトマンは記録を閉じた。
「クロウ少佐には、家族がいる」
若い研究医は顔を上げた。
「……はい」
「我々の役割は、患者の生活を支えることだ。研究成果を優先して、危険へ晒すことではない」
「了解しました」
ハルトマンは静かに頷いた。
午後三時十六分。
クロウ家別邸、庭園。
雨上がりの庭園には、柔らかな日差しが差し込んでいた。
レイブンはルナと一緒に、小さな池の周囲を歩いていた。
水面には、白い雲が映っている。
ルナは水鳥を見つけ、嬉しそうに声を上げた。
「……おにいちゃん!」
「どうしたの?」
「……とり!」
レイブンは笑った。
「本当だね」
水鳥は二羽並んで泳いでいた。
ルナはしばらく見つめていたが、やがて兄へ顔を向けた。
「……おにいちゃん」
「なあに?」
「……いっしょ」
レイブンは微笑んだ。
「……そうだね。一緒だね」
ルナは嬉しそうに笑った。
少し離れた場所では、セレナが長椅子に座っていた。
その隣には、ヴァルターがいる。
「……あなた」
セレナが声を掛けた。
「何だ?」
「来週の検査、私も同行しますね」
ヴァルターは頷いた。
「ああ。助かる」
セレナは夫を見つめた。
「……不安ですか?」
ヴァルターは少し考えた。
「……正直に言えば、少しな」
「そうですか」
「腕が戻る可能性があると聞けば、期待してしまう」
ヴァルターは失われた右肩へ視線を落とした。
「だが、まだ何も分かっていない。期待しすぎるのも良くないと思っている」
セレナは夫の左手へ、自分の手を重ねた。
「……期待してもいいと思います」
ヴァルターは妻を見た。
「ただし、結果がどうであっても、あなたはあなたです」
セレナは微笑んだ。
「右腕が戻らなくても、私たちの家族であることは変わりません」
ヴァルターはしばらく黙っていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
庭園では、レイブンとルナが水鳥を眺めていた。
ヴァルターはその姿を見つめながら、少しだけ肩の力を抜いた。
午後五時四十二分。
帝国北部方面軍司令部。
国境情勢に関する夕刻の報告が行われていた。
「本日、共和国側で大規模な部隊移動は確認されていません」
情報将校が報告した。
「ただし、国境警備部隊の警戒態勢は継続しています」
司令官は頷いた。
「発砲事件の調査は?」
「継続中です。共和国側から新たな公式発表はありません」
「分かった」
司令官は地図を見つめた。
国境線を挟んで、二つの軍隊が向かい合っている。
しかし、今日も大規模な衝突は起きなかった。
「……それなら、今はそれでいい」
司令官は静かに呟いた。
そして、将校たちへ視線を向けた。
「警戒を続けろ。ただし、必要以上に相手を刺激するな」
「了解しました」
将校たちは敬礼した。
司令官は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの空には、薄い雲が広がっていた。
その向こうには、帝国と共和国の国境がある。
そして、そこには今日も兵士たちが立っていた。
午後七時三十一分。
クロウ家別邸、居間。
夕食を終えたレイブンは、父の隣で本を読んでいた。
ルナは母の膝の上で眠そうにしている。
暖炉には小さな火が灯され、部屋には柔らかな光が広がっていた。
「……父さん」
レイブンが尋ねた。
「何だ?」
「……腕がなくなった時、怖かった?」
ヴァルターは少し黙った。
そして、静かに答えた。
「……怖かったよ」
レイブンは父を見つめた。
「……すごく?」
「ああ」
ヴァルターは頷いた。
「何が起きたのか分からなくて、仲間のことも心配だった」
少年は少し俯いた。
「……痛かった?」
「……痛かった」
ヴァルターは正直に答えた。
「だが、それ以上に、もう家族に会えないかもしれないと思ったことが怖かった」
レイブンは父の左手を握った。
「……でも、帰ってきた」
「ああ」
ヴァルターは微笑んだ。
「帰ってきた」
少年は少し安心したように笑った。
「……よかった」
セレナは夫と息子の会話を聞きながら、静かに目を細めていた。
ルナは眠そうに目を擦り、母の腕へ顔を埋めた。
ヴァルターは娘の姿を見つめた。
そして、息子の手を握り返した。
午後九時五十八分。
クロウ家別邸。
レイブンは自室で日記帳を開いていた。
机の上には、小さな灯りが置かれている。
少年は万年筆を握り、ゆっくりと文字を書き始めた。
『今日は、父さんに腕を失った時のことを聞いた。
父さんは、怖かったって言っていた。
痛かったとも言っていた。
でも、一番怖かったのは、家族に会えなくなることだったらしい。
僕は、父さんが帰ってきてくれて本当に良かったと思った。
来週、父さんは病院へ行く。
腕が戻るかどうかは、まだ分からない。
でも、僕は父さんが元気でいてくれたら嬉しい。
今日はルナと庭で遊んだ。
ルナは鳥を見て喜んでいた。
僕も、ルナと一緒にいられて嬉しかった。
早く、みんなで元のお家に帰りたい。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、日記帳を閉じた。
窓の外には、雲の切れ間から月が見えていた。
淡い光が、庭園の木々を照らしている。
少年は小さく息を吐いた。
「……父さん、もう怖い思いをしなくていいといいな」
そう呟き、ベッドへ向かった。
帝政歴三三五年、六月十三日。
帝国と連邦共和国の国境では、引き続き警戒が続いていた。
発砲事件の調査は進められていたが、武装集団の所属は依然として不明だった。
両国政府は外交交渉を継続し、軍当局も偶発的な衝突を避けるための対応を取っていた。
その一方で、クロウ家では、ヴァルターの次回医療評価に向けた準備が進められていた。
失われた右腕が戻る可能性は、まだ分からない。
しかし、彼には家族がいた。
妻がいた。
息子がいた。
娘がいた。
その存在が、彼を支えていた。
夜の別邸には、静かな時間が流れていた。
レイブンは眠りにつき、ルナは母の隣で小さな寝息を立てている。
ヴァルターは書斎の灯りを消し、廊下へ出た。
彼は、家族のいる部屋へ向かった。
遠くの国境では、監視所の灯りが消えることなく輝いていた。
帝国と連邦共和国の緊張は、まだ解けていない。
それでも、この夜、兵士たちは任務を続け、医師たちは負傷者の治療を続けていた。
それぞれが、自分にできることを行っていた。
傷跡は、過去の出来事を消すことができない。
しかし、その傷を抱えながら、未来へ進むことはできる。
七歳のレイブンは、まだその意味を十分には理解していなかった。
けれど、父と母、そして妹と過ごす日々の中で、少しずつ学び始めていた。
夜風が、帝国と共和国の双方の大地を静かに吹き抜けていった。
戦争は、まだ始まっていない。
しかし、平和を守るための努力は、今日も続いていた。




